徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家・水戸藩出身にあり?
慶応四年(1868年)1月6日、3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の敗戦を聞いた第15代将軍・徳川慶喜が、大坂城を脱出し、江戸へ向かいました。
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先一昨日の鳥羽伏見の戦い勃発(1月3日参照>>)、昨日の幕府軍の敗走(1月5日参照>>)・・・。
そして、いよいよ本日・・・慶応四年(1868年)1月6日に、その敗戦を聞いた江戸幕府第15代将軍(もう大政奉還してるので過去形)・徳川慶喜が、わずかの側近だけを連れて、大坂城を脱出・・・いわゆる敵前逃亡するワケですが、そのお話はすでに、昨年の1月6日に書かせていただいております(昨年の1月6日を見る>>)。
そこに書かせていただいたように、この賛否両論渦巻く慶喜の行動の真意は、おそらく、「今まさに、外国を相手にせねばならない時期に、日本人同士で争っている場合ではないが、このまま大坂城にいては戦いは避けられない」というところにあったと考えていますが、やはり、武家の大将としては、大勢の部下を残したままでの逃避は、「弱腰」と言われても仕方のないところではあります。
しかし、後日、そのような批判を受けなけらばならないようになる事は、さすがに、この時点の慶喜さんにも予想できたはず・・・なのに、彼は大坂城を後にしました。
状況を見る限り、周囲には目もくれず、強行突破とも言えるやり方で・・・。
そのかたくなな姿勢の背後には、何があったのでしょうか?
おそらくは、戦争回避あるいは日本の分断を阻止・・・だけではない、彼なりの思想という物が存在したのではないか?と思っています。
もし、慶喜のこの敵前逃亡を、「徳川家の将軍=幕府軍の大将としてあるまじき行動である」と批判するのであれば、もともと水戸家の坊ちゃんを将軍にした事こそが間違いだったのでは?・・・と思うのです。
そう、本来、水戸家の人物は将軍になってはいけなかった・・・そのキザシという物は、徳川家の最初の最初からすでに見え隠れしていました。
以前、水戸黄門さまのところで書かせていただきましたが(12月6日参照>>)、あの初代の徳川家康が、徳川将軍家の安泰を願って作った御三家・・・
九男・義直の尾張
十男・頼宣の紀州
十一男・頼房の水戸
後継ぎがいない時や将軍家に危機が訪れた時に手助けするこの3つの分家ですが、この中で、水戸家だけが『定府』と呼ばれる特別扱い・・・。
水戸家だけがなぜ定府となったかについては、そのページでも書かせていただいたように、諸説あって定かではないのですが、その特別扱いが、単なるお世継ぎサポートだけの分家ではない事は想像できます。
それは、その水戸2代め藩主である黄門様こと徳川光圀の言動にも表れているように思うのです。
光圀が隠居して綱条(つなえだ)に藩主の座を譲ろうとした時、将軍・徳川綱吉の側近・牧野成貞が、綱条に苦言を呈したところ・・・
「わが水戸家は、尾張・紀州の両家とは違い、一朝ある時は、将軍の名代として采配を振る事を許されている家柄・・・この神君以来の格式は、綱条の代になっても変わらない」てな事を、堂々と本人に向かって直接言っているのです。
さらに・・・
「水戸家にとって、主君は天皇家であって、徳川将軍家は、親戚の中の長に過ぎない」というような言葉も残しています。
(私見ですが…この黄門様の言葉があったからこそ、水戸で水戸学が発展したのではないかと→10月2日参照>>)
しかも、これらの言葉が、徳川250年の間、批判される事もなく、抹消される事もなく、堂々と残っているのですから、そこに、誰も手を出せない特別扱いがあったという事でしょう。
もちろん、その特別扱いをした張本人は、御三家を作った家康で、神君家康公の特別扱いだから、誰も手を出せないのです。
ひょっとして、これは、一種の保険=二股をかけたのでは・・・?
確かに、家康は、長期にわたる徳川家の安泰を願ってはいましたが、まさか、本当に300年間もの長きにわたって、徳川が将軍の座に着き続けるとは、あの開幕の直後には思っていなかったはず・・・。
なんせ、天皇をあれだけビビらせた織田信長の織田家も、天下を丸ごと息子に残した豊臣秀吉の豊臣家も、2代目からは坂道を転げ落ちるように衰退していったワケですから・・・。
そこに浮かんだのは、家康自身が戦って目の当たりにした関ヶ原の合戦での現状・・・兄と弟が東西に別れて戦った前田利長・利政(7月14日参照>>)と妹婿の宇喜多秀家(8月6日参照>>)、そして、やはり兄弟・親子で別れた真田昌幸・信幸・幸村(7月21日参照>>)、さらに、本家と分家で画策した毛利輝元と吉川広家(7月15日参照>>)。
用意周到な家康が、これらの大名が行った「どっちか生き残り作戦」を見逃すはずはありません。
(くわしくは【戦国の「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】>>)
つまり、将来、再び関ヶ原のような天下分け目の戦いがあった時、二股をかけるための分家が水戸家ではなかったのか?という事です。
水戸光圀の時代から主君は天皇家と言ってはばからなかった水戸家・・・まして、慶喜は、その母も有栖川宮吉子(ありすがわのみやよしこ)様という皇族なのですから・・・。
水戸家から、将軍継承の家柄である一橋家に養子として入ったために、15代将軍となってしまった慶喜・・・
もし、本当に、家康が、まさかの時に本家とは別の道を選ぶ保険として水戸家を特別扱いにしたのだとしたら、慶喜は見事、その期待に答えた事になります。
ただ、水戸家出身の慶喜が時の将軍だった事が、250年前の家康の想定範囲ではなかったという事なのかも知れません。
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コメント
昨日も、ふと思ったんですが…鳥取藩が攻撃軍に加わった事が慶喜さんが敵前逃亡への切っ掛けとなったのではないかなんて気がしてます。然し茶々さんも中々面白い仮説をたてますね。確かに家康の時代に二百数十年後の事は読み切れないですからねぇ。その仮説を受け入れるなら、鳥取藩が攻撃軍に加わったのも、慶喜さんが宗家に入った事から、鳥取藩主に修まってた異母兄の慶徳さんが今こそ神君家康公の教えを守り徳川の命脈を保なら官軍に加わるべしとの判断を下したと見ることが出来るかも知れませんね。
投稿: マー君 | 2009年1月 7日 (水) 06時27分
マー君さん、こんにちは~
慶徳さんか?慶喜さんか?
どちらが先に官軍への思いを抱いたのかは、微妙ですが・・・
尊皇一色の水戸学も含めて、とにかく水戸家はアヤシイ気がします。
投稿: 茶々 | 2009年1月 7日 (水) 08時38分