豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死
天正十九年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・大納言秀長が51歳の生涯を閉じました。
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豊臣(羽柴)秀長は、秀吉の生母・なかが、再婚相手・築阿見(ちくあみ)との間にもうけた3歳年下の異父弟(同父の説もあり)と言われています。
永禄五年(1562年)、織田信長のもとで足軽頭に出世した秀吉が、故郷の尾張(愛知県)中村に立ち寄った時に、まだ農民として暮らしていた秀長を、自分のもとで働くよう誘ったのです。
温厚でおとなしい性格の秀長は、「自分に戦はできない」と言って断りますが、信長や家康のように、父の代からの家臣を従えている殿様と違って、裸一貫・農民から身を起し、未だ家来と呼べる家来がいなかった秀吉にとって、最も信頼できる家臣は、やっぱ身内・・・半強制的に連れ帰ります。
しかし、そのワリには、「よくもまぁ、こんな身近なところに、ここまですごいサポート役がいたものだ」と思うくらい、秀長は優秀な人物です。
ひょっとして、秀長がいなかったら、秀吉の天下はなかったかも・・・派手なパフォーマンスを好み、時に暴走しがちなほどの個性を持つ兄を、彼は、見事にサポートするのです。
長島一向一揆(5月16日参照>>)では、近江(滋賀県)の今浜(長浜)を与えられたばかりで、築城や町づくりに忙しい秀吉に代わって先陣を努め、その後の秀吉の中国平定にもつき従います。
本能寺の変の後の、秀吉の天下分け目となった山崎の合戦(6月13日参照>>)はもちろん、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)や紀州征伐(3月21日参照>>)でも活躍し、但馬・播磨(兵庫県西部)・和泉(大阪府)・紀伊(和歌山県)を拝領します。
・・・とは言うものの、秀長の、合戦における具体的な活躍ぶりは、あまりくわしくは伝わってはいないのです。
それは、おそらく、常に副将として影に徹していたからかも知れません。
そんな彼が、大将として出陣する時がやってきます。
それが、あの四国征伐・・・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)との決戦です。
体調を崩していた秀吉に代わって、3万の軍勢の総大将となった秀長・・・四国上陸直後から、破竹の勢いで次々と諸城を陥落させ、最後に残ったのは一宮城。
しかし、この一宮城を守るのは、音に聞こえた名将の谷忠澄(たにただすみ)と江村親俊(ちかとし)・・・ここで、少しばかり手こずってしまいます(7月25日参照>>)。
ちょうど、その時、体の調子が良くなった秀吉は、「ほな、いっちょ、ワシが・・・」と、何やら四国へと出陣する様子・・・
今まで、影に徹してきた秀長・・・ここで、はじめて兄に逆らいます。
「出陣、御無用」
自分に任せてくれと、きっぱりと断るのです。
はたして、まもなく一宮城は陥落し、あの元親は秀吉の臣下となるのです。
ここに、温厚でおとなしい秀長に秘められた強い意志を感じます。
そんな彼だからこそ、個性的な兄と一度も衝突する事なく、猛スピードで駆け抜ける天下人のブレーキとなる事ができたのでしょう。
この四国征伐の恩賞で大和(奈良県)44万石を加増された秀長は、大和郡山城に入り、これで、和泉・紀伊・大和の3カ国を支配する事になるわけですが、ここで、彼の内政手腕が発揮されます。
実は、彼の与えられた土地は、いずれも土豪や寺社勢力の強い場所で、本来ならとても新参者が治めきれないような場所・・・そこを、秀長は見事に、何の問題もなく治めます。
特に、大和郡山(こおりやま)では、本格的な城の改築とともに、城下町の整備を行い、「箱本(はこもと)」という自治制度を定めました。
箱本とは、各町にそれぞれの営業独占権や地代免除などの特権を与えるとともに、当番制で町政を仕切る独特の自治制度で、これによって商工業が大いに発展し、現在の郡山の基礎となったと言われています。
わずか6年間の支配だったにも関わらず、今も、地元・郡山に秀長さんのファンが多いのは、そういったところにあるのかも知れません。
やがて、九州を平定し、太政大臣となって豊臣の姓も賜り、名実ともに天下人となった秀吉の政権下で、要となった彼の存在は・・・
『内々の儀は宗易、広義の事は宰相』=「私的な事は千利休に、公の事は秀長に頼め」と称されるまでになっていました。
最終的に、従二位・権大納言(ごんだいなごん)にまで昇進した秀長は、これ以降、大和大納言と呼ばれます。
しかし、そんな秀長は、湯治に訪れた有馬温泉で病となり、郡山城に戻っても快復せず、天正十九年(1591年)1月22日、帰らぬ人となりました。
秀長が、秀吉にとって、いかに重要であったか・・・
彼の死後、わずか3ヶ月で起こったのが千利休切腹事件(2月28日参照>>)。
一年後には、朝鮮出兵(3月26日参照>>)。
秀長の後を継いだ豊臣秀保(ひでやす=秀吉の甥)も若くして亡くなり(1月27日参照>>)、
