策士策に溺れる~謀略の将・最上義光
慶長十九年(1614年)1月18日、伊達政宗や上杉景勝と東北の覇権を巡って渡りあった出羽国・山形の戦国大名・最上義光が69歳の生涯を閉じました。
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今年の大河ドラマ「天地人」は東北が舞台・・・おそらく、この最上義光(もがみよしあき)さんにもスポットが当たるものと期待しております。
・・・とは言え、義光は謀略の達人、しかも主役が上杉側となれば、にっくきライバルとして描かれるのでしょうが、なにぶん私は原作を読んでいないので、本当にドラマに登場するのかどうかは確信が持てませんのであしからず・・・。
そんな最上義光さんは、天文十五年(1546年)1月1日、清和源氏の流れを汲む足利一門という由緒正しき最上氏の第10代当主・最上義守(よしもり)の長男として生まれます。
16歳の時には、父とともに出かけた高湯(蔵王)温泉にて、自らの手で盗賊を退治したという逸話を残すくらいの勇猛果敢な少年であったようですが、そんな彼は、父とはあまりうまくいっていなかったようです。
・・・というのも、この頃の最上氏は、隣国の伊達氏に完全に押され気味・・・何とかお家を保ってはいましたが、一時はその傘下に組み込まれそうになった事もあり、義守は、娘の義姫を伊達輝宗(てるむね)へと嫁に出し、伊達氏とうまくやっていく方向へと持っていっていたのです。
しかし、義光は上記の通り勇猛果敢な性質・・・伊達氏の呪縛から我が最上氏を解き放ち、東北のこの地で、伊達氏と対等に渡りあう覚悟でいたのですね。
この時、そんな義光を恐れた義守が、彼を幽閉して次男の義時に家督を譲ろうとしたところを、幽閉先から脱出した義光が、弟・義時を殺害して自らが家督を継いだという話もありますが、どうやら、それは後世の創作のようで、実際には、父と子のモメ事があったにはあったものの、あくまで、父子の話し合いのもと、元亀二年(1571年)に義光が最上氏の当主となったようです。
ちなみに、先ほどの伊達氏にお嫁に行った父・義守の娘・・・つまり、義光の妹の義姫が産んだ息子があの伊達政宗で、この後、義光と政宗は、隣国同士で常にライバル関係・・・一触即発の状態が続く事になります。
やがて、越後の上杉も加わりつつ、東北の覇権を巡って争い続けていた義光でしたが、そんな彼に一つの転換期がやってきます。
そう、天下統一を目前に、小田原攻めを開始した豊臣秀吉です(4月3日参照>>)。
長年、争ってきた東北の武将たちが、秀吉の采配一つで、その領土を失ったり増やしたり・・・「コイツはズゴイ!」と思って友好関係を結んでいた徳川家康さえも、秀吉の傘下となり(10月17日参照>>)、ライバル政宗も決死の覚悟で弁明にまい進する(8月5日参照>>)・・・全国ネットのスゴさを目の当たりにした瞬間でした。
小田原攻めの後の奥州征伐(11月24日参照>>)で、領地を大幅にカットされた政宗に対して、家康と友好関係にあった義光は、その家康の口添えで最上の領地を安堵され、その後は、家康と、そして秀吉との関係を、最優先する手法へと路線変更・・・もはや、若い時の血気盛んなだけでは、生き抜いていけない事を悟った彼は、その変わり身の早さもスゴイ・・・。
秀吉が、東北の諸将の反感を買いながら行った検地(7月8日参照>>)にも積極的に協力しつつ、美貌の娘・駒姫を豊臣(羽柴)秀次が気に入ったようだと聞けば側室として差し出し、次男・家親(いえちか)は家康の近侍に・・・、三男・義親(よしちか)は秀吉の小姓に・・・と、見事な徹底ぶりです。
しかし、ご存知のように、この後、秀次は、秀吉によって切腹させられ(7月15日参照>>)、側室となっていた義光の娘・駒姫も、わずか15歳という若さで、京都の三条河原にて処刑されてしまうのです。
さらに、父である義光自身も謹慎処分に・・・謹慎はさほど期間は長くなく、ほどなく許されますが、この時の一件は、義光の心にグサリと刺さった事でしょう・・・秀吉亡き後の慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では、迷う事なく家康の東軍につく事になります。
例のごとく、上杉討伐の名目で伏見城を後にした家康とともに、上杉景勝との合戦準備をする義光でしたが、留守となった伏見城を石田三成が攻撃した事で、計画変更・・・いや、家康にとっては、こっちが計画通りなのかも知れませんが、とにかく、上杉討伐は中止となって、家康は再び西へと戻ります。(7月25日参照>>)
家康は、関ヶ原の2日前の7月23日付けで、義光宛ての書状を書き、この事を伝えています(9月7日参照>>)。
