榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦
明治二年(1869年)3月25日、蝦夷共和国を誕生させたばかりの榎本武揚らが、新政府軍の軍艦・甲鉄を奪おうとした宮古湾海戦がありました。
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慶応四年(1868年)1月3日に勃発した、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に敗れた後、大勢の部下を置き去りにしたまま、単身、江戸城へと向かった江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・(1月6日参照>>)。
その日、慶喜に徹底抗戦を訴えるつもりで、大阪湾に停泊中だった幕府軍艦・開陽丸から大坂城へと向かった幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、入れ違いで慶喜に会えないばかりか、その開陽丸に乗って慶喜が江戸へ向かってしまったため、しかたなく富士丸という船に乗って、燃え盛る大坂城をあとに、一路、江戸へと向かいました(1月9日参照>>)。
その後も、徹底抗戦の構えを崩してはいなかった榎本でしたが、ご存知のように、江戸総攻撃を回避したい幕府陸軍総裁の勝海舟と、新政府軍東征大総督府・参謀の西郷隆盛の会談(3月14日参照>>)などで、江戸城の明け渡しとともに、幕府海軍の軍艦の引渡しも決定してしまいます。
慶喜も徹底した恭順の態度をとる中、やっぱり納得できない榎本は、江戸城無血開城となった4月11日の夜、開陽丸を中心とする幕府軍艦・8隻を率いて、館山に退去してしまいます。
勝の説得で、何とか、艦隊とともに品川沖に戻った榎本でしたが、やがて5月24日に、徳川家が駿河(静岡県)70万石への転封と決まった事で、どうやら、その不満も抑えきれないところまで来てしまったようです。
「わずか1~2藩によって事が決定するのはおかしい・・・徳川の旧臣のためにも蝦夷地を開拓してやる」と・・・。
軍艦への燃料補給、軍資金の調達、未だ抗戦中の東北の諸藩との連絡・・・密かに準備を重ねた榎本は、8月19日、開陽丸を旗艦に、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形という3隻の軍艦と、その他・輸送船を加えた計8隻で品川を脱出したのです(8月19日参照>>)。
この開陽丸は、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた世界にも通用する最新鋭の軍艦・・・つき従う回天もそれに次ぐ大きさで、さらに蟠龍・千代田形も加えると、まさに、世界屈指の艦隊と言えるものでした。
途中、嵐に見舞われながらも9月3日に仙台に到着しますが、会津若松城がもはや落城寸前であったため(9月22日参照>>)、ここでの戦いは避け、逆に、未だ血気盛んな会津の精鋭たちを乗船させて、さらに北の蝦夷地を目指しました。
蝦夷地に着いた榎本らは、すでに新政府軍に引き渡されていた函館を奪い(10月20日参照>>)、五稜郭を奪取して、慶応から明治元年に改められた1868年の12月、蝦夷共和国を誕生させたのです(12月15日参照>>)。
こうなると、この時代、まだ、航空機での攻撃はありませんから、北海道という海に囲まれた地なら、海を渡って攻撃を仕掛けるしかなく、新政府に比べて、世界有数の海軍を持っている蝦夷共和国は、少ない人数ではありながらも、日本という国を相手に、何とかなるかも知れない状況であった事は確か・・・榎本も、そう思っていたに違いありません。
しかし、すでに、この時、一つ目の誤算が生じていたのです。
実は、陸上では五稜郭や松前城を攻略し、共和国樹立に向けての準備でイケイケムードだった去る11月15日・・・江差沖に停泊中だったあの開陽丸が、嵐のために座礁して沈没してしまっていたのです。
