明治に起こった「大逆事件」とは?
明治四十四年(1911年)1月24日、前年に発覚した大逆事件の関係者・幸徳秋水ら11名が処刑されました。
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事の起こりは、前年の明治四十三年(1910年)5月25日・・・
宮下太吉(たきち)という人物が、爆発物を所持していたという罪にて長野県で逮捕され、松本署に連行された事にはじまります。
警察の取り調べによって、彼は、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)なる人物らとともに、明治天皇を暗殺する計画をたてていた事が発覚し、6月1日には、その秋水が滞在先の湯河原温泉で逮捕され、その後、8月までに次々と仲間が逮捕・・・最終的に26名が、大逆罪で裁判にかけられる事になりました。
この大逆(だいぎゃく)というのは、皇室に対する罪という意味で、刑法にある「天皇、大皇太后、皇后、皇太子、または皇太孫に対し、危害を加へ、又は加へんとしたる者は死刑に処す」という条文の「危害をくわへんとしたる者」という部分が適用されたので、今後、この事件を大逆事件と呼ぶ事になります。
やがて、12月10日に大審院(最高裁判所)ではじまった裁判は、翌・明治四十四年(1911年)1月18日に、24名に死刑判決、2名に有期刑という判決が下されますが、死刑判決24名のうち半数の12名は、天皇の提言により無期懲役に減刑されました。
かくして、明治四十四年(1911年)1月24日、幸徳秋水ら11名が処刑され、残りの1名は翌日処刑されたのです。
この間、裁判は、一般の傍聴も許されない秘密裁判で、しかも再審を認めない一度きりの裁判・・・さらに、判決がらわずか6日で、死刑が執行されているのです。
なぜ、明治政府は、そんなに急いだんでしょう?
それは・・・
後世の歴史家の調査によれば、実際に天皇暗殺計画はあったものの、それに関与していたのは、最初に逮捕された宮下太吉と、菅野スガ・新村忠雄・古河力作(りきさく)・・・この4人だけだったのだとか・・・。
そして、この4人の中の、菅野スガという女性が秋水の愛人だったという事で、秋水は、この女性から聞いて、暗殺計画なる物がある事だけは聞いていたものの、実行に関しては、ほとんど無関係だったとも・・・
つまり、秋水は計画を知っていた事で関与になるとしても、上記の5人以外は冤罪って事になるのですよ。
実は、彼ら26名は全員が社会主義派・・・この大逆事件は、時の桂太郎内閣が社会主義を倒すための事件だったのでは?と言われているのです。
話は、日清戦争直後の労働運動にさかのぼります。
当時、劣悪な環境で過酷な労働に耐えられなくなった労働者たちが、明治三十年(1897年)に起こったアメリカの労働者運動の影響を受けて労働組合を結成し、一致団結して賃金アップや待遇改善の要求を会社側に行うようになっていたんです。
そんな労働者たちを先導していたのが社会主義思想の人々・・・秋水は、この社会主義派のリーダー的存在だったわけです。
三省堂の国語辞典によれば、社会主義とは・・・
「資本主義の社会を合理的に改革して階級をなくし、勤労階級のために民主的な社会を実現しようとする主義」
・・・だそうですが、この社会主義の思想については、私は語れるほどくわしくはありませんので、そこのところは専門的な知識をお持ちのかたにおまかせするとして、とにかく、この社会主義の思想が、明治政府にとっては脅威だったワケです。
なんせ、明治政府は、「天皇制」という国家体制をとっていますので・・・。
過去には、民衆の手で国王が殺害されるというフランス革命も起こっていますし、実際に、この時、隣国ロシアでは社会主義の高まりで、今にも国家体制が崩れそうな雰囲気をかもしだしていたのです。
しかし、そんな盛り上がりを見せていた社会主義も、日露戦争の勃発(2月10日参照>>)とともに下火になっていくのです。
それは、社会主義派が労働問題よりも戦争反対に力を入れたためでした。
当時、多くの国民が日露戦争に賛成していて、ただただ戦争反対を訴える彼らから、民衆の多くが離れていっていってしまったのです。
しかし、日露戦争が終結すると、再び情勢が変わります。
日比谷焼き討ち事件(9月5日参照>>)に代表されるような民衆運動が盛んになり、一時は鎮圧化されていた労働運動も再開され、各地で大規模なストライキが勃発するようになりました。
