徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎
慶応四年(1868年)1月8日正午、第15代将軍・徳川慶喜を乗せた開陽丸が、江戸へ向けて出航しました。
・・・・・・・・・
さてさて、
慶応四年(1868年)1月2日に大阪湾の海戦で(1月2日参照>>)、
翌1月3日には陸路の鳥羽伏見で(1月3日参照>>)、
幕を開けた幕府と薩長=新政府軍の戦い(戊辰戦争)・・・
それが、1月5日の新政府側の錦の御旗の出現によって、諸藩の寝返り、八幡・橋本での敗戦を喫した幕府軍は(1月5日参照>>)、敗走しながらも、枚方あたりで防戦をくりかえしていましたが、6日の朝にになって、幕府軍の総大将である15代将軍・徳川慶喜の撤退命令が全軍に伝わり、その日の夜から7日の朝にかけて、続々と大坂城へと入城しました。
戦火をくぐり抜けて生き残った兵たちは、負けたとは言え、まだまだ、その士気は衰えていません。
そこへ、「たとえ、城が焦土となっても戦い抜こう!」という慶喜の檄(げき)が飛び、彼らは多いに奮い立ったのです。
なんせ、ここは難攻不落の大坂城・・・この時期の大坂城は、現在の大阪城と違って、天守閣こそ江戸期の落雷で失ったままであったものの、大手の多聞櫓(11月2日参照>>)をはじめ、天守閣以外のそれまでに失った建物は、ほとんど再建されていて、再び鉄壁の要塞となっていましたから、この大坂城さえあれば何とか持ちこたえられ、長期戦になれば、状況は変わると睨んでいたのです。
ところが、一昨日お話したように、慶喜は6日の夜に大坂城を抜け出してしまいます…世に言う「敵前逃亡」です(1月6日参照>>)。
7日の朝になって、慶喜がいない事に気づいた将兵たちは、唖然、愕然、呆然・・・やがて激怒!
そして、城内で・・・
「慶喜は松平容保(かたもり)とフランスへ逃げた」
などという噂が飛び交う中、そこへやって来たのは、あの榎本武揚(たけあき)・・・。
彼は、大坂湾に停泊中だった最強艦隊の旗艦である開陽丸(かいようまる)に乗船し、幕府艦隊の指揮をとっていたのですが、鳥羽伏見の戦いの敗戦を聞いて、その胸の内に反撃計画をたずさえ、慶喜に謁見するために大坂城へやって来たのです(1月2日参照>>)。
そう、つまり、二人はすれ違い・・・。
逆に、大坂城を出て大坂湾へ向かった慶喜は、武揚のいなくなった開陽丸に乗り、慶応四年(1868年)1月8日正午、江戸へと出航してしまったのです。
・・・と、ここで慶喜は、大坂城に大きな忘れ物をしてしまいます。
いや、忘れ物というより・・・それは、2mもあるシロモノなので、わずかの側近だけを連れて大坂城を脱出した慶喜には、持ち出せなかったのかも知れません。
そのシロモノとは・・・
神君家康公から受け継がれた徳川宗家の証し『金扇馬標(きんせんのうまじるし)』です。
馬標(馬印)とは、合戦の時に名のある武将が、大将の位置を示すために、その陣に掲げた目印で、有名なところでは豊臣秀吉の逆さ瓢箪(さかさびょうたん)などがありますが、家康の場合は、その馬標が金の扇だったわけで、小牧長久手の戦いや関ヶ原の合戦などでも、この馬標を使用しています。
・・・てか、そんな大事な物を・・・(;´д`)トホホ…
・・・で、その大事な大事な馬標の回収を承ったのが、江戸町火消し『を組』の大親分として有名なあの新門辰五郎(しんもんたつごろう)だったのです。
彼は本名を町田辰五郎と言い、町田家が浅草寺の新門の警固をしていた事から、通称・新門辰五郎と名乗っていて、とび職のかたわらに町火消しの頭取となり、江戸の町の消火に一役買っていました。
しかし、45歳の時に、消火にあたっていた火事場で、有馬藩邸のお抱え力士とケンカ沙汰を起してしまい、石川島の人足寄場に送られてしまいます。
しかし、そこで一年も経たないうちに人足たちをまとめる事に成功し、その人足たちを率いて大火事の消火に大活躍した事から罪を許された上、子分3千人を束ねて、江戸市中の警固をおおせつかります。
