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2009年3月31日 (火)

不老不死は幸せ?人魚を食べた~伝説・八百比丘尼

 

日本における最も古い人魚の記録は、『日本書紀』にあるとされているそうですが、その日本書紀以外にも、各地に様々な人魚の伝説が残ります。

今日は、その中でも、特に興味深い『八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の伝説をご紹介します。

このお話は、若狭(福井県)小浜、あるいは佐渡羽茂(はもち)が舞台となっている事が多く、室町時代頃に最も広まったようで、地方によっては八百比丘尼を「やおびくに」と呼んだり、ヒロインの彼女の肌が白く美しかった事から『白比丘尼(しらびくに)と呼ぶところもあるようです。

・‥…━━━☆

その日、ある漁師の地引網に、異様な姿をした獲物がかかります。

その頭には、人の顔・・・それも、17~8の美しい娘で、肩や胸のあたりも、まるで羽二重のような美しい肌・・・。

しかし、その下は金色のウロコに覆われていて、まるで魚の姿です。

「もしや・・・、これが、噂に聞く人魚?」

呆然とする漁師でしたが、そこに、どこからともなく、甘い香りが立ち込めてきます。

どうやら、その香りは人魚の物・・・。

やがて、我に返った漁師が、とりあえず胸に耳をあててみると、どうやら、人魚はすでに死んでしまっているようでした。

慌てて仲間を呼び、そのうち大勢が取り囲んで、「どうしたもんだろうか」と思案する中、漁師仲間の長老が進み出て・・・
「聞くところによれば、人魚の肉は、非常に美味だ言う。
どうだ? これを肴に宴を催そうではないか!」

確かに、その甘い香りは、食欲をもそそられる香りではありました。

ただ、もちろん、その長老も、本物の人魚を目にするのは初めて・・・それが、美味だというのも、小耳に挟んだ程度の話でしかありませんでしたが、それでも、宴会を催してみようと思うくらい、食欲をそそられる匂いだったのです。

長老の家で開かれた宴会には、村の長者も呼ばれました。

長者は、海に面したこの村で、の国との貿易なんかも手広くこなしている人で、外国の珍品を幾度となく目にしていますが、そんな彼でさえ、人魚は噂にしか聞いた事がありません。

宴会は、村の男たち総出で行われた盛大なもので、旬の酒の肴も用意され、お酒が入るにつれ盛り上がってきますが、お造りのように、一切れずつ美しく盛り付けられてはいても、やはり、あの人魚の肉には、誰も手をつけません。

どうしても、「人」の姿を思い出してしまって、とても「魚」とは思えなかったのです。

結局、誰一人手をつけないまま、宴会はおひらきとなりますが、それこそ、このまま長老のところに置いてかれても困りますから、とりあえず紙に包んで、一人少量ずつ持ち帰る事になりました。

かの長者も、一包み、もらって家路につきますが、帰り道で思い出すのは、あの美しい人魚の容姿ばかり・・・あの姿を思い出せば、とても、肉を口にする気分にはなりませんし、むしろ、なんだか重い気持ちで家にたどりつくと、慌てて自分の部屋に、先ほどの包みを隠し、気分を変えようと風呂に入りました。

そんな長者の部屋の前を通りがかったのが、長者の一人娘・・・年のころなら17~8の娘盛りでした。

すると、ふと、父親の部屋からの甘い香りに気づきます。

「あら、なんだかいい匂いがするわ」

・・・と、まだ、しばらくは父親が風呂に入っている今の情況を確認して、そっと部屋へ忍び込みます。

外を通っただけで、その香りに気づくくらいなのですから、中に入れば、それが、どこから香ってくるのかは、即座に見当がつきます。

娘は、ただただ興味本位で、戸棚を開け、包みを取り出し、中を覗き込みます。

「まぁ、いったい何の肉かしら?」

・・・と、思いながらも、その甘い香りを嗅げば嗅ぐほど、だんだんと食べたくて食べたくてしかたがなくなってくるのです。

「えぇい!食べちゃえ!一切れくらいわかんないや!」

長者は、この一人娘をことのほか可愛がっていましたから、それこそ、たとえ、食べた事がバレたとしても、怒られるなんて事はない事を、娘も重々承知・・・

しかし、一切れ食べたら、もう一切れ、もう一切れ食べたらまたまた・・・と、とうとう娘は全部食べてしまいました。

「もう、バレてもいいや!」
とばかりに、空の包みを入れて、もとにもどしておきました。

しかし、その日をさかいに、娘の様子が一転します。

翌朝、あさげの用意がされた部屋に娘が現れ、膳の前に座った姿を見た両親・・・思わず、ゴクリを唾を飲み込みます。

何と言うか・・・とにかく光輝いているような・・・
そこはかとない美しさをかもし出しているのです。

もちろん、もともとブサイクな少女だったわけではありませんが、それは顔形ではなく、それまでとはまったく違う不思議な輝きに満ちていて、まさに、人をとりこにするような魅力・・・とでも言いましょうか・・・。

そんな、娘は、またたく間に村の評判となり、やがて、それを聞きつけた近隣の村々からも、縁談の話が舞い込むようになります。

こうして、相手選び放題になった娘は、隣村の領主の跡取り息子と結婚する事に・・・嫁入りの日は、それこそ、彼女が見た事もないような数の馬が横づけされ、見た事もないような煌びやかなお道具、大勢の従者に囲まれ、彼女にとっては願ってもない相手のもとへと向かいました。

夫は、やさしい人で、彼女をこよなく愛してくれます。
いえ、それは、愛しすぎるくらい愛されます。

そうなんです。
彼女は、乙女のような外見とはうらはらに、夜の営みの時は、まるで娼婦のように大胆に夫を受け入れ、しかも、その最中には、例のあの甘い香りが・・・夫は、もう彼女を手放せなくなってしまうのです。

毎夜々々、夫の求めに応じる娘でしたが、娘のほうはまったく疲れる事がなく、むしろ、そのみずみずしさが増すように、よりいっそう美しく・・・しかし、夫のほうは、みるみるうちに痩せこけ、まるで生気がなくなっていくのです。

