こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?
天文十八年(1549年)2月24日、織田信長が斉藤道三の娘・濃姫と結婚しました。
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その猛将ぶりで、尾張(愛知県西部)の半分を手中に収め、隣国・三河(愛知県東部)にも手を伸ばし、さらに領地を拡大しつつあった織田信秀でしたが、もう一つの隣国・美濃(岐阜県)への進攻は、何度挑戦しても、どうもうまくいきません。
なんせ相手は、あのマムシと呼ばれた斉藤道三(どうさん)ですから・・・。
天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)では、越前(福井県)の朝倉氏の援助を受けながらも手痛い敗北を受け、ここに来て方針転換をせざるをえなくなります。
・・・というのも、信秀の度々の進攻を牽制するため、三河の松平広忠が、駿河(静岡県)の今川義元と同盟を結んだのですが、その同盟の証しとして今川のもとへと人質に出されたはずの長男・竹千代(後の家康)を途中で連れ去り、織田の人質として、ここ尾張に連れてきたのが、ちょうど、同じ年の天正十六年・・・(8月2日参照>>)
当然の事ながら、広忠&義元との間には険悪なムードが流れますから、ここは、そちらとの抗戦を優先して、とりあえずは、美濃からの攻撃を受けないようにしなければ・・・。
なんせ、信秀はまだ尾張を統一する事すらできてはいないのですから、主家筋である清洲織田家が、そのマムシの道三と手を結んだりなんかしてしまっては大変です。
同盟の締結役として抜擢されたのは、信秀の息子である、あの織田信長の傅役(もりやく)としてもおなじみの平手政秀(1月13日参照>>)でした。
同盟の申し出を受けた道三にとっては、寝耳に水の話ではありましたが、無い事ではありません。
美濃は、例の朝倉氏の越前とも接していますし、近江(滋賀県)の六角氏は、事実上、道三が乗っ取った土岐頼芸(よりあき・よりなり)の嫁の実家ですから、いたって油断がなりません。
道三は、この同盟の申し出を受ける事にし、その証しとして行われたのが、信秀の息子・信長と道三の娘・濃姫(のうひめ)の結婚でした。
その時、信長は15歳か16歳くらい、濃姫は、その一つ下か二つ下くらいなので、政略結婚とは言え、お似合いのカップルだったかも・・・ですね。
ちなみに、道三が、信長の器量を知りたくて会う約束を取りつけ、当日は、ナマの様子を見たいばかりに先に行って建物から覗き見した時には、例の尾張の大うつけの風貌で、「こりゃ、あかん」と思わせておいて、すぐあとの正式の会見には、凛々しい正装で現れて道三のド肝を抜く、あの有名なシーン・・・
ドラマでも度々描かれて、実際の信長を見た道三が「わが領地は、婿殿の引き出物になるだろう」と言ったなんてのも、もう、皆さんご存知のエピソードだとは思いますが、あれは、信長の父・信秀が亡くなってからの出来事ですから、この結婚から数年経った後のお話(2014年4月20日参照>>)・・・って事は、この結婚の話が決まった時には、信長がどんな人物かは、人づてに聞いたウワサのみだったはずですから、なかなか決断力が必要だったかも知れませんねww。
ところで、この信長の正室である濃姫・・・
天下を手中に収め、天皇をもビビらせる人物の正室にしては、史料がほとんど残っていません。
それでも、結婚当初からしばらくは、この婚礼に大喜びの信長が宴会を催した話や、ともに津島神社(愛知県津島市)のお祭りに出かけた話などで、その姿を感じとれますが、後半に至っては、まるで、そこにいなかったかのように、こつ然と姿を消し、その死さえうやむやになってしまっているのです。
ドラマなどでも、大抵、濃姫と呼ばれる彼女ですが、ご存知のように、これは「美濃から来た姫」という意味での呼び名で、本名を帰蝶(きちょう)とする文献もありますが、実際のところはわかっていません。
彼女は、信長との間に子供ができなかったようなので、そのために記録として残る事が少なかったと思われますが、それにしても、あれだけ信長の事が書かれてある『信長公記』でさえ、その死について、まったく触れてくれてはくれません。
信長には、ご存知、弘治三年(1557年)に生まれた信忠という息子がいますが、この信忠を産んだのは、濃姫ではなく、尾張・丹羽郡(愛知県江南市)の豪族・生駒氏の娘の吉乃(きつの=生駒の方)という女性・・・(9月13日参照>>)
いくつかの史料で、この吉乃さんの事を、「御台(みだい)」という正室の呼び名で記している事から、この信忠誕生の時に、すでに、濃姫は信長のそばにはいなかったのでは?という憶測も飛んでいます。
