岩倉具視・危機一髪~赤坂喰違の変
明治七年(1874年)1月14日、王政復古のリーダー的存在で、新政府でも重職についていた岩倉具視が赤坂にて襲撃された『赤坂喰違の変』がありました。
・・・・・・・・・・・・
岩倉具視(いわくらともみ) ・・・名前の響きだけ聞けば、アイドルのような美女を想像していまいますが、昭和を生きた世代には、あの青い五百円札でお馴染みのオジサマであります。
文政八年(1825年)、前権中納言・堀河康親(やすちか)の次男として生まれた具視は、幼い頃から知恵者の誉れ高く、その才能をかわれて14歳の時に岩倉具慶(ともやす)の養子になります。
・・・とは言っても、村上源氏の流れを汲む由緒正しき家柄の岩倉家も、当時の家計は火の車の極貧状態・・・公家と言っても、かなり下級に位置にいました。
しかし、そこは知恵者の具視くん・・・時の関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)に接近してお気に入りとなり、第121代・孝明天皇の侍従になる事に成功します。
鷹司家は五摂家の一つで、政道は関白だけでなく、左大臣や太政大臣・摂政などを歴任してきた天皇の側近ですから、下級公家の具視くんとしては大出世!です。
そんな中のペリー来航(6月3日参照>>)によって、この国は、開国か攘夷(外国排除)かで揺れ動く事となるのですが、ご存知のように、日米和親条約&日米修好通商条約を締結し、幕府は開国の道へと歩み始めます。
しかし、老中・井伊直弼(なおすけ)が攘夷派をぶっ潰すべく行った安政の大獄(10月7日参照>>)で、ますます、国内は真っ二つ・・・。
その敵対関係を修復すべく進められた公武合体(こうぶがったい・天皇家と幕府が協力)・・・その象徴として行われた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮の結婚の時も、しぶる天皇の説得にあたったのが具視でした(8月26日参照>>)。
しかし、そんな行動が攘夷派に睨まれる事となり、一旦、政界から追われます。
それから約5年間、京都・洛北の岩倉村で謹慎生活を送る具視くんでしたが、そこは知恵者の彼・・・転んでもただでは起きません。
この間に、桂小五郎や西郷隆盛・大久保利通といった倒幕派の面々と親交を深めていたのです。
やがて、孝明天皇が亡くなって(12月25日参照>>)、明治天皇が即位すると、彼の交友関係は、王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターとして花開く事になります。
もちろん、具視も、見事、政界に復活!・・・というより、むしろ中心人物です。
おかげで、新政府では三条実美(さねとみ)とともに副総裁となり、他にも海陸軍の総督や会計事務の総督なども兼務するという、まさに出世は頂点を極めます。
しかし、ご存知のように、その明治政府も順風満帆ではありません。
まずは、新政府の第一の目標として、幕末・維新の混乱の中で結んだ不平等な条約を改正するために使節団を編制して、外国を回る具視でしたが、そんな中で感じたのは、新政府にとっての内政の整備の重要性でした。
しかし、帰国した彼を待っていたのは、国内で盛り上がる征韓論・・・
もともと、江戸幕府の時代には、ともに鎖国制度を敷いていた朝鮮と国交のあった日本でしたが、維新とともに日本が開国してしまった事に朝鮮が異論を唱え、ここに来て両国は険悪なムードになってしまっていたのです。
留守を預かっていた西郷隆盛は、朝鮮へ出向く事を主張しますが、上記の通り、内政の整備が最優先と考える具視ら帰国組は、それを反対・・・西郷は政界を去りました(10月24日参照>>)。
これに反感を持ったのが、西郷らを支持していた征韓論者の士族たちです。
かくして、明治七年(1874年)1月14日、馬車に乗って宮中を出た具視が、赤坂の喰違見附(くいちがいみつけ)に差し掛かったところを、土佐士族・武市熊吉らが襲撃したのです・・・これが、赤坂喰違の変(あかさかくいちがいのへん)です。
彼らは、馬の足を斬りおとして馬車をムリヤリにストップさせ、具視に襲いかかります。
落ちるように馬車を降りた具視は、犯人たちと、くんずほぐれつしながら、横にあった土手に転がり落ち、そのまま濠に落ちていきます。
馬車についていた従者は、慌てて宮中に走り、岩倉・死すの報告を・・・襲った刺客たちも、手ごたえアリと判断し、すばやく逃走します。
ところが・・・ここで知恵者・具視の本領発揮!
実は、襲われて軽傷を負いながらも、ギリギリで刀をかわし、わざと水に落ち、死んだと思わせて難を逃れたのです。
しかも、犯人が残していった下駄を、しっかりと確認する具視・・・不平士族による政府高官の襲撃を重大事項と判断した大久保利通の指示により、警察は、その下駄を頼りに下駄屋を割り出し、3日後には、犯人9人・全員を逮捕したのです。
昨年の大河ドラマでは、この岩倉具視の役を片岡鶴太郎さんが、大久保利通の役を原田泰造さんが演じておられましたが、私、個人的には、まさにピッタリな人選だと思って見させていただいておりました。
馬車に乗ってるところを刺客に襲われ・・・という、同じような状況で、後に命を落す利通(5月14日参照>>)と、今回、拾った具視・・・。
もちろん、相手のいる事なので、時の運もあるのでしょうが、その性格の微妙な違いが演じたお二人に備わっているようで・・・。
ただし、さすがの具視くんも、この襲撃事件の後は、1ヶ月間休職していますので、心に受けた傷は大きかったようです。
この喰違の変の後、不平不満を持った士族と明治政府の食い違いはさらに大きくなり、佐賀の乱(2月16日参照>>)や神風連の乱(10月24日参照>>)、秋月の乱(10月27日参照>>)、萩の乱(10月28日参照>>)、果ては西南戦争(9月24日参照>>)へと発展していくのですが、そのお話は、それぞれのその日のページでどうぞ。
.