やがて、一年ほどで、夫は衰弱死してしいます。

泣く泣く、実家に戻った娘でしたが、そんな魅力的な娘ですから、その縁談は、またまた吐いて捨てるほど舞い込んできます。

そして、前夫の悲しみも癒えた頃、彼女は2度目の結婚をします。

もちろん、今回も、夫は彼女を愛してくれ、とても幸せな毎日だったのですが、やはり、またまた一年ほどで、2度目の夫も、老人のような姿になって死んでしまうのです。

そして、3度目も、4度目も・・・やがて、この頃になると、さすがに嫌な噂が囁かれるようになります。

「あの娘は男の精気を吸い取る鬼女だ」
「夫を死に追いやる女狐だ」などなど・・・

さらに、娘自身も、その異変に気づき始めます。

そうです・・・あの初々しかった一度目の結婚の時から、4度目を終えた今・・・・何年もの時が過ぎているはずなのに、自分の顔は相変わらずあの娘盛りの頃のまま。

もちろん、肌も10代のみずみずしさを保っています。

確かに、彼女は、時々
「いつまでも若いわね~うらやましいわぁ」
と、近所の奥さんに言われるけど・・・それとは明らかに違う何かが、彼女には存在します。

歳をとる・・・というのは老けるという意味だけではなく、結婚生活を続けていく中で、それとなく奥さんらしいというか、大人の女へと変化していくはずなのに、彼女には、それがありません。

彼女は、自分自身の中に、なにやら得体の知れない恐怖を感じ、思い悩みはじめます

そして、何日か悩んだ末、彼女は一大決心をします。
出家しよう・・・尼になって、男性との交わりを一切捨て、全国行脚して身を清めれば、何か道が開けるかも知れない」と・・・。

ある朝、両親には何も告げず、1人、尼寺のある山へと向かい、彼女は尼となり、やがて全国行脚の旅に出るのです。

熊野権現をはじめ、各地を渡り歩く彼女でしたが、そこは、まるで別天地でした。

なんせ、誰も彼女の事を知りませんから、どこへ行っても、17~8歳の若い尼として迎えられ、何も不思議がられずにすみますから・・・。

そうこうしているうちに、彼女は踊り念仏の一行に出会います。

一遍上人(8月23日参照>>)が始めた時宗(じしゅう)を広めるための踊り念仏・・・何も考えず、トランス状態となって踊り狂うその姿に魅了された彼女は、しばらく一行とともに、踊り念仏の輪の中で、全国行脚を続けていきます。

しかし、こうして、親しくなって旅をともにするようになると、やはり、再び、他人との差を感じずにはいられませんでした。

暑い夏、寒い冬・・・踊り念仏を続ける中、ある者は、崖から落ちて亡くなり、ある者は疫病で倒れ・・・しかし、娘は、いつまでたっても17歳のあの頃のままで、どんなに疫病が流行っても、病気にかかる事すらありませんでした。

やがて、年上はもちろん、年下の者まで、彼女は看取る事になります。

「私は、人を見送るばかり・・・私には終わりはないのだろうか・・・」

そう思うと、なんだかむしょうに故郷が恋しくなって、彼女の足は、思わず故郷のあの村へと向きました。

もう、何年、いや何十年も経っているでしょうが、彼女には、その年数すらわかりません。

やがて、自分の生家のあった場所に来て、彼女は目を疑いました。

荒れ果てた土地だけで、屋敷の面影すらなくなっているのです。

確かに、彼女は一人娘でしたから、跡取りがいなくなって、家が没落したのかも知れませんが、たとえ荒れ放題になっていたとしても、あれだけのお屋敷の跡形くらいは残っていてもよさそうなものです。

近くを通った老婆に訪ねます。
「昔、ここに、大きなお屋敷はありませんでしたか?」と・・・

すると老婆は、
「あたしゃ、生まれた時から何十年もここに住んどるが、この場所は、子供の時分から、こんな感じの荒れた土地だったさ・・・」

娘は、やっと気づくのです。
「自分が思っている以上に、年月は過ぎているのだ」と・・・

とぼとぼと歩きはじめた彼女は、薄い記憶をたどりながら、幼い頃、友人と隠れ家にして遊んでいた洞窟へと向かいます。

そこは、昔と変わらぬ姿で残っていて、少し安心した彼女・・・ただ、幼い頃は、自分の背丈ほどもなかった椿が、見上げるほどに生長して、その洞窟の前に美しい花を咲かせていました。

暗い洞窟の中に入り、冷たい石の上に正座して、静かに目を閉じた娘・・・その姿のまま、一切の水と食糧を断ち、ただひたすら念仏を唱えるのです。

やがて、何日か経ち、とうとう彼女は絶命・・・その800年の生涯を閉じたのでした。

・‥…━━━☆

室町時代の文献・『中原康富記』には、文安6年(1449年)5月に、京都に八百比丘尼が現れて大騒ぎになった事が記されていたり、その他にも、各地には、比丘尼が植えた木や、足跡の残る石などもあり、当時は、現実にあったかように伝えられているこのお話ですが、おそらくは、旅の尼や巫女などが、たまたま美しいがために、そのように噂されたり、あるいは、自称して全国を行脚して回ったりしたのでしょうが、それらの、諸国を巡り歩いた尼によって、この伝説が各地に伝わったものと思われます。

この最後の岩屋に籠って自ら命を絶つシーンは、橋を渡っている最中に転倒して死んだという物や、他にもいくつかのパターンがあるようですが、いずれも、お話がハッピーエンドで終る事はありません。

本来、不老不死は、あらゆる人の夢であり、それは、時代が変わっても不変の物であるはず・・・しかし、この昔話は、必ずしも、それが幸せではない事、不老長寿が、ただ単に、人間の無いものねだりである事を教えようとしてくれているのかも知れません。
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2009年3月30日 (月)

歴史の気になる疑問・一挙解決~歴史豆知識

 

このページは、よりスムーズに、ブログ内の記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、【歴史の気になる疑問】というテーマで、とにかく「アレってどんな感じだったの?」っていうような気になる事を書いたページをピックアップさせていただきました~

