幕末の極楽トンボ~佐久間象山の息子・三浦啓之助
明治十年(1877年)2月26日、佐久間象山の息子で、元新撰組・隊士の三浦啓之助がこの世を去りました。
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本日の主役・三浦啓之助さん・・・本名を佐久間格二郎(かくじろう)と言います。
あの佐久間象山と、そのお妾さんのお蝶さんとの間に嘉永元年(1848年)に生まれます。
三浦という姓は、象山の正妻だった順さんの姓をいただいて、そのように名乗っていたようです。
佐久間象山は、ご存知のように、幕末でも屈指の尊敬すべき思想家・・・
開国論者ではあったものの、それは外国に屈する開国ではなく、西洋の文明や科学技術を積極的に取り入れつつ、日本独自の近代国家を目指すもので、まさに、後の世の明治新政府が理想としたもの・・・。
その先進的な思想は、吉田松陰をはじめ、勝海舟・高杉晋作・伊藤博文・・・そして、あの坂本龍馬にまで影響を与えています。
しかし、その思想があまりにも先進的すぎて、まだ、時代がついていっていなかった・・・象山の思想は「西洋かぶれ」と言われ、外国を排除しようとする尊皇攘夷派から狙われる結果となったのです。
啓之助は、そんな父とともに、元治元年(1864年)に京都にやってきますが、その年の7月11日に、父・象山は、尊皇攘夷派の志士・河上彦斎(げんさい)に暗殺されてしまいます(12月4日参照>>)。
その時、まだ、14~15歳の少年だった啓之助は、父の復讐を誓い、あの新撰組に入隊するのです。
・・・と、あの天才・佐久間象山の息子で、父の仇を討つために新撰組・隊士にぃ~・・・どんだけカッコイイんだぁ~!と言いたいところですが、実はこの啓之助さん、あまり評判が良くありません。
歴史が好き=歴史人物も全員好きな私ですので、ブログには悪口は書きたくないし、いつものように、その日の主役のかたは、できるだけカッコよく描いてさしあげたいと頑張ってみましたが・・・啓之助さん、ゴメンナサイ・・・ここまでです。
ただ、啓之助さんご本人になり代わり弁解させていただくならば、あまりにもすばらしい父を持ったがゆえ、その父を尊敬するまわりの大人たちが彼をあまやかした感がありますね。
プラス、その象山暗殺のページにも書かせていただきましたが、この象山さん・・・確かに、思想は先進的で、尊敬に値するかも知れませんが、そのぶん、自分で自分を天才だと認識していて、かなり高ビーな性格の持ち主なのです。
どうやら、この啓之助さんは、天才の父の、その高飛車な部分はしっかりと受け継いでしまったようで、象山の場合は、その高飛車な態度も、本人の天才的思想がくっついてますから、何とか許せますが、それがなければ、ただのプライドの高い小生意気な小僧という事になってしまうわけです。
とにかく、その新撰組に入隊の時にしても、啓之助は、伯父の勝海舟(正妻の順さんが勝の妹です)の紹介状を持って登場するわけで、そこには「父の仇を討ちたいという志がある」と・・・
あの勝海舟の、そんな手紙を見たひにゃぁ、そりゃぁ、局長の近藤勇も特別扱いしますがな。
こうして、新撰組に入隊し、局長の側近として他の隊士よりいい扱いを受ける啓之助・・・それでも、最初のうちは借りてきた猫のごとく、おとなしくしていたのですが、やはり、ここでも、まわりがチヤホヤするにつけ、徐々に、その坊ちゃん育ちの側面があらわになってきます。
ある日、啓之助が・・・
「俺、今、いい刀、探してるんや!どこかにええのん売ってないかな~」
と言ったところ、ある同僚の隊士が・・・
「刀より、先に腕を磨いたほうがええんとちゃうか?」
と、からかったところ、早速、刀を購入した啓之助は、一番にそのからかった隊士を斬りに行ったのです。
斬りつけたところを、他の隊士に止められ、両者とも大事には至りませんでしたが、その理由を聞いてみると・・・
「いや、腕が悪いと言われたので、本当に悪いかどうか斬ってやろうと思った」
と、悪びれる事なく平然と答えたのだそうです。
その後も、とりあえず、勝海舟の手前もあるので、新撰組幹部たちも、あたらずさわらずで、しばらく静観していたのですが、啓之助には、他の隊士とは違い、定期的に母親からの多額の仕送りがあり、それ目当てに、チヤホヤとおだてながらの取り巻きなどもできてきて、本人、ますます調子に乗り始めます。
毎夜のように遊郭に繰り出しては大騒ぎ、ちょっと嫌な事があると暴れる・・・ある時などは、屯所の前で、ただぶつかったという理由だけで、物売りの女性を斬ってしまった事もありました。
さすがに、ここらあたりからは、新撰組幹部たちも堪忍袋の緒が切れ出し、再三注意しはじめるのですが、当の本人はまったく反省の色なし!
それでも、すでに30歳前後の近藤らは、大人の対応で何とか冷静に注意をうながしていましたが、まだ20歳そこそこの沖田総司からは、何度も斬られそうになったのだとか・・・。
その沖田に恐れをなしたのかどうかわかりませんが、とうとう啓之助は、あの父の仇もどこへやらと、新撰組を脱走してしまうのです。
しかし、隊を脱走しても、その態度はあいもかわらず、やりたい放題・・・しかし、それまではある程度許されていたワルサも、新撰組という看板がなくなってしまっては、ただの犯罪・・・結局、ちょっとしたイザコザが罪に問われ、投獄されてしまうハメに・・・。
だけど、この人はどこまで運が強いのか!・・・
(いや、ひょっとしたら、象山の息子として生まれたという事自体が運がいいという事なのかも知れんが・・・)
この投獄されている間に、あの戊辰戦争(1月3日参照>>)が起こり、多くの同僚が死に急ぐ中、彼はまったくの無傷で明治維新を迎えるのです。
ここで、名前を恪(いそし)と改め、またまた、父の七光りをフルに利用して、西郷隆盛の配下にちゃっかりと入り込みます。
さらに、お坊ちゃんらしく、外国人から英語を習ったり、慶応義塾に通ったりもしましたが、女にうつつを抜かして、勉学は挫折・・・結局、学校は中退します。
学校を中退したら、「さすがに働かなくては・・・」と、またまた七光りを活用して司法省に出仕・・・しかし、今度は、日本橋でケンカしているところを仲裁に入った巡査をボコボコにして、ここもクビになってしまいます。
そこで、さらに、またまた七光りで・・・と思っている矢先の明治十年(1877年)2月26日、たまたま食べたウナギの蒲焼にあたって、あっけなく死んでしまったのです。
生まれたのが嘉永元年(1848年)、亡くなったのが明治十年(1877年)・・・って事は、まだ29歳?
残念ながら、啓之助さん・・・29年で運を使い果たしてしまったのでしょうか・・・
・・・と、こんな風に書きながらも、何となく憎めないキャラ・・・
以前、ご紹介した織田信雄さん(4月30日参照>>)を思い出してしまいました~。
織田信雄が戦国の極楽トンボなら、三浦啓之助は幕末の極楽トンボ・・・
しかし、信雄さんも、織田信長という大きな父の影に、生まれながらに父と比較される宿命のもとに生きるしかなかった・・・そんな宿命にあらがえない彼らには、彼らにしかわからない悩みや言い分があった事でしょう。
ひょっとしたら、本日の記事のお題に、「佐久間象山の息子」とつけてしまう事すら、彼には重荷となるのかも知れません。
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