それは、その前年の弘治二年(1556年)の長良川の合戦で、義父の道三が息子の義龍(よしたつ)に敗戦して命を落とした(4月20日参照>>)事で、道三との同盟としての役割を終えたというものです。
よって、必要ではなくなった濃姫は、美濃へ返されたとか、母の実家の明智氏に返されたとか、中には、殺されたなどというウワサもあります。
しかし、長良川の合戦の時に、「援助してくれたら美濃をあげる」という道三から信長への手紙(4月19日参照>>)もありますし、たとえその手紙が偽作だったとしても、この先、美濃を攻める信長にとって、濃姫がいなかったら、「義父の弔い合戦」という大義名分が無くなるわけですから、道三の死の時点で、濃姫が不要になる事は考え難いです。
ただ、病死という事はありえるかも知れません。
『濃陽諸士伝記(のうようしょしでんき)』という書物には、永禄四年(1561年)にかの義龍が亡くなった頃には、濃姫が死亡していた事を感じさせる記述もあるようです。
しかし、山科言継(やましなときつぐ)という公家の書いた日記・『言継卿記(ときつぐきょうき)』には、その義龍が亡くなった後に、その妻が持っていた名器の壷を信長が欲しがった時に、「信長本妻が抗議した」と記されていて、斉藤家との関わりを考えると、この本妻というのは、濃姫の可能性が高く、だとすると、この時点では、信長のそばにいた事になります。
また、逆に、長生き説もあります。
よく言われるのは、「あの本能寺の変の時に、そばにいた」という説・・・。
三年前の大河ドラマ・功名が辻でも、この説を採用して濃姫が長刀で応戦してた気がするんですが・・・(別のドラマだったらゴメンナサイ)
これは、本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている事からきているようですが、この時の「おのう」という人には、本妻とも正室とも御台とも書かれておらず、まったく別の女性で侍女か何かだった可能性もあるのです。
そもそも、濃姫が本当に濃姫と呼ばれていたのかすら危ういわけですから・・・。
更なる、長生き説としては、信長の菩提所・摠見寺(そうけんじ・滋賀県安土町)の織田家の過去帳には「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」とあり、この養華院さんが濃姫だとする説もあるので、だとしたら、慶長十七年(1612年)という大坂の陣の2年前まで生きていた事になります。
また、京都の大徳寺の塔頭・総見院の織田家墓所にある五輪塔の一つにも、「信長公御台」と刻まれた物があり、こちらも年号は慶長十七年となっていますので、やはり78歳前後というご高齢まで健在であった事になります。
ただ、上記の通り、「信長本妻」「信長公御台」というのが、濃姫を指すとは限らないわけで、謎は、やはり謎のまま・・・。
しかし、こういう感じの謎まみれのほうが、ドラマや小説などでは、いろんな脚色をつけやすいので、案外おもしろい作品になるかも知れません。
国盗り物語の松坂慶子さんは、お嫁に行くにあたって、
「何かあったら、この剣で・・・」
と、そっと懐剣を手渡した父に・・・
「この剣は、父上を刺す剣になるやも知れませぬ」と、答え、
功名が辻の和久井映見さんは、明智光秀と心魅かれ合いながらも、本能寺で夫を守って奮戦します。
たとえ、長良川の合戦のあとあたりから、史上に登場しなくなっても、「用済みになったので殺された」とは、誰も思いたくはないのです。
信長の奥さんは才媛であってほしい
二人の間には愛があってほしい
現在の濃姫像には、そんな歴史好きの思いがこめられているのかも知れません。
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コメント
僕がイメージする濃姫は山岡荘八氏が記した小説、織田信長に出てくる濃姫です。そこに登場する濃姫は後の世の人が戦国の三賢婦人と呼んでいる、高台院(豊臣秀吉の妻…ねね)。保春院(前田利家の妻…まつ)。見性院(山内一豊の妻…千代)達に勝るとも劣らない賢婦人ぶりを発揮してますよ。また作中では、その才媛ぶりから斎藤道三が、お前が男子であれば良かったのに…。なんて言うセリフが出てきますよ。功名が辻での奮闘シーンは多分、この山岡荘八氏の作品を参考にされたんだと思います。
投稿: マー君 | 2009年2月24日 (火) 12時39分
マー君さん、こんにちは~
>お前が男子であれば良かったのに…。なんて言うセリフが・・・
おぉ、そうでした。
そのセリフもドラマでよく登場しますね~
ドラマに描かれる濃姫さんは、皆、美しい・・・
それだけファンが多いって事でしょうね
投稿: 茶々 | 2009年2月24日 (火) 16時06分
濃姫は信長の事を何と呼んでたんですか?
