史上最強力士・雷電為右衛門の意外な本業は?
文政八年(1825年)2月21日、史上最強の力士として名高い雷電為右衛門が56歳で亡くなりました。
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雷電為右衛門(らいでんためえもん)は、江戸後期に活躍した信濃(長野県)出身の相撲取り・・・その身長は六尺五寸(1m90cm)、体重は四十五貫(168.7kg)。
その恵まれた体格が、地方巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門(うらかぜりんえもん)の目に止まってスカウトされ、寛政二年(1790年)、雷電・24歳の時にデビューします。
デビュー前から、すでに出雲国(島根県)松江藩のお抱え・・・つまり、スポンサーがついていたほか、番付も、いきなり関脇からのスタートという異例づくし・・・。
それだけ、期待もされていたし、その力量もあったという事なのでしょうが、その期待を裏切る事なく、見事な成績を収めてくれます。
なんせ、デビュー戦でいきなりの初優勝ですから・・・。
その後も、45歳で引退するまでの21年間・・・
35場所の総取組数が285で、
そのうち、254勝・10敗、
引き分け=2、
預り=14、
無勝負=5、
休み=41
・・・ただし、この休みというのは、江戸時代のルールでは、相手が休場すれば本人も休み扱いとなるので、雷電のせいだけではない事をご承知いただきたい。
これで、計算すると、勝率は96.2%という事になり、当然、史上第1位です。
優勝回数こそ25回ですが、これも当時は、年2場所ですから、現在の力士との回数とは比較できないのが当たり前です。
そんな史上最高の強さを誇った雷電ですが、なぜか最高位は大関で、横綱にはなっていません。
もちろん、以前、谷風のところで書かせていただいた【横綱誕生秘話】(11月19日参照>>)でもお話しさせていただいたように、横綱が番付の最高位となるのは明治二十三年(1890年)からで、それまでは、番付の最高位は大関で、横綱は免許制ですから、当然、雷電の時代は、横綱免許という事になるのですが・・・。
今でも、雷電が横綱免許を受けなかった事は、相撲史上最大の謎と言われているのだとか・・・
理由の一つとしては、上記の通り、雷電が松江藩のお抱え力士で、横綱免許を下す吉田司家(よしだつかさけ)が、あの熊本の細川家の家臣であった事から、本人の預かり知らぬところで、藩同士の確執なんかがあり、藩の意地の張り合い、メンツの立て合いの犠牲になったのでは?とも・・・。
また、雷電が土俵上で、相手の力士を投げ飛ばした時、相手が死んでしまった事が影響しているのでは?とも言われますが、これに関しては、この話は、雷電がいかに強かったかを誇張するための伝説で、現在では、そのような事実はなかったとされています。
そんな中、雷電は、通称・雷電日記と呼ばれる『諸国相撲控帳』なる記録を残しています。
「八月五日、出立仕ろ候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ・・・」
・・・で始まる8月5日の日記には・・・
「六合から本庄塩越へ向かって歩きましたが、六合のあたりから壁は壊れ、家はつぶれて、石の地蔵も壊れ、石塔も倒れており、さらに、塩越では、家々が皆ひしゃげていて、大きな杉の木は地下へもぐり、喜サ形(象潟)というところでは、引き潮の時でも、ひざのあたりまで水がありました」
といった風な内容の事を書いています。
これは、巡業で秋田へ行った際に、奥羽地方を襲った大地震に遭遇した時の記述なのですが、日記にしては、エライ客観的で刻銘な描写・・・。
雷電は、この日記を20年間に渡って書き続け、しかも、この日記をもとに『萬御用覚帳(よろずごようおぼえ)』という公文書を作成し、逐一、松江藩に提出していたのです。
それは、引退後の文政二年(1819年)の5月まで、キッチリと続けられています。
この雷電の日記は、今でも、相撲だけではなく、江戸時代の風俗を知る事のできる貴重な史料とされているところからみても、日記・・・というよりは、現地ルポ・・・。
そうなると、雷電は、巡業にいった先で、見た事、聞いた事を、現地特派員のような形で、いちいち松江藩に報告していたという事になります。
勝手な想像ですが・・・ひょっとして、こっちが本職だったのでは?
以前からたびたび書かせていただいているように、江戸時代の日本というものは、表向きは平静を装った徳川幕府の配下ではあったものの、それぞれの地方は一つの国・・・つまり、独立国家の集合体みたいな形であったわけですから、全国各地を巡って、あまりにも詳細な現地ルポを、自身の藩に報告するというのは、ある意味スパイ行為なのでは?
もし、力士というのが仮の姿で、現地レポートを作成する隠密行動が本職なのだとしたら・・・あれだけ強くても、横綱免許を受けなかった、あるいは与えなかった事にも、納得がいく気がするのですが・・・。
ただ、本職ではないのに、史上最強・・・というのにも、納得がいかないのは確かですが、本職で無いのに大発見しちゃった間宮林蔵(まみやりんぞう)(5月17日参照>>)の例もありますからねぇ・・・。
隠密剣士(←古い!)ならぬ隠密力士・ライディーン
(1975年に放送されたロボットアニメ「勇者ライディーン」は、この雷電の名前をもじってつけられています)
なんか、隠密となると、雷電為右衛門=めっちゃイケメンを想像してしまいました~
きっと、その体格では、屋根から屋根へ飛び移る事はできなかったでしょうけど・・・。
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コメント
地方巡業を理由に他藩に入れる力士は隠密家業には打って付けの職業ですモンね。然し雷電の戦績スゴイですね。雷電にあやかって何代目雷電ていう風に四股名を継いでいく人はいなかったんですかね。
投稿: マー君 | 2009年2月22日 (日) 00時40分
マー君さん、こんばんは~
>何代目雷電ていう風に四股名を継いでいく人はいなかったんですかね
やっぱり、横綱じゃないので、その名前が残らなかったんでしょうか?
松江藩では重用されていたようですが・・・
投稿: 茶々 | 2009年2月22日 (日) 02時01分
今日は雷電関の命日ですか。
マー君さんが「雷電の力士名が継承されない」と言っていますが、「雷電」は相撲界での永久欠番扱いだと思うので、名乗るのが恐れ多いんでしょうね。
八百長騒動で3月の大阪春場所が中止になり、草葉の陰の雷電関も嘆いているでしょうね。最悪の場合は半年本場所ができないと言う情報もあります。
投稿: えびすこ | 2011年2月21日 (月) 12時56分
えびすこさん、こんばんは~
場所がストップするのは寂いですね~
特に大阪場所だったので残念です。
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 22時06分
勇者ライディーン…懐かしいです。隠密剣士は再放送を見た記憶が幽かにあります。
雷電は引退後、奥さんの故郷である佐倉に住んでいたそうで、お墓もあります(近所なんですがまだ行ってません)。
有名人なので本人の故郷など、ほかの場所にもお墓があるそうですね。
雷電隠密説、楽しいです。ほかにも「この人ひょっとして隠密かも…。」という人物がいると思うので隠密特集をぜひお願いします。
投稿: とらぬ狸 | 2015年5月30日 (土) 08時54分
とらぬ狸さん、こんにちは~
よく、隠密説が噂されるのは、やはり松尾芭蕉ですよね。。。
でも、私個人的には、やはり間宮林蔵>>がトップやないか?と思てます。
説や噂ではなく、後に完全に隠密とバレるのに、かりそめの職業で地図に名を残す海峡発見…スゴイです。
ま、隠密としては、最後=死ぬまで、いや死んでもバレないのが良いんでしょうが…
投稿: 茶々 | 2015年5月30日 (土) 15時34分