ともに一つの蓮の上~平通盛の妻・小宰相
寿永三年(1184年)2月14日、去る一の谷の合戦で討死した平通盛の妻・小宰相が入水自殺を遂げました。
・・・・・・・・・
平通盛(みちもり)は、あの清盛の弟である平教盛(のりもり)の息子・・・治承三年(1179年)10月に中宮亮(ちゅうぐうのすけ)に任命された男盛りの25歳(前後)・・・。
かたや、小宰相(こざいしょう)は、ともに紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか)を祖先に持つ、いとこ同士の両親から生まれた女性で、後白河法皇の姉・上西門院(じょうさいもんいん)に仕える16歳(前後)の乙女でした。
二人の出会いは、その上西門院が法勝寺(ほつしょうじ)へ参拝に出かけた時の事・・・上西門院に随行する小宰相の姿を、やはり参会していた通盛が見つけ、彼は、一目で恋に落ちてしまうのです。
その日から、通盛は、思いのたけを込めて、彼女へ手紙を送ります。
何度も・・・何度も・・・
やがて・・・
後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)と挙兵し(5月26日参照>>)、
関東では源頼朝が白旗を掲げ(8月17日参照>>)、
北陸では木曽義仲が立ち上がり(9月7日参照>>)、
・・・と、平家を取り巻く状況が大きく変わる中、通盛は、片翼の大将として、何度も北陸への遠征をするかたわら、小宰相への手紙を送り続けていました。
しかし、相手は、宮中一とウワサされる美女・・・出会いの日から三年間経っても、だたの一度も返事がくる事はなく、さすがの通盛も、「これで、ダメやったら、もう、あきらめよう」と心に決めて、最後の手紙を書き、使者に託したのです。
最後の望みを託された使者は、いつものように手紙を届けに行きますが、その日は、たまたま、院に向かう途中の彼女の車に出くわし、いつもは御所の女房に渡す手紙を、直接、彼女の車の中に投げ入れます。
通勤途中に、いつもとは違うパターンで、いきなり、熱烈ラブレターを渡された小宰相・・・その手紙の置き場に困って、とりあえず袴に挟んで出勤したのですが、それを、勤務中の上西門院の御所の中で落としてしまい、しかも上西門院本人に拾われて、さらに、中身を読まれてしまったのです。
会社のPCに送られてきたラブラブメールを上司に見られちゃったようなもの・・・これは、いかん!万事休す・・・かと思いきや、上西門院も粋な人・・・通盛の一途な気持ちにほだされ、何と、キューピット役を買って出てくれたのです。
上西門院が声をかければ、話はトントン拍子・・・
もともと小宰相も、恥ずかしさから、どうしていいかわからずに無視していただけだったようで、こうなったら、若い二人はノンストップ!で、周囲も認める恋人同士となります。
・・・とは言うものの、通盛には、すでに正室となる約束を交わした相手がいたのです。
それは、清盛の三男・・・つまり通盛のいとこにあたる宗盛(むねもり)の娘で、この宗盛は、すでに亡くなった通盛の姉の夫でもあった事から、宗盛と通盛は密接な関係にあり、かなり早くから、その約束が交わされていたようです。
養和元年(1181年)に清盛が亡くなり、長男・次男がすでに他界していた事で、宗盛が平家の棟梁となった頃に、正式に正室と定められたようですが、なにぶんその娘は、まだ12歳くらいの少女だったようで、通盛の恋の相手になれるわけがないのは、誰が見ても明らかな事・・・
それが、平家一門の結束を強めるための結婚である事は、周囲も百も承知でしたから、逆に、通盛も小宰相も、気兼ねなく、愛を育む事ができたと思われます。
しかし、二人の幸せな日々は長くは続きませんでした。
そう、あの倶利伽羅(くりから)峠の合戦(5月11日参照>>)で、大敗を喫した平家は、怒涛の如く押し寄せる義仲軍相手に、都落ちをせざるを得なくなるのです。
この時、当然の事ながら、小宰相も連れて、ともに都落ちをしたい通盛ですが、上記の通り、正室がいる以上、小宰相は正式な妻ではありませんから、さすがに周囲は、彼女を連れての都落ちには反対します。
当然、彼女の両親も反対しますが、小宰相の意志は固かったのです。
やがて、寿永二年(1183年)7月25日、平家一門とともに都落ちした小宰相・・・もちろん、その平家一門の中には通盛もいるわけですが、この後、二人が会う機会はほとんどありませんでした。