投稿: Y | 2009年10月28日 (水) 12時34分
Yさん、こんばんは~
やっぱ、奥さんなので「殿」ではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2009年10月28日 (水) 21時24分
「正室濃姫が健在」の時期に、生駒吉乃が側室になっているとすれば、正室と側室ですから対立していたでしょうね。
信長が濃姫を離縁したか死んだかの、どちらかであれば吉乃を、案外スンナリお城に上げましたね。こちらの方が納得します。
もし、信長が濃姫とラブラブの状態であれば、吉乃と「二股」なら若い信長はどう配慮していたしょうね?信長は案外女性に弱い(やさしい)人かもしれない、と最近思います。
この吉乃さんはフィギュアの織田信成選手のご先祖様でもあります。
投稿: えびすこ | 2010年2月23日 (火) 16時04分
えびすこさん、こんばんは~
信長さんは、意外とマメだったのかも・・・です。
投稿: 茶々 | 2010年2月24日 (水) 01時31分
生駒吉乃という名がたびたび出てきていますが、生駒の方はいましたが、吉乃と言う名前は偽書といわれる武功夜話にしか登場しません。
投稿: 歴雄 | 2010年7月31日 (土) 00時07分
来年の大河では出ますかね?物語が始まった時点で既に死んでいる設定なら、直接関係ないから回想の場面か。「功名が辻」では中年まで生きている設定でしたね。
でも蘭丸ら森兄弟や、黒田官兵衛が出る「きめ細かい配役」だから、信長の若い時代の話に触れればありえますね。
投稿: えびすこ | 2010年7月31日 (土) 08時57分
いくつかの史料で吉乃のことを御台と記していると書いてありましたが、そういう史料は偽書として定着している武功夜話以外ないはずですが。
投稿: KG | 2010年7月31日 (土) 17時17分
歴雄さん、こんばんは~
ちょっと旅に出ておりましてお返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
ところで、お話の件ですが…
まず、このブログは、「歴史」のブログであって、「歴史学」のブログではありません。
そういう意味で、正史とされている以外の逸話や伝説なども扱っているブログですので、お名前は一般的に知られているものを使用させていただくケースが多々あります。
たとえば、真田信繁も「真田幸村(信繁)」と、幸村を優先するような書き方になっておりますので、ご理解いただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2010年8月 1日 (日) 22時44分
えびすこさん、こんばんは~
ちょっと、例の旅に出ておりましてお返事が遅くなりました。
最近のドラマでは、濃姫はけっこう長生きな設定のような気がしますので、出るんじゃないでしょうか。
ただ、それでなくとも出演者が多そうなので、ただ、信長の横にいるような感じになるかも知れませんね~~(*≧m≦*)
投稿: 茶々 | 2010年8月 1日 (日) 22時48分
KGさん、こんばんは~
お返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
先の歴雄さんにも、お返事させていただきましたが、当ブログは、真偽・異説・新説等々…とりまぜて書かせていただいております。
「武功夜話」が偽書かどうかの結論は出ていませんし、もし、偽書だとしても正史とされる文書の中にもつじつまの合わない部分があるとともに、偽書とされるものの中にも真実がある場合もありますし、少なくとも、その偽書が生まれるに至った時代背景という真実が存在します。
個人的には、偽書を偽書だと一蹴せずに、いかにして生まれ、なぜに読み継がれて来たのか?という部分も含めて探求していくのが歴史の楽しさではないかと解釈しておりますので、今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2010年8月 1日 (日) 22時58分
実は昭和に作られた偽書といわれている創作物に、読み継がれたわけもなく、時代的背景もないでしょう。武功夜話に書かれている真実は他の史料にも書かれているもので、武功にしか書かれていないものはでたらめということでしょう。
投稿: まま | 2010年8月 3日 (火) 21時41分
ままさん、こんばんは~
現段階では専門家の間でも意見が分かれている事ですので、あなたが偽書だと確信しておられるなら、それでよろしいかと思いますが、私は、実物を直接拝見させていただいた事がありませんので、今のところでの真偽の結論は避けさせていただきます。
実物を見ずに「真偽」を決める事はできませんから…
おそらく、よほど名のある専門家でない限り原本は見せていただけないはずで、最近話題の『偽書「武功夜話」の研究』の著者の方でさえ、その原本はご覧になっていないと聞きますから、それが偽書か否かは、原本を直接見られる立場にある専門家の方に委ねたいと思います。
それまで否定的だった専門家の方が、原本をご覧になった途端、肯定派に回られた例もありますので…
また、最初から何度も申し上げています通り、このブログでは、実名・通称にこだわらず、一般的に使用されているわかりやすいお名前でお話を進めて参りますので、その点をご理解いただければ幸いです。
追記:コメント欄を見て下さっている他の方々が混乱して、ややこしいですので、投稿者名は、一つの名前に統一していただけるとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2010年8月 3日 (火) 23時25分
初めまして。
大河ドラマは「巧妙が辻」であってますよ。
ふと末期の濃姫の真相が知りたかったのでこちらをうかがったのですが、なるほど、決め手となる資料は乏しいのですね。
ドラマ版では本能寺を攻められた際に戦いに向かう信長(館ひろし)から
「あの世で会おう!」
と暗に逃げることを諭されるのですが、まさかの小袖に打ち掛け姿で駆け戻り
「あの世で会おうとの仰せなれど、殿は地獄、わたくしは極楽。このままでは生き別れでございます!」
と啖呵切るシーンが痺れる!
しかしこれも後の人の楽しい空想でしかないのですね。でも、多くの想像を掻き立てる人物です。
投稿: 森本泉 | 2013年8月26日 (月) 23時30分
森本泉さん、こんばんは~
最近のドラマでは、長生き説が採用される場合が多く、信長が亡くなった後も生きている設定になっている事もありますね。
「死んだ」というはっきりとした記録が無い以上、想像は自由な中、誰しもが「長く生きいてほしい」と思ってしまうような人なんですね。
投稿: 茶々 | 2013年8月27日 (火) 01時22分