例の如く、タイムマシンに乗って、実際にこの目で見たわけではないので、それぞれの事柄は、諸説あるうちの一つとお考え下さい。

その点をご了承いただきながら、いざ!気になる疑問の解決!といきましょうか。

・‥…━━━☆

★古代の気になる

●日本神話をSFっぽく
 【古事記をSFとして読めば・・・】

●神様がいない神無月(10月)に留守番する神様?
 【神様出張の神無月~留守役の神様は?】

●なんで手を振るのか?気になる
 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】

●なぜ赤なのか?気になる
 【運命の赤い糸はなぜ赤い?】

●埴輪の使用目的は?
 【埴輪の使用目的は?】

●鏡は神聖なる物?
 【古代日本における鏡とは?】

●万葉集の1番はナンパの歌
 【万葉集1番の雄略天皇のお話】

●石舞台古墳のあるじは?
 【石舞台古墳のあるじは?】

●最悪な時こそ花見を…
 【「花見自粛」ムードにひとこと言わせて!】

●天智天皇の疑問
 【天智天皇の読み方~「てんち」?「てんじ」?】

●切腹のルーツは?
 【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】

●熱湯でヤケドしなかったら無罪?
 【昔々のウソ発見器…「湯起請」と「盟神探湯」】
 

★奈良時代の気になる

●法隆寺は再建された?
 【聖徳太子のために再建?謎と不思議の法隆寺】

●吉野の花見のルーツは飛鳥時代にあった?
 【秀吉も催した吉野の花見の意味は?】

●漏刻=水時計のシステム
 【漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX】

●古代の合戦ってどんなの?
 【壬申の乱での装備や武器は?】 

●平城京の場所
 【なぜ?平城京はあの場所に?】

●奈良の大仏と鎌倉の大仏の違いは?
 【奈良の大仏と鎌倉の大仏】

●奈良時代の役人の年収
 【今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?】

●奈良時代の役人は天国↑でも庶民は・・・
 【奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態】

●奈良時代の就業時間
 【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】

●ややこしい土地制度って・・・
 【飛鳥から現代まで~日本の土地制度の変化】

●天皇のコレクションルーム・正倉院
 【正倉院・アッと驚く豆知識】
 

★平安時代の気になる

●奈良・平安時代の食生活
 【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】

●平安時代のハヤリ物
 【平安のトレンド・イケメン僧侶に貝合わせ】

●平安時代の花嫁修行
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●平安時代の香り事情と香合わせ
 【香りにうるさい平安貴族】

●平安貴族はカキ氷を食べていた?
 【平安時代のカキ氷~ひんやりスイーツの歴史】

●清少納言も流れ星に願いをかけた?
 【ペルセウス座流星群によせて~平安時代の流れ星】

●12年なのに「前九年」?そもそも、なんで「役」?
 【12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年」?】

●朱雀大路はいつから千本通に?
 【平安京の移り変わり~朱雀大路と千本通】

●平安京→京都
 【平安京はいつから京都に?~平安京命名の日】
 

★鎌倉・室町時代の気になる

●「御成敗式目」って何?
 【武士による武士のための~北条泰時の御成敗式目】

●借金を返さなくていいって本当?
 【幕府公認の借金踏み倒し・永仁の徳政令】

●南北朝の動乱での下級公家たちは?
 【ある公家の悲しい都落ち】

●なぞなぞのルーツ
 【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

●一休さんのとんち話は本当?
 【一休さんのとんちは本当?】

●初めっから銀箔なんて貼るつもり無かったぜby義政
 【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】

●一揆のやり方
 【一味同心・一揆へ行こう!】

●加賀一向一揆の支配が100年続く
 【加賀一向一揆の支配は、なぜ100年も続いたか?】

●中世の農民にも苗字があった?
 【意外!?中世の名も無き人の名前とは?】

●源(の)頼朝には「の」がついて足利尊氏にはつかない
 【氏・素姓と苗字の話】

●親を捨てる風習はあったのか?
 【うば捨て山は本当にあったのか?】

●戦うお坊さん・・・って?
 【僧侶の武装と堕落】

●「びた一文」の「びた」って??
 【「びた一文」が多すぎの貨幣のお話】 
 

★戦国・合戦の気になる

●1日3食? 合戦中の食事って?
 【戦国時代の食べ物事情】

●緊急情報・伝達システム
 【のろしと密書・髻の綸旨の話】

●伊賀VS甲賀
 【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】
 【忍者の教科書『万川集海』】

●軍師の本当の仕事は?
 【軍師のお仕事・出陣の儀式】

●戦国合戦の陣形・陣立
 【戦国武将の必須科目・陣形と陣立のお話】

●旗と指物
 【姉川の七本槍と旗指物のお話】

●古戦場が二つある?
 【二つの桶狭間古戦場】

●火縄銃の使い方
 【火縄銃・取扱説明書】

●鉄砲伝来は種子島じゃない?
 【鉄砲伝来~異説とその後】

●「風林火山」の意味
 【風林火山・孫子の兵法】

●9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」
 【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】