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
会社でこのブログを読むのが
いつの間にか日課になっています。
つっこんだ内容なのに、
これほどまで読みやすいとは・・・。
勉強になるし、面白いです!
岩倉具視は篤姫のときから気になっていました。
この記事を読んでさらに好きになりました!
これからもご執筆応援しています。
ファンレターでした。
投稿: とも | 2009年1月14日 (水) 13時18分
ともさん、コメントありがとうございます。
そんなふうに思っていただけるとうれしいです。
勇気がわいてきます・・・ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2009年1月14日 (水) 14時55分
いやぁ…五百円札て、とんと見なくなりましたねぇ。って、もう今は発行してないんでしたっけ?ところで今日はNHKの『その時・歴史は動いた』で岩倉さんのコトを取り上げてたようですね。僕はウッカリ見損ねちゃったんですが、indoor-mama.さんは御覧になりましたか?。
投稿: マー君 | 2009年1月14日 (水) 23時43分
マー君さん、こんばんは~
私も見逃してしまいました・・・(/□≦、)
再放送をチェックしてみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2009年1月15日 (木) 00時26分
おはようございます。
新年の御挨拶が遅れてしまいました。『明けましておめでとうございます。』と言える時期ではなくなってしまいました。失礼をお詫びします。
寒いのでまさに『寒中お見舞い申し上げます。』でございます。
岩倉具視は孝明天皇に和宮降嫁を強く薦めた人なので、私は攘夷派なのかと思っていたのですが、この方は尊王ではあったかもしれないけれど、始めから攘夷派ではなかったんですかね。新政府になってからはどんどん、文明開化を推し進めていったようですし…。和宮降嫁はあくまでも朝廷の権威を復活するために必要と判断してのことだったんでしょうか。
和宮降嫁を強く薦めた本人が、徳川家茂が薨去し、孝明天皇が崩御して公武合体が形骸化したら、和宮の嫁入り先である幕府への追討軍を江戸に進めようとするなんてひどい人だなとずっと思っていました。天皇崩御についてもこの人が一枚、噛んでいるという噂もあったようですね。真相は闇の中ですが、どうして500円札の顔になれたのか、私には理解できません。日本の近代化に対して多大の功績が認められているのでしょうね。
投稿: おみや | 2009年1月15日 (木) 10時29分
こんにちは。
以前「その時歴史が動いた」でちょんまげを切らせる話の中で、明治政府の不平等条約改正使節団の話を取り上げたと思うんですが、その時岩倉さんは日本人の誇りを持ってちょんまげを切らずにいたため、各国で未開人の印象を持たれて相手にされず、帰国して西欧化を勧める立場になった、といっていたような気がします。
「君子は豹変す」良かれと思う方へとすばやく方向転換できる、あまり好きになれないけど、これも一つの才能でしょうか。
生き残ることも、自分の成し遂げたいことを最後まで推し進めるために必要なんですね。
投稿: おきよ | 2009年1月15日 (木) 13時30分
おみやさん、こんばんは~
やはり、あの謹慎していた5年間に、すいぶんと岩倉さんご自身の考えにも変化があったのでしょうね。
この時代は、皆が行く末を模索していた時代で、何かのきっかけで方向が180度転換する事も多々あったでしょうね。
あの島津久光もそうですし、坂本龍馬も・・・
よくも悪くも日本の近代化に貢献した人という事でお札になったんでしょうが、そういう意味では現在のお札は、賛否両論をかわそうと、当たり障りのない人物になってしまいましたね。
投稿: 茶々 | 2009年1月15日 (木) 18時22分
おきよさん、こんばんは~
すばやい方向転換、何が何でも生き残る執念・・・ずる賢く、憎たらしいほど要領がいい・・・
動乱の時代は、「いい人」だけではやっていけないのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年1月15日 (木) 18時28分
いつも面白い記事をありがとうございます。
さて,
「時の関白・高司政道」は「鷹司政通」
でしょう。
投稿: | 2013年1月14日 (月) 09時38分
おぉ、ありがとうございます。
「たかつかさ」と「○みち」はいっつも誤変換しちゃうんですよね~
気をつけてはいるんですが、時間が無い時はついつい忘れ…
そのままになってる事が多々あります(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2013年1月14日 (月) 14時34分
もし、岩倉具視が命を落としていたら、その後の明治政府に、悪影響を与えた可能性は高かったかも知れませんし、歴史の話からは逸れてしまいますが、具視の実の曾孫である、女優の故 小桜葉子や、実の玄孫で、若大将シリーズでお馴染みの俳優兼歌手の、加山雄三さんが生まれなかったと思います。なお、加山雄三さんらが、具視の子孫である根拠については、Wikipediaに記載されてたからです。
投稿: トト | 2015年7月 9日 (木) 11時08分
トトさん、こんにちは~
う~~ん?どうでしょうね~
小桜葉子さんのお父さんの具顕さんの年齢が微妙ですが、そのお父さん(加山雄三さんの曾祖父)の具定さんは、この赤坂喰違の変の頃は、すでに新政府の要人として活躍されていましたからね。。。
でも、「歴史のif」を考えるのはオモシロイです。
いつも妄想が止まらなくなります(*^-^)
投稿: 茶々 | 2015年7月 9日 (木) 14時05分