徳川家の存続をかけて~和宮の尽力
慶応四年(1868年)1月17日、徳川慶喜のしたためた嘆願書を読んだ和宮が、内容の訂正を言渡しました。
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さてさて、鳥羽伏見の戦いに破れ(1月9日参照>>)、江戸へと戻って来た15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・彼が、浜離宮に上陸したのは、慶応四年(1868年)の1月12日の事でした。
江戸城内でも、未だ抗戦を主張する者もいましたが、今後の徳川家の存続を考える慶喜にとって、もはや抗戦はありえない事・・・ただ、ひたすら恭順な態度で、家名存続と自分自身の助命を願うほかありません。
かの勝海舟に言わせれば・・・
「天璋院は、しまひまで、慶喜が嫌いサ」
との事で、どうやら、あの篤姫は慶喜の事を、かなり嫌っていたようですが、ここはお家の大ピンチ・・・彼女も協力するしかありません。
江戸に戻った慶喜は、まずは海舟に、「敗戦したのはアンタのせいや!」と怒られながらも、彼のとりなしで篤姫に会い、
今度は、その篤姫が、しぶる和宮(かずのみや・静寛院宮=14代・徳川家茂の奥さん)を「徳川の一大事なんだから・・・」と説得し、
何とか二人の会見を、1月15日にセッティング・・・そこで、慶喜は和宮に、朝廷への謝罪のサポートをしてくれるよう頼みます。
正式な日付はわかりませんが、その会見の前後に、慶喜が和宮に宛てて書いた書状が残っています。
「この慶喜、徳川を相続して以来、天皇家を大事に思ってきましたが、このたびの事件・・・行き違いとは言え、朝廷に対して失礼な事をしてしまいましたので、自分は引退するつもりでいます。
聞くところによれば、京から軍勢を差し向けられるそうですが、万が一そんな事になれば騒乱になりますので、どうか、この気持ちを察していただいて、ご配慮をお願いします。
徳川家がこのまま続き、今までと変わりなく忠働を尽くせるよう御所の方に働きかけてはいただけないでしょうか。」
この慶喜からの手紙を、和宮は会見の前に読んだのか?後に読んだのか?・・・それはともかく「慶喜キモイ・・・」と言ってる場合ではない事は彼女にもわかりますから、ここは、とにかく徳川家一致団結とばかりに、慶喜の嘆願を引き受ける事にあいなりました。
・・・となると、慶喜が朝廷へと出す嘆願書・・・宮中には宮中のしきたりという物がありますから、相手のご機嫌をそこねぬよう、そのしきたりに乗っ取った書き方をしなければならないわけで、慶応四年(1868年)1月17日、慶喜の手紙に和宮のチェックが入る・・・という事になったわけです。
和宮のチェックのもと、書き直された慶喜の嘆願書と、和宮自身が書いた直書をたずさえた土御門藤子(つちみかどふじこ・和宮の乳母)が、使者として橋本実麗(さねあきら・和宮の母の兄)のもとへと向かったのは1月21日の事でした。
その後、1月27日・・・慶喜は、内外に恭順を示すかのように、抗戦派であった陸軍奉行並の小栗忠順(ただまさ)(4月6日参照>>)をやめさせて、勝を軍事総裁に任命、さらに2月5日には、松平春嶽(しゅんがく・慶永)に正式な書面で恭順の気持ちを表明します。
そして、2月12日には江戸城を出て、上野寛永寺の大慈院(だいじいん)に移り、自ら、謹慎生活に入りました。
この時点で、未だ江戸城に残っているのは篤姫と和宮(4月11日参照>>)・・・2月25日には、新政府軍が出陣したとの知らせが届き、大奥に残る彼女たちは気が気でなかった事でしょうが、そんな中の2月30日・・・かの藤子さんが、江戸城に戻ってきます。
彼女がたずさえて来た伯父・実麗の返答は・・・
実は、その時、朝廷や新政府軍の内部でも、徳川家の処分をめぐって意見が対立していました。
徹底的な倒幕を求める西郷隆盛ら薩摩藩と寛大な処置にしようとする岩倉具視(ともみ)・・・そんな中での実麗の見解は、明解には答えられないものの、「とにかく恭順な態度を示し続ければ、寛大な処分もありうる」との事・・・和宮も、そして篤姫も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。
「まだ、少しでも、徳川存続の希望があるのだ」と・・・。
もちろん、この後も和宮は、その尽力を惜しむことなく、何度も朝廷への働きかけを続ける事となります。
最後は、時間がなかったのかも知れないけれど、ここらへんの慶喜さんと篤姫と和宮のやりとりの部分を、もう少しくわしく大河ドラマで見てみたかったですね~。