この盛り上がりを見て、明治三十九年(1906年)には、社会主義者たちによって日本社会党が結成されますが、彼らが「憲法の許す範囲内での社会主義をめざす」と主張していたため、時の西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は、彼らに寛容な態度で接していました。
ところが、明治四十一年(1908年)6月、赤旗事件が勃発します。
赤旗事件とは、社会主義派の大杉栄ら数名が、仲間の出獄祝いで、社会主義のシンボルである赤旗を掲げて革命歌を唄ったために逮捕される・・・という、事件自体は、そんなに大きくもない事件だったのですが、これが原因で西園寺内閣が総辞職に追い込まれてしまうのです。
「こんな事件が起こるのも、西園寺内閣が社会主義者に甘いせいだ」というわけです。
そして、この西園寺内閣に代わって登場したのが桂太郎内閣・・・つまり、この内閣は、社会主義を押さえ込む宿命を背負っての船出だったのです。
この大逆事件で、社会主義運動はそのリーダーを失ったうえに、一般の人々からは、天皇暗殺などという恐ろしい事件を起した社会主義思想・・・という目でとらえられるようになり、徐々に社会主義は民衆の支持を得られなくなってしまったのです。
桂内閣にしては、「してやったり」といったところだったでしょうが、今度は、社会主義に代わって、民主主義・自由主義の思想が盛り上がり、やがては、大正デモクラシーの時代へと移り変わり、結局は、この桂内閣も民衆の力によって潰される事となるようなのですが、そのお話は、もう少し近代史を勉強させていただいてから、書かせていただく事にします。
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コメント
こんばんは、茶々さん。
一昨日からWindows10になりました。
まだ使いにくいので困っています。
茶々さんはどうなりましたか?
大逆事件ですが、幸徳秋水は計画を立てていました。それを知った確か林房雄の恩師だったと思いますがそれは庶民のために良くないと説得して迎えに行こうとしたときに捕まったそうです。迎えに行って国家主義つまり北一輝、大川周明みたいにしようと考えていたそうです。それは林房雄の著書に書いています。タイトルは忘れましたが・・・
でも幸徳秋水は余計なことを言いました。今の皇室は北朝だから異端だ。だから滅ぼしても良いみたいなことを言っています。それがそれまで北朝正統、または北朝南朝並立から一気に南朝正統に変わりました。幸徳秋水はある意味で逆説的に昭和軍部の横暴を先駆けたことをしたといえそうです。あまり私はこういうことが言いたくないのと南北朝を正統にしないと何のために死んだ人の魂はむくわれるのか思ったりします。
投稿: non | 2016年6月 1日 (水) 19時46分
nonさん、こんにちは~
南北朝の事は難しいですね~
投稿: 茶々 | 2016年6月 2日 (木) 07時04分
茶々さん、こんばんは。
ある意味で言いますと幸徳秋水は吉田松陰などの流れと言えそうです。
松陰も過激思想です。秋水が大逆事件を起こさなかったり、未然に愛国派が匿ったら本当に北一輝の師になったかもしれません。
松陰、秋水、一輝はよく似ています。
三人とも刑死しましたので余計にです。
南朝の子孫という方がいるようですがあまりよくわかっていません。最後は西陣の南帝です。松陰などはその行方を追っていたのかなと思ったりします。
秋水の言葉の今の皇室は異端だは今でもある系統のほうは強く感じているそうです。
投稿: non | 2016年6月 2日 (木) 18時41分
nonさん、こんばんは~
特に、幕末から明治にかけての頃は、過激な意見が飛び交っていたんでしょうねぇ。
投稿: 茶々 | 2016年6月 3日 (金) 02時33分
茶々さん、こんにちは。
ご存知と思いますが、秋水の舅は例の足利将軍の像を切った首謀者だし、水戸学自体が危険思想です。ある意味孟子を重要視しています。松陰もそうですね。
とてもまともとは思えません。
その中での刑死後の南朝正統が議論もなく行われ、喜多貞吉は免職になりました。
それだけ大逆事件は大きな影響があったと思います。
三島由紀夫が書いた小説の殉死、英霊の声もある意味秋水の影響を受けた北一輝の思想かなと思います。
投稿: non | 2016年6月 3日 (金) 17時39分
nonさん、こんばんは~
近代史は難しいです(;;;´Д`)ゝ
