世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平の最期
平治二年(1160年)1月25日、平治の乱で敗れた源氏の棟梁・源義朝の長男・悪源太(源)義平が京都の六条河原で斬首されました。
義平の斬首の日に関しては21日説もありますが、とりあえず今日書かせていただきます。
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源義平(みなもとのよしひら)は、源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)の長男・・・つまり、鎌倉幕府で有名な源頼朝(みなもとのよりとも)のお兄さんという事になります。
一番下の弟・義経の事を九郎義経(くろうよしつね)と呼ぶ事でもおわかりのように、義朝には、9人の息子がいたわけですが、その中で、父に従って平治の乱の参加したのは、この長男の義平、次男の朝長(ともなが)、三男の頼朝、そして四男の義門(よしかど)の4人です。
ちなみに、その下は・・・五男の希義(まれよし)、六男・範頼(のりより)、七男・今若(全成)、八男・乙若(義円)、九男・牛若(義経)と続きますが、この平治の乱の時には、三男の頼朝でも13歳なので、おそらく、下の5人に合戦はムリって事でしょうね。
・・・で、平治の乱の様子は以前12月9日に書かせていただいた【平治の乱を引っ掻き回した藤原親頼】>>で見ていただくとして、その戦いに負けた義朝は、追手を混乱させるべく、途中で息子たちとは別れて、それそれに逃走するのですが、ご存知のように、父・義朝は、頼りにしていた家臣の騙し討ちによって命を落とします(1月4日参照>>)。
次男・朝長は、美濃(岐阜県)の山中で落ち武者狩りに遭って討ち取られたとも、負傷して動けなくなり自害したとも言われます。
三男・頼朝は、逃走中に近江(滋賀県)で捕まり、ご存知のように、その後、伊豆に流罪となります(8月17日参照>>)。
四男・義門は、合戦自体に参戦していたかどうかも不明なところですが、一時、義朝側が朝廷を占拠した際に官位を賜り、その後に消息不明となっているので、合戦中に討死した可能性が高いと言われています。
さらに下の弟たちは・・・希義が土佐(高知県)に流罪、範頼は公家に、今若&乙若は寺へ預けられ、義経だけは赤ん坊だったため、しばらく母・常盤(ときわ)(1月17日参照>>)の手元で育てられますが、後に、あの鞍馬寺へ預けられています。
・・・と、平治の乱の敗退でバラバラになってしまう義朝一家ですが、本日の主役・長男の義平さん・・・源氏の中ではトップクラスの猛将で、この平治の乱では大活躍を見せる人なのです。
そもそも、関東に領地を持ちながら朝廷にも出向かねばならない立場にある義朝は、ほとんど京都に行ったっきりの単身赴任状態・・・そんな留守をしっかりと守っていたのが、長男の義平なのです。
父・義朝には、義賢(よしかた)という弟がいましたが、兄弟という事は、その義賢も関東に多くの領地を持っていたわけで、お互いに少しでも領地を増やそうと、兄弟の間では境界線争いでのモメ事が頻繁に起こります。
義賢は、京都で帯刀先生(たてわきせんじょう・東宮護衛の兵士長)を努めた事もある武勇の誉れ高い武将でしたが、そんな叔父を相手に、義平は一歩も退けをとらず、父が留守にしている領地を守りぬいていたのです。
ちなみに、この義賢の息子が、後に平家を都落ちさせるあの木曽義仲です(8月16日参照>>)。
そして、そんな義平は、とうとう・・・15歳の時、その叔父を倒してしまうのです。
わずか15歳の少年が、その武勇の誉高い義賢を討ち破った事で、義平の猛将ぶりは、まさに都の評判となります。
この時から、彼は悪源太義平(あくげんたよしひら)と呼ばれるようになります。
この「悪」というのは、今イメージする悪いという意味の「悪」ではなく、「恐ろしいほど強い」といったような意味です。
同じような使い方をするもので「鬼」というのもありますが、この「鬼」も、今では「鬼のような人」と言うと、血も涙もない極悪な人という事になりますが、この時代で、しかも武将の形容詞としての場合は、やはり、恐ろしく強いという意味の褒め言葉・・・。
「悪」も同じように強い人への褒め言葉として使われていて、つまりは、「悪=強い」「源=源氏の」「太(太郎)=長男」・・・で、「悪源太」という事です。