●時は戦国・・・男は合戦~その時、女は?
 【「おあむ物語」戦国女性の生き様】

●政略結婚に翻弄された姫は不幸だった?
 【政略結婚と女性の役割】

●なぜ、女性の武器が薙刀?
 【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】  

●城割
 【天下人だけが成しえた城割の重要性とは?】

●町割
 【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】

●西と東・・・本願寺が二つに別れたのは?
 【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】

●有料だった富士登山
 【戦国から明治まで有料だった?~富士登山】

●戦国時代にクリスマスパーティ?
 【日本のクリスマスはいつから?】
 

★江戸時代の気になる

●平和になるとヒゲを剃る?
 【乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日に因んで】

●平和になると武装放棄する?
 【歴史からみる平時の武装放棄は是か非か?】

●徳川家の葵の家紋
 【徳川家だけ、なぜ葵?家紋のお話】

●寒ブリが食べたいばっかりにお家断絶って・・・
 【寒ブリでお家断絶・取り潰し】

●金のシャチホコに触れた者は必ず捕まる?
 【名古屋城の伝説】

●刃傷・松の廊下の松のデザイン
 【事件を目撃した松はどんな松?】

●実は、忠臣蔵って・・・
 【江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号】

●奈良時代&江戸時代の人口
 【昔の人口ってどれくらい?】

●江戸時代の数学
 【ナユタとフカシギ】

●農民の中にも身分制度があった?
 【江戸幕府の農民支配~五人組制度】

●江戸時代の離婚事情は?
 【三くだり半~江戸の離婚事情】

●江戸時代の恋愛事情は?
 【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】

●江戸時代の旅行事情
 【大江戸・旅マニュアル】
 【箱根の関所は6ヵ所あった?】

●江戸時代の旅~名所となる条件は?
 【史跡めぐり~いま むかし】

●江戸時代の娯楽
 【江戸のホエールウォッチング・珍獣見世物事情】

●江戸時代に大酒飲み大会やってた?
 【花のお江戸の酒飲み大会~千住の酒合戦】

●瓦版について
 【近代新聞と瓦版・大江戸情報ネットワーク】

●江戸時代の刑罰について
 【遠島・入墨・百叩き~江戸の刑罰イロイロ】

●江戸時代の大阪の市中引き回しのコースは?
 【大阪市中引き回しのうえ、体験・報告!】

●江戸時代に堕胎禁止令が出た?
 【本邦初?大江戸堕胎禁止令】

●江戸時代の流行った「プロのお妾集団」
 【大江戸プロフェッショナルな女たち】

●大晦日恒例・大奥裸踊り
 【大晦日・恒例!大奥・裸おどり】

●大奥・開かずの間
 【大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂】

●大江戸医者事情
 【チョット驚き!大江戸医者事情】

●参勤交代の費用って、いくら?
 【参勤交代・始まる】

●東海道が五十七次って知ってた?
 【東海道は五十七次!~道の日にちなんで】

●大岡越前は名奉行だった?
 【大岡・名裁きは本当?】

●十両盗めば首が飛ぶ?
 【十両盗めば首が飛ぶ?】

●吉原の花魁遊びはいくら?
 【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】

●210年間で23回全焼した吉原炎上
 【吉原が炎上したら…遊びの殿堂の誕生・移転】

●纏(まとい)持ちの役割
 【火事と喧嘩は江戸火消しの華】

●天下の台所・大阪の遊郭ってどんな感じ?
 【夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭】 

●天下泰平の世、鉄砲はどこへ?
 【鉄砲伝来~異説とその後】

●明治以前の日本人の歩き方
 【かかとの無い履き物と「ナンバ」】

●藩とか鎖国とかって言い方は・・・
 【江戸時代には藩も鎖国も無かった?】

●江戸に幕府があるのに、どうして大坂が?
 【こうして、大坂は「天下の台所」になった】
 

★幕末の気になる

●黒船に庶民は驚いた?
 【黒船見物禁止令~庶民の反応は?】

●年をとってもお盛んだった歴史人物は?
 【今日はシルバーラブの日】

●あのスフィンクスと侍の写真はいつ撮った?
 【第二次幕末遣欧使節団の珍道中】

●政府にもある埋蔵金・徳川にはあった?
 【でるか?徳川埋蔵金】

●キリシタン禁制廃止後の踏み絵は?
 【「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?】

●長崎にあった出島はどうなった?
 【鎖国の象徴=出島のいま・むかし】
 

★近代でも気になる事は気になる

●小学校は私立より公立がセレブ?
 【登校拒否は当たり前!明治の始めの学校】

●小学生がタバコを吸ってた?
 【明治の珍騒動~未成年・喫煙禁止令】

●「日の丸」はいつから国旗に?
 【日の丸はいつから国旗になった?】

●「君が代」はいつできた?
 【「君が代」の誕生】

●不倫が国に認められてた?
 【公認の不倫?明治に浮上した「権妻」の話】

●明治の初め、奈良県が消滅?
 【祝・復活!日本に奈良県がなかった11年間】

●電報文の傑作
 【神風連の乱~ダンナハイケナイワタシハテキズ】

●謎の暗号・エニグマって何?
 【史上最恐の暗号・エニグマ】

●今も有効?決闘禁止令
 【ついに禁止令!明治の決闘ブーム】

●本当に地球は温暖化してるの?
 【最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話】
 

★言葉・名前の気になる

●色の呼び方のはじまりは?
 【色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」】

●二十四節季って何?
 【二十四節季のお話】

●鳥居
 【神社の鳥居の起源・種類】

●招き猫
 【招き猫の由来】

●心太と書いてトコロテン
 【心太と書いてなぜトコロテンと読む?】

●「うだつが上がらない」の『うだつ』
 【「うだつ」が上がらない】

●「五臓六腑」って、どこ?
 【五臓六腑って、どこ?】

●玉の輿
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●東京・八重洲口の「八重洲」は人物名から?
 【三浦按針・漂着~そしてヨーステンの名は・・・】

●相撲の横綱
 【横綱は免許制?相撲の最高位・横綱誕生秘話】

●のぞき行為を「デバガメ」というのは?
 【出歯亀事件・発生】

●水琴窟(すいきんくつ)ってどんな音?
 【涼を呼ぶ松花堂の水琴窟~その音色は?】
 

★ついでに、日本三大○○

日本三景と三大〇〇について

●日本三大奇襲
 ・河越夜戦
   【河越夜戦で公方壊滅】
 ・桶狭間の戦い
   【一か八かの桶狭間の戦い】
 ・厳島の戦い
   【戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い】

●日本三大仇討ち
 ・曽我兄弟
   【曽我兄弟の仇討ち~もう一人のターゲット】
 ・伊賀上野鍵屋の決闘
   【荒木又右衛門は何人斬ったか?】
 ・忠臣蔵
   【大石の綿密計画~赤穂浪士討ち入り】
   【忠臣蔵のウソ・ホント】
   【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】

●日本三大怨霊
 ・菅原道真
   【清涼殿に落雷!道真の怨霊か?】
 ・平将門
   【平将門・怨霊伝説】
 ・崇徳天皇
   【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】

●幕末四大人斬り
 ・河上彦斎
   【佐久間象山を暗殺した河上彦斎】
 ・岡田以蔵
   【半平太さま命!人斬りに徹した岡田以蔵】
 ・中村半次郎(桐野利秋)
   【西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋】
 ・田中新兵衛
   【真犯人か冤罪か?田中新兵衛は語らず】
   

 

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2009年3月28日 (土)

秀吉VS家康のにらみ合い~膠着・小牧の陣

 

天正十二年(1584年)3月28日、小牧長久手の戦いに出陣した羽柴(豊臣)秀吉が、小牧山城の北東・楽田城に着陣しました。

・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、血族としてその後継者となりたい信長の次男・織田信雄と、臣下としてその後を引き継いでいきたい羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦い・・・

武将としては、あまり力のない信雄が、秀吉に匹敵する相手・徳川家康に援助を求めたため、この一連の戦いは、歴史上唯一の秀吉VS家康の直接対決となりました

Toyotomihideyoshi600 天正十二年(1584年)3月12日の亀山城の攻防(3月12日参照>>)を前哨戦に、秀吉傘下の池田恒興(つねおき)犬山城・攻略(3月13日参照>>)で火蓋を切ったこの合戦は、信雄という真の信長の跡継ぎを看板に掲げた東海一の実力者の家康と、ライバルの柴田勝家を倒して(4月24日参照>>)畿内の中枢を押さえた秀吉との戦い・・・おそらく、勝ったほうが、今にも天下を治めんがばかりにあった、かの信長の位置に立つ事ができるのは明白です。

