鑑真がそうまでして日本に来たかったワケは?
天平勝宝六年(754年)1月16日、6度目の挑戦で渡海に成功した唐の高僧・鑑真が、平城京に到着しました。
・・・・・・・・・・・・
唐(中国)の高僧・鑑真和上(がんじんわじょう)・・・歴史教科書にも大きく取り上げられ、おそらく、それほど歴史に興味のないかたでも、きっと、名前はご存知の事と思います。
その来日は、苦難の連続・・・5度も失敗しても諦めずに果敢にアタックし、6度目の挑戦で、やっと九州に漂着した鑑真は、その苦労のため、途中で失明していたと言います。
しかも、時の皇帝・玄宗(げんそう)が出国を許可しなかったため、最終的には密航という形で、日本に帰る遣唐使船に乗船しての来日だったのです。
ちなみに、この時、同時に唐を出発した別の船には、あの♪・・・三笠の山に出でし月かも♪でお馴染みの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が乗船していましたが、彼の船は別の場所に到着し、日本に帰る事はできませんでした(8月20日参照>>)。
まさに、命がけの渡海・・・
ところで、
そうまでして、日本が鑑真を欲しがった理由、
そして、
鑑真が日本に来たかった理由は、いったい何だったのでしょうか?
この二つの理由の中で、日本が鑑真を必要とした理由は、明白です。
そもそも日本に鑑真を呼び寄せようと働きかけたのは、天平七年(735年)の遣唐使船で、遣唐使とともに唐へ渡った興福寺の僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)でした。
もちろん、それには、仏教への熱い情熱・・・というのもあったでしょうが、当時の日本には、もっと現実的かつ、せっぱつまった事情があったのです。
それは・・・
当時の平城京は、天平の甍(いらか)と称されるような壮麗な都であった半面、庶民はその重税に苦しみ、労役や兵役に苦しむ極貧の生活で、社会的不安も大きな問題となる時代でした(11月8日参照>>)。
そのページでも書かせていただいたように、そんな苦しい生活から逃れる方法は、「逃げる!」しかないわけですが、それは、同時に戸籍=自分の存在そのものも失ってしまう事になります。
そこで、もう一つの救われる方法・・・それが、僧になる事でした。
確かに、僧になれば、兵役や税金から逃れられるうえ、自分という物を失わなくてすみます。
しかし、そうなると、当然、本来、僧になるべき人ではない人までが僧になるわけで、その質が落ちる事は明白ですから、政府は早速、勝手に僧になる事を禁止し、厳重に管理しようとしますが、それでもさらに増え続け、結局は統制も、ほとんど効果なし!
当然の事ながら、庶民から見る僧への尊敬や権威も低下し、それを管理できない政府への不満も、さらに大きくなります。
しかも、当時の日本には、授戒(戒律を授ける事)を授ける高僧が一人もいない状況で、自分で自分を授戒する状態だったのです。
・・・って事で、国家の安定をはかるためには、正しい仏教の戒律を確立させる必要があったわけで、そのためには、本場・唐で尊敬されている高僧を日本にお招きするしかなかったのです。
そして、一方の、鑑真が日本に来たかった理由・・・
もちろん、これも仏教への情熱・・・日本の仏教の荒廃した実態を聞いて、「俺がやらねば誰がやる!」と鑑真が思ったという事が一番だと思われますが、それを後押しした物もあったのでは?という見方もあるようです。
実は、より政情が不安定だったのは唐のほうで、この先の動乱を予感した鑑真は、むしろ日本に亡命したがっていたというもの・・・確かに、翌年の西暦755年にあの安禄山の乱(11月9日参照>>)が起こっていますから、なきにしもあらず・・・ですが・・・。
さらに、唐に渡った日本人の僧から、かの聖徳太子の話を聞き、かなりの太子ファンになった鑑真が、その太子を生んだ日本に行ってみたいと思ったというもの・・・確かに、フアンなら、その生誕の地へ行ってみたくなる気持ちはワカランでもないが・・・。
そして、最もスゴイ説は、鑑真=スパイ説・・・
