時代とともに生きた~東西・二つの本願寺
天正十九年(1591年)1月19日、豊臣秀吉が七条堀川の寺地を、十一世法主・顕如に寄進・・・本願寺が京都に移る事になりました。
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本願寺については、すでにブログで度々書かせていただいていますので、以前のページと少し内容がかぶるかも知れませんが、ここは一つ、秀吉が寺地を寄進したのをきっかけに、東西の本願寺について書かせていただきたいと思います。
開祖の親鸞聖人(11月28日参照>>)より続いた浄土真宗は、中興の祖・蓮如(2月25日参照>>)によって、加賀に信徒の国を誕生させる程の発展を遂げます(6月9日参照>>)。
やがて、天下統一目前の織田信長と対立した本願寺は、長島一向一揆(9月29日参照>>)や加賀一向一揆(11月17日参照>>)と連動した10年に及ぶ石山合戦(11月6日参照>>)の末、天正八年(1580年)3月17日、正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦交渉が成立し、本拠地である大坂の石山本願寺を明け渡す事となります。
この時の法主(ほっす)は第11代の顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)・・・そのページでも書かせていただいたように、4月9日に顕如が石山本願寺を出た後も、長男・教如(きょうにょ)は、なおも籠城を続け、信徒に対して徹底抗戦を呼びかける教如と、戦いを終らせようと呼びかける顕如のハザマで、信徒は大きく揺れ動きます。
そして、兄・教如が石山本願寺に居座り続ける数ヶ月の間に、顕如が弟の准如(じゅんにょ)を後継者に指名してしまった事で、後に話がややこしくなるのですが・・・とりあえずは、明け渡し期限ギリギリの8月2日、教如も石山本願寺を退去し、ようやく信長に渡されます(8月2日参照>>)。
しかし、その本願寺を手に入れた信長は、その跡地に手をつける事なく、その2年後、本能寺で亡くなってしまいます。・・・(この石山本願寺の跡地には、後に秀吉によって大坂城が築城されます)
信長の死後、天正十一年(1583年)に、事実上の後継者争いとなった織田家重臣の柴田勝家VS羽柴(豊臣)秀吉の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)の時には、本願寺坊官(ぼうかん・世話係の僧侶)・下間頼廉(しもつまらいれん)が、「加賀の信徒を動員してお味方しまっせ」と、秀吉に囁いたのだとか・・・。
戦国乱世には、政治にまで介入し、徹底的に権力と戦った本願寺も、どうやら、このあたりで、その方向性を、権力への対抗から権力の庇護のもと生きる事に変えたようです。
そうなると、独立国家を造るほどの激しさはなくなったとは言え、まだまだ全国各地に大勢の信徒をかかえる本願寺ですから、彼らが味方につくかつかないかで、戦況が左右される事も考えられます。
その方向転換をいち早く察した徳川家康は、賤ヶ岳の合戦から8ヶ月後の12月、かつて領国で勃発した三河一向一揆(9月5日参照>>)のせいで実施していた三河国内での浄土真宗の禁制を、ここで解除しています。
そして、翌年、やはり信長の後継者を巡って、家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と、秀吉の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)で、家康は、ここぞとばかりに、昨年、禁制を解除したばかりの本願寺信徒を味方につけようと、かの顕如に働きかけますが、顕如はこれを拒否します。
当然、秀吉は、この顕如の態度に大喜びし、早速、顕如に対して、大坂・天満に寺地を寄進・・・さらに、天正十九年(1591年)1月19日、京都の七条堀川という一等地に広大な寺地を寄進したというワケです。
かくして、本願寺は天文元年(1532年)に山科(やましな)本願寺という本拠地を消失して以来、約60年ぶりに発祥の地・京都に戻ってくる事になりました。
この京都の本願寺の建設中に、顕如が亡くなった事で、第12代法主として後を継いだのは、あの教如でした。
この後継ぎは、すでに秀吉の許可を得たものでありましたが、そこに「待った!」をかけたのが・・・そう、顕如から後継者として指名されたと主張する弟・准如です。
しかも、准如には生母の如春尼(にょしゅんに)が味方についており、顕如直筆の「譲状(ゆずりじょう)」もあると・・・
ちなみに、この如春尼さんは、教如さんの生母でもあるんですが、どうやら兄貴とは仲が悪く、末っ子を可愛がっていたようですね。
・・・で、結局、秀吉が中に入って、「10年間は教如が宗主を務め、その後、准如に譲る」という約束を両者にとりつけて、何とか、この後継者争いに、一応の決着をつけました。
ところが、その采配に不満を持った教如側の僧侶たちが「譲状はニセ物だ!」と騒ぎはじめ、再び一触即発の状態へと戻ってしまいます。
これに怒った秀吉が、「ワシの采配が気に入らんのかい!」と逆ギレ・・・「ほな、10年と言わず、今すぐ譲れや!」と、教如を引退に追い込み、准如を第12代法主と定めたのでした。
その後、しばらくの間、不遇の生活を余儀なくされた教如でしたが、再び、日の目を見る時がやってきます。
そう、慶長三年(1597年)に秀吉が亡くなった後、時は慶長五年(1600年)・・・関ヶ原の合戦の直前に、家康の陣中見舞いに訪れた教如・・・あの小牧長久手の戦いの時に、冷たくあしらわれた家康は、ここですり寄って来た教如を全面的にバックアップする決意を固め、亡き秀吉が支援していた准如を排除するつもりでいました。
ところが、ここで進言したのが、重臣・本多正信・・・彼は、あの三河一向一揆の時、浄土真宗にどっぷりハマり、家康に対抗して一度は徳川を去った人です。
「どちらか一方に味方すれば、他方に不満が残り、また争いになるかも知れません。ここは一つ、准如の本願寺はそのままに、教如に別の寺地を寄進してはどうでしょう?」
さすがに、一度ハマッた人の言う事は違う・・・これで、本願寺信徒の力を半分にする事ができます!
たとえ、全国に信徒がいて、その信仰心が厚くとも、もはや、政治や合戦に介入する事はありません。
東本願寺
こうして、慶長七年(1602年)、家康は教如に対して、六条烏丸(からすま)に寺地を寄進します。
つまり・・・
先の准如が、そのまま第12代法主を務めたのが西本願寺、
新たに教如が第12代法主を務めたのが東本願寺・・・ここに、東西二つの本願寺が誕生したのです。
東西本願寺への行きかたは
HPの「七条通りを歩く」へどうぞ>>
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コメント
神主さんて一般教養として仏様についても素人さんよりは詳しいよね。ナンテ言われますが…僕は全然と言っていいほど仏教のことは分かりません。さて、そこでお尋ねします。浄土真宗って大谷派ってのと本願寺派ってのとに分かれてますが、東本願寺と西本願寺…どっちが大谷派で、どっちが本願寺派になるんでしょう
投稿: マー君 | 2009年1月20日 (火) 01時44分
マー君さん、こんばんは~
准如の西本願寺が本願寺派で、教如の東本願寺が大谷派です。
現在では上記の2派以外に、高田派・仏光寺派・興正派・木辺派・三門徒派・出雲路派・山元派・誠照寺派があって、真宗十派と呼ばれてます。
投稿: 茶々 | 2009年1月20日 (火) 02時23分