この戦いは、そういう意味で、全国の武将に大きな影響を与えた戦いでもありました。

もちろん、どちらにつくのか?という事です。

Tokugawaieyasu600 この時、家康は、次女・督姫(とくひめ)を嫁に出して同盟を結んでいた関東の北条氏直からの援軍を断りますが、一方では、いの一番に家康側に手を挙げた紀州(和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)雑賀衆(さいが・さいかしゅう)とは、うまく連携を取り、畿内での彼らのゲリラ戦に悩まされる秀吉は、合戦の勃発後も大坂城を離れる事ができないでいたのです。

しかし、3月17日の羽黒での敗戦(3月17日参照>>)で、そうも言ってられなくなり、3月21日、秀吉自ら3万の大軍を率いて大坂城を出陣したのです。

もちろん、秀吉出陣のニュースを聞いた根来・雑賀衆は、翌日の22日には秀吉の南の最前線であった岸和田城を攻撃(3月22日参照>>)・・・その勢いで、26日には、大坂城近くにまで攻め上り城にいた女子供たちが近江(滋賀県)坂本まで避難する事態となります。

・・・が、さすがに城の守りを預かる武将も、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)宇喜多秀家(うきたひでいえ)といった名将揃いとあって、この時は、根来・雑賀衆を追い返しています。

一方、近江を経由して美濃(岐阜県)に入った秀吉は、27日に犬山城に到着・・・到着後すぐに周囲を視察すると同時に戦況を把握し、天正十二年(1584年)3月28日小牧山城の北東約2kmのあたりの楽田城に布陣しました。

かたや信雄も、翌・29日に、伊勢長島から小牧山に移動し、家康と合流しました。

ここに、秀吉・8万と家康+信雄・1万6千は、わずかの距離を挟んだだけの一触即発の状態のまま、にらみ合う事となります。

・・・と書きましたが、以前の羽黒の戦いの後半にもチョコッと書かせていただいたように、ここでは、家康が、秀吉到着前の時間を利用して土塁などの構築を行い、完璧な守備を固めていたほか、お互いの出方をお互いが見極めようとしたため、大きなぶつかり合いはなく、いずれも小競り合い程度で、最初から最後まで、ほとんどにらみ合いのままでした。

一連の小牧長久手の戦いの中で、犬山城攻略から、ここまでを「小牧の戦い」と、後半の長久手と区別して呼ぶ場合もありますが、上記のように、ここ小牧では大きな衝突がなかっため、この小牧での事だけを区別する場合は、小牧の陣、あるいは、小牧の対峙と呼びます。

ところで、この小牧の陣・・・大きなぶつかり合いはありませんでしたが、そのぶん、水面下での戦いが繰り広げられていました

それは、悪口の言い合い・・・そんなん効果あるんかいな?と以前も書かせていただきましたが、複数の史料にこの事が記されているところから、実際にあった事はあったようです。

有名なところでは、徳川四天王のひとり・榊原康政檄文・・・
「秀吉は野人の子で、馬を引く小者でしかなかったのが、信長の恩で出世して一人前の武将になれたのに、信長が死んだとたんに、その恩を忘れて国家を奪おうとしている非道の男である」といった内容のもの・・・

これを、周囲にばら撒いて、秀吉の悪口を言いふらしたのだとか・・・

ただ、これは、榊原側の史料にしか書かれていないため、この戦いでの榊原の活躍を強調するための作り話であるという向きもありますが、一方では、数々のよからぬウワサに対して、秀吉が最前線の、敵からよく見える位置に登場し、「おのれら、これでも喰らえ!」と、相手にケツを向けて、「お尻ペンペン」をした・・・なんて有名な話も、『大三川志(だいみかわし)『常山紀談(じょうざんきだん)には見られます。

そこには、秀吉のほうからも家康への挑戦状を送った・・・とありますので、きっと、お互いにやってたんでしょうねぇ・・・。

ただ、このように、現地では、ちょっとトボけた感じのする小牧の陣ですが、冒頭に書いたように、未だ傘下に入っていない地方の諸大名にとっては、秀吉・家康、どちらの味方をするのかは、今後の人生に関わる一大事なわけです。

信濃(長野県)では秀吉側の木曽義昌上杉景勝が家康側の保科正直(ほしなまさなお)小笠原貞慶(さだよし)と、関東では秀吉側の佐竹義重が家康の娘婿の北条氏直と、四国では仙石(せんごく)久秀長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と・・・そして、最も有名なところでは、秀吉の親友・前田利家VS佐々成政(さっさなりまさ)末森城の攻防戦(8月28日参照>>)があります。

このように、秀吉VS家康の火種が全国に飛び火する中、この現地でのこう着状態の悪口合戦にイライラ気味の二人が・・・

最初の口火こそ切ったものの、羽黒の戦いで手痛い負けを喰らってしまった池田恒興と森長可(ながよし・恒興の娘婿)・・・この二人を先頭に、汚名返上とばかりに突入していくのが、4月9日に勃発する後半戦・長久手の戦いという事なのですが、小牧長久手のお話は、下記のいずれかでお楽しみいただければ幸いです。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
 

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2009年3月27日 (金)

父の遺志継ぐ藤田小四郎~攘夷の魁・天狗党誕生

 

元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派・藤田小四郎の呼びかけに応じて結成された天狗党が、筑波山で挙兵しました。

・・・・・・・・・・

今回、天狗党は2度目の登場ですが、最初の登場が天狗党・降伏の日だっために、その誕生の経緯や、降伏に至るまでのお話を、おおまかなあらすじのように書いてしまいました(12月17日参照>>)

なので、誕生に関しては、以前と内容がかぶるところもあるかも知れませんが、今回は、天狗党・挙兵の中心人物である藤田小四郎信(ふじたこしろうまこと)を中心に、水戸学や尊王攘夷思想をおりまぜながら、挙兵に至るまでを書かせていただきます。

・‥…━━━

藤田小四郎は、天保十三年(1842年)に、すでに水戸学の学者として名声を博していた学者・藤田東湖(とうこ)の四男として生まれます。

・・・で、この水戸学・・・

どんな学問かと問われても、なかなか難しいものがありますが、その基本となる物は、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(みつくに)・・・あの水戸黄門様の時代から始まります。

以前、書かせていただいたように、黄門さまは、その半生を『大日本史』という、日本の歴史をまとめた書物の制作に捧げる(10月29日参照>>)わけですが、それもこれも、水戸家が主君と仰ぐ天皇家のためだったわけです。

