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2009年1月23日 (金)

徳川政権・西方の最前線~江戸時代の大阪城

 

元和六年(1620年)1月23日、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の命により、諸大名が大坂城の修築を開始・・・この日から10年の歳月をかけて、徳川時代の大坂城が再築されました。

・・・・・・・・・

「大阪城=豊臣秀吉」のイメージが強い大阪城ですが、このブログでも度々書かせていただいているように、現在の大阪城の石垣や建物(天守閣は昭和の再建)は、あの大坂夏の陣で焼け落ちた豊臣時代の大坂城に土をすっぽりとかぶせて、まったく新しく造り上げた徳川政権による大坂城です(8月18日参照>>)

残念ながら豊臣時代の遺構は、地中に埋まっていて目にする事はできません。

しかし、上記のように、10年にも及ぶ歳月をかけての再築・・・いかに、大坂城が徳川政権にとって、重要な城であったかがうかがえます。

・・・というのも、現在、大阪城天守閣が所蔵する『瀬戸内海・西海航路図屏風』・・・寛永年間(1624年~1643年)の初年に書かれたと思われるこの屏風には、大坂から西の瀬戸内海沿岸に位置する各城が、全部で30ほど描かれているのですが、その中で、譜代大名の城は、岸和田城尼崎城姫路城明石城福山城の5つだけ。

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瀬戸内海・西海航路図屏風:大坂部分

そうです、中国・四国地方より西にある譜代大名の城は、福山城、たった一つ・・・あとは、皆、外様大名の持ち城なのです。

まだ、動き始めたばかりの徳川政権にとって、その外様大名が、いかに脅威の存在であったかは、関ヶ原の合戦にて、多大な恩賞という飴を与えながら、その後、徐々に転封→減封→お取り潰しというムチでしめつけていった事でも明白。

中には、以前、書かせていただいた加藤清正のように、「暗殺されたんちゃうん?」と疑いたくなる人物もチラホラ(6月24日参照>>)・・・その加藤家も、2代目で即、潰されちゃってますし(12月6日参照>>)、あの加賀百万石の前田家だって、常に狙われていた感があります(10月12日参照>>)(前田家は西国じゃないですが・・・(^-^;)

そう、この大坂城は、そんな徳川政権にとって、西国を支配するための重要な拠点だったのです。

土佐2代目藩主・山内忠義が国元の家臣たちに送った元和九年(1623年)8月11日付けの手紙によれば・・・
「大御所様(秀忠の事)が、先日、大坂へ行かれて、お城の縄張り(設計)をイロイロ指示されて、来年には石垣の普請をするようにと、諸大名に命じられた」
・・・とあります。

この年、秀忠は、7月6日から1週間ほど、大坂を視察したという別の記録があるので、手紙の中の「先日」とは、そのいずれかの日にちの事で、この時、諸大名に命じたのは第二期工事の事であると思われます。

ちなみに、余談ですが、秀忠は、この視察を終えて江戸に戻った直後の7月21日に、息子の家光に将軍職を譲っていますので、8月付けの手紙の中では「大御所様」という呼び方になっているんです。

この手紙でもわかるように、将軍自らが現地へ行って指示をするという力の入れよう・・・大阪城に今も残る巨大な城郭も、各大名に寄進させた大きな石垣も、西国の大名たちへ、将軍の圧倒的な力を誇示するためのものでもあったのですね。

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大阪城・乾櫓:大阪城の戌亥(北西)の方角を守る櫓・乾櫓は、小堀遠州によって元和六年の第一期工事で構築されたもの・・・千貫櫓とともに、幕末も太平洋戦争もくぐりぬけた大阪城に現存する最古の建築物です。

ところで、そんな大坂城の城主は?

一瞬、考えてしまいますが、あの幕末の動乱の事を思い出すと、すぐわかりますよね。

幕府直轄・・・つまり、大坂城の城主は、江戸にいる将軍なんです。

・・・かと言って、大坂城は、城主=将軍のいない単なる空き城ではありません。

先ほども言いましたように、未だ脅威のタネである外様大名が多くを占める西国を支配するための重要な拠点・・・むしろ、西の最前線とも言うべき存在です。

・・・なので、そこには、特に徳川家と強固な主従関係で結ばれ、かつ力量のある優秀な人材を、江戸にいる老中や幕閣と同等の権力を行使できる存在として配置する事になります。

幕府重役でもある大坂城代、それを支える大坂定番2名京橋口玉造口に配置、さらに、本丸二の丸は、将軍直属部隊の大番2隊加番4名の大名が常に守り、東町と西町の2名の大坂町奉行もいます。

ちなみに、初代の城代は紀伊守・内藤信正さん・・・病気で亡くなられたので、わずか8年間の任務でしたが、その後を継いだ阿部正次さんは、以後22年間の長きに渡って城代を務めています。

そして、これらの人たちが、皆、江戸に居る幕閣と、常に綿密な連絡をとり、連携し、おびただしい量の兵糧と、武器弾薬を保持し、いつでも戦闘態勢に入れる状態にしていたのが、江戸時代の大坂城なのです。

以前、明治維新が成った後の版籍奉還(はんせきほうかん)のところで、江戸時代の日本は、一つの国というよりは、独立国家の集合体のような物だという風に書かせていただきましたが(6月17日参照>>)、そんな江戸時代においても、大坂城は、江戸幕府と直結した特別なものだったわけです。

ただ、さすがに、200年・300年の長期政権が続くと、江戸初期の「いつでも戦闘態勢に入れる」というような緊張は、徐々になくなってくるのですが、それが、再び、重要な拠点として意識されるのが、かの幕末・・・それは、第14代・徳川家茂が、大坂城に入城したあの日から・・・という事になります。

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文中の乾櫓(いぬいやぐら)のくわしい場所は、HPの「大阪城パーフェクト歴史散歩」でどうぞ>>
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コメント

大阪城…デッカイですよね。あんだけデッカクても太閤さんが作ったお城より随分と小さいそうですね。太閤さんが作ったお城を見てみたかったです。

投稿: マー君 | 2009年1月23日 (金) 17時36分

マー君さん、こんばんは~

環状線の玉造駅から鶴橋駅の間にある真田丸の跡とされる真田山・・・あそこまで、縄張りだったと思うと・・・

ホント、見てみたいです~

投稿: 茶々 | 2009年1月23日 (金) 22時26分

豊臣家が続いていても、徳川家が添加を掌握したら、豊臣家の力の象徴たる大阪城をそのままにしとく訳はないでしょうから、どのみち僕等が太閤さんが作ったお城を見ることはできなかったでしょうね。

投稿: マー君 | 2009年1月24日 (土) 00時23分

う~ん・・・

家康さん、そのまま使ってくれたらいいんですけどねぇ・・・

やっぱムリかな?

投稿: 茶々 | 2009年1月24日 (土) 01時15分

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