・・・というのも、彼らの都落ちのあとに堂々入京した義仲と、鎌倉の頼朝が、源氏の棟梁の座を争っている間に、平家は、かつての都・福原(神戸)にて、城郭を構築して、次の戦闘準備をしていたわけですが、この間は、実は、ほとんどが船中漂泊の状態・・・通盛は一族の船で、正式な妻でない小宰相は、乳母や兵が乗る船に乗らなくてはならなかったのです。
しかも、通盛は、一門をまとめる立場にある大将軍・・・二人は会話をかわす事すらできない状態でした。
しかし、源氏の方々が、同族でドンパチやってくれていたおかげで、少しの間、平和な日々が持てた平家・・・やがて急ごしらえではあるものの、屋敷もでき、御所も建てられ、ようやく、少し落ち着きます。
都落ちをしてから7ヶ月・・・そうこうしているうちに義仲を倒して源氏のトップに立った頼朝の命を受け、弟の源範頼(のりより)&義経が福原に迫ります。
搦(からめ)手・一の谷の大将を命じられた通盛・・・いよいよ明日は合戦という時、人目を忍びながらも陣の仮屋で、ひとときの再会を果たした二人・・・。
ここで、小宰相は、通盛に、妊娠している事を告げるのです。
「俺に子供が!何ヶ月やろ?体調はどうなん?船の中やったら揺れるやろに・・・どうしたらえぇんやろ」
初めての我が子を喜びながら、すでに産所の心配をする通盛を、うれしそうに見る小宰相・・・二人は心安らぐひと時を過ごした事でしょう。
しかし、これが永久(とわ)の別れになってしまうとは・・・
翌日・寿永三年(1184年)2月7日、通盛の守る一の谷は、義経による鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし(2月7日参照>>)という奇襲によって修羅場と化します。
陸も海も大混乱となる中、小宰相は通盛を心配しつつも、もともと乗る船が違う事もあって、お互いの安否がわからぬまま、船に乗り込み、一路、屋島を目指す事となります。
しかし、その船上で、彼女は悲しい知らせを聞くのです。
「内甲(うちかぶと)を射られて、味方とはぐれてしまい、どこか静かな場所で自害しようと東に向かっておられたところ、近江の佐々木成綱、武蔵の玉井資景(すけかげ)ら七騎に囲まれ、お討ち死になさいました」と・・・
その場で倒れ、数日間寝込んでしまった小宰相・・・しかし、数日経つと、最初は信じられず、受け入れられなかった通盛の死が、逆に、本当に死んでしまった事を痛感してしまうようになっていきます。
かくして寿永三年(1184年)2月14日、信頼のおける乳母に・・・「死にたい・・・」
と、正直な気持ちを打ち明けた彼女。
しかし、逆に乳母に、
「お腹の子供のためにも、しっかりと生きなさい」
と、諭され、何とか思いとどまります。
いえ、思いとどまったふりをしました。
どうやら、彼女は相当モテたらしく、都には強く彼女に言い寄る男がいたのだとか・・・つまり、合戦の勝敗に関わらず、このまま命が助かり、都に戻れたとしても、もともと平家とは縁の薄い家柄の生まれであるうえ、通盛の正式な妻でもなかった彼女は、必ず、誰か、別の男と結婚する事になり、生まれた子供と二人で、ひっそりと暮らす事など許される事ではなかったのです。
清盛の娘の建礼門院(けんれいもんいん)徳子に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)によれば、おそらく、彼女は、それに耐えられなかったのだろうという事です。
安心して眠った乳母の様子を確かめて、おもむろに起き上がり、夜風に吹かれる彼女・・・おりしも、今夜はおぼろ月夜。
鳴く千鳥と、海峡を渡る船の梶音・・・
月は、西に傾いて、はるか彼方の海面を照らします。
あのあたりが、愛しい人のいる西方浄土・・・船べりで、大きく手を広げ、その月へとさしのべます。
「飽かで別れし妹背(いもせ)の仲らい、必ず一つ蓮(はちす)に迎へ給へ…」
ムリヤリ引き裂かれた二人だから、あの世では同じ場所=一枚のハスの葉の上に迎えられたい・・・
さぁ、あなた・・・私の手を引いて、あなたのいる場所へと連れてって・・・と、ばかりに、まだ見ぬ子供とともに、彼女は千尋の海の底へと旅立ったのです。
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コメント
これもりが、倶利伽羅峠で、勝ってくれればこの悲劇は無かったかも...。
投稿: ゆうと | 2012年3月26日 (月) 22時03分
ゆうとさん、こんばんは~
平家物語は、滅びゆくものの哀れを見事に描いてくれますね~
投稿: 茶々 | 2012年3月27日 (火) 01時33分
あの世で会えたら嬉しいですO(≧∇≦)o。
投稿: ゆうと | 2012年3月27日 (火) 04時53分