それから4年後・・・19歳に成長した義平は、父の右腕となって平治の乱に立ち向かう事となります。
この戦いで、一旦は御所を制圧した義朝たちでしたが、二条天皇と後白河上皇を平氏側に奪われた(12月25日参照>>)事で形勢は一転・・・平清盛は官軍となってその士気はあがり、平氏の大軍は内裏(だいり)の待賢門(たいけんもん)へと押し寄せたのです。
先陣の500騎を従えてやってきたのは、清盛の長男・平重盛(たいらのしげもり)です。
「ここの大将は親頼やと思とったが、違うんかい!俺は、桓武天皇の末裔で太宰大弐・清盛の長男・左衛門佐重盛・・・23歳や!」
それを見た義朝は、義平に・・・
「あれを散らしてこい!」
と、指示・・・義平はわずか17騎で、門へと向かいます。
「そっちの大将は誰や?俺は清和天皇9代の佐馬頭・義朝の長男で鎌倉の悪源太義平・・・武蔵の戦で叔父を討ってから、ただの一度も負け知らずの19歳や!」
名乗りをあげるかはやいか、500騎の真ん中に割って入る義平・・・小者を蹴散らして大将・重盛に迫ります。
形勢不利と見た重盛は、一旦は退きますが、家臣に励まされ再び前へ出ます。
新手の兵士たちの中に、先ほどの重盛を見つけた義平・・・
「うれしい事に、俺は源氏の長男、アンタは平家の長男・・・敵に不足はない。
さぁ、組もう!一騎打ちや!」
19歳と23歳・・・源氏と平家の若き御曹子の一騎打ち・・・しかも、場所は御所・紫辰殿の南庭。
平治の乱、一番の名場面です。
現在の京都御所は土御門東洞院殿なので、もちろん、この時の御所とは違いますが、建物の構造は、ほぼ同じ・・・
紫辰殿の南側には、白砂の広い庭があり、ここには右近の橘と左近の桜の二本の樹だけが配され、その他には一本の木も一つの草もありません。
白く敷き詰められた砂の上に、「いざ!組まん!」と向かい合う若武者二人・・・
もう、こうなったら、『平治物語』のこのシーンの、どこまでが事実かなんて事は、棚の上に置いといて、この光景に酔いしれようではありませんか!
右近の橘と左近の桜の間を、7~8度駆け巡りながら追う義平と、ひらりとかわしながら逃げる重盛・・・つがいのアゲハのごとく追いつ追われつ、抜きつ抜かれつ舞い踊る・・・
紫辰殿を背景に、箒(ほうき)の目が美しく立てられた白砂の上を、ワイルドな東国武者が高く飛べば、雅な貴公子が低く構える・・・
カッコイイ~!゙(((*´ε` *)(* ´З`*)))
やがて、義平の勇猛ぶりに、一旦は六波羅へと退く平氏でしたが、なにぶん平氏の多勢に対して、関東に拠点を置く源氏は無勢・・・平氏の軍勢を追って、六波羅近くまでやってきた源氏勢も、疲れは隠しきれず、この状態で平氏側から新手が繰り出されれば、もう、戦う気力もありません。
やむなく、義朝らは東国へ落ちていくのです。
そして、冒頭に書いたように一家がバラバラに・・・
美濃の山中で父と別れた義平は、父から北国へ向かうよう指示されていましたが、やがて、父が暗殺されたという知らせを耳にします。
ここで、義平に従っていた兵士たちも、源氏の棟梁が亡くなったと知るや、蜘蛛の子を散らすように、どこへともなく去り、義平はただ一人となってしまいます。
しかし、さすがは悪源太・・・一人になっても、不屈の闘志は燃え上がるばかり。
「こうなったら、清盛か重盛の首を取ってやろう」と、ゲリラ的暗殺をくわだて、単身、京へと舞い戻るのです。
しかし、その思いも空しく、密告によって、その身柄は拘束され、平治二年(1160年)1月25日、京都・六条河原にて処刑され、その生涯を閉じたのです。
彼は処刑される寸前まで、一旦、御所を制圧した時に、その勢いのまま熊野から帰ってくる清盛を迎え撃つ作戦を、実行できなかった事を悔やんでいたと言います。
処刑執行役となった難波三郎恒房(なんばさぶろうつねふさ)という男が・・・
「そんな、グチんなや~」
と言うと、義平は・・・
「お前・・・ウマイ事、首を斬って、一発で俺を殺さんと、その顔に喰いついたんぞ!・・・ほんで百日後には雷になって殺したる!」
はたして、恒房は、後日、本当に雷に撃たれて死んだのだとか・・・まぁ、あくまで平治物語の言い分なので、アレですが・・・
負けた側ではありながら、むしろ平治の乱のヒーローのようにも思える義平。
歴史にもしもは禁物ですが、彼が京へは戻らず、そのまま生きのびていたとしたら・・・果たして三男(母が正室なので三男だけど嫡男と思われる)である頼朝の鎌倉幕府を、どのようにサポートしていたのでしょうか?
