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2009年2月 6日 (金)

姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで…

 

寛文六年(1666年)2月6日、徳川家康の孫で、豊臣秀頼との政略結婚から大坂城・落城・・・と波乱の人生を歩んだ千姫が、70年の生涯を閉じました。

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豊臣家と徳川家をつなぐ架け橋として、わずか7歳で豊臣秀吉の息子・秀頼と結婚した千姫・・・やがて、大坂夏の陣の時、炎に包まれて落城する大坂城内から脱出し、その後、家康の忠臣・本多忠勝の孫・忠刻と再婚するも、夫に先立たれて・・・

・・・と、動乱の戦国を生きた千姫ですが、一昨年のご命日の日に、坂崎直盛との結婚を断った高ピーなお嬢様像や、ウワサになっているご乱行なども、ほとんどが後世の創作である事を書かせていただきました(2007年2月6日参照>>)

実際の千姫は、二度目の夫の死後に、仏門に入って質素な生活を送り、ひっそりとこの世を去っています。

Dscn7573a300
姫路城と言えばやはり、このショットが必要かと・・・

そんな千姫さまを偲びながら、本日は、あの姫路城西の丸にある千姫さまゆかりの化粧櫓(けしょうやぐら)を紹介したいと思います。

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本多忠刻の元へと二度目の結婚をした千姫・・・その忠刻の母親は、家康の孫の熊姫で、つまりは、千姫とは従兄弟になるわけですが、その熊姫が、千姫を「ぜひ、息子の嫁に・・・」と願った理由は、やはり、将軍家直系の血筋と、将軍の娘という立場から発生するケタ違いの持参金です。

結局は短い結婚生活であり、授かった男の子も3歳で亡くなってしまったため、姑・熊姫が望んだ将軍の血を引く男子という夢は叶いませんでしたが、持参金は望み通り・・・おかげで、本多家の姫路城には、立派な櫓が建った・・・という事を、そのご命日のページにも書かせていただきましたが、その持参金で建てた櫓というのが、現在の姫路城の西の丸にある化粧櫓なのです。

Kesyouyagura2330 化粧櫓

持参金=化粧料で建てたので化粧櫓なんですかね?やっぱり。

もちろん、この化粧櫓だけでなく、そこから続く渡櫓(わたりやぐらと塀に囲まれた西の丸一帯が、千姫の持参金で構築され、当時は、忠刻&千姫の住まうお屋敷も、この西の丸内に建てられていました。

二人のお屋敷は、あの伏見城を取り壊した材料を使用して建てられた桃山文化の色濃い立派な書院造だったそうですが、現在は、西の丸を囲むよう建つ櫓だけになってしましました。

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西の丸全体の写真:右手前が化粧櫓、後方の山が男山です

上記の写真は、その西の丸ですが、右手前の少し大きな建物が化粧櫓で、そこから向こう側に連なっているのが渡櫓・・・写真では、西の丸全体が塀で囲まれているように見えますが、塀は手前側だけで、向こう側は渡櫓です。

Dscn7584800 渡櫓とは、内部に廊下がある長い櫓の事で、写真の西の丸の場合は、左半分ほどが渡櫓で、途中からは、廊下の横に八畳ほほどに区切られた部屋(←写真)が連なる部分となり、この部分は長局(ながつぼね)と呼ばれて奥女中たちが暮らしていました。

しかし、女の園とは言え、以前ご紹介した大阪城の多聞櫓(たもんやぐら)(11月2日参照>>)同様、やはり、石落しなる物が存在しますので、いざという時は戦うんですね~。

Himezizyouisiotosi
石落し

幸いな事に、この姫路城が戦火に見舞われる事はありませんでしたが・・・。

化粧櫓は、この長局の端の部分にあり、18畳・15畳・6畳の三つの部屋に区切られたその内装は、居住性があり、城の内部とは思えないようなきらびやかな装飾がされていたという事なので、やはり、ここが、男社会とは一線を引く女の園だった事がうかがえますね。

天満天神を信仰していた千姫は、姫路への輿入れ後、この姫路城の西方にある男山に天神様を祀り、毎朝、西の丸の長局の廊下から、西に向かって参拝したのだそうですよ。

上記の西の丸全体の写真の奥に見えるこんもりとした森のような小山が男山です。

参拝する際の千姫さまは、この化粧櫓を休息所として利用したって事ですが、西の丸の真ん中にあった屋敷から、長局の廊下まで行くのに、途中で休憩が必要・・・という感覚は、小市民の私にはわかりかねますが、豪華な着物をまとっている場合は、けっこう疲れるのかも知れません。

世界遺産で国宝で、日本のお城の中ではトップの人気を誇る姫路城・・・やはり、菱の門をくぐっってからは、直で天守閣に向かわれるかたが多いように思いましたが、時には、この西の丸でのんびりと、戦国の動乱を生き抜いた千姫に思いを馳せるのも良いかと思います。
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コメント

