泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い
文禄二年(1593年)1月26日、文禄の役で、宇喜多秀家率いる大軍が、漢城北部の碧蹄館で、明&朝鮮軍と激突した『碧蹄館の戦い』がありました。
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大陸への野望か?
老人の暴走か?
外国勢力への備えか?
今以って、その理由が様々に取りざたされる朝鮮出兵
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文禄元年(1592年)4月13日の夜明け頃、釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、その昼には釜山城を攻略し、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)を目指して北上・・・(4月13日参照>>)。
当初は、朝鮮王朝に対して不満を持つ朝鮮人自身の協力もあって、3日後には慶州(キョンジュ)を攻略した加藤清正の2番隊を筆頭に、別働隊で動く小西行長の2番隊・黒田長政の3番隊が、破竹の勢いで進攻します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
危険を感じた国王は、4月30日に漢城を脱出し、高麗時代の古都・開城(ケソン)へと向かいました。
その後、5月2日の夕方には、小西隊が漢城への無血入城を果たし、まもなく加藤隊も入城し、一方の国王はさらに北上して平壌(ピョンヤン)を目指しました。
翌日には、漢城を出て、さらに北上する小西隊や黒田隊と別れて、北東を目指した加藤隊は、一時は、国境を越えてロシアに迫る勢いでしたが、押されっぱなしの朝鮮王朝側も、ここらで一つ、反撃に転じます。
5月7日、李舜臣(イスンシン)の率いる海軍が、巨済島(コジェド)沖に停泊する日本軍の船団に攻撃を仕掛けたのを皮切りに、それに同調した義兵が、陸上の各地でゲリラ戦を展開します。
戦況の変化に加えて、母・なかの危篤の知らせを聞いた秀吉は、自らの大陸への出陣を中止し、一旦京都へ・・・(11月7日参照>>)、代わりに、石田三成・増田長盛(ましたながもり)・大谷吉継(よしつぐ)ら奉行が朝鮮半島に向かいました。
8月7日、奉行らを交えて漢城で開かれた軍儀では、「これ以上無理な北上はせず、漢城の防衛に重点を置くべき」との意見が大半を占め、これを受けて細川忠興(ただおき)が漢城を出陣・・・10月には晋州(チンジュ)城を取り囲みます。
一方、すでに平壌まで北上していた小西行長は、8月29日、明国(みんこく・中国)の使者・沈椎敬(しんいけい)と和睦交渉に入っていました。
沈椎敬が、和睦の条件を北京にいる皇帝に伝えるというので、その間、休戦に入っていたのですが、これが彼の計略で、翌・1月、休戦中の小西隊を、明&朝鮮連合軍の大軍が、いきなり襲撃するのです。
不意の攻撃を受けて、やむなく撤退する小西隊は、とるものもとりあえず、後方にある鳳山(ポンサン)城へと退却するのですが、ここを守っていたはずの大友義統(よしむね・大友宗麟の息子)は、すでに逃亡し、城はもぬけの殻・・・しかたなく小西隊も漢城まで戻りました。
もはや、漢城の目の前までの敵軍の南下を確認した秀吉軍・諸将は、その目標を、漢城の徹底防衛一本に絞ります。
かくして文禄二年(1593年)1月26日、宇喜多秀家率いる2万の軍勢が、漢城の北方にある碧蹄館(ビョクジェグァン)に布陣し、今後の戦況を左右する起死回生の一戦に賭けたわけです。
一方の明&朝鮮連合軍も、最前線である開城から4万の大軍を出陣させます。
前日から続く雨の中で繰り広げられた死闘は、何とか宇喜多隊が勝利し、連合軍は平壌へと撤退するのですが、もはや勝利した側にも疲れの色が濃く、追撃する力もありません。
さらに、先の細川隊が挑む晋州城も落せずじまいで、戦況の膠着(こうちゃく)状態が続く中、やはり、徐々に、秀吉軍にのしかかってくる問題となるのが兵糧です。
腹が減っては何とやら・・・もはや、兵士の士気もあがらず、漢城からの撤退も時間の問題で、城内は和睦ムード一色。
そこで、行長を中心に和睦交渉が進められ、やがて、明の講和使節が、行長と三成に伴われて日本へとやって来る事になるのですが・・・。
ご存知のように、一旦和睦は成立するも、慶長元年(1596年)に再び・・・という事になるのですが、そのお話は、2度目の朝鮮出兵が終わりを告げる11月20日のページでどうぞ>>。
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コメント
こんばんは。
本当に何だったのでしょうかね。
朝鮮出兵。
私は清正びいきなので
朝鮮での蔚山篭城や幸長救出の話は
大好きです。
天下を取るまでの秀吉は素晴らしいと
思いますが。
晩年は如何なものか...
投稿: 虎之助 | 2009年1月26日 (月) 19時27分
天下平定を目標に突っ走ってきた秀吉には平定後の国家運営にビジョンが見いだせなかったんではないかと言われます。また戦闘による論功行賞で求心力を保っていた秀吉政権が国内平定後に求心力を持ち続ける為には国外に敵を求めるしかなかったからだとの意見も聞かれますね。然し、天下平定までの秀吉の明快さを持ってすれば…長期政権を築くことも可能だったろうにと残念で仕方ないです。
投稿: マー君 | 2009年1月26日 (月) 21時10分
虎之助さん、こんばんは~
そうですね・・・
晩年の秀吉は・・・?ですね。
天下統一して目標を失っちゃったんでしょうか?
投稿: 茶々 | 2009年1月26日 (月) 21時56分
マー君さん、こんばんは~
秀吉の朝鮮出兵に関しては、本文にもリンクをつけた3月26日に書かせていただいた以外にも、まだまだイロイロな説があります。
また、後日、その機会に書かせていただきたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2009年1月26日 (月) 21時59分
朝鮮出兵の動機についてですが、
以前NHKの番組で、家康が東南アジア向けの称号に悩んでいたことを知りました。
曰く
1.日本国「国王」では、明の属国のように誤解される。
2.日本国「国主」では、偉いのかどうかわかりにくい。
3.日本国「皇帝」では、天皇がいるためウソになる。
もしかして、秀吉も同じだったのではないでしょうか。
(朱印船貿易などで)
そうだとすると朝鮮出兵は、日本の立ち位置を確定しようとした(朝鮮半島は通路)、と考えた方が無理がないように思いました。
それはともかく大友義統、...ヘタレだ。
投稿: ことかね | 2009年1月28日 (水) 14時58分
ことかねさん、こんばんは~
東南アジア向けの称号・・・
トップに立った人は、いつも悩みますね~
日本には、天皇がいますから・・・
>大友義統さん、石垣原でトドメを刺されましたね・・・残念
投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 17時40分
朝鮮出兵における碧蹄館の戦いで、小西行長が感じたことは、明&朝鮮の連合軍の圧倒的強さと出兵すること自体の愚かさを、思い知らされたことではないでしょうか。行長としては、事を平和的に終わらせたい気持ちだったに違いありません。ただし、主君である、豊臣秀吉に対する恩義も重視しなければならないという負い目もあったでしょう。しかも、行長は、堺の出身ですから、商人の子としての損得勘定が、働いた可能性もあるかもしれませんね。
投稿: トト | 2016年3月24日 (木) 13時05分
トトさん、こんにちは~
小西と宗は早く終わらせたかったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年3月24日 (木) 18時31分