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コメント
こんにちは
茶々さんが前におっしゃっていたように、朝廷への嘆願書にはそれなりの書き方があるので、手紙を替え玉がチェックするのは難しいだろうからやはり和宮さんは本物…?私もそう思います。
和宮・慶喜会見も慶喜さんが洋服ではダメ(和宮さん)ということだったので篤姫さんの計らいで慶喜さんが和服を借りて臨んだとか…。 (←違っていたらごめんなさい。m(__)m)
篤姫さんもこんなに徳川家の行く末を心配しているのだから、前に私がテレビ番組で見た『家定、家茂を篤姫が暗殺』という説はやはりウソっぽいですね。(笑)むしろ篤姫は慶喜が家茂を暗殺したと疑っていたのかも…。だからずっと慶喜を嫌っていたとも考えられます。
和宮さんが朝廷に送った嘆願書も全部ではないかもしれませんが、残っていますよね。テレビでその書を見た時にはすごく感動してしまいました。素晴らしい達筆で、これが身長143cm、体重34kgの、今でいったら小学校の低学年から中学年くらいの体格の女性が書いた書とは思えないくらいダイナミックな筆の運びでした。
幕府は最後、本当にお金がなかったんでしょう。徹底抗戦を主張していた小栗忠順が軍資金を持ち逃げしたというのは疑わしいですね。そういうイチャモンをつけて官軍は当人を処刑したのでしょう。
だいたい、薩摩は生麦事件の賠償金を幕府に出してもらっていますよね。幕府は返してももらえず滅ぼされてしまった。滅びる時ってそういうものなんですね。(もっとも薩摩は生麦事件に関して悪いのは向こうなんだから、賠償金など払う必要なしと考えていたのでしょうけれどね。)
勝海舟や側近、和宮さんや篤姫さんの努力で、一時は朝敵の汚名をきせられたものの、何とか家名存続ができたのは徳川家にとってせめてもの救いだったことでしょう。
投稿: おみや | 2009年1月17日 (土) 14時31分
おみやさん、こんばんは~
おっしゃる通り、この時の篤姫と和宮さんの尽力は大変だったと思います。
だからこそ、大河ドラマでも、もう少し時間を割いて、このあたりの当事者の心の描写なんかをやっていただきたかったなぁって思ってます。
投稿: 茶々 | 2009年1月17日 (土) 22時29分
こんばんは
西郷隆盛と違って岩倉具視は徳川家に対する寛大な処置を考えていたんですか?やはり和宮さんの嘆願書が効いたのでしょうか。
大河ドラマ【篤姫】の中で片岡鶴太郎さん扮する岩倉具視が官軍の指揮官が和宮さんのかつての婚約者だった有栖川宮熾仁親王になったことについて歴史の皮肉であるというような言い方をしていました。『こうなった原因の一端はアンタにあるんじゃないの?少しは責任、感じんかい!?』ってテレビの画面を見ながら私は思ってしまいました。(笑)小説ですから、岩倉具視が実際にそう言ったかどうかはわかりませんけれど、私には岩倉具視は厚顔無恥な人に思えました。
ところでindoor-mamaさんも徳川御用金発掘のテレビ番組を見ていらっしゃったんですね。私もワクワクしながら見ていました。確か、もし見つかったら国民一人当たり、結構な額のお金が還元されるというような話でしたよね。結局、見つからずに終わってしまいましたが、番組は高視聴率をマークしていたようですね。(笑)
投稿: おみや | 2009年1月18日 (日) 00時08分
おみやさん、再びこんばんはです。
>西郷隆盛と違って岩倉具視は徳川家に対する寛大な処置を考えていたんですか?
当時のすべての文献を読んだわけではありませんが、一応、私が持っている史料には、そのように書かれています。
和宮さんの伯父さんの橋本さんもそうですが、お公家さんたちの多くは、慶喜の態度しだいでは寛大な処置をとる用意があったようです。
鳥羽伏見以前でも、一時、慶喜の復権を約束したりなんかしてますから、ズルイ言い方をすれば、朝廷を持ち上げてくれさえすれば、サポート役は薩摩でも幕府でも良かったんじゃないでしょうか?
>徳川埋蔵金・・・そう言えば、最近、あの記事を書いてからすぐ後に、一度だけ復活してましたね。
果たして日本という国は、埋蔵金が見つかった時、国民に還元してくれるんでしょうか?
宝くじのキャリーオーバー(当選しても取りに来ない人の分を次に回す)がない国は世界広しと言えど日本だけらしいですから・・・
投稿: 茶々 | 2009年1月18日 (日) 01時15分