大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂
宝永六年(1709年)1月10日、江戸幕府・第5代将軍で、「犬公方」で知られる徳川綱吉が亡くなりました。
その「犬公方」の呼び名のもととなった『生類憐みの令』については、
【犬公方・德川綱吉の忌日】>>
【未だ謎多き~生類憐みの令】>>
でご覧いただくとして、
今回は、その死にまつわる奇妙な噂について書かせていただきます。
・・・・・・・・・
それは、江戸城・大奥・・・開かずの間の物語・・・
その昔、江戸城・大奥には、「宇治の間」と呼ばれる開かずの間がありました。
そのお部屋は、襖絵に、京都・宇治の茶摘の風景が描かれていた事で、宇治の間と呼ばれていたのですが、開かずの間であるはずのその部屋が、幾度となく起こった江戸城の火災でも、再建されるたびに、なぜか必ず、その部屋も作り直され、その襖絵も、もとと同じように造り直されたのだとか・・・
嘉永六年(1852年)に、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)が、この開かずの間の前を通りかかった時、その部屋の前に座っていた黒い紋付を着た老女から挨拶を受けます。
「見知らぬ顔だな・・・」と思いつつ、通りすぎた後、そばにいた者に、「あの老女は誰なのだ?」と訪ねますが、そばにいた者たちは、誰一人として、そんな老女の姿を見てはいなかったのです。
慌てて宇治の間のほうを振り返ると、もう、老女の姿はありませんでした。
そして、間もなく・・・
家慶は亡くなります・・・キャ━━Σ(゚д゚;)━━!!
もちろん、この宇治の間は、最初から開かずの間であったわけではありません。
その部屋が開かずの間となった理由に、綱吉の死が絡んでいるのです。
綱吉の没後70年を経て、神沢杜口(かんざわとこう)によって書かれた随筆・『翁草(おきなぐさ)』には、人づてに聞いた話として、この宇治の間が開かずの間となった経緯が書かれています。
なかなか後継ぎにめぐまれなかった綱吉・・・後々、後継者争いが起きないためにも、誰かを養子を迎えて、次期将軍を指名しておいたほうが良いのでは?という話が持ち上がるのですが、その時、綱吉が養子に迎えようとしたのが、御用人・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の息子・吉里(よしさと)だったのです。
なぜ?・・・
たとえ綱吉に子供がいなくても、徳川の血を引く人は、いくらでもいるはず・・・例の御三家だって、そのためにあるようなものなのですから・・・
ところが、この吉保の息子・・・
実は、綱吉は、この吉保の側室・染子と深い仲になっていて、その側室が生んだ子供=吉里を、自分の子供だと思い込んでいたらしいのです。
しかし、当然の事ながら周囲は猛反対・・・正室の鷹司(たかつかさ)信子も、もちろん反対です。
ある日、そんな彼を説得しようと、信子は、あの宇治の間に綱吉を訪ねました。
しかし、いくら説得しても、綱吉の意思は固く、いっこうに聞き入れてはくれません。
どうしても、この養子縁組を阻止した信子は、持っていた懐剣(かいけん)を取り出して一突き・・・綱吉を殺害し、その直後、自らもノドを突いて自害したのです。
異変に気づいて駆けつけた家臣が見たものは・・・血の海に横たわり、すでに息絶えた二人の姿であったのです・・・って、さっきの老女の亡霊は、関係ないのかい?