そして、その共和国が誕生した13日後の12月28日、二つ目の誤算が生じます。
それまで中立の立場を示していた欧米各国が、新政府の要請に答えて局外中立の解除を布告したのです。
そのために、すでに幕府のお金でアメリカから購入していた軍艦・ストーンウォール号(日本名:甲鉄)が、アメリカ側から新政府へ渡されてしまったのです。
これは、痛い・・・最新鋭の開陽丸を失ったばかりか、本来なら、その代わりとなるべき甲鉄が新政府の物となってしまったのですから・・・。
逆に、新政府軍は、その甲鉄を中心に、蝦夷共和国に対抗できる海軍の準備にとりかかります。
その甲鉄のほかに朝陽(ちょうよう)・春日をはじめとする5隻の軍艦に、飛龍(ひりゅう)・豊安(ほうあん)といった輸送船、さらに外国船をチャーターし、万全の態勢を整えた新政府軍の8隻の艦隊が、岩手県の宮古湾に到着したのは、年が改まった明治二年(1869年)3月の事でした。
そのニュースを聞きつけた榎本・・・最新鋭の甲鉄を奪おうと考えます。
まずは、蟠龍と高尾(たかお・函館で手に入れた秋田藩の軍艦)の2隻で、甲鉄を左右からピッタリと挟み、回天からなだれ込んだ斬り込み隊が、そのまま甲鉄を乗っ取る・・・
はっきり言って、中世の海賊のような作戦ではありましたが、斬り込み隊の総指揮は、あの土方歳三・・・彼の他にも、元新撰組・隊士が多数、さらに、神木隊(しんぼくたい)や彰義隊(しょうぎたい)・遊撃隊(ゆうげきたい)と、いずれも腕に覚えのある猛者がズラリ・・・しかも、この時、新政府軍は、この宮古で攻撃されるとは夢にも思っていなかったようで、そう考えれば、成功を期待しなくもない作戦です。
ところが、ここで、3つめの誤算が生じます。
3月21日に函館を出航した3隻を、暴風雨と濃霧が直撃・・・彰義隊や遊撃隊が乗船した蟠龍はどこへともなく漂流し、神木隊が乗船した高尾はエンジントラブルで速力半減。
かくして、明治二年(1869年)3月25日早朝・・・宮古湾に姿を見せたのは、回天1隻だけという悲惨な事に・・・。
しかし、もう、後戻りはできません。
星条旗を掲げ、アメリカ船のように偽装して甲鉄に近づく回天・・・しかし、真横に接舷(せつげん)させるも、回天と甲鉄の高低差は、約3m・・・必死のパッチで回天から飛び降り、甲鉄に乗り移れたのは、わずか7名というありさまでした。
ただ、さすがに、斬り込みに慣れた猛者たち、また、新政府軍にとっては、ふいを突かれた奇襲戦とあって、新政府軍は7名の戦死者を出してしまいますが、回天側も、乗り移った7名のうち、無事に帰還できたのは、わずか2名・・・艦長・甲賀源吾(こうがげんご)をはじめ24名の死者を出してしまい、甲鉄の乗っ取りどころか、まったくの惨敗で、わずか30分ほどで、この奇襲作戦は終ってしまったのでした。
この敗戦によって、本州⇔北海道間の制海権を失う形となってしまった榎本らは、五稜郭などへ陸戦に備えての防備を調えざるを得なくなってしまいました。
函館戦争の先が見えた・・・榎本にとって、3月25日は、そんな歴史的な日であった事でしょう。
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コメント
今日の記事…奇しくも北海道の札幌に鎮座する西野神社の神主さん=僕と同じ学校を卒業した後輩が、自分のブログでも取り上げてました。それに因ると東郷平八郎も新政府軍の一員として、この海戦に参戦してたようですね。日本国内が分裂して戦った函館戦争の緒戦に参戦した人物が、その何年か後には…国の威信を懸けて大国ロシアの艦隊に挑み見事撃破するんですから、歴史の流れって実に面白いです。
投稿: マー君 | 2009年3月25日 (水) 17時00分
マー君さん、こんばんは~
東郷平八郎は三等士官で、この海戦の時は、春日に乗船していたようです。
その縁で、激戦地の近くの大杉神社・境内には、東郷さんの筆による戦蹟碑が立っているそうですよ。
投稿: 茶々 | 2009年3月25日 (水) 22時10分