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2009年1月27日 (火)

将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2

 

建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

昨年のこの日にも書かせていただいた源実朝(みなもとのさねとも)暗殺劇・・・その経緯は、昨年のページで見ていただくとして(2008年1月27日を見る>>)、そのページでも書かせていただいたように、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡(あづまかがみ)が、亡き2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)(7月18日参照>>)の遺児・公暁(くぎょう)(2013年1月27日参照>>)怨恨による単独犯とするこの事件には、おそらく黒幕がいて、それは、時の執権・北条義時か?三浦義村か?、はたまたアガサ・クリスティの小説のように有力御家人・全員なのか?

・・・てな事を書かせていただきましたが、私の個人的見解としましては、おそらくは、義時&義村の共犯ではないか?と考えているのですが・・・。

まずは、実行犯・公暁の行動です。

彼は、鶴岡八幡宮で実朝を襲った後、その首を持って自宅に戻り、食事をします。

この時、公暁は、食事の最中、かたときもその首をはなさず、首を小脇に抱えたまま食事を済ませたという事で、かなりの興奮状態だった事がわかります。

その後、彼は、一通の手紙を書き、それを使者に預け、義村のもとへ届けさせます

その手紙には・・・
「今日から、俺が将軍や!準備せぇや」と・・・

受け取った義村は、「ただ今、迎えの者をさしあげます」と返答し、公暁も、自宅にて、その迎えを待つのですが、いくら待っても迎えは来ず、しびれを切らした公暁は、自宅を出て、雪の降る中、ひとり、義村の邸宅へと向かいます。

すると、向こうから武士の一団が・・・
「おぉ・・・迎えが来た!」
と、思った瞬間、その武士の一団は公暁を取り囲み、刀を抜きます。

武士たちに応戦しながら、何とか切り抜け、先を急ぐ公暁・・・それでも、まだ、武士の一団が義村の配下とは思っていなかったようで、何とか彼らをまいて、必死に塀を乗り越えて、義村の屋敷に入ろうとしたところを追いつかれ、その邸宅の前で息絶えたのです。

この公暁の行動を見る限り、義村との約束ができていたとしか考えられません・・・つまり、黒幕は三浦義村・・・。

しかし、そうなると、徹底的におかしな事が・・・それは、もし、義村が黒幕であったのなら、義時が、それに気づかない事は考えられません。

現に、ここまで公暁の行動がバレちゃってるわけですから・・・ところが、義村には、お咎めどころか、疑いすらかけられていません。

本当なら、この日は、義時自身が実朝に付き添うはずだったわけで、仲章と交代しなければ、将軍殺害どころか、自分が殺害されてた可能性があるのですから、もし、義時が潔白であるなら、これ幸いと義村の追い落としにかかる事もできるはずです。

ならば、やっぱり北条義時が黒幕?

いや、それなら、公暁が義時だと思って、実朝のそばにいる仲章を斬ったというところのがつじつまが合わなくなってきます。

ただ、公暁と義時の間に密約ができていて、直前になって付き添いを交代する事も了承済みなら、わざと仲章を斬ったという事になりますが、それなら、そんな秘密を知る公暁を、わざわざ義村のもとに走らせたりはしません・・・さっさと、殺してしまわないと、秘密がバレてしまいます。

つまり、二人ともが実朝の暗殺を知っていたのでは?

もちろん、この時代に最も力のある義時と義村の二人が黒幕なら、もはや、他の御家人は見て無ぬふりをするしかありませんから、結果的には、全員が?・・・という可能性も・・・。

ここで、注目したいのは、殺された実朝自身の生前の行動です。

実朝は、この3年前の建保四年(1216年)、にわかに(そう・中国)に渡る」と言いだし、大船を建造しています。

宋から来た僧・陳和卿(ちんなけい)に、「あなたは、私の前世で師匠だった」とおだてられての行動だとも言われますが、当の義時や、母の北条政子に猛反対されたにも関わらず、その反対を押し切って船を造らせています(11月24日参照>>)

彼は、どうしても宋へ行きたかった・・・というより、この国から逃げたかったような気がしてなりません。

結局、その船は大きすぎて、海に浮かべた直後に沈んでしまい、渡海の計画はそのままになってしまうのですが・・・いったい、実朝は何から逃げたかったのでしょうか?

