ここから日本の歴史が始まる?天武天皇の律令国家
天武十年(681年)2月25日、第40代・天武天皇が律令の制定を命じました。
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古代最大の争乱と言われる壬申の乱(7月22日参照>>)において、兄・天智天皇の息子(つまり甥)の大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)を倒して政権を奪取した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、翌・天武二年(673年)2月27日、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、第40代・天武天皇となります。
そんな天武天皇が新しい国家を目指して、天武十年(681年)2月25日に律令の制定を命ずる詔(みことのり)を発するわけです。
「律」とは刑法の事、「令」とは国家統治組織や官吏職務規定・・・つまり行政の事なのですが、この律令がまだ完成していない朱鳥元年(686年)に天武天皇は亡くなってしまいます(9月9日参照>>)。
その後、その遺志を継いだ奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのおうじょ・後の持統天皇)と息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が、制定事業を進めていくのですが、その草壁皇子も、持統三年(689年)の4月に急死してしまいます。
そして、その直後の6月に『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』なる日本史上初の体系的な律令法が発令されるのですが、そのもの自体は現存せず、発令された時は令のみで律はなかったとも言われ、次期天皇になるべき草壁皇子の急死によって、急遽、慌てて発令した感はぬぐえませんねぇ。
現在言われている内容も、おそらく「これも決めてた」「あれも決めてた」的な感じで、後から付け加えていったような気もします。
ただし、その後、奥さん自らが持統天皇となって、藤原京に遷都したり(12月6日参照>>)という大事業をこなしていますので、たとえ、後から作られたとしても、その『飛鳥浄御原令』に、天武天皇の意向が反映されていた事は確かだと思いますが・・・。
では、天武天皇が実現したかった律令国家というものは、どんなものだったのでしょうか?
・・・っと、その前に・・・
この時代の第一の史料とされるのは、ご存知『古事記』と『日本書紀』で、それ以外には、ほとんど史料というものが無いのが現状です。
なので、この頃の歴史は、記紀を本筋にして考えて行くしかなく、そこから逸脱すれば、学問的には異説・トンデモ説となるわけですが、やっぱり、どう考えてもおかしな部分があるのも確かです。
もはや、記紀に書かれている事が100%正しいと思っている人も少ないでしょうが、実は、その記紀を編さんするように命令を出したのも天武天皇・・・しかも、この同じ年、天武十年(681年)に出しているのです。
そして、完成したのは・・・
古事記が和銅五年(712年・1月28日参照>>)、
日本書紀が養老四年(720年・4月21日参照>>)
ともに、『帝記』『旧辞』をもとにしていると言いますが、つまりは、この天武天皇より以前の出来事を、天武天皇から後に書いたという事になります。
臭います~
以前、【蘇我入鹿・暗殺≠大化の改新】(6月12日参照>>)でも、書かせていただいたように、ひょっとしたら大化の改新は、改新というほどの改新は無かった可能性も・・・
だいたい、この入鹿暗殺は、明らかにクーデターです。
クーデターとは、政権を持たない者が、その政権を奪取すべく行う力づくの政変・・・もし、記紀が語るように、この時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の母親の皇極天皇が、その名の通り王であったのなら、その息子がクーデターを起す必要はないわけです。
ひょっとして、この時、政権を握っていた・・・つまり王だったのは蘇我氏ではないか?と考えます。
なので、王である蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇は政権を奪取したのです。
そして、再び起こった政権交代が、この大海人皇子=天武天皇・・・。
冒頭に書いた通り、記紀では、この天武天皇は、天智天皇の弟という事になってますが、それにしては、天武天皇の抱いていた国家というものが、それまでの国家と、あまりに、違うような気がするのです。
やっと、天武天皇の律令国家のところに話が戻ってきましたが・・・(^-^;
実は、この天皇という称号・・・それまで「大王」と呼ばれていたのを「天皇」に変えたのは天武天皇です。
そして、それまで「倭国」と称していた国名を「日本」に変えたのも天武天皇・・・。
国家元首の名前と国名を変えるなんて!・・・単に、兄貴&その息子から政権を奪取したにしては、かなりの変化だと思いませんか?
そのうえ、太政大臣や右大臣・左大臣も廃止し、現天皇とその息子たちが政権の首脳部を握り、それまでの豪族は、その外側の一段下に置かれるのです。
さらに、天皇家の祖として天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る伊勢神宮を特別扱いしだすのも、この時期からです。
つまり、それまでの政権だった天智天皇を兄とし、その兄が倒した蘇我氏を、王ではなく臣下とする事で、それ以前に政権を握っていた別の系統とつなぎ合わせ、神代の昔から一本につながる現政権の正統性を造り上げたのが、古事記であり日本書紀の編さんという事になります。
これらのつじつまを合わせるために、蘇我氏が政権を握っていた間にあった、悪い事はすべて蘇我氏のせい、良い事はすべて聖徳太子のおかげ・・・しかも、その蘇我と太子の両方ともの直系の子孫が絶えるという、よけいつじつまの合わない歴史を作る事になり、さらに、現政権があたかもそれを受け継いでいるかのような大化の改新をでっちあげなければならなくなったのでは?
・・・と、少し、断定的でキツイ言い回しをしてしまいましたが、これは、あくまで私見・・・空想の産物で、確固たる証拠があるわけではありません。
もちろん、現在につながる天皇家や日本の歴史を否定するものでもありません。
学問としてではなく、あくまで、歴史を楽しむ中の一つの説として提案してみました。
こう言いながらも、実際には、第一の史料である古事記&日本書紀以上のシロモノが発見されない限り、その内容に沿って歴史が綴られるのが、正統であると考えますので・・・。
★【聖徳太子のどこが怪しいのか?】>>
★【聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?】>>
も見てね!
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コメント
『古事記』と『日本書紀』
そもそも、同時期なのに、
なぜ二つ作ったのでしょうか?
なぜ中身が違うのでしょうか?
知らないことだらけです。
今度、特集してください。
(自分で調べろというツッコミは、無しで)
投稿: ことかね | 2009年2月25日 (水) 16時44分
そう、確かに「歴史は勝者に都合よく伝えられていく」ものだと思います。最近の蘇我氏邸跡の発掘調査の結果、実は蘇我氏は天皇家をないがしろにするどころか、外敵から守るために天皇家の居城を見降ろす位置に大きな屋敷を構えていた(防波堤のような役目をはたしていた)という説が出ているそうですが・・・発掘資料はごまかしがききません。時の権力者も千数百年後に土の中から出てきたものに都合よく手出しすることはできませんから。歴史は様々な角度から見る方がいいと思いますが、大化の改新前後の権力者を取り巻く状況が少し違った視点で見ることができました。茶々さん説に1票です!
投稿: Hiromin | 2009年2月25日 (水) 20時35分
ことかねさん、こんばんは~
そうですね~ややこしいです。
ものすご~くおおまかに言い表すとしたら、古事記は国内向けに、日本書紀は海外向けに作られたものだという事らしいですが、(古事記は万葉がなで日本書紀は漢文なので・・・)なんせ、すでに平安時代に貴族の間で、読み解きの勉強会が行われていたほど難解なので、それもあってるかどうかわかりませんね。
いつか、比較検討をメインにしたページも作ってみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2009年2月25日 (水) 23時20分
Hirominさん、こんばんは~
>歴史は様々な角度から見る方がいいと思います・・・
それが一番の楽しみですね・・・
古代は謎の部分が多いので、よりいっそう楽しいです。
投稿: 茶々 | 2009年2月25日 (水) 23時28分