めざせ!救民~大塩平八郎の乱
天保八年(1837年)2月19日、元大坂町奉行所与力・大塩平八郎が「救民」を掲げて挙兵・・・世に言う『大塩平八郎の乱』がありました。
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天保八年(1837年)2月19日朝8時・・・天満の方角に轟いた砲音が、大坂市民を目覚めさせます。
まずは自宅に火を放った大塩平八郎・・・次に江戸幕府の祖・徳川家康を祀る川崎東照宮に集合した一団は、東照宮に一発、北隣の朝岡邸に一発の大筒を打ち込んで、北側にある与力町・同心町でひと暴れした後、一路、天満橋筋を南下します。
着込みの野袴に、白木綿のハチマキを巻いた総大将の平八郎を先頭に、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』などと書かれた旗をを持ち、『救民』と大きく染め上げられたのぼりを風になびかせて・・・
しかし、二問の大砲を備えてはいるものの、その姿はいかにもまちまちで、陣羽織を着ている者、はっぴ姿の者、火事頭巾をかぶっている者など、見るからに寄せ集め・・・
手に持つ武器も、槍や刀や長刀やらとまちまちで、中には武器らしい武器を持っていないため、鍋や釜など家にある武器になりそうな物を、とりあえず手にしている者もいました。
そんな集団が、騒ぎを聞きつけて集まってきた周囲の人々に「味方につけ!」と声をかけながら進軍して行きます。
淀川に架かる天満橋までやってきた集団は、天神橋が、すでに幕府によって落とされていたために、西に進路を変え、天神橋をめざしましたが、ここでは橋を渡らず、そのまま淀川沿いを西に行き、難波橋を南下して、北船場に指しかかろうとしたのが正午頃・・・
この頃には、総勢300人の大集団になっていました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
やがて、北浜・北船場に入った集団は、豪商の家を次々と襲撃しながら、今度は、進路を東に変え、高麗橋を渡り、東町奉行所から大坂城をめざしたところで、城から出陣してきた幕府軍と壮絶な戦闘状態に入ります。
幕府軍は、城代・土井利位(としつら)(7月2日参照>>)の指揮のもと、加勢を求められた藩兵たち・・・そうなると、大塩軍の形勢は見る間に悪くなっていきます。
なんせ、向こうは武士=戦いのプロたちです。
こちらは、平八郎の弟子の一部を除けばほとんどが、近隣の貧しい農民や、差別部落の人たち・・・2度目の砲撃戦で死者がでたのをきっかけに、軍団は散り散りになってしまい、夕方4時頃には、もはや集団の形ではなくなってしまいました。
形勢不利と見た平八郎は養子の格之助とともに、見物人の群集にまぎれて姿を消し、八軒屋船着場から船に乗って逃走していきました。
以上・・・わずか9時間ほどで鎮圧された烏合の衆の反乱が大塩平八郎の乱です。
しかし、それまででも、農民の一揆や打ちこわしなど、いくらでもあったにも関わらず、規模的にも時間的にも、それらとあまり変わらないこの反乱が、250年続いた幕府を震撼させるでき事となります。
それは、まず、首謀者の平八郎が、元幕府の役人であった事、そして、歯車が少しズレた事で、結果的にすぐに鎮圧されて失敗には終るものの、ただの打ちこわしにはない計画性があった事・・・そして、何より、世論に与えた影響の大きさです。
なんせ、平八郎は、現役の与力時代は、かなりの敏腕で名を馳せた人物・・・
文政十年(1827年)の切支丹逮捕、
文政十二年(1829年)の奸吏糾弾(かんりきゅうだん)、
その翌年には破壊僧遠島事件・・・と、後に『三大功績』と呼ばれる大きな民政上の事件も解決しています。