鳥羽伏見の戦い徳川慶喜(よしのぶ)敵前逃亡のところで、少し、その黄門様の言動に触れましたが(1月6日参照>>)、その事でもわかるように、水戸家は御三家の中でも特別で、徳川家の臣下ではなく、主君は天皇家であり、あくまて、朝廷の下に幕府があるという考えで、その神代の昔から続く、天皇家の正統性を主張し、日本が、その君主のもと、独立した国家である事を確かにするがための歴史書の編集という事なのです。

もちろん、大日本史の編集の頃の水戸学と、この幕末の頃の水戸学は、厳密には、同じ学問ではありませんが、「天皇を主君と仰ぎ・・・」という姿勢は同じです。

記紀にある建国神話にて道徳を学び、君主と臣下の違いを厳格に守ってこそ、社会の秩序が保たれると考え、これが尊王(そんのう)思想という事です。

そして、天皇という立派な君主のもとにある独立した日本という国であるのだから、外国から干渉されたり、影響を受けたりしてはならない・・・これが、攘夷(じょうい)思想で、この二つが結びついて尊王攘夷となります。

・・・で、幕末のこの頃に、第9代水戸藩主となった徳川斉昭(なりあき)によって、いち早く天保の改革に取り組んだ水戸藩が、その水戸学を学ぶために設立したのが、藩校・弘道館(こうどうかん)で、小四郎の父・東湖は、戸田忠太夫(ちゅうだゆう)とともに、そこの最高顧問だったわけです。

しかし、そんな水戸藩も、一枚岩ではありませんでした。

実は、小四郎のジッチャンである藤田幽谷(ゆうこく)は、かの『大日本史』の編さんをしていた人なのですが、この時幽谷とともに編さんに関わっていた立原翠軒(すいけん)・・・いや、むしろ編さん所の総裁という事は、上司にあたる翠軒に対して、幽谷が編さん内容について反発し、しかも、最終的に彼を編さん所から追い出してしまっていて、その後は藤田派が独占していたのです。

その後、9代藩主を決めるにあたって、藤田派が推した斉昭が藩主となったために、その後の改革では東湖らが重用され、改革派が中心となりますが、立原派には、水戸藩代々の重臣である保守派が多くいて、この頃の彼らは、水面下でくすぶっていたわけです。

やがて、彼らの尊王攘夷思想が、かなりのスピードで全国的に広まっていった事、水戸藩の改革があまりにスゴかった事によって、幕府が介入し、斉昭は隠居させられ、第10代藩主に息子の徳川慶篤(よしあつ)がなり、その新しい藩主に保守派が取り入った事で、ますます、改革派と保守派は敵対する事に・・・。

そこに降って湧いたのがあのペリーの黒船来航です(6月3日参照>>)

改革派の改革の中には、海岸線の防備も含まれていた事で、幕府はがぜん改革派の意見を必要とする事となり、斉昭は幕府参与に任ぜられ、当然、水戸藩内にも、改革派が返り咲き、保守派は、またまた水面下へ追いやられる事になるのです。

・・・と、長々と水戸藩内の対立を書いてしまいましたが、後に、天狗党が挙兵して、幕府が追討命令を出した時に、水戸藩からも追討軍が出される・・・という事があるので、ここで、水戸藩内でも対立があった事を外しては、後々、困ると思って書かせていただきました。

・・・で、ペリー来航のおかげで幕府の中心人物となった斉昭・・・この頃に、七男の慶喜を、御三卿の一つ・一橋家に養子に出して、次期将軍の候補者とする事にも成功し、ノリノリの頂点に達していました。

ところが、幕府は、日米和親条約に調印・・・尊王攘夷を掲げる水戸藩としては、真っ向から対立したいところではありますが、水戸学の根底に流れるのは、君臣の身分をわきまえて・・・つまり、天皇も主君ですが、幕府も主君・・・とりあえずは、反幕府を掲げるのではなく、幕府の方向転換を模索する形となるのですが、そうこうしている間に、次期将軍は、慶喜の対立候補だった徳川慶福(よしとみ・家茂)に決まり、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)によって、尊王攘夷派を一掃する安政の大獄が決行されます(10月7日参照>>)

斉昭も慶喜も謹慎処分となり、水戸藩を中心に多くの尊王攘夷派が処分されました。

この混乱の中、東湖は、すでに3年前の安政の大地震の犠牲者となってこの世になく(10月2日参照>>)、さらに、攘夷を催促する天皇の勅諚(ちょくじょう・天皇の命令書)が、幕府を飛び越えて水戸藩に直接下され事で、藩内は更に混乱します。

そして、そんな水戸藩士の中でも、特に過激な尊王攘夷派が脱藩し、安政七年(1860年)3月3日、あの桜田門外の変で、井伊直弼を暗殺するのです(3月3日参照>>)

この時、小四郎はまだ19歳・・・父亡きあと、弘道館で同志と勉学に励むも、未だ、尊王攘夷派の中心人物になるには至りませんでした。

彼が大きく成長するのは、3年後・・・文久三年(1863年)、藩主の慶篤のお供をして上洛した時でした。

この時、彼は京都にて、あの長州(山口県)桂小五郎久坂玄瑞(げんずい)と語り合うチャンスに恵まれ、その思想に大いに影響を受けるとともに、攘夷の信念を貫く覚悟も決めたに違いありません。

しかし、この文久三年の時点では、朝廷からの再三再四の攘夷の催促に、14代将軍となった徳川家茂(いえもち)が、「5月10日に攘夷を決行する」と約束をしていたので、小四郎は、何をするという事なく、おとなしく江戸へと戻り、その攘夷決行の日を待ちました。

しかし、ご存知のように、その約束通りに攘夷決行=外国船に砲撃したのは長州だけ(8月8日参照>>)・・・幕府は何もしません。

さらに、7月には、前年の生麦事件(8月21日参照>>)に単を発した薩英戦争(7月2日参照>>)が起こり、翌月には、八月十八日の政(8月18日参照>>)で、朝廷から尊王攘夷派が一掃されてしまいます。