やがて訪れた建保七年(1219年)1月27日・・・
Minamotonosanetomo600 その日の朝、家臣が実朝の髪をセットしていたところ、櫛にまとっている髪を一筋取った実朝は、「記念にせよ」と、その者に渡したのだとか・・・

やがて、したくを整え、式典に出るために庭に降り立った実朝は、庭に立つ梅の木を見つけて・・・
♪出てゐなば 主なき宿と なりぬとも
  軒ばの梅よ 春をわするな ♪

きっと、実朝は、すでに、ここに自分の居場所がない事を知っていたのでしょう。

武士団の合議制によって、すべての事項を決定する鎌倉幕府には、将軍はいらないのだと・・・。

家臣であるはずの御家人という敵に、周囲を囲まれた孤独な将軍は、この春の梅を見る事なく28歳の生涯を閉じ、庭の梅の木はあるじを失いました。

同じ日に、20歳で死んだ公暁・・・この推理が正しければ、彼もまた被害者という事になります。

公暁さん、どうせ密約を交わすなら、実朝と交わしてほしかった・・・本来なら、同じ頼朝の血を分けた最も信頼できる相手だったはずなのに・・・残念です。

★関連ページ
 ●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺事件の謎パート1】>>
 ●【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>
 ●阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
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 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
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 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは^^

鎌倉時代は江戸時代の次に興味を持っている時代なので、
コメントさせて頂きますね。
実朝さん、やっぱり鎌倉幕府から逃げたかったのでしょうね。
お公家さんみたいに和歌ばかり読んでたし、鎌倉みたいに血なまぐさくない、
もっと雅な世界にいたかったように感じます。

公卿さんは踊らされちゃってますね。
黒幕ぜったいいるとも思います。
それにしても、首を前に食事を摂るなんて
やはりすごい時代です^^;

今度の日曜、大人の遠足で鎌倉に行きます。
歩きながら彼らのことなど想像してみますね^^

投稿: ルンちゃん | 2009年1月27日 (火) 17時37分

ルンちゃんさんコメントありがとうございます~

鎌倉・・・いいですね

鶴岡八幡宮には、公暁が身をひそめていたと言われるイチョウの木があるそうです。

「樹齢が合わない」などというKYなウワサは棚の上に上げて、思いっきり浸ってきてください。

投稿: 茶々 | 2009年1月27日 (火) 18時32分

私は北条義時のことを思い出した。ボールペンで義時夫婦(1月23日記事)を描いたんだ。

投稿: sisi | 2009年1月27日 (火) 21時28分

sisiさん、こんばんは~

北条義時さん・・・恥ずかしながら、お顔が思い出せません。

どんな人でしたっけ?
肖像画、見た事あったかなぁ?

時宗さんなら思い出せるんですけどね~

投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 00時21分

私、歌人実朝のファンなんです。
実朝の歌は万葉のようにダイナミックで、しかも切々と迫ってくる迫力があります。
でも、武士の統領というよりは、公家の歌人のような人だったと思います。
自分が今日殺されると知っていながら、その運命から逃れられないことも知っていたというような話を読んだこともあります。
この事件も永遠の謎ですね。実朝は、もう死んだ方がいいと思っていたのかも・・・(;ω;)
このブログの実朝さんの話、ほかにあったら教えてください。

投稿: ななみみず | 2009年1月28日 (水) 00時56分

実朝さんの和歌って…東風吹かば・匂い起こせよ梅の花・主なきとて春な忘れそ。っていう菅原道真の和歌によく似てますね。時代も違えば立場も違う二人ですが、居場所を見失ったという部分で通ずるトコが有る…(少なくとも僕はそう感じる)二人が奇しくも梅の木に思いを寄せた辞世の句を残してることに歴史の妙味を感じます。

投稿: マー君 | 2009年1月28日 (水) 03時10分

ななみみずさん、こんにちは~

実朝さんのお話は、まだ、暗殺の謎・パート1とパート2だけですね~
ごめんなさいですo(_ _)oペコッ

機会がありましたら、書かせていただきますね。

投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 09時56分

マー君さん、こんにちは~

ななみみずさんも、「万葉集のように」と書いておられますが、やはり、歌から受ける印象は、一昔前の雅な公家のイメージがありますね~。

そういうところも、武士たちは気に入らなかったのかな?とも思いますが・・・

投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 10時07分

素直で勉強゛する実ともだけに、公暁の理解者になるのに...
実ともびいきなので、天国へ行ってほしいですが!

投稿: ゆうと | 2012年3月28日 (水) 05時38分

ゆうとさん、こんにちは~

どこかで、ボタンをかけ違えた…という感じですね。

投稿: 茶々 | 2012年3月28日 (水) 13時56分

「実朝暗殺」の謎は、興味あります。
頼朝の嫡脈は絶えてしまいました。
女系もいないようですね。
鎌倉幕府が滅亡しないで、まだ続くのも
北条氏の力なのでしょうが。

永井路子「炎環」「北条政子」を
読みました。大河ドラマ「草燃える」の原作です。鶴岡八幡宮の大銀杏は倒れました。

投稿: やぶひび | 2018年3月27日 (火) 15時01分

やぶひびさん、こんにちは~

最近の私は、頼朝自体が看板ではなかったか?
なんて思いも持っています。

源氏はもちろん、坂東の平氏たちにとって、中央で隆盛を誇る平家を潰したいとは思うものの、個人レベルでは不可能で、バラバラな彼らが結束するためには大きな看板が必要で…

考えたくは無いですが、政権を取った以上、もう嫡流は必要なくなったのかな?と…

投稿: 茶々 | 2018年3月27日 (火) 18時38分

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