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2009年3月 7日 (土)

頼朝暗殺計画・実に37回~平家の生き残り・平景清

 

建久六年(1195年)3月7日、壇ノ浦で滅亡した平家の家臣・平景清が亡くなりました

・・・・・・・・・

本日の主役・平景清(かげきよ)さん・・・

実際には、平家の人ではなく、藤原南家伊藤の流れを汲む藤原忠清(ただきよ)の息子なので、本名は藤原景清と言い、その勇猛さから、通称・上総悪七兵衛(かずさあくしちひょうえ)と称されるかたなのですが、代々平家に仕えた家臣の家柄で、平家の血を引いているとも言われ、今回は平景清さんのお名前で紹介させていただきます。

さらに、この景清さん・・・上記の通り、壇ノ浦でも生き残り、その後、何度も頼朝の暗殺計画をくわだてるところから、武門の誇りと滅びゆく判官びいきが相まって、多くの伝説に彩られた武将です。

謡曲や浄瑠璃・歌舞伎のモデルにもなり、それらも含めれば、その伝説は数知れず・・・

今回は3月7日とさせていただきましたが、亡くなった日にちにしても、諸説ありますし、その死因についても、現在では、ただの病死であったとも言われているのですが、ここは、やはり、もともとの伝説に従って、思いっきりカッコよくご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

景清は、源平の戦いが本格的になってきた、あの富士川の合戦(10月20日参照>>)の直後に、父・忠清から信濃守に推挙され、彼自身も、本格的に源氏との合戦に参加するようになります。

木曽義仲源行家らとも戦い、一の谷の合戦では侍大将も努めています。

その後の屋島の合戦は、源義経の作戦で、わずかの兵を多勢と勘違いしてしまった平家が、早々と船に逃げ込むという義経ヒーロー伝説のような話(2008年2月19日参照>>)になってしまっていますが、その中でも景清の姿だけは、平家側の武勇伝として光っています。

それは、あの有名な扇の的(2月19日参照>>)の後の事・・・この日、早朝からの義経軍の民家への放火に幕を開けた屋島の合戦が、夕方近くになって一息ついた頃に、その扇の的の話が展開されるわけで、ご存知のように那須与一(なすのよいち)見事に扇を撃ち落とします。

この時、与一の弓に感動して、「あっぱれ!」とばかりに、船の上で舞いを舞い始めた平家の者がいたのですが、義経は、「あれも討ってしまえ!」と、与一に命令・・・与一は、やはりその者も撃ち落すのですが、何となくルール違反っぽいですよね。

案の定、この後、戦闘が再開される事になるのですが、その時、「ルール違反やないかい!」と、真っ先に、陸の義経軍めがけて突っ込んでいったのが、彼・・・景清なのです。

Kabutosikorocc しかも、源氏方の美尾屋(みおのや・美尾谷・水尾谷)十郎との死闘を繰り広げ、逃げようとした十郎の兜の(しころ・→右のイラスト参照)素手で引きちぎるという離れ業をやってのけ、平家物語のこの部分は「景清の錣引き」として有名な話となってます。

そんな勇猛果敢な景清は、あの壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)でも、討たれる事もなく、生け捕られる事もなく、うまく戦場を逃れて生きのびました。

そして、やはり、戦線を離脱して生き残っていた兄・忠光(ただみつ)とともに、その後は、源頼朝の命を狙う事に賭けるのです。

しかし、兄・忠光は、建久三年(1192年)、鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場にて、頼朝を暗殺しようとして失敗し、捕らえられて斬首されてしまいました。

そして訪れた建久六年(1195年)、頼朝が東大寺大仏殿にお参りをする事を知った景清は、チャンスとばかりに、平家の残党たちとともに上洛・・・当日は、東大寺・転害門(てがいもん)に身をひそめ、頼朝が来るのを待っていました。

Tegaimonkagekiyocc800
東大寺・転害門

しかし、肝心の頼朝が到着する前に見つけられ、捕らえられてしまいます

さすがの猛将も年貢の納め時・・・彼は、それまでに、なんと37回も頼朝の暗殺計画を立てていたのですが、これで万事休す!

しかし、捕らえられはしたものの、彼が、すぐに斬首される事はありませんでした。

どうやら、悲惨な逃亡生活の中、果敢にアタックし続けた姿が、主君を思う武将の誉れとして鎌倉武士に写ったようで、彼には、かなりの同情が寄せられていたのです。

とりあえずは、幕府でも武闘派で知られる重臣・和田義盛(よしもり)のもとに預けられ、屋敷の外へさえ出なければ、自由の身としての生活を送る事になりました。

自由とは言え、まわりは敵ばかり・・・さぞや肩身の狭い生活を・・・と思いきや、「運動不足や!」と言っては庭で馬を乗り回し「自由なんやからえぇやん!」と言っては和田一族の宴会で大騒ぎ・・・。