Tengutoufuzitakosirou600a 藤田小四郎・23歳・・・
「何もしない幕府に、今こそ水戸藩が攘夷決行を訴えなくてはならない!」

元治元年(1864年)3月27日府中(茨城県石岡市)に集まった64名の同志は、密かに筑波山をめざします。

山の中腹に立って尊王攘夷の旗を掲げると、彼らの決起を聞きつけて集まってきた更なる同志で、その人数は160名余りに膨れ上がります。

その集団の名は天狗党・・・

この名前は、以前から、敵対する保守派の重臣たちが、下層武士の多い改革派をさげすんでつけたニックネームだったのですが、彼らは、あえて、この名を使いました。

「天狗のごときに、大暴れしてやる!」と・・・。

声を挙げたのは小四郎ですが、なにぶん彼は、まだ歳若く、天狗党の大将には水戸町奉行で、皆の信頼も厚い田丸稲之衛門(いなのえもん)がなりました。

集まった彼らは、すでに病死していた斉昭の遺骨を掲げ・・・
「亡き斉昭公の遺志を継ぐ!」と宣言し、あくまで朝廷から直接下された攘夷の命令を遂行するため、横浜港の閉鎖を目的とした挙兵でした。

ここに、攘夷の魁(さきがけ)天狗党が誕生したのです。

ただ、小四郎には、一つだけ心残りがありました。

それは、幼い頃から悪ガキだった自分を、時には叱り、時はやさしく、正しい道へと導こうとしてくれていたであろう近所のオッチャンを、この天狗党に誘えなかった事でした。

長年、斉昭の側近を勤め、近くは京都で慶喜のもとに仕えていた頼れるオッチャンに、天狗党の大将になってもらおうと、この挙兵の前に声をかけた小四郎でしたが、逆に「血気にはやるな!」と、挙兵に反対されたため誘えなかったのです。

「融通が利かない」と他人からは笑われるくらい生真面目なそのオッチャンの名は、武田耕雲斎(たけだこううんさい)・・・この後、小四郎と運命を共にするその人でした。

次に天狗党が登場するお話は4月10日へどうぞ>>
 

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2009年3月26日 (木)

ラブソングの帝王・与謝野鉄幹

 

昭和十年(1935年)3月26日、明治末期から大正・昭和にかけて活躍した歌人・与謝野鉄幹が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

与謝野鉄幹(よさのてっかん)と言えば、有名な『人を恋うる歌』・・・

♪妻をめとらば才たけて・・・♪
ってヤツで、最近こそ聞かなくなりましたが、戦前・戦中に青春を過ごしたオッチャンは、お酒が入ると、よく、この歌を歌ってました~。

そして、そんな鉄幹がめとった妻が、あの与謝野晶子・・・

つまり、鉄幹は、国語の教科書や歴史の教科書にデ~ンと載ってるあの与謝野晶子のダンナさん・・・と、書くと、また鉄幹さんの心を傷つけそうですね。

なんせ、結婚してからは、鉄幹さんは、スランプの嵐・・・一方の晶子夫人が人気を博してスポット浴びまくりの中、なかなか抜け出せず、かなり思い悩んでいらっしゃったようですから・・・。

そんな鉄幹さんは、本名をと言い、京都の僧侶の家系に生まれますが、10歳の時に、やはり大阪のお寺さんだった安藤秀乗という人の養子になって、一時、安藤姓を名乗りますが、その後、兄のいるお寺へと身を寄せ、そのお寺さんが経営していた徳山女学校の教員となります。

そして、お寺の布教活動の一環として機関紙を発行・・・この頃から、姓を与謝野に戻して、名前も鉄幹と名乗るようになりますが、かの徳山女学校を、わずか4年で退職します。

その原因はスキャンダル・・・そう、教え子とデキちゃったんですねぇ・・・。

今回、鉄幹さんをご紹介するにあたって、ご命日のこの日に、書こうか書くまいか迷いましたが、教科書通りの紹介になってしまうのも、「なんだかなぁ・・・」って感じなので、あえて、書かせていただきますが、この鉄幹さん、とても女グセが悪い・・・手の速きこと風のごとく、浮気すること山のごとし。

・・・と、言っても、決して悪口ではありません。

Yosanotekkann500a 鉄幹さんは、歌人・・・それも、情熱的な恋の歌がお得意なのですから、ある意味、芸のこやしとでも言いましょうか・・・だからこそ、ステキな恋の歌も歌えるって事で、決して、真っ向から、その行動を否定しているわけではありませんよ。

しかも、恋愛は相手もいる事・・・鉄幹さん、ひとり頑張っても、相手もその気にならなければ成就しないわけですから・・・。

とにかく、最初のその女性・浅田信子との間に女の子が生まれますが、残念ながら、その子供は、早くに亡くなってしまいます。

その後、間もなく、別の女子生徒・林滝野に手を出して、またまた子供が誕生・・・その後、20歳で東京に出て、歌人・落合直文の弟子になります。

翌年の明治二十七年(1894年)に短歌論『亡国の音』を発表し、その翌年には、出版社の編集長を務めながら女学校の教員もやり、歌集も立て続けに出して大人気に・・・。

明治三十二年(1899年)には、最初の信子夫人とちゃんと別れて、滝野さんと同棲しますが、彼女以外にも、弟子や生徒やら複数の女性との関係を続けていたようです。

なんせ、鉄幹さんモテるんです。

もちろん、彼は、それほどお金持ちでもありませんし、それほどイケメンでもありませんでしたが、なんせ歌がウマイ・・・

それは、かなりの武器になります。

今だってアーティストと呼ばれる人に、ポロンとギター片手に、ただひとりのために捧げるラブソングなんか唄われたひにゃ、女の子もコテンと落ちる・・・ってアレですがな。

そんな中、明治三十三年(1900年)に創刊した『明星』が大当たり!

北原白秋石川啄木を輩出し、日本近代浪漫派の中心的人物となります。

その頃です。

未だ、無名の若手歌人だった鳳晶子と出会い、彼女の才能に惚れこんだ鉄幹は、晶子の歌集・『みだれ髪』をプロデュース・・・もちろん、手もつけちゃいました~。

翌年、滝野と別れて、晶子と一緒に・・・かの『みだれ髪』も大ヒットし、それとともに『明星』も全盛期を迎えます。

しかし、その晶子に・・・
♪やわ肌の あつき血汐に ふれも見で
  さびしからずや 道を説く君 ♪

と言われようとも、まだまだ、浮気の虫はおさまりません。

有名な、山川登美子との三角関係・・・

しかし、この登美子さんと晶子さん、鉄幹を巡ってドロ沼の争い・・・てな事にはならず、後には、女性二人協同で歌集を出したりなんかもする仲で、どちらかと言えば、両方ともが、ただただ「鉄幹を好き~」と、燃えるような気持ちを彼に向かってぶつけるだけで、女が相手の女をライバル視して、嫉妬に狂うという感じではなかったようです。