しかし、三成と通じていたとおぼしき景勝は、かの関ヶ原と連動すべく、重臣・直江兼続(かねつぐ)を大将に、義光の持ち城であった長谷堂城(山形市)を攻めたのです。
これが、東北の関ヶ原と言われる長谷堂の戦い(9月16日参照>>)です。
この戦いで兼続が長谷堂城を取り囲んだのが9月15日・・・そう、その関ヶ原と同じ日です。
ところが、その肝心の関ヶ原はご存知のように、わずか半日で決着がついてしまい、東軍の大勝利に終るのですが、その事を知らない東北では、約半月に渡って、一進一退の戦いが繰り広げられます。
やがて、9月の終わり頃になって、関ヶ原での勝敗が東北に伝えられる事になると、もはや上杉側では長谷堂城どころではありません。
他の西軍に加担した武将がそうであるように、上杉の家名そのもが危うい状態となるわけですから、上杉軍も、速やかに軍を退き、家名存続に向けて走り回る事になります。
一方の義光は、これによって57万石という大きな領地を得る事となり、最上氏は最高潮の時代を向かえます。
この頃には、義光も内政に力を注ぎ、城下町の町割や交通網の整備、治水工事なども行い、農業生産も充実し、まさに繁栄を極めるのですが、その全盛は、長くは続きませんでした。
かの全国ネットのスゴさを知ったあの日から、要領よく立ち回ってきた義光でしたが、ここに来て、その要領の良さが仇となります。
実は、家康との関係をより強くしたい義光は、家康のもとへ差し出していた次男・家親に家督を譲ろうと考えるのですが、次男という事は、当然、その上に長男がいます。
さらに、その長男・義康とは、以前はともに戦場で苦楽をともにした仲・・・その父子関係は良好なものでしたが、ここに来て家臣同士の険悪なムードも相まって、何やら不穏な空気だったのです。
ところが、そんな長男・義康が、慶長九年(1604年)・・・このタイミングで変死を遂げてしまいます。
これには、義光の命によるものとのウワサもありながらも、真実のほどはわからないのですが、ただ・・・この後の義光が、禅と阿弥陀信仰にどっぷりとハマる事を考えれば、ちょっとばかりアヤシイ気がしないでもありません。
もし、本当に家康の世となった事で、より家康に近い次男に家督を継がせるために、長男を暗殺したのだとしたら、苦渋の選択とは言え、思い通りになった事で、義光自身は一安心したのかも知れませんが・・・先ほども言いましたように、これが、最上氏の命取りとなるのです。
慶長十六年(1611年)頃から、病気がちになった義光さん・・・慶長十九年(1614年)1月18日に69歳の生涯を閉じるのですが、その後を継いだ次男・家親は、わずか6年後の元和三年(1617年)に急死します。
しかも、この家親は、長年、家康のもとにいた・・・つまり、ほとんど国を離れていたため、家臣団との信頼関係がうまく運んでいなかったようなのです。
相次ぐ急死に加え、さらに、その家親の後を継いだ長男(つまり義光の孫)の義俊(よしとし)が、わずか12歳という幼さであったため、より家臣との溝が深まり、家臣団の混乱を治める事もできない状態が続く・・・これらのお家騒動=最上騒動(8月18日参照>>)によって、元和八年(1622年)、最上家は改易となってしまいます。
義光の死から、わずか8年後の事でした。
ひょっとしたら、謀将と呼ばれた義光の、その謀略こそが、最終的に最上家に引導を渡したのかも知れません。
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コメント
最上改易には様々な要素がからんでいるのに、あまりに単純化しすぎです。
それで「策士策に溺れる」とかタイトルにつけて、正直ナンダカナア……という感じですね。いきなりクレームじみていて申し訳ありませんけど。
投稿: | 2009年7月15日 (水) 23時16分
こんばんは~コメントありがとうございます
本日は、義光さんのご命日にその生涯に渡っての事を書かせていただきましたので、死後に起こった出来事である、お家騒動&改易については、その原因となったかも…という範囲に留めさせていただきました。
最上改易に関しての様々な要素については、その改易のお話を中心に書かせていただいた最上騒動のページ>>を見ていただけるとありがたいです。
また、タイトルに関しましては、義光が一般的に「謀略の達人である」と称されるところから、彼を「策士」とし、彼の思いとはうらはらに、亡くなってほどなく、最上氏が事実上滅亡してしまう事で、諸葛孔明の「策士策に溺れる」の言葉を借りました。
投稿: 茶々 | 2009年7月16日 (木) 02時28分