ちょうど、その頃に開かれた唐での酒宴の席で、日本の代表と新羅(しらぎ)の代表が席順を争ったあげく、日本代表がよりイイ席を奪い取ったという、ちょっとした事件があったそうで、「カワイイ新羅くんに何て事するんだ!」と、唐が日本への警戒を強め、隣国の情勢を探らせるために、鑑真を派遣したというもの・・・これは、トンデモ説としては、オモシロイかも知れませんが、失明してまで来る必要はない気がするので、あくまで、そんな説もあるという程度で・・・。
ただし、たとえ、鑑真が日本に来たのが、仏教への情熱だけでなく、後押ししたキッカケという物があったとしても、鑑真のその偉大さを、何らそこねるものではありません。
なんせ、5度も失敗してもなお、失明してまで(12月20日参照>>)・・・というのは、やはり、仏教に対する情熱という以外の何物でもない!というのが本当の所でしょうから・・・。
しかも、鑑真の偉業というものは、日本へ来る過程もさる事ながら、その後の日本での活躍がすばらしいのです。
唐招提寺・戒壇:戒壇とは授戒を授ける場所・・・鑑真にとって最も重要な場所だった事でしょう
日本が願った通り、その戒律の確立をおこなうべく、あの唐招提寺を建立し(8月3日参照>>)、人々にたくさんの知識を与え、乱れつつあった仏教の世界を、正しいものに導いてくださったのですから・・・。
千年に渡って語り継がれる鑑真の偉業・・・それは、おそらく、この先、千年経っても変わらなく語り継がれていく事でしょう。
唐招提寺へのくわしい行きかたは・・・HPの歴史散歩へどうぞ>>
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コメント
こんにちは。
かれこれ10年以上も前のことですが、唐招提寺の軒の瓦には「唐律招提寺」と変わった書き方で書かれていて、「唐の(本物の)戒律を招提する」という意味だと教えられ、喜んで写真をとって来ました。
本物を伝えたい、という強い意気込みを感じます。私としては、情熱、もしくは執念・意地(!)説を採りたいです(*^-^)
投稿: おきよ | 2009年1月16日 (金) 13時57分
おきよさんこんばんは~
>情熱、もしくは執念・意地(!)説を採りたい・・・
やっぱ、そうですよね。
たとえ、高僧で地位と名誉があっても・・・いえ、高僧だからこそ、まだ見ぬ自分自身への情熱が湧き上がってきたのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年1月16日 (金) 17時42分
昔の宗教指導者って、凄い執念を持っていたんですね。ここは難しい政治的な話じゃなく、純粋に仏の道…正しい戒律を伝えたいという心情から失明してまで日本にやって来たと思いたいです。鑑真和上は唐で高名を馳せてたからこそ敢えて危険を冒して日本にやって来たんだと思います。鑑真和上が唐で無名の存在だったら、そのまま唐に残って修行の道を選んでたと思いますからね。何かしらの道で…功成り名を成した男が、老境に差し掛かって思うのは、果たして自分が生きてきた道は正しかったのだろうか、このまま死を迎えて後悔しないだろうかナンテ思うもの。そんな思いを抱いた鑑真和上にとって日本へ渡って正しい戒律を授けるという仕事は己の一生の総仕上げと捉えてたのではないでしょうか。また鑑真和上ほどの高僧なればこそ、幾度とない難波も仏が与えた試練であり己の斎戒が不十分なるが故に仏罰が当たるんだ、我の心身の穢れが消え正しい戒律を身に付け悟りを開けた時こそ日本に到着することができると思って頑張ったんだと思いたいです。
投稿: マー君 | 2009年1月17日 (土) 00時30分
マー君さん、こんばんは~
ここは純粋に・・・
私も、仏教への情熱なればこそ!だと思います。
投稿: 茶々 | 2009年1月17日 (土) 00時57分
日本史のレポートで鑑真について調べていたのですが
このページがすごく役に立ちました^^
ありがとうございました
投稿: つるこ | 2010年12月12日 (日) 15時09分
つるこさん、コメントありがとうございます。
また、遊びに来てくださいね(゚ー゚)
投稿: 茶々 | 2010年12月12日 (日) 22時16分
とっても、役に立ちました
投稿: | 2012年5月13日 (日) 09時08分
ありがとうございます。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2012年5月13日 (日) 22時37分