八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
天正四年(1576年)1月15日、丹波・黒井城攻略中の明智光秀に、波多野秀治が反旗をひるがえし、光秀は近江・坂本へ撤退・・・これをきっかけに、八上城攻めが開始されます。
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その高低差が200mという天然の要害に立つ丹波八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)は、天文二十二年(1553年)春には三好長慶(ながよし)、秋には松永久秀、弘治元年(1555年)には三好政康・・・などなど、これまで何度となく攻められたにも関わらず、いずれの武将も落す事ができなかった戦国屈指の山城でした。
そんな八上城を、代々守ってきたのが、丹波の戦国大名・波多野氏・・・その出自は、あの平将門を討った藤原秀郷(ひでさと・俵藤太)とも、石見国津和野の吉見氏であったとも言われていて定かではありませんが、すでに応仁の乱の頃には表舞台に登場し、そこでの功績によって、この丹波一帯を与えられ、永正五年(1508年)に波多野元清によって八上城が築かれました。
未だ戦国武将が群雄割拠していた永禄三年(1560年)には、当主の波多野秀治が1万2千の兵を率いて上洛し、時の天皇・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に金箔を献上・・・戦国武将の夢でもあった上洛をいち早く実現しています。
しかし、そんな波多野氏も、やがて第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢いには勝てず、信長が明智光秀を総大将に、丹波平定へ乗り出す頃には、その傘下となっていました。
その後、信長の命を受けた光秀が、圧倒的な兵力で赤井(荻野)直正の籠る黒井城(兵庫県丹波市)を囲んだのは天正三年(1575年)10月・・・戦況は光秀有利に働き、もはや先の見えた籠城戦でした。(8月9日参照>>)
ところが、翌年の天正四年(1576年)1月15日、いきなりの寝返りで、秀治は黒井城を包囲していた明智軍を攻めたのです。
この秀治の裏切りによって、光秀はやむなく近江(滋賀県)坂本に撤退しますが、当然の事ながら、怒り心頭の信長は、光秀に秀治討伐の命令を下します。
しかしながら、丹波平定をまかされている光秀にとって、攻めるべき相手が波多野氏だけではなかった(10月26日【籾井城の戦い】参照>>)事や、八上城が冒頭に書いた通りの堅固な山城であった事もあって、落城までには長い年月を要してしまいます。
この後、光秀が本格的に八上城の包囲を固めたのは、天正六年(1578年)の3月4日から・・・そして、翌・天正七年の2月にやっと、八上城一つに集中して城攻めを開始し、その年の6月2日に、一瞬のスキを突いて、八上城の奪取に成功します。
生け捕りにされた秀治と、その弟・秀尚は、信長のいる安土城へと送られ、6月4日には磔(はりつけ)となって命を落しました。
ところで、江戸は元禄時代に書かれた『総見記(そうけんき)』には、この時の逸話として・・・
なかなか落ちない八上城を攻めあぐねた光秀が、秀治・秀尚兄弟の命を助けるという約束で城を開城させ、その証しとして自分の母を人質として八上城に預け、兄弟を信長のもとへ連れていったところ、信長が有無を言わさず兄弟を磔にしてしまったため、八上城兵が「約束が違う!」と怒り出し、光秀の母を殺害した・・・という話が書かれていてます。
そうなると、「光秀の母は、信長のせいで殺されたみたいなものだ」という事になって、この時の怨みが、あの本能寺の変を起すきっかけになったのでは?と、長く信じられてきましたが、近年の研究では、光秀の母親はもっと早くに亡くなっていたとの見方が強く、現在では、この話は後の創作であろうというのが一般的な見方となっています。
だいたい、百歩譲って実際にあった出来事だったとしても、これで光秀が信長を恨むとは、到底思えませんよね。
確かに、お母さんは大事ですが、もし、この話の通りだと、光秀が自らの決意で、母親を人質に出したわけで、その時点で、ある程度の覚悟ができていなければ戦国武将としてやっていけません。
平和な時代じゃないんだし、敵に殺されて、主君を恨むのはお門違い・・・それなら、はなから人質になど出さずに、別の方法で攻略すべきです。
実際には、攻略に長くかかったぶん、光秀は策略を張りめぐらす事ができ、すでに周囲の武将たちを味方につける事に成功していて、孤立した八上城は、もはや補給路も断たれ、落ちるべくして落ちたといったところではないでしょうか。
ところで、光秀は、天正七年(1579年)の10月に、それまでの丹波平定を信長に報告していますが(10月24日参照>>)、実は、この丹波攻略に時間がかかった事で、怒った信長が、光秀への理不尽な折檻を繰り返し、それが、後に謀反を起すきっかけになったのでは?との話もあります。
しかし、ご存知のように、信長の光秀に対するツライ仕打ちのほとんどが、後世の創作でありますので、やっぱり、それもないでしょうね。
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コメント
光秀の本能寺の変の動機は本当にわかりませんね。
色々な著名な方の書籍や文献等を読む度に納得したり、荒唐無稽なそれは無いだろうとか。
秀吉?朝廷?恨み?
いやいや違うのでは無いか。
もっと何かの理由が…
解りません。
投稿: 虎之助 | 2009年1月16日 (金) 00時02分
虎之助さん、こんばんは~
このブログでも、様々な黒幕説や突発的犯行説・・・果ては、光秀の犯行じゃない説まで、イロイロ書かせていただいてますが、ホント、謎ですね~
光秀が優秀な武将であるが故に、謀反を起すには、それなりのスゴイ理由が必要になってくるんでしょうね・・・
興味は尽きません。
投稿: 茶々 | 2009年1月16日 (金) 01時32分
本能寺の変では母親怨恨説が真実であるという
スピリチュアルリーダーのリーディングが
あります。
投稿: | 2009年5月 6日 (水) 13時05分
コメントありがとうございます。
>スピリチュアルリーダーのリーディング
…って「イタコの口寄せ」みたいなヤツかな?
それを言われてしまっては、歴史研究の意味がなくなってしまいますね~
霊能者の方には、歴史上の人物ではなく、未解決事件の被害者に接触して、ぜひとも事件を解決していただきたいものです。
投稿: 茶々 | 2009年5月 6日 (水) 15時07分
黒井城を攻めていた光秀を背後から襲ったのは、赤井直正への義理だったのではないかと
思います。(個人的な意見です)当然こんなことをすればどうなるか分かっていたでしょうが
当時はまだどっちに転ぶかわからない状況だったのでやってしまったんでしょうねー おかげさまで主家も滅びましたが、我が家も滅びました(笑)ちなみに朝日新聞創業家である上野家も波多野家の家来です。我が家は100年近く浮かび上がることができませんでしたが、上野家は1609年篠山藩が出来たとき既に政商になっています。んーーーなぜだろう・・・・
あ つまらないことを書いてしまってすいません。楽しく読ませていただきましたではでは
投稿: 波多野家軍師の末裔 | 2019年8月11日 (日) 03時00分
波多野家軍師の末裔さん、こんばんは~
戦国は、どっちに転ぶかに見極めが重要ですね~
さすがに、この時点では毛利が和睦するとは思えないでしょうし…難しいです。
投稿: 茶々 | 2019年8月11日 (日) 03時21分