豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役
文禄元年(1592年)3月17日、朝鮮出兵のため、全国から京都に集まっていた諸大名のうち、先発隊が九州に向けて出陣を開始しました。
・・・・・・・・
ご存知、豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役ですが、その経緯や謎については、以前、秀吉自身が京都を出立する日に書かせていただいた【豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎】(3月26日参照>>)を見ていただくとして、本日は、その出立の様子・・・
朝鮮出兵の際に、その本拠地となったのは、肥前(佐賀県)の唐津にあった名護屋(なごや)城・・・一旦、京都に集まった諸大名は、文禄元年(1592年)3月17日、隊列を組んで、その名護屋城に向けて出陣したのです。
彼らの勇姿を一目見ようと沿道には大勢の人だかり・・・見守る京都の町びとになったつもりで・・・
まず、先頭を行く一番隊は、前田利家隊・・・
加賀梅鉢紋をあしらった旗も勇ましく、鉄黒(かねぐろ)の甲冑・・・およそ2000の隊列は、加賀百万石にふさわしい威厳をかもし出しています。
やがて、その隊列が終ろうとすると、その向こうには、三つ葉葵の軍旗が見えてきました。
およそ3500の軍勢の中ほどには、あの金扇の馬標(うまじるし・馬印)が、朝日に光ります。
(金扇の馬標がどんな物かは、15代・慶喜が大坂城に忘れたお話とともにコチラでどうぞ>>)
二番隊の徳川家康隊です。
・・・と、その時。
集まった民衆から、どよめきの声があがります。
竹に雀・・・仙台笹の家紋の軍旗に、紺地に金の日の丸をあしらった幟(のぼり)を、30本ほど風になびかせながら、黒の漆(うるし)の具足で統一された兵士たち・・・その黒一色の中に、ところどころ金の装飾が光ます。
刀と脇差は、朱色に銀の装飾で統一され、馬上の武者は、それぞれ豹や虎の馬鎧(うまよろい)に、金色の半月が書かれた黒の母衣(ほろ・背後からの矢を防ぐ布製の防具)で揃え、中には、孔雀の羽根でさらに豪華に演出する者も・・・
名のある武将は九尺(2m73cm)の太刀を背負い、それを金の鎖で肩に結ぶという画期的なスタイルで登場・・・
京都の人々のド肝を抜いた、この三番隊の武将は・・・ご存知、独眼竜・伊達政宗です。
華麗を極めたこの隊列のご本人は・・・
黒羅紗(らしゃ)の地、背中に大きな金色の家紋をあしらった陣羽織は、裾にいくにつけ紅羅紗の大小の水玉模様・・・さらに、袴は黒羅紗に金モールが放射状に広がり、おりからの春の日差しにキラキラと輝く・・・
赤の錦のひれ垂に、黒漆の五枚胴・・・もちろん、兜は、細く金に光る三日月の前たて・・・
金をふんだんに使った豪華さはあれど、派手になり過ぎないセンスの良さです。
政宗の幼い頃からつちかった芸術的センスが遺憾なく発揮された見事な隊列・・・
京の人々は、「さながら動く絵巻物を見るようだ」と絶賛したと言います。
皆口々に・・・
「さすがは伊達者は違う」
「あれが、伊達者か!」
と歓喜の嵐です。
オシャレな男の代名詞・伊達男(だておとこ)という言葉は、こうして生まれました。
まさに満開の桜吹雪の下、薄いピンクの花びらに、黒と金の豪華絢爛な隊列は、春の光を受けて、まばゆいばかりに輝いていた事でしょう。
カッコイイ・・・(≧∇≦)見たかったなぁ~
お詫び:個人的好みのため、政宗隊ばかりに密着で・・・ゴメンナサイです。
.
★あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
こんばんは 伊達政宗ってかっこいいですもんね。
熱中する理由は分かります!
こんな立派な隊でできていたのに 苦戦したのが不思議なくらいです。 朝鮮出兵の際、活躍した李瞬臣も好きです。 どっちが好きと聞かれても なかなかすぐには、答えられませんよね。
これからもブログ更新がんばってください!
応援してます。
投稿: 力道山 | 2009年3月17日 (火) 20時00分
力道山さん、こんばんは~
最近は、「戦国BASARA」のおかげで「歴ジョ」と呼ばれる歴史好きの若い女性が増えたのだとか・・・
伊達政宗・真田幸村・長宗我部元親とかが人気なんだそうです。
なにかと歴史が話題になるのはウレシイです。
投稿: 茶々 | 2009年3月17日 (火) 21時38分
政宗隊の恰好って実践向きじゃない気もします。先ずは雑兵…あんなトンガリ帽子みたいな兜じゃ朝鮮半島の山岳地帯を行軍するにも木の枝やら蔦やらに引っ掛かって進みにくそうです。次に騎馬武者たちも、あんな大太刀担いでたって抜くのも一苦労で実戦では役に立ちそうにないですからね…尤も政宗自身、伊達家の軍勢を朝鮮に遣る気は無かったって言われてますけどね。派手な軍装は偏に派手好みの秀吉の関心を得ん為の演出だったといわれてますね。即ち派手好みの秀吉なら伊達の軍勢を見れば自分が渡海する時の供には伊達の軍勢を連れて行こうと言い出すだろうと読んでの行動だったようですよ。秀吉の供となれば、秀吉渡海までは国内に留め置かれるわけで、ことと次第では朝鮮に行かなくても済む可能性が高いですし、仮に渡海したとしても、秀吉の近衛兵として後方待機となるわけで、そうすれば兵力温存出来ると睨んだ政宗の深い戦略だったようですね。
投稿: マー君 | 2009年3月18日 (水) 01時22分
マー君さん、こんにちは~
実践的じゃなくても・・・
カッコイイので許してさしあげてください。
投稿: 茶々 | 2009年3月18日 (水) 11時18分
許すも許さないも…ないですよ!政宗公だからこそ認められる恰好良さですから、全然構わないんですけどね。然しあの軍装ってヤッパリ秀吉さん向けのパフォーマンスだったと見るのは間違いないでしょうね、だってその後の合戦において伊達軍があの軍装で戦った様子がないですからね。
投稿: マー君 | 2009年3月18日 (水) 14時04分
マー君さん、やっぱ隊列では、目立ったモン勝ちでしょう。
そのために、わざわざ隊列組んで京都を出発するんですもんね~
投稿: 茶々 | 2009年3月18日 (水) 21時14分