薩摩の砲撃で戦闘開始!~鳥羽伏見の戦い
慶応四年(1868年)1月3日、京に向かう幕府の隊列に、薩摩藩が砲撃・・・鳥羽伏見の戦いが開戦されました。
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江戸市中で展開されていた薩摩藩のテロ行為に対し、取締りと称して、幕府軍が薩摩藩邸を焼き討ちしたのが、前年・慶応三年(1867年)の12月25日・・・。
その知らせが大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとに届いたのが12月28日で、「即刻、薩摩を討つべし!」と、城内が盛り上がる中、3日後の新年・1月1日には、その慶喜から『討薩の表』=薩摩藩への宣戦布告が発せられ、翌日の1月2日には、その『討薩の表』を朝廷に提出すべく、老中格の大河内正質(おおこうちまさただ)を総督に1万5000の幕府軍が、京を目指して大坂城を出立・・・と、12月25日のページでは、ここまで書かせていただきました(12月25日参照>>)。
大坂を出立した幕府軍は、その日の夕方に老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の本拠地・淀城へと到着し、ここで一夜を過ごします。
実は、この日、鳥羽伏見より先に、大坂湾にて海戦が行われています…くわしくは1月2日参照>>
そして、いよいよ翌・慶応四年(1868年)1月3日、幕府軍は、陸軍奉行・竹中重固(しげかた)率いる会津藩・鳥羽藩・新撰組などの伏見街道を進む本隊と、大目付・滝川具拳(ともあき)率いる桑名藩・大垣藩・見廻組などの鳥羽街道を進む別働隊との二手に別れ、それぞれ京を目指します。
一方、行く手を阻む新政府軍は5000・・・長州藩が中心の伏見街道方面担当は御香宮神社に布陣し、薩摩藩中心の鳥羽街道担当は、鴨川に架かる小枝橋付近に布陣します。
双方ともに、すでに軍備の近代化を図っており、ライフル銃などの最新火器は導入済み・・・数の上では、断然、幕府軍のほうが有利でした。
しかし、新政府軍の目下の心配は、その兵力差ではありません。
新政府軍が何より恐れていたのは、これが薩長による私的な戦いと見なされる事・・・先日の12月25日のページにも書かせていただいたように、未だ政権担当能力のない朝廷は、その条件によっては、慶喜が新しい議会での最高責任者となる約束をしたりなんぞしています。
だからこそ、幕府軍は、朝廷に『討薩の表』なる物を提出しに行くわけで、本隊を率いる竹中は、幕府側が強行突破の姿勢をとれば、立ちはだかる薩長も道を譲るに違いないと判断していて、この日の正午頃には、「この隊列は、将軍・慶喜が入京するための先陣としての通行である」事を薩摩に通告していました。
しかし、彼ら、新政府軍にとっては、この戦いが単なる薩長の反乱ではなく、新政府が旧幕府に取って代わるクーデターでなくては困るのです。
なんせ、これが、薩長の私的な戦いだとなれば、多くの藩が幕府側につくかも知れませんし、そうなれば、弱腰の朝廷もどうなるものかわかりません。
そこで新政府軍は、総裁・議定・参与などを召集して緊急会議を開き、「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」事を決定させます。
やがて、幕府軍の隊列が新政府軍の布陣するあたりに到着すると、伏見街道と鳥羽街道の両方で・・・
「このまま通行させろ」
「朝廷の許可が出るまで通行できない」
の小競り合いがはじまります。
そして、夕刻・・・午後5時頃、鳥羽街道にて強行突破しようとする幕府の隊列に、薩摩側が砲撃を開始し、これをきっかけに戦闘が始まります。
その時、一方の伏見では、御香宮に陣取る長州と、伏見奉行所に陣取る幕府軍とがにらみ合い状態でしたが、かの鳥羽街道での砲撃の音をきっかけに、こちらでも戦闘が開始されます。
鳥羽街道では、道を開けてくれるものと思って、2列の縦列で行軍していた幕府軍は、左右に兵を配置していた薩摩軍の集中砲火を浴び、またたく間に被害者が続出・・・さらに、砲撃の音に驚いた馬が奔走して、早くも統率を取る事が不可能な状態に陥るとともに、戦闘に長けた見廻組は、刀中心で銃砲の前には、まったく歯が立たない状況・・・。
以前upした丹波橋周辺の地図ですが・・・
