露と消えた九州独立国家~梶原景時の乱
正治二年(1200年)1月20日、鎌倉幕府・開幕をサポートしながらも、源頼朝の死後に幕府を追われた後家人・梶原景時が、非業の死を遂げました。
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このブログでも、度々登場している梶原景時(かげとき)さん・・・その印象は、あまりよろしくありません。
それは、以前も書かせていただいた通り、源義経をヒーローに描きたい『義経記』や『平家物語』では、義経に苦言を呈す敵役として描かれ、鎌倉幕府=北条氏の正史である『吾妻鏡(あずまかがみ)』では、目の上のタンコブの極悪人として描かれているため・・・。
しかし、例の屋島の合戦(2月16日参照>>)や、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)なども、義経が勝ったからこそ奇抜なアイデアでの勝利となりますが、考えようによっちゃぁ、命がいくつあっても足りないような無謀な作戦をルール無用でやっちゃってるワケですから、遠く鎌倉にいる兄・頼朝に、目付けとして派遣されている立場の景時なら、文句の一つも言ってあたりまえです。
北条氏の歴史である吾妻鏡も、頼朝の重臣であった彼を葬り去るために極悪人に仕立てあげなければならないのは当然の事・・・自分たち=北条氏のほうを悪く書くわけありませんからね。
そんな景時さんが、平家物語や吾妻鏡で描かれているような悪人ではない事は、あの石橋山の合戦(8月23日参照>>)のエピソードからも垣間見えます。
もともと平家の配下であった景時は、石橋山の合戦で窮地に追い込まれた頼朝を助けます。
それも、大庭景親(おおばかげちか)の軍に囲まれ、わずか数人の側近とともに、岩屋に隠れているところを発見し、それを見逃したのですから、もはや、命の恩人・・・彼が、一言大声で「ここにおるゾ~」と叫べば、頼朝の命は無かったのですから・・・。
ところが、その石橋山の翌年には、頼朝に仕えるようになる景時が、その命の恩人という伝家の宝刀をひけらかしてるのを見た事がありません。
本当なら、もっとこの宝刀を使いまくって、エラそうにしても良いはずですが・・・。
岩屋に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたところと言い、使える宝刀をひけらかさなかったところと言い・・・いかに、景時が優れた人物であったかがわかる気がするのですが・・・。
景時は頼朝に恩を売る事なく、ただひたすらに忠誠を尽くし、その手足となって働きます。
一方の頼朝も、そんな景時に全面的な信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。
景時は、あの義経の平家討伐の時だけではなく、平家を倒し、源氏の世になった後も、他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。
それは、チクられる者たちからすれば、非常にうっとうしいでしょうが、多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、これは告げ口ではなく、れっきとした職務上の報告です。
しかし、そんな立場の景時は、正治元年(1199年)1月13日に頼朝が亡くなると、いの一番に他の御家人たちのターゲットとなるのです。
それが、頼朝が亡くなったその年の10月28日に作成された『梶原景時・弾劾状(だんがいじょう)』です(10月28日参照>>)。
そのきっかけは、結城朝光(ともみつ)と小山政光が亡き頼朝を偲んで言った言葉・・・「忠臣二君に仕えずっていう例えもあるから、俺ら、頼朝さんが亡くならはった時に、同時に出家しといたら良かったんかなぁ」てな会話を、小耳に挟んだ景時が、2代将軍を継いでいた頼朝の息子・頼家に「これは、現・将軍には仕えたくないという意味なのでは?」と、頼朝の時同様にチクったわけです。
その事を知った朝光が、逆に他の御家人たちに相談・・・御家人66人が集結し、景時の悪口を書きまくった弾劾状を作成し、彼を失脚させたのです。
この後、将軍・頼家に、弾劾状の釈明のために呼び出された景時でしたが、はたして一言の弁明もする事なく退室したのだとか・・・。
優れた人物であるが故に、ここで、そのすべてを悟った事でしょう。
弾劾状から約2ヵ月後の12月18日、彼は鎌倉を出て、領地の相模(さがみ・神奈川県)一宮に移ります。
もはや、幕府に対抗する意思を固めていた景時は、即座に寒川神社付近に要害を構えて守りを固め、一族を連れて京に向かいます。
それは、当時、すでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、朝廷の復権を図ろうとしていたからです。
彼も、これに同調して、上皇から院宣(天皇の命令書)を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)を将軍に掲げ、九州に独立した幕府を構えるつもりであったと言われています・・・ただし、これも、北条側の記述なので、真実かどうかアヤシイ事は怪しいのですが・・・。
しかし、彼の構想は打ち砕かれます。
正治二年(1200年)1月20日・・・駿河国(静岡県)清見関(きよみがせき)まで来たところで、付近の御家人・芦原小次郎・工藤八郎・三沢八郎・飯田五郎らの襲撃を受けてしまったのです。
一旦は、息子らとともに反撃を試みますが、功名を挙げて恩賞に預かりたい周囲の御家人たちがどんどん加わってきて、もはや多勢に無勢・・・雨のように降り注ぐ矢に、ほとんどの者が倒れ、景時自身も深手を負ってしまいました。
死を覚悟した景時は、長男・景季(かげすえ)、次男・景高とともに後方の山に身を隠し、壮絶な自刃を遂げました。
頼朝とともに新しい世を夢見て、戦いに身を投じた景時は、その主君の死から、わずか一年後に自らの命を断つ事となったのです。
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