さらに、その2年後に秀吉は、甥・豊臣(羽柴)秀次を切腹に追いやり(7月15日参照>>)、その2年後には、再びの朝鮮出兵(11月20日参照>>)に、長崎でのキリスト教徒の処刑(2月5日参照>>)と・・・。
秀長の死から、わずか6年間で、まるで、タガが外れたかのような秀吉の一連の行動・・・後世の人々が、「秀長がもう少し長く生きていたら、豊臣の滅亡はなかったかも知れない」と思ってしまうのも無理はありません。
現在、その、奈良県大和郡山市にある秀長の墓所:大納言塚の前には、『お願いの砂』という砂が置かれています。
願い事を唱えながら塚の前の砂を持ち帰り、願い事が叶えば返しに来るというその砂・・・これは、その昔、庶民の願い事をしっかりと聞いてくれたという秀長さんに由来する言い伝えなのだとか・・・
その人柄がうかがえるエピソードです。
秀吉を影で支えた、名サポーターの死とともに、豊臣家の悲惨な末路が決定づけられたのかも知れません。
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秀長がその基礎を築いた「大和郡山」の城下町を、本家HPの歴史散歩で紹介しています・・・
よろしければコチラからどうぞ>>
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コメント
いやぁ…秀長さんには長生きしてもらいたかったですねぇ。彼さえ生きてれば豊臣家の命運も全く違ったモノになってただろうと思うと、あまりに早い彼の死を悼まずには居られません。
投稿: マー君 | 2009年1月22日 (木) 20時07分
マー君さん、こんばんは~
>秀長さんには長生きしてもらいたかったですねぇ・・・
いや、ホント、残念です。
投稿: 茶々 | 2009年1月23日 (金) 00時19分
こんにちは。
秀長については、随分前に堺屋太一の本を読んだことがあります。秀吉が好きになれなくても、秀長の温厚な性格には頷けるように思いました。
たしか秀長の戦での活躍は、信長が浅井・朝倉と敵対するようになった頃からでしたよね。長年、秀吉の出世を支えるのに相当努力していますね。
秀吉の政権は、本当に独裁的な性格が強かったので、秀長の存在は重要だったと思います。
今回挙げられた事件のほかにも、慶長元年のサン・フェリペ号事件に端を発した26聖人殉教も、防げ得たかもしれませんね。
投稿: KAKI | 2009年1月25日 (日) 12時01分
KAKIさん、こんばんは~
>サン・フェリペ号事件に端を発した26聖人殉教・・・
ホントですね~
それもありました!
せっかくなので、本文に、その記事へのリンクを付け足させていただきました。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2009年1月25日 (日) 21時46分
豊臣秀吉が登場する大河ドラマでは、豊臣秀長が出たり出なかったりします。でも来年は登場しないと、展開が少しおかしくなる(浅井三姉妹と「少なからずかかわり」があるので)かなと、個人的に感じています。
豊臣秀長は日本の歴史上で、「史上最強のナンバー2」と言っても過言ではないですね。
父親の築阿見は「竹阿見」とも書かれます。秀長はその竹阿見の息子だから幼名が「小竹」と言った様です。
投稿: えびすこ | 2010年2月 7日 (日) 11時08分
えびすこさん、こんにちは~
そうですね~
功名が辻では、ありえないスルーでしたからね。
江では期待します。
ナンバー2では、足利尊氏の弟もなかなかの者だと思いますが、最後にモメちゃいますからね~
投稿: 茶々 | 2010年2月 7日 (日) 11時31分
補足です。
1990年以降の大河ドラマでは、豊臣秀長は2回しか登場していません。
1996年「秀吉」の高島政伸さん。
2006年「功名が辻」の春田純一さん。
また大河ドラマ全体でも数える程度です。
1992年の「信長」に登場しなかった事が意外。去年の「天地人」では名前(人物のセリフで)すら出なかったと思います。
来年登場するとすれば、誰が似合いますか?
投稿: えびすこ | 2010年2月 8日 (月) 10時42分
えびすこさん、こんばんは~
私は、大河ドラマのほうの「おんな太閤記」の中村雅俊さんが、印象に残ってます・・・出番も多かったので・・・
投稿: 茶々 | 2010年2月 8日 (月) 23時36分
秀長の将器に魅入られた藤堂高虎は彼の右腕として才能をフルに発揮。難治の紀州の統治は彼の力も大きいかと。赤木城は彼の統治成功のモニュメントかなと想像しています。寺社勢力の大和もどんな鬼が来るかとヒヤヒヤしていたら温和な話の解る漢が来たと心腹。善政仁政が伺い知れます。
秀長が病死するとさっさと転職したオールラウンダー武将藤堂高虎が離れた事も秀吉政権の脆弱化に拍車をかけたかと。
後10年長命ならどうなっていたか···。
投稿: シバヤン | 2023年1月22日 (日) 15時14分
シバヤンさん、こんばんは~
そうですね。
藤堂高虎の存在も大きいですね~
投稿: 茶々 | 2023年1月23日 (月) 03時13分