気の合う上司・高井実徳(さねのり)の下で腕を奮い、目付役筆頭・地方役筆頭・盗賊役筆頭・唐物取締役筆頭・諸御用調役などの奉行所の重役を兼務して、与力としては最高と言えるぐらいの出世をした平八郎でしたが、やがて、その上司・実徳が高齢を理由に奉行所を去った事で、彼の人生は大きく変わります。
それは、先の『三大功績』の2番目・・・奸吏糾弾。
その名前でお察しの通り、これは、奉行所内の役人の悪事を暴いた事件・・・つまり内部告発です。
内部告発をした人間が、その後も、その職場にいられるのは、まわりに理解者がいるからで、その理解者がいなくなれば、そこにいづらくなるのは当然の事・・・平八郎は、実徳の退職をきっかけに、自分も奉行所を去り、すでに自宅に開設していた陽明学の私塾・『洗心洞』の運営に専念する事にします。
やがて、時は天保に変わり、未曾有の飢饉=天保の大飢饉が日本を襲います。
米の値段は上がり、一部の商人を除いては、ほとんどの庶民がその日食べる物にも困る状態となりますが、幕府はいっこうに対策をほどこしません。
それどころか、時の老中・水野忠邦は、自らの弟・跡部良弼(よしすけ)を、町奉行として大坂に派遣したのです。
良弼が、せっせと兄のために米を買い付け、江戸に回すと、大坂市中の豪商たちも、それを利用して平気で米の値段を吊り上げにかかります。
平八郎は、陽明学の知識を活かして考えた自らの『飢饉救済策案』を、何度も良弼にうったえますが、良弼には、兄・忠邦という強力なバックもいますから、元与力の隠居の意見など聞くはずがありません。
逆に、「与力の隠居ふぜいが身分をわきまえない事をしつこく言うのならのなら、お前を牢屋にぶち込むぞ」とまで言われてしまいます。
ここで、平八郎さん、ブチ切れました。
「もう、我慢でけへん!」とばかりに、塾の弟子たちとともに、天保八年(1837年)2月19日に乱を決行する計画を立てるのです。
なぜ、この日だったのか?
それは、赴任してきたばかりの西町奉行・堀利堅(としかた)が、東町奉行の良弼の案内で、天満を巡回する日だったからで、途中の朝岡邸で休息する時間を狙って、ふたりを一挙に爆死させる計画・・・つまり、この乱は単なる打ちこわしではなく、幕臣の暗殺計画だったわけです。
ところが、計画は裏切り者の密告によって、奉行所側にバレてしまったために、急遽、時間を早めての決行となってしまったのです。
それが、冒頭に書いた朝8時・・・おかげで、良弼と利堅が命拾いすると同時に、一つ目の歯車が狂ってしまいました。
次に、平八郎は、乱を決起すると同時に、奉行所内のワイロまみれの実態を綴った書類を江戸へ向けて発進していたのですが、頼んだ定飛脚(じょうびきゃく)が急病のため、しかたなく知人に頼んだものの、それが、箱根から三島宿に転送される途中で開封されて持ち去られ、木箱だけが箱根山中で発見されてしまうのです。
「この騒ぎが江戸に伝わると同時に、あの密書が届いたなら、江戸で何かが起こり、幕藩体制に変化があるかもしれない」という期待は潰えてしまい、二つ目の歯車も狂ってしまったのです。
そう、やはり、この乱は単なる打ちこわしではなく、「幕藩体制を変えたい」という明確な意思のもとで決行されたのです。
・・・とは言え、上記の通り、わずかの時間で鎮圧されてしまった大塩平八郎の乱・・・しかし、民衆は、しっかりとその意図を見抜いていました。
乱は終結しても、その影響は千里を走ります・・・が、そのお話は、逃走した平八郎父子の消息がわかる3月27日のページでどうぞ>>。
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本家HPでは、大塩ゆかりの地を訪ねる歴史散歩【大塩平八郎の足跡をたどる】>>
で史跡への行き方を紹介していますので、よろしければどうぞ!
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