立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱
明治七年(1874年)2月3日、佐賀の憂国党が小野組から、強引に資金を借り出すという事件が発生・・・これが、佐賀の乱の引き金となりました。
・・・・・・・・・
征韓論の論争に破れて、あの西郷隆盛が政界を去った明治六年の政変(10月24日参照>>)・・・つい先日も書かせていただいたように、後に西南戦争が勃発する(1月30日参照>>)鹿児島にも影響を与えたこの政変ですが、同時に佐賀にも大きな影響を与えていました。
それは、その西郷隆盛や板垣退助らとともに、佐賀出身の江藤新平(えとうしんぺい)や副島種臣(そえじまたねおみ)といった人たちも、同時に政界を去ったからです。
この時期の佐賀には、明治新政府の方針によって幕府からの禄(給与)も無くなり、廃刀令によって刀も奪われて、不平不満をつのらせる士族(元武士)たちによって、いくつかの団体が結成されていました。
一つは「憂国党(ゆうこくとう)」・・・
これは、こんなんやったら前のほうが良かったわ!と「昔の時代(徳川時代)に戻せ!」と主張する者たちの集団で、先の征韓論には反対していた人たち・・・。
逆に、征韓論に賛成して朝鮮への出兵を主張していたのが、その名の通り「征韓党(せいかんとう)」・・・また、明治政府に味方する「中立党」という団体もありました。
・・・で、先の政変を知った彼ら団体の幹部たちが、それぞれに動き始めるのです。
憂国党は東京へ使者を出し、佐賀出身者で侍従や秋田県権令(県令・県の長官)などを勤めた経験のある島義勇(しまよしたけ)に「憂国党の指導者になってもらえないか?」と説得をはじめます。
そして、一方の征韓党の使者が「佐賀に戻って指導者になってほしい」と説得したのが江藤新平・・・後に起こる佐賀の乱の主役と言える人です。
この江藤さんの人となりに関しては、書きたい事がいっぱいある、とても魅力的なかたなのですが、これから起こる佐賀の乱の関連でおいおい書かせていただく事として・・・とにかく、貧困にあえぐ下級武士の出身でありながら、苦学生として勉学に励み、戊辰戦争では官軍の一人として江戸城無血開城にも立会い、上野戦争での活躍などにより、明治新政府では、法律に関しての重要な役どころをこなしていた人なのです。
近代に則さない「さらし首」を廃止する法律を作ったり、一定の年齢に達した子供全員に教育の場を・・・いわゆる義務教育の方針を打ち出したのも彼・・・。
権力を振りかざして一般市民を苦しめる役人や政治家を裁く法律も作って、腐敗政治に正義の鉄槌を下した事もありました。
そんな彼ですから、たとえ政変によって政界を追われても、武力で反乱を起すなんて事は、まったく考えていませんでしたが、上記の征韓党の使者と対面した新平は、故郷・佐賀に戻る決意をします。
それは、むしろ、「反乱を起さないように」と、彼ら不平士族たちを説得するつもりの帰郷・・・明治七年(1874年)1月13日、彼は東京を発ちました。
ところが、その翌日・・・事件は起こります。
先日書かせていただいた赤坂喰違(くいちがい)の変(1月14日参照>>)・・・あの岩倉具視(いわくらともみ)が、土佐の不平士族に襲われた一件です。
幸いにして命は無事だった具視でしたが、この事件によって、全国に散らばる不平士族の危険性を、まざまざと感じたのが大久保利通(としみち)・・・そんな不平分子の中心人物となりそうな新平の帰郷を、利通は、そのままにしておくわけにはいきません。
1月18日・・・急遽、岩村高俊(たかとし)を佐賀権令に任命し、佐賀内の治安維持のための出兵を決定します。
一方の新平は、先に嬉野(うれしの)温泉に寄ってから、1月25日に、一旦、佐賀城下に入りましたが、もはや不平士族たちは爆発寸前・・・しかも、その影響の大きさから、敵対する団体からの暗殺のウワサが出ていた事もあって、再び佐賀を後にし、長崎にて様子をうかがう事にしました。
