護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ
元弘三年(1333年)閏2月1日、吉野山に籠っていた護良親王が、鎌倉幕府からの攻撃を受けて、高野山へと脱出しました。
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天皇自らが政治を行う事を夢見て、何度も水面下で謀反の計画を立てる第96代後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、世は、まさに鎌倉幕府=武士の時代・・・第14代執権・北条高時が実権を握っています。
そこへ、登場したのが、かの楠木正成です(8月27日参照>>)。
心強い男を味方に得た天皇は、笠置山にて挙兵して、倒幕ののろしを挙げました。
元弘元年(1331年)9月28日・・・これが世に言う元弘の変です。
しかし、幕府の大軍による総攻撃で、わずか一日で笠置御所はあえなく撃沈(9月28日参照>>)・・・山中を逃げ回っていた天皇も捕らえられてしまいます。
一方の正成は、下赤坂城(大阪府千早赤坂村)に籠り、幕府軍相手に得意のゲリラ戦で奮闘しますが、砦に毛の生えたような急ごしらえの城では太刀打ちできないと判断し、10月21日に自ら城に火を放ち、金剛山中へと姿を消しました(10月21日参照>>)。
翌・元弘二年(1332年)の3月には後醍醐天皇が隠岐(おき)へ流され(3月7日参照>>)、6月には天皇の側近・日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)が処刑され、万事休す・・・戦いは終結してしまいました。
それから約1年、もはや後醍醐天皇の夢も露と消えたか・・・と思いきや、あの笠置山から脱出して、奈良や和歌山を点々としていた後醍醐天皇の息子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が、各地の反幕府勢力をまとめる事に成功!・・・
11月、再び、倒幕ののろしを挙げ、吉野山に立てこもったのです。
護良親王は、各地の武士に令旨(りょうじ・天皇家の命令)を発し、「ともに戦おう!」と呼びかけます。
このグッドタイミングで再び登場するは、あの赤坂城の戦いで死んだと思われていた正成です。
正成は、先の戦いで幕府側に奪われていた下赤坂城を、早々に奪回し、その勢いのまま、和泉(大阪府南部)から摂津(大阪府北部)へ進攻・・・年が明けた元弘三年(1333年)の1月には、天王寺の戦いで六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利します。
こうなっては、幕府ものんびりとはしていられません。
鎌倉から20万の大軍を畿内へ向けて発進するとともに、悪党・正成の首に多大なる恩賞をかけて将兵の士気をあおり、いざ!再びの全面戦争へと突入です。
幕府による大軍の派遣を聞いた正成は、北方の最前線である上赤坂城を弟・正季(まさすえ)に300の兵をつけて守らせ、自らは、その南東に築いた千早城(ちはやじょう・大阪府千早赤坂村)にて、幕府の大軍への備えを計ります。
やがて、護良親王の籠る吉野方面と、正成らが守る河内方面、さらに反幕府派が点在する紀伊方面の三手に分かれた幕府軍・・・
その中の河内方面・先鋒である阿蘇治時(あそはるとき)率いる8万の軍勢が、下赤坂城に迫ったのは、2月22日の事でした。
3方を山に囲まれた天然の要害である上赤坂城・・・しかも、城兵は、日頃から正成に鍛えられたゲリラ作戦で敵をまどわせ、少ないながらも善戦に次ぐ善戦で、8万の大軍相手によく戦いましたが、敵も、さすがに戦いのプロ・・・2月27日、水の補給路を断った事により、ついに落城してしまいます。
正季は、ギリギリで脱出に成功し、金剛山へと敗走しました。
一方、護良親王の籠る吉野を攻撃したのは、大仏家時(おさらぎいえとき)率いる吉野方面軍・・・こちらも、下赤坂城同様、大軍相手に奮戦してはいましたが、なにぶん手勢は、わずかに1000・・・しかも、その中の多くが僧兵ですから、鎌倉武士のプロ集団による総攻撃にはひとたまりもありませんでした。
もはや、陥落も時間の問題となった元弘三年(1333年)閏2月1日・・・
注:閏(うるう)とついているので、おわかりかとは思いますが、旧暦なので、この年の2月は2回あり、この「2月1日」というのは、先の下赤坂城の落城の前ではなく、落城後の2回目の2月の1日という事になります。
覚悟を決めた側近の村上義光(よしてる)は、護良親王の鎧・直垂(ひれたれ・鎧の下に着る平服)身につけ、親王の身代わりとなって切腹し、敵の目を惹きつけ、その間に親王は吉野を脱出・・・高野山へと逃れたのでした。
その後、しばらくの間、親王の行方を探索する家時でしたが、結局、見つける事ができず、軍勢は・・・そう、正成の籠る千早城へと進軍します。
そして、もちろん、下赤坂城を落とした治時軍も・・・そして、紀伊方面担当だった名越宗京(なごしむねのり)が率いる軍も・・・。
幕府軍は、そのすべてをかけて、千早城への総攻撃へと突入します・・・いよいよ、正成の一番の見せ場である千早城の戦いが始まります。
・・・が、そのお話は、やはり、戦いが勃発した2月5日のページでどうぞ>>
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コメント
15年前に太平記の世界にはまり、千早城、赤坂城を観てきました。千早城は絶壁で急な勾配を登った記憶があります。7年前頃、出張の帰り、神戸の楠神社に行き、資料館を観ようとしましたら、休館日でした。館員に頼みましたが、入れてくれませんでした。
真田幸村(本名は信繁、父昌幸が信玄の弟の信繁を崇拝していたため、名付けたといいますが)が大阪城での籠城戦の際、この千早城を中心とした支城ネットワークを構築し、徳川方を囲む戦略を考えたといいます。楠正成の戦法は山岳戦を得意としており、真田昌幸と山家を通して楠一族とのつながりがあったとのではないかと思い、裏付ける史料を探しています。
投稿: 銀次 | 2011年2月 4日 (金) 06時22分
銀次さん、こんにちは~
楠公と幸村の関係…いいですね~
気になります。
投稿: 茶々 | 2011年2月 4日 (金) 14時32分