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コメント
ひさしぶりです。
ちょうど、おととい、私のブログに源義平のイラスト描きました。
私もプログ村登録しましたよ。
投稿: sisi | 2009年1月26日 (月) 02時04分
sisiさん、お久しぶりです。
私のほうは、最近何かと時間がなく、イラストをupできない日々が続いています
(´Д⊂グスン
いつか、もう少し余裕ができたら・・・
ブログ村、頑張ってくださいね。
投稿: 茶々 | 2009年1月26日 (月) 11時37分
突然のツッコミ、失礼します。
>義平は、この乱の前後に誕生日を迎え、20歳になったばかりでした。
たぶん当時は数え年なので、元旦に、皆一斉に一つ年を取るのでは?
投稿: ことかね | 2009年1月28日 (水) 13時55分
ことかねさん、コメントありがとうございます・・・
おぉ・・・そうでした そうでした
すっかり忘れてた・・・* ´З`)σ
あとで、その部分はカットしときます~
投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 17時37分
ですが、平治の乱では、すぐ逃げたそうなので、好きになれません。
投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 16時30分
ゆうとさん、こんばんは~
でも、私は好きです
てゆーか、歴史上の人物は全員好きです。
投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 19時40分
茶々さま
昨日の大河ドラマ、
まさしくこのシーンでしたね。
>紫辰殿を背景に、箒(ほうき)の目が
>美しく立てられた白砂の上を、
>ワイルドな東国武者が高く飛べば、
>雅な貴公子が低く構える・・・
・・・まぁ、この描写ほど
大将戦が”際立った”感は
なかったかもしれませんが
役者さんはなかなかいい線ではないでしょうか。
特に、ヤンキーな悪源太が好評みたい(=^・^=)です。
昨日もNHKプロデューサーと
時代考証の先生による
生ツィートがありました。
ドラマ進行を見ながら、
過ぎない程度の解説、良かったですよ。
投稿: hana-mie | 2012年7月 9日 (月) 17時25分
hana-mieさん、こんばんは~
昨日のシーン良かったですね。
>悪源太が好評…
納得ですね~~
俳優さん、イイ感じです(*゚ー゚*)
投稿: 茶々 | 2012年7月 9日 (月) 19時04分
義平は、清盛に「俺が死ぬのはほかでも無い!運のせいだ!」と言って死んだそうです。
投稿: 6幡太郎 | 2012年8月 2日 (木) 12時17分
6幡太郎さん、こんばんは~
そのセリフもありましたね~
それにしても、散り際に、なかなかの発言多しの人ですね…義平さんって
投稿: 茶々 | 2012年8月 3日 (金) 02時33分
有名な話ですが、源義経が九郎義経となったのは、9男だったからではありません。
8人兄弟の末っ子(女子は除く)だったので八郎と名乗るところでしょうが、叔父に「弓張月」などでも有名な弓の達人、鎮西八郎為朝がいたため、当時八郎といえば為朝のことであり、それをリスペクトして九郎としたのです。
投稿: イキナリ | 2014年1月17日 (金) 16時43分
あ、失礼。9人兄弟の8番目ですね。
でも八郎と名乗らなかった理由はそうだったはずです。
投稿: イキナリ | 2014年1月17日 (金) 16時49分
イキナリさん、こんにちは~
>源義経が九郎義経となったのは、9男だったからではありません。
>当時八郎といえば為朝のことであり、それをリスペクトして
これは、『義経記』の第2巻で、義経が熱田神宮で元服する時に言うセリフとほぼ同じ内容ですが『義経記』が出典の説なのでしょうか?…それが有名な説になってるとは知りませんでしたが…
原文には「末になるとも苦しかるまじ」とあるので、リスペクトというよりは遠慮した感じのようですが…
ただ、私は本文に書かせていただいた通り、9番目だと思ってます。
為朝は、先の保元の乱で義経の父の義朝と敵対して流罪になった人ですから、父に敬意を払って熱田神宮で元服する義経が、叔父とは言え、その父に弓を引き、当時は極悪人とされていた武将を、「反逆者なので忌み嫌う」という事はあったとしても、リスペクトしたり遠慮したりする事は、史実としては考え難いのではないか?と…
逆に、100年後の室町時代に『義経記』を書いた作者が、義経の上に8人いる事を知らなかった可能性の方が高いのでは?と思うのです。
なんせ鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でさえ、兄弟全員を把握して無かったみたいですからね。
『義経記』が成立した室町時代は、すでに頼朝が開いた鎌倉幕府は滅んでしまっているので、作者としては為朝へのリスペクトだったと考えたのかも知れませんね。
「弟がいる」というのは初耳でした~
しかし、上記の通り『吾妻鏡』でさえ、兄弟全員を把握して無いのですから、そのような人がいる可能性も0ではありません。
義経母の常盤御前が清盛の前に出頭した時には、義経は未だ生まれて間もない乳飲み子だったと言われていますので、おそらくは義朝が亡くなった頃あるいは亡くなってからほどなく生まれたであろう義経が8番目なら、その下の9番目の弟という人は、おそらく義朝が死んでから後に生まれたのでしょうし、当然、母は別の女性?という事になりますが、いったい母親はどんな女性で、どんな人生を歩んだのでしょう?