投稿: 茶々 | 2016年6月 4日 (土) 02時58分
茶々さん、こんにちは。
確かに難しいです。
ただ秋水が悪びれずに南朝正統を言っているのを見ますと暗殺する予定だったのでしょう。実際にルーズベルト大統領暗殺未遂、ウンベルト1世暗殺などがあったので無いとは思えませんし、秋水はかなり過激でした。
赤旗事件で逮捕された堺利彦は共産党の初期の幹部です。かなり過激思想が入っていたと思います。
社会主義といいますと山縣の政策も社会主義なところがあります。全国の鉄道を国鉄に、社会福祉を充実させたのもです。教科書疑獄後に国定教科書にしたのもそういうところがあるなと思います。
投稿: non | 2016年6月 4日 (土) 17時40分
nonさん、…かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年6月 4日 (土) 18時32分
茶々さん、おはようございます。
私も冤罪と思っていましたが、・・・みたいです。
秋水は・・・みたいな実力行使を考え、日本社会党から離脱したそうです。残ったほうが友愛会みたいな組織を作ったそうです。
明治から見ていますと秋水が敬愛した自由党左派は朝鮮出兵計画を立てるなど過激でした。その名残があるのかなと思います。
でも自由党を追悼する文といいますが、自由党は第二次伊藤内閣以来与党になっています。伊藤と仲が良かったです。政友会もその流れです。政友会は第4次伊藤内閣以降歴代の内閣の与党を大部分勤めましたし、選挙は勝っています。これも伊藤との合流で受け入れられたのかなと思います。
それに反発して大隈のほうに行っていないので、結局は・・・計画を考えるくらいの過激派になったのかなと思います。
でも茶々さん、現代史は国際政治に直結するので日本史を選択した人や日本史の研究者は苦手なのです。世界史、国際政治を勉強したほうが有利です。勉強してみてそう思いました。
投稿: non | 2016年6月 5日 (日) 07時25分
おまけに文書も現代になると読みやすい楷書中心です。そうなると書家の出番が無くなります。考えも変わるので書道は現代では日本画と同じ高価なお稽古です。日常と無縁になりました。
明治以前と以降ではシステムも文化も変わったと思います。
和歌が短歌にされ、俳句が完全に季語を入れないとダメとか規則が決まりました。歴史も規則が増えたのもそのせいかなと思います。そういう関係で私はTBSのクイズは嫌いです。ドキュメント昭和というNHKの番組がありましたが、あれを見ても楷書の文書でした。ルール中心になったと感じます。
投稿: non | 2016年6月 5日 (日) 07時33分
nonさん、こんばんは~
おっしゃる通り…近代史は現代に直結していて、政治や国際問題が絡むので、私も苦手です。
投稿: 茶々 | 2016年6月 6日 (月) 02時17分
茶々さん、こんにちは。
私は国際政治を勉強したので近代現代史が専門ですが、ここでの内容は国際政治、世界史に直結します。
そういう点では伝統的な日本史の方法で勉強された方には苦手になるかもしれません。
実は国際政治、軍事ではシミュレーションは日常です。例の関ヶ原のメッケルの話も国際政治では当たり前ですが、日本史ではもしは禁句です。この点が難しいのでしょう。磯田さんも近現代史は苦手そうでした。近現代史が得意な人が苦手なのは古代でないのです。私自身がそうなのですが中世なのです。文字も読みにくいのは中世ですし、世界とかけ離れています。例外はイスラム圏だけなので中世は私はイスラムのほうが好きなのです。そういうように国際政治を勉強した観点で見られないのが中世です。
ところで幸徳秋水を林房雄の恩師か頭山満が匿うとしたそうですが、その時に頭山とかが社会主義の危険性と日本回帰を教えようとする予定でした。多分黒龍会の内田も話を聞いていたと思います。そういう人たちを見ますとなぜか花子とアンに出てくる白蓮の関係者である伝右衛門さん、宮崎家がかかわっているみたいです。九州らしいなと思いました。南朝の最後の拠点も九州ですので・・・義理人情に篤い感じがします。
投稿: non | 2016年6月 6日 (月) 17時27分
nonさん、こんばんは~
九州や東北は、都が置かれた場所から距離があるせいか、近代以前の歴史は、少し違う道を辿っているのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年6月 7日 (火) 01時28分