困った義盛は、頼朝に相談して、景清のおもり役を交代してもらいます。

次に、彼を預かったのは、八田知家(はったともいえ)という人物・・・彼も、義盛に勝るとも劣らない武闘派で、とても情け深い男気のある人でした。

敵ながら豪快で大胆な景清に、良い印象を持っていた知家は、義盛にも増して親切に、丁寧に、景清を保護したのです。

この彼の親切さに、張りつめていた景清の心が、プッツンと切れてしまったのです。

そう、景清は、武勇優れた豪快な人ではありましたが、生意気でずうずうしい人ではありません。

実は、義盛宅でのあの大胆な行動は、敵に捕らえられ、その地で保護されるというミジメで悲しい心の内を悟られまいとしての、精一杯の横暴ぶりだったのです。

しかし、そんな自分の態度に、何一つ文句を言わず、まるで息子のように、厚くもてなしてくれる知家のやさしさに、彼の心は、見事に崩れました

実は、源氏に殺されたのは、兄だけではありません。

父・忠清も、平家滅亡の直後に捕らえられ、京の六条河原で斬首されていたのです。

「それなのに、自分だけ、こうして生きながらえている・・・しかも、敵なのに、こんなに厚い待遇で・・・」

やがて、彼は、化粧坂(けわいざか・仮粧坂)の中腹にある洞窟に籠るようになります。

しかし、それでも、毎日八田家から、食事が運ばれて来るのですが、彼は、それには手をつけず、ただ、ひたすら読経を続けるのです。

やがて、勇猛と称された武将の身体は痩せ細って見る影もなくなり、建久六年(1195年)3月7日・・・とうとう、その命、尽き果てたのです

現在、鎌倉市にある化粧坂の入り口には、「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などと呼ばれている洞窟があり、そこが景清最期の地だと言われています。

何度も挑戦した頼朝暗殺・・・
痛快で豪快な武将の滅び行く哀れ・・・

そんな彼の最後を、思いっきり美しく描きたいと思う人の心が、これまでも、そしてこれからも、景清の更なる伝説を、より鮮やかにしてくれる事でしょう。
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コメント

初めまして毎日ブログを楽しく読ませて頂いております。さて…この平(藤原)景清さんですが、九州の宮崎にも伝説があり、生目という地名の由来になっている伝説があります。なんでも源氏が繁栄する様を見たくないと自ら目をくり抜いて川に投げ捨てたとか…現在、生目は住宅街やソフトバンクホークスのキャンプ地となっています。また何か見つけたらご報告つかまつりますw

投稿: 維新入道 | 2009年5月25日 (月) 02時46分

維新入道さま、かたじけない。

なるほど、景清さんは、西へと落ちのびたという事ですね。

やはり、その伝説も景清さんらしい凄まじいものですね。

>また何か見つけたら・・・

ハイ!よろしくお願いつかまつるw

投稿: 茶々 | 2009年5月25日 (月) 06時16分

壇ノ浦で生き残ったなら、安徳と、宗盛連れて逃げれば...二人で、源氏が弱る時、敵を倒したかも..。

投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 05時17分

ゆうとさん、こんにちは~

以前書かせていただきましたが、安徳天皇には生存説がありますね~

子孫と名乗る人が昭和のはじめまで続いていましたし…

伝説では平資盛が、安徳天皇を連れて逃げます。

投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 12時21分

忠清は、源氏に、殺されたのに、平家に、殺されたと、か書いてるんですが...?

投稿: ゆうと | 2012年3月30日 (金) 18時49分

ゆうとさん、見つけていただいてありがとうございます。

話の流れからして、もちろん源氏です。
訂正しときました。

また、見つけられたら教えてください。

投稿: 茶々 | 2012年3月31日 (土) 00時33分

この方が、阿古屋さんの彼氏だった訳ですね。
先週六波羅蜜寺を訪れ、阿古屋の琴責めなるお話を、石碑を読み知りました。

投稿: soap | 2012年5月29日 (火) 00時43分

soapさん、こんばんは~

「阿古屋の琴責め」は歌舞伎で有名ですね。
なかなか難しい役のようです。
景清さんは伝説の多い人です。

投稿: 茶々 | 2012年5月29日 (火) 01時31分

源 平 討 魔 伝

我が魂は不滅なり!

むかしやったゲームの主人公が、この景清だったとは…最近になって知りました

ゲームのなかでは檀浦で討ち死にしたの景清が、天帝の意思で復活というものだったのですが、実際はこんな最期を迎えてたんですね。

いま思うと、源氏のほうが悪という設定が斬新でした。
でもここの記事を読んでいても、平家(伊勢平氏)と源氏を比べると、源氏(坂東平氏を含め)のほうが身内での争いが多く、現代人の感覚では残酷に感じます。

投稿: | 2012年11月 9日 (金) 03時09分

へぇ~、景清さんがゲームの主人公になっていたんですか…

ゲームの名前だけは聞いた事ありましたが、内容は知りませんでした。

頼朝の嫡流は、わずか3代ですからね~

投稿: 茶々 | 2012年11月 9日 (金) 12時51分

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