しかも、娘が奥女中として仕えていた事で、慶喜のお手がつき、今回の慶喜の上洛にあたっては、愛妾の父として、200人の子分を連れて、慶喜の身辺警護にあたっていたのでした。
その慶喜の命を受け、もはや、いつ敵軍が攻めてくるかもわからない大坂城で、金扇馬標を手にした辰五郎は、一目散に大坂湾へ急ぎますが、彼が到着した時には、開陽丸はすでに出航していました・・・待っとったれよ!慶喜
そこで、彼は、子分20名ほどとともに、敵軍真っ只中の東海道をひた走り、陸路で江戸に届けたのです。
現在も、久能山東照宮博物館に所蔵される金扇馬標・・・これは、その時の辰五郎以下、火消したちの勇気のたまもの、命がけの大仕事の証しだったのです。
さて、総大将のいなくなった大坂城では・・・と、続きのお話は1月9日:大坂城炎上>>で・・・
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コメント
暴れん坊将軍に出てくる目組の辰五郎って…この新門辰五郎がモデルだそうです。然し慶喜さん!辰五郎さんが敵だらけの中に大事な忘れ物を取りに行ってくれとんのやから、ホンマに待っとってやれやぁ〜!心底・冷たい野郎やなぁ。って言いたくなりますね。こういう点から見ても、幕府軍を置き去りにした逃げ腰将軍て悪評が付いて回るんじゃないでしょうか。
投稿: マー君 | 2009年1月 8日 (木) 22時11分
マー君さん、こんばんは~
辰五郎さんと力士の一件は、歌舞伎やお芝居にもなってる有名な人ですからね~
庶民のヒーローだったんでしょうかね。
投稿: 茶々 | 2009年1月 8日 (木) 22時20分
新門辰五郎親分の、石川島の人足寄場での活躍話しは、どの位有名なのでしょうか ?。
・・・以前、ドラマ「天地人」の兼続は、‘さぶ’だと、こちらにコメントさせて頂いたことをご記憶でしょうか、
テレビドラマの‘さぶ’の原作は、山本周五郎さんの‘さぶ’なのですが、その‘さぶ’の、幼馴染で、無実の罪で寄場送りになる‘栄二’というのは、こちらに書いてある通りの、寄場での辰五郎親分そのままです。
エ ~ っトぉ・・・、山本周五郎さんは、巷でよく知られた新門辰五郎の英雄譚を、自分の小説に取り入れていた、ということ、だったのですね、
小説の登場人物に、歴史上の人物が重ねられてあることは、でも、よくありますよね。
そして、話しが色々作られて行くうちに、元の人物が忘れられて行く、ということも、有りがちですよね。でも、なんか、それは、ザンネンなこと ですね ・ ・ ・。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年1月26日 (火) 11時28分
重用の節句を祝うさん、コチラにも来ていただいたんですね・・・ありがとうございますo(_ _)o
>新門辰五郎親分の・・・活躍話しは、どの位有名なのでしょうか ?
新門辰五郎さん自体が、暴れん坊の北島さんのほうがホンモノより有名なので、その逸話となれば、どれくらい有名なのかは知りませんが、親分の逸話の中ではけっこう有名だと思います。
>話しが色々作られて行くうちに、元の人物が忘れられて行く・・・
そうですね。
先日、お邪魔した酢屋>>のページでも書かせていただきましたが、そこで説明してくださった係員の方が、龍馬の写真を指差しながら、「これがホンモノ龍馬の顔ですから・・・福山さんとは違いますから・・・」と何度もおっしゃっておられました。
小説はフィクションなので、他人の逸話を主人公の物にしたり、尾ひれをつけてデッカくしてみたりというのは当然ですが、「本当はこう言われてるのよ」っていう事は知っておきたいし、知ったほうが良いと思っています。
昨年は、さんざん「天地人」について書かせていただきましたが、それも、番組を批判というのではなく、そのつもりで書かせていただきました。
好きな人物ほど、自分自身のイメージで妄想したいので(;´▽`A``
投稿: 茶々 | 2010年1月26日 (火) 12時20分