その点、しっかりと陣取った伏見では・・・と言いたいところですが、本隊ゆえに兵の数が多く、狭い市街戦となってしまった事で、逆に身動きがとれなくなってしまってしました。
頼みの綱の新撰組でしたが、やはり彼らも刀中心・・・統率のとれた新政府軍は、彼らをかわして本陣の伏見奉行所に向かって銃砲の集中砲火・・・幕府軍は畳を並べて盾とし、反撃を繰り返しますが、やがて夜になる頃には、伏見奉行所そのものが炎上し、やむなく淀城へと撤退しました。
一方の鳥羽街道は、もともと薩摩側が優勢だったところに、さらに夜になって、昼間の会議で決定された「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」の一報が届き、薩摩側が官軍、幕府側が賊軍となった事で、薩摩は盛り上がり、幕府は落ち込み、その勝敗が決定的となってしまい、幕府軍は後方へと撤退します。
この日、戦況が気になって、伏見まで視察にやってきた西郷隆盛は、大久保利通へ・・・
「明日は、錦の御旗を本陣にひるがえして、皆で盛り上がろうぜ!」
と、喜びを隠しきれないご様子・・・。
そして、翌・4日、朝廷から征討大将軍に任じられた議定・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)は、天皇から錦の御旗を授かり、その御旗を先頭に、新政府軍の本営・東寺へと向かう事になります。
この錦の御旗が、戦場にかかげられるのは5日の事・・・
やがて、御旗の威光によって、鳥羽伏見の戦いは、更なる展開を見せるのですが、そのお話は、やはり1月5日のその日ページへどうぞ>>。
(戦場となった伏見周辺の歴史散歩へはコチラからどうぞ>>)
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コメント
鳥羽伏見の戦い…戊辰戦争の勃発ですね。戊辰戦争の中で山陰道平定に官軍を指揮した西園寺公望が、祖母の実家に泊まったそうです。その時に公望公自筆の掛け軸を賜ったそうですが、戦後の食糧難の折に骨董屋に売っちゃったそうです。その他にも…軍列を描いた絵巻物(或いは図屏風だったかも)…幾分古い話しなので父の記憶も曖昧でスンマセン。も有ったそうですが、それは戦後の動乱期に散逸してしまい今では何処に行ってしまったのかさえ分かりません。今それらが祖母の実家に残ってれば親戚一同の宝物になったのに残念です。
投稿: マー君 | 2009年1月 3日 (土) 21時23分
マー君さん、こんばんは~
それは残念ですね~
戦中・戦後は、皆、命がアブナイ状態ですから、命を守るためにはしかたなかったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年1月 3日 (土) 23時46分
茶々様
お世話になっております。
けんしろうです。
あけましておめでとうございます。
コメントいただきありがとうございます。
昨年は本当にお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。
投稿: 記憶術 絶技! けんしろう | 2009年1月 3日 (土) 23時48分
けんしろうさん、あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年1月 4日 (日) 01時04分
コメントありがとうございました。
いつも拝見し楽しく読まさせてもらっています。
本年度も歴史好きな者同士頑張りましょう!(゚▽゚*)
投稿: 左近将監 | 2009年1月 4日 (日) 14時26分
左近将監さん、あけましておめでとうございます。
本年も、歴史を楽しんでいきましょうね。
投稿: 茶々 | 2009年1月 4日 (日) 17時23分
新選組の本を読んでいたら、滝川具挙が気になりました。六角獄舎の虐殺の命を出して、後で容保に叱責されたとか。この時は京都西町奉行。生没年不明で謎の人物ですね。
投稿: やぶひび | 2013年6月15日 (土) 19時55分
やぶひびさん、こんばんは~
滝川具挙さんって、おっしゃる通り生没年も不明なんですね。。。
ホント、謎ですね~
やはり、負け組の記録は、あまり残らないという事なのでしょうか?
投稿: 茶々 | 2013年6月16日 (日) 03時10分