・・・で、それ以降、誰もその宇治の間を使用する者がいなくなったのだと・・・
・・・と、長々と書きましたが、これは、あくまで噂・・・正史としては認められてはいません。
歴史の記録としては・・・
綱吉は、宝永六年(1706年)1月10日に麻疹=はしかで死亡・・・奥さんの信子も、1ヵ月後の2月7日に、やはり麻疹で亡くなったとされています。
ただ、前年の暮れから発病していた綱吉が、この前日には、自分の誕生パーティ(綱吉は1月8日生まれ)を行うくらいに快復していたにも関わらず、容態が急変して死んでしまった事で、「殺されたのではないか?」という疑いが・・・
さらに、生前に夫婦関係がうまくいっていなかった事・・・そのワリには、同じ病気で後を追うように奥さんも亡くなってしまった事などで、二人の死亡直後から、巷では、その死について妙な噂が立っていました。
しかも、かの信子さんのお墓には、しばらく金網が掛けられていたなんて話もあり、それが、いっそう噂に拍車をかけたようです。
このお墓に金網というのは、あの8代将軍・徳川吉宗の享保の改革を非難した尾張・徳川家の徳川宗春のお墓(10月8日参照>>)が有名で、いわゆる幕府に刃向かった罪人という意味で、死してなお許す事ができない・・・てな事で掛けられるのだそうですが、やはり、将軍を刺し殺したとなれば、そりゃ、罪人として扱われるでしょう。
ただし、このお墓に金網も、あくまで噂・・・
実際には、この綱吉死亡の時には、徳川家光の孫が、すでに綱吉の養子となって江戸城に住まいしていたという事で、次期将軍に吉里の名があがる事はなかったと思われます。
その養子となった家光の孫というのが、第6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)なのですから・・・。
でも、でも・・・
意地悪な考えかたをすれば、当時の封建的な時代背景から見て、「御台所が将軍を刺し殺した」なんて話を、徳川家の正式な文書に書き残すとは、とても思えないわけで、ひょっとしたら、事実をひた隠しにしている可能性もなきにしもあらず・・・。
それに、実際に、大奥には、宇治の間という、開かずの間と化している部屋はあったようですし、その部屋が開かずの間となったのも、狩野派の描いた茶摘の絵が、あまりに美しいので、絵を守るためにその部屋を使用しなかったという言い訳は、あまりに苦しい気がします。
それなら、美しい襖絵の部屋は、皆、開かずの間になっちゃいますからねぇ。
はたして、真相はいかに・・・。
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コメント
ふぅ〜ん。そんな話も有ったんですかぁ。大奥って正にワンダーランドっすね。いやぁ…実に歴史は奥深い。
投稿: マー君 | 2009年1月11日 (日) 00時25分
マー君さん、こんばんは~
そうなんですよ・・・あくまで噂ですが・・・
とても気になりますね~
投稿: 茶々 | 2009年1月11日 (日) 01時38分
どうもはじめまして。
なかなか一般には知られていない歴史のウラ話が、詳細にしかも今まさにそこで起こっているような臨場感を伴って書かれているのに、敬服しつつ拝読しています。
ところで、文中に「高司信子」とあるのは「鷹司信子」の誤りではないでしょうか?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%AD%90
これからも楽しみにしています。
投稿: ころまる | 2012年6月30日 (土) 23時09分
ころまるさん、こんばんは~
誤字脱字・変換ミスは日常茶飯事なので、きっと、まだ、どこかに…
また、どこかのページで見つけたれたらお教えください。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2012年7月 1日 (日) 01時24分
はじめまして。
確かその黒紋付の老女の亡霊は、御台所・信子付きの女中だったそうです。
御台所が綱吉を殺害した後、共に自害したとか。
何かの本でそう読んだのですが、詳細が間違っていたらすみませんm(__)m
投稿: 花香 | 2012年10月23日 (火) 10時35分
花香さん、こんにちは~
そうですか…
イロイロなお話が伝わっているのですね。
投稿: 茶々 | 2012年10月23日 (火) 14時22分
茶々さま、こんにちは
流行に乗ろうと、マンガ「大奥」を読んでます。
男女逆転の…あれです(^_^;)
男女逆転ながら史実や通説がビミョーに
絡んでくるとの評判を聞き、
今、6巻まで読みました。
基本的には「レディスコミック」なんで、
そっち方面(^_^;)の場面が多くてびっくりですが~~
史実の絡み方を確認するため、
茶々さまのブログを、あちこち散歩しようと思います。
ではまた(=^・^=)
投稿: hana-mie | 2012年12月10日 (月) 15時29分
hana-mieさん、こんばんは~
へぇ、話題の男女逆転の…あれはレディコミだったのですか…
知りませんでした(゚ー゚;
史実を絡めながらの新しい発想には興味津々ですね。。。
投稿: 茶々 | 2012年12月10日 (月) 23時57分