こんにちは。やっぱりいいですね、姫路城。お菊井戸なんてのもあって驚かされますけど(o^-^o)
姫路城から程近い(のかな?)ところに、書写山円教寺という立派な古刹があります。ロープウェイで上がるのですが、降りてからの上りがなかなかのもので、へろへろになって到着したところに見える舞台造りの本堂には、有難味の倍加する気がします。
忠刻さんの父上が修築に力を入れたとのことで、奥へ進むと本多忠勝様始め、本多家の廟所があります。(塀に囲まれているので、外からはちらりとしか見えません)
以前から、「花も実もある武将」と言われながら忠勝様のお墓はひっそりしてるのが気になっていましたので、ここで立派な廟所にあってなんだかほっとしました。
親のお墓を立派にしてあげられるかどうかは、子の努力次第、その点忠政さんは面目を施したと思います。
後惜しむらくは千姫の産んだ跡取りが生きていてくれれば、後の本多家も相続争いにならずにもう少し華やかだったかも。分割を繰り返して小さくなってしまい、残念です。
すいません、本題からずれてしまいましたm(_ _)m

投稿: おきよ | 2009年2月 6日 (金) 10時37分

おきよさん、こんにちは~

私は切腹丸に驚かされました~

>千姫の産んだ跡取りが生きていてくれれば・・・

ホントにそう思いますね。

投稿: 茶々 | 2009年2月 6日 (金) 17時16分

茶々さんこんにちは

姫路城って本当にすばらしかったです。
千姫の化粧櫓、長細い渡櫓、ともかなり距離があって広かったけど、刀をふりおろせないようにか天井が低くて、窓が少ないうえに小さいためとっても暗かった印象です。
奥方様ですから、きちんとお化粧をして、運動もしない、日にもあたらないでしょうから白米ばかり食べていたら脚気や、腰痛、貧血など病気になるだろうと思いました。
忠刻さんは忠勝さんと違って、ハンサムで優しいイメージです。

投稿: エコリン | 2009年2月 8日 (日) 11時21分

エコリンさん、こんにちは~

私は、化粧櫓と長局を仕切る扉のスゴさに驚きました。

説明には、「戦となった時、女性たちを守るために・・・」と書かれていましたが、何となく、男子禁制・・・隔離された男には入れない部分となっていたような気がしました。

ドラマに登場する大奥の扉は、一見襖のように描かれていますが、ひょっとして、実際には、このようなガッシリとした扉だったのかな?と・・・

投稿: 茶々 | 2009年2月 8日 (日) 15時04分

芦田愛菜ちゃんの大河ドラマ再登場が決まりました。
思った通り千姫役です。予想的中 ( ̄ー ̄)ニヤリ。
「残り2か月」の段階で登場します。
秀頼との婚礼の場面の収録について、今日のスポーツニッポンに書いてありました。
そうなると成人した2人を演じる俳優は?

投稿: えびすこ | 2011年7月11日 (月) 17時07分

えびすこさん、お見事!

予想的中ですね。
芦田愛菜ちゃんブームはしばらく続きそうですね。

投稿: 茶々 | 2011年7月11日 (月) 21時39分

当てました。(*^-^)第1回が終わった後に「再登板しそうかな?」と何となく思いました。
実は「天地人」でも、加藤清史郎くんの再登板も予想していたんですよ。
来年の大河ドラマでは子役は出るかな?

投稿: えびすこ | 2011年7月12日 (火) 19時01分

えびすこさん、こんばんは~

やはり、誕生のところからやるんでしょうね

投稿: 茶々 | 2011年7月13日 (水) 01時59分

池田輝政公の15代目の末裔です。何時かはずっと此処に行きたいと思っています。此処は、世界的に見ても凄い城ではないでしょうか。
 何時かは、行ける日を楽しみにしております。

投稿: 池田夏夫 | 2011年10月15日 (土) 19時42分

池田夏夫さん、こんばんは~

そうですか…
ご子孫なら、一度は見てみたいですね~
現存しているのはスゴイ事だと思います。

投稿: 茶々 | 2011年10月16日 (日) 02時24分

初めまして。
今年の初詣に千姫天満宮を参拝しました。
化粧櫓の話面白く勉強させてもらいました。
好古園のすぐ隣の櫓が化粧櫓なんでしょうか?

投稿: 旅人ペンギン | 2013年2月25日 (月) 12時54分

旅人ペンギンさん、こんにちは~

はい。
好古園の向い側の西の丸にある櫓が化粧櫓です。

見物としては、西の丸を囲むようにある渡櫓の向って左端の入り口から入って、ず~っと奥に行った最後の1番大きな櫓が、そうです。

投稿: 茶々 | 2013年2月25日 (月) 14時50分

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