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2009年1月 9日 (金)

鳥羽伏見の戦い終結~大坂城の炎上はもののふの魂

 

慶応四年(1868年)1月9日、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、徳川慶喜が去った後の大坂城が開城され、そして炎上しました。

・・・・・・・・・・・・

幕末・戊辰戦争の最初の山場である鳥羽伏見の戦いも、いよいよ最後です。

一応、これまでの経緯をまとめさせていただきますと・・・

慶応三年
 ●10月14日:大政奉還(参照>>)
 ●12月9日:王政復古の大号令(参照>>)
 ●12月25日:薩摩藩邸焼き討ち事件(参照>>)
開けて慶応四年
 ●1月1日:徳川慶喜が「討薩の表」を発する
 ●1月2日:「討薩の表」を提出すべく上洛
       :大坂湾・海戦(参照>>)
 ●1月3日:上洛中の幕府の隊列に薩摩が砲撃
        
(参照>>)
 ● ~6日:鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退(参照>>)
 ●1月6日朝:慶喜が諸兵に大坂城への撤退を命令し、
         城に戻った将兵に「徹底抗戦の檄(げき)」を
         飛ばす
       夜:慶喜が大坂城を脱出(参照>>)

・・・で、昨日書かせていただいたように、7日の朝になって幕府軍の総大将である慶喜がいなくなった事に気づいた将兵たちで大坂城内が大騒ぎ(1月8日参照>>)となるのですが・・・

その時、大坂城内にいたのは、陸軍伝習隊(でんしゅうたい)新撰組などの幕府直属の将兵に、会津桑名鳥羽大垣などの諸藩の者たちで、未だ詳細を知らぬ鳥羽伏見の生き残りが、続々と大坂城に戻ってきている状況でした。

しかし、もはや総大将がいなくなってしまった以上、どうもこうもありませんから、皆、しかたなく、7日~8日にかけて準備の整った順に、大坂城をあとにする事になります。

桑名藩などは、7日の夕方に城を出て、で一泊、陸路で和歌山の突端の串本まで行き、そこから船で領国まで戻ったという事です。

老中格の大河内正質(おおこうちまさただ)など、幕府の直臣は船で江戸を目指しました。

そう、あの慶喜は、幕府艦隊の中の旗艦である開陽丸に乗り、その一隻だけで江戸に向かいましたから、開陽丸以外の船は、未だ大坂湾に停泊中のままだったので、その残りの船に分乗して帰ったわけです。

慶喜と入れ違いに大坂城にやってきて、スカを喰らわされた榎本武揚(たけあき)も、そのウップンを晴らすかのように、大坂城に残っていた武器や什器などをはじめ、18万両の御用金までもを、富士丸という船に積み込んで持ってってます。

新撰組の近藤勇土方歳三も、この富士丸に乗船して江戸に戻りました。

これらの、船は2~3日の間に、次々と出航していったという事です。

そして、ほとんどもぬけの殻となった大坂城に新政府軍がやってきたのは、慶応四年(1868年)1月9日の早朝の事でした。

城開け渡しの交渉役となったのは、幕府軍目付の妻木頼矩(よりのり・多宮)・・・新政府軍の代表を丁寧に出迎え、早速、開城の交渉に入ります。

ところが、です。

その会議の最中の午前9時・・・いきなり本丸から火の手が上がったのです。

その火は、またたく間に本丸全体を包み、やがて火薬庫に燃え移り、大爆発と同時にあたりは炎の海となります。

そうなんです。

実は、もぬけの殻だと思われていた大坂城ですが、未だ、開城に納得できない多くの兵たちが残っていたのです。

彼らは、あの6日の朝、慶喜が発した「たとえ城が焦土と化しても戦い抜こう!」という言葉に、その、もののふの魂を奮い立たせ、城を枕に討死する覚悟でいた者たちでした。

しかし、もはや、大量に押し寄せた新政府軍・・・ほとんどの将兵が去ってしまった今、抗戦する事は不可能と判断した彼らは、城に火を放ち、次々と自刃していったのです。

誰も消火にあたる者がいないうえ、冬特有の強い北風にあおられた大坂城は、一晩中燃え続け、ほとんどの建物を焼いた後、翌日の夕方にやっと鎮火します。

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幕末期の蛸石(左)と現在の蛸石(右)
大阪城で一番の巨石として有名な桜門にある蛸石・・・幕末期の写真では、その蛸石の上にも建物があった事がわかります・・・この時の火災で焼失しました。

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幕末期の太鼓櫓(左)と現在の太鼓櫓跡(右)
この太鼓櫓も、この時の火災で焼失しました・・・ほぼ、同じ角度からの撮影です。

錦の御旗を掲げた征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が大坂に入ったのは、その10日の事・・・。

仁和寺宮とともに、大坂城に入城した新政府軍の主力・薩摩と長州の藩兵は、焼け焦げた建物の中から多くの遺体を回収し、城とともに散った彼らを武士の鑑(かがみ)と称賛し、その遺志を汲んで、ここ大坂城内に埋葬しました。

それが、後に大阪市民に「残念塚」と呼ばれ、どんな願いも叶えてくれる神様として親しまれた現在の城中焼亡埋骨墳(じょうちゅうしょうぼうまいこつふん)・・・もはや、この墓石の事を知る人も少なくなった平成の今も、彼らは大阪城公園内にひっそりと眠ります。

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大阪城・玉造口にある城中焼亡埋骨墳・・・くわしい場所はHPの【大阪城周辺・パーフェクト歴史散歩】でどうぞ>>

ここに、鳥羽伏見の戦いは終結しました。

この先、戊辰戦争は、江戸へ、東北へ、そして、函館へと舞台を移していく事になりますが、その前に・・・この直後に起こるアメリカ兵射殺事件については1月11日のページへどうぞ>>
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