島原の乱・終結~天草四郎・生存説
寛永十五年(1638年)2月28日、幕府の総攻撃によって、天草四郎が率いる反乱軍が籠城する原城が落城・・・島原の乱が終結しました。
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徳川幕府を震撼させた島原の乱については、以前、その勃発('06年10月25日参照>>)と、終結('07年2月28日参照>>)の二度に渡って書かせていただきましたが、本日は、その首謀者と言われる天草四郎・・・本名・益田四郎時貞にまつわる生存説について書かせていただきます。
源義経(12月30日参照>>)に豊臣秀頼&真田幸村(5月8日参照>>)・・・果ては、人間味あふれるあの西郷さん(12月18日参照>>)にまである生存説ですから、神の子と崇められた天草四郎の生存説は、まさに期待通りと言ったところなのでしょうが、確かに、その根拠となる出来事が、この原城が落城した寛永十五年(1638年)2月28日に起こっていたのです。
その一昨年のページにも書かせていただいたように、3ヶ月近い籠城で、食糧も弾薬も底をつきかけた頃、そのタイミングを見計らっての幕府軍の総攻撃に、もはや、反乱軍は抵抗する気力も残っていなかった事は確かかも知れませんが、最後の28日の戦闘は、早朝に攻撃が開始され、午前10時頃には終了してしまいます。
この、あっけない速さには、反乱軍の士気の低下も、かなり影響しているものと思われます。
実は、この日からさかのぼること半月前の2月14日・・・鍋島藩の撃った大砲の砲弾が、反乱軍の重要部分に着弾し、天草四郎の側近数名が死亡するとともに、それは、四郎の着物の左袖を撃ち抜いていたのです。
この時、四郎を不死身の神の子と信じていた者たちには動揺がはしり、「神のご加護が失われた!」と嘆いたと言います。
もともと四郎は、そのカリスマ性のために祭り上げられたような存在で、神のお告げや儀式などには姿を見せるものの、戦闘の軍儀にはほとんど参加せず、作戦を指揮していたのは、旧・小西氏の家臣たちでしたから、そのカリスマ性に陰りが見えはじめると、反乱軍の士気も下がる事は容易に想像できます。
そして、原城の最後となった、この28日・・・落城後に、総指揮官であった松平信綱(3月16日参照>>)の前には、年恰好がよく似た四郎とおぼしき少年の首が並べられ、首実検が行われるのです。
首実検に駆り出されたのは、熊本から連行されていた四郎の母・マルタ・・・しかし、母は、どの首を見ても微動だにせず、「四郎は天から来た子供ですから、天に戻ったか南蛮に渡ったに違いありません」と、答えるばかりでした。
しかし、それらの首を順々に洗い、化粧を落し始めた時、ある首にあった疱瘡の跡を見た瞬間、彼女が泣き崩れたというのです。
それは、この日の攻撃で、最後まで残った本丸に火が放たれた時、本丸に突入する幕府軍と脱出しようとする反乱軍が交錯する中、肥後(熊本県)・細川家の家臣であった陣佐左衛門(じんのすけざえもん)が、たまたま、中から出てきた一人の少年を斬った・・・その少年の首でした。
もちろん、佐左衛門は四郎の顔を知りませんので、四郎だとわかって斬ったわけではありません。
そうなんです。
実は、母は、その首を「四郎だ」と言ったわけではなく、その首を見て泣いたので、それが四郎の首だと断定されたのです。
彼女は、いかに動揺しようとも、最後まで「これが四郎です」と、断定する事はなかったのです。
そして、ここに、一つの謎が生まれます。
実は、四郎の顔を見知っていると思われる者が、もう一人いたのです。
それは、旧小西氏の家臣と同様に、反乱軍の先導者の立場にいた有馬氏の旧・家臣で、山田右衛門作(やまだえもさく)という人物・・・。
彼は、もともと反乱軍の中心人物的立場にいましたが、先ほどの鍋島藩の大砲着弾の14日前後に、すでに幕府軍に内通しており、幕府側と矢文のやり取りをして、中の様子を伝えていたのですが、その手紙が反乱軍に見つかって、本丸にて捕らえられていたところ、落城のドサクサで幕府側に助けられ、無事に生き残っていたのです。
その大砲着弾の時の、反乱軍の士気の下がりぐあいも、彼が、生還したからこそ、後世に伝わっているわけです。
おそらく、彼なら、四郎の顔を知っていたはず・・・しかし、なぜか、右衛門作が首実検に駆り出される事はなかったのです。
母親がはっきりと認めたわけでもないのに、なぜ、右衛門作を首実検に立ちあわせなかったのか?という謎から、あの首は本当に四郎だったのか?という憶測が飛び交い、天草四郎・生存説は、乱の直後から囁かれ、今もなお、消える事がないのです。
もちろん、乱が鎮圧された後も、四郎が神の子であるという事を信じ続けている人も数多くいたという事です。
それは、四郎の敵となった島原城主・松倉勝家の松倉家や、唐津城主・寺沢堅高(かたたか)の寺沢家が、乱の後、ほどなく断絶となる事で、「天の意志が下された」と囁かれるようになったからなのですが・・・
ただ、残念ながら、どちらかというと、それは、「徳川の意志」ではないかと・・・
徳川に忠実な細川家は、きっちり生き残ってますからね。
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