そんなこんなの明治七年(1874年)2月3日・・・士族団体の一つ憂国党が、政商の小野組(江戸時代の豪商・井筒屋)に押しかけ、活動資金を借り出すという事件が起こります。
そのニュースを聞いた島義勇・・・そう、憂国党から、「指導者に・・・」との要請を受けていた彼です。
彼もまた、反乱を起す事に反対の考えを持っていましたから、それまでは、その指導者になる話を断り続けていたのですが、そのニュースを聞いて、彼らを落ち着かせるために佐賀に行く決意を固めます。
一方、この憂国党のニュースは、すぐに政府にも届く事になるのですが、どこでどう間違えたのか?「憂国党が小野組を・・・」が、「征韓党が小野組を襲った」となって、政府に届いてしまうのです。
誤報とは知らず、そのニュースを受け取った利通・・・当然の事ながら、「それ、見た事か!江藤が征韓党を率いて反乱を起こしやがった!」と、翌日の4日には、熊本鎮台(政府陸軍)へ出兵を命じ、自らも佐賀へと向かう事を決意します。
ところで、先ほど佐賀へと向かう事を決意した義勇さん・・・事は急を要しますので、早速、船にて佐賀に向かうわけですが、その船の中で、顔見知りの男を発見します。
利通から佐賀権令に任命された岩村高俊です。
しかも、その高俊が、直接佐賀へは向かわず、途中の下関にて下船するのを目の当たりにしてしまいます。
さらに、その途中下船の理由が、「集めた兵を率いて佐賀に入るため」と聞いて、まだ、これから佐賀の士族たちを説得するつもりでいた義勇はびっくり!
権令とは、言わば県知事です。
その県知事が、兵を連れて武装して、新たな任地におもむくなど、ありえない事・・・いくら不良の集まりの学校だからと言っても、まだ、何もしていない生徒たちの教室に、新任教師がいきなり鉄パイプ持って、仲間とともに出勤して来たら、「何、考えとんじゃ!ワレ~」って感じにもなりますがな。
長崎に上陸した義勇は、早速、新平と面会し、この状況を報告します。
これには、やはり、反乱を抑えるつもりでいた新平もブチ切れ・・・ここに、今まで敵対していた二つの団体が、郷土・佐賀を守るためという理念で一致し、ともに手を組んで立ち上がるのです。
新平の率いる征韓党と義勇の率いる憂国党・・・さぁ、佐賀の乱の始まりです。
・・・が、そのお話は、佐賀城攻防戦となるその日・・・2月16日のページでどうぞ>>。
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コメント
こんばんは。
近代史はほとんどわからない私ですが、憂国党と征韓党の取り違え、わざとじゃないのかな、という気がしてならないです。
大久保さん、江藤さんのことかなり嫌ってるみたいだし、まんまと術に嵌められたんじゃないかと思います。
でも、自分が時代の変わり目に立ち会ったとしても、何が正しいのか判断できる自信がないので、敢えてその中に身をおいた彼らには頭の下がる思いです。大久保さんの中で政治的判断よりも“私怨”が勝っていないといいんですが(゚ー゚;
投稿: おきよ | 2009年2月 3日 (火) 23時12分
おきよさん、こんばんは~
>私怨・・・
入ってそうですね~
なんせ、江藤さんは政治家の悪を暴きまくってましたから・・・
また、いずれ書かせていただくつもりですが、その事で、江藤さんは木戸孝允ともかなりモメてます。
でも、自分が政治家でありながら政治家や役人の悪を暴く法律をつくる・・・今の政界にも、こんな人、いてほしいですね。
投稿: 茶々 | 2009年2月 3日 (火) 23時28分
今晩は””
続きが楽しみです・・・
また来ます””
面白いですね””
事件は・・行き違いと誤解が招く・・
もちろん・・不平と不満が あってのこそですが・・
教訓ですね・・
投稿: gakusya_x | 2009年2月 4日 (水) 00時03分
gakusya_xさん、コメントありがとうございます。
また、いらしてください。
投稿: 茶々 | 2009年2月 5日 (木) 00時50分