是非とも、その事が記載されている文献&史料をお教えいただきたいです~気になります。
投稿: 茶々 | 2014年1月17日 (金) 17時26分
茶々様
義平も重盛も…血統を名乗るわけですね。この時代は当たり前ですが…。
現代こそ、日本ではこのような習慣はないですが、イスラム圏では、しっかりと残っていますからね…。
「桓武平氏から……清和源氏から…。」
私も名乗ろうかと思っています。
「やあやあ、我こそは、今上天皇から数えて125代前の初代神武天皇の曽祖父:ニニギノミコト」の妻「此花咲耶姫」の父なるぞ!
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月18日 (土) 04時58分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
おぉ!オオヤマツミの神ですね(*^-^)
名乗りのシーンはカッコイイですね~
投稿: 茶々 | 2014年1月18日 (土) 10時00分
こんにちは、初めてこのブログを拝見しました。私の自宅(飛騨)の近くの山中に「源太屋敷跡」という史跡があり、源義平を調べているうちに行き当りました。屋敷跡の他に「祖師野丸伝説(義平の狒狒退治)」もあります。平治物語では平治の乱で義朝と別れた後飛騨へ向かったとされておりこの解釈が一般的となっています、また他にも義平の伝説が残っています。しかし平治の乱の後すぐに斬首となっているので私は保元の乱あたりにこの地方へきていたのではないかと考えています。茶々さんはどうお考えでしょうか?
投稿: ノブさん | 2015年5月27日 (水) 21時40分
ノブさんさん、こんばんは~
確かに期間は短いですが、一旦は岐阜か北国付近に落ちたようなので、やはり、その場所がそうなんじゃ無いでしょうか?
有名人の場合、何日か滞在しただけでも、それが伝説になるような気がします。
まぁ、○○退治はしてないかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2015年5月28日 (木) 03時12分
ありがとうございました、夜型人間ですね茶々様は。「源太屋敷跡」へは何度も足を運びました、山奥ですが日当たりは良くきれいな谷もあり住居には適したところです。
さすがに狒狒退治はオーバーですネ、伝え聞くところによると狒狒ではなく住民を苦しめていたのは山族であったようです、また義平が奉納した伝説の名刀「祖師野丸」を昨年初めて拝見しました、この地の神社に祀られています。
義平ファンとしては次を楽しみにしています。
投稿: ノブさん | 2015年5月28日 (木) 11時17分
ノブさんさん、こんにちは~
様々な伝説があるのですね。。
伝説の数が多いので、期間の短い平治の乱後ではなく、保元の乱後あたりでは?とお考えになったのですね?
新しい発見も、まだまだあるかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2015年5月28日 (木) 15時55分
平治の乱当時では清盛はまだ太政大臣になってないのでわ
投稿: | 2017年7月31日 (月) 19時40分
>平治の乱当時では
わぉ!ホントだ!ありがとうございます。
全然気づいてませんでした。
そこの部分は『平治物語』からの場面なので、太宰大弐が正しいですね。
早速、訂正させていただいときます。
また、誤字脱字等、発見されましたら、ご一報、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2017年8月 1日 (火) 01時38分