男としては、なんと幸せなシチュエーションなんでござんしょ。

・・・とは、言うものの、晶子は、
♪春短し 何に不滅の 命とぞ
  力ある乳を 手にさぐらせぬ ♪

なんて、積極的な態度なもんで、

一方の登美子は、
♪それとなく 紅き花みな 友にゆづり
  そむきて泣きて 忘れ草摘む ♪

と、それとなく、紅い花を諦めて去っていったようです。

ここで、ようやく、晴れて二人は結婚・・・二人の間には、最終的に六男・六女の子宝に恵まれるわけですが、冒頭にも書いたように、ここらあたりから鉄幹は大スランプに陥ります。

かたや、晶子は人気を博し、子育てと仕事で身を粉にする毎日・・・

鉄幹も、
♪子の四人(よたり) そがなかに寝る 我妻の
 細れる姿 あわれとぞ思う ♪

なんて、妻を気遣う歌を残しています。

「鉄幹さん・・・なんて、やさしい人なんだぁ~(;ω;)」
・・・と、思ったあなた。
アーティストのギターポロンの魔力に引っかかりましたね。

こんな事、言いながら、鉄幹さん、性科学者の小倉清三郎が設立した『性の研究会』なる物に参加し、更なるエロスの追及に勤しんでいたのだとか・・・

研究会への入会時に、その清三郎から、「変わった性の体験談はないか?」と聞かれ、妻・晶子とのアブノーマルな体験(ここではとても書けませんので、知りたいかたはご自分でお調べください)を告白したところ、「そんな事くらいでは変わった体験とは言えん!」と一喝されたのだとか・・・
いったい、何を研究する会なんだ?(@Д@;

その研究会には、芥川龍之介平塚らいてうもいたというから驚きです。

そんな鉄幹さん、昭和七年(1932年)に上海事変を題材にした「爆弾三勇姿の歌」で、毎日新聞の歌詞公募に応募し、見事、1等に入選しますが、その3年後の昭和十年(1935年)3月26日、気管支の病気がもとで、この世を去りました。

歌人としては、少し心残りな死であったかも知れませんが、こと恋愛に関しては、おそらく、ゆったりしたお心もちであった事でしょうね。
 .

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2009年3月25日 (水)

榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦

 

明治二年(1869年)3月25日、蝦夷共和国を誕生させたばかりの榎本武揚らが、新政府軍の軍艦・甲鉄を奪おうとした宮古湾海戦がありました。

・・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月3日に勃発した、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に敗れた後、大勢の部下を置き去りにしたまま、単身、江戸城へと向かった江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・(1月6日参照>>)

その日、慶喜に徹底抗戦を訴えるつもりで、大阪湾に停泊中だった幕府軍艦・開陽丸から大坂城へと向かった幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、入れ違いで慶喜に会えないばかりか、その開陽丸に乗って慶喜が江戸へ向かってしまったため、しかたなく富士丸という船に乗って、燃え盛る大坂城をあとに、一路、江戸へと向かいました(1月9日参照>>)

その後も、徹底抗戦の構えを崩してはいなかった榎本でしたが、ご存知のように、江戸総攻撃を回避したい幕府陸軍総裁の勝海舟と、新政府軍東征大総督府・参謀の西郷隆盛の会談(3月14日参照>>)などで、江戸城の明け渡しとともに、幕府海軍の軍艦の引渡しも決定してしまいます。

慶喜も徹底した恭順の態度をとる中、やっぱり納得できない榎本は、江戸城無血開城となった4月11日の夜、開陽丸を中心とする幕府軍艦・8隻を率いて、館山に退去してしまいます。

勝の説得で、何とか、艦隊とともに品川沖に戻った榎本でしたが、やがて5月24日に、徳川家が駿河(静岡県)70万石への転封と決まった事で、どうやら、その不満も抑えきれないところまで来てしまったようです。

「わずか1~2藩によって事が決定するのはおかしい・・・徳川の旧臣のためにも蝦夷地を開拓してやる」と・・・。

軍艦への燃料補給、軍資金の調達、未だ抗戦中の東北の諸藩との連絡・・・密かに準備を重ねた榎本は、8月19日、開陽丸を旗艦に、回天(かいてん)蟠龍(はんりょう)千代田形という3隻の軍艦と、その他・輸送船を加えた計8隻で品川を脱出したのです(8月19日参照>>)

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開陽丸(1867年頃の写真)

この開陽丸は、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた世界にも通用する最新鋭の軍艦・・・つき従う回天もそれに次ぐ大きさで、さらに蟠龍・千代田形も加えると、まさに、世界屈指の艦隊と言えるものでした。

途中、嵐に見舞われながらも9月3日に仙台に到着しますが、会津若松城がもはや落城寸前であったため(9月22日参照>>)、ここでの戦いは避け、逆に、未だ血気盛んな会津の精鋭たちを乗船させて、さらに北の蝦夷地を目指しました。

蝦夷地に着いた榎本らは、すでに新政府軍に引き渡されていた函館を奪い(10月20日参照>>)、五稜郭を奪取して、慶応から明治元年に改められた1868年の12月、蝦夷共和国を誕生させたのです(12月15日参照>>)

こうなると、この時代、まだ、航空機での攻撃はありませんから、北海道という海に囲まれた地なら、海を渡って攻撃を仕掛けるしかなく、新政府に比べて、世界有数の海軍を持っている蝦夷共和国は、少ない人数ではありながらも、日本という国を相手に、何とかなるかも知れない状況であった事は確か・・・榎本も、そう思っていたに違いありません。

しかし、すでに、この時、一つ目の誤算が生じていたのです。

実は、陸上では五稜郭松前城を攻略し、共和国樹立に向けての準備でイケイケムードだった去る11月15日・・・江差沖に停泊中だったあの開陽丸が、嵐のために座礁して沈没してしまっていたのです。

そして、その共和国が誕生した13日後の12月28日、二つ目の誤算が生じます。

それまで中立の立場を示していた欧米各国が、新政府の要請に答えて局外中立の解除を布告したのです。

そのために、すでに幕府のお金でアメリカから購入していた軍艦・ストーンウォール号(日本名:甲鉄)が、アメリカ側から新政府へ渡されてしまったのです。

これは、痛い・・・最新鋭の開陽丸を失ったばかりか、本来なら、その代わりとなるべき甲鉄が新政府の物となってしまったのですから・・・。

逆に、新政府軍は、その甲鉄を中心に、蝦夷共和国に対抗できる海軍の準備にとりかかります。

その甲鉄のほかに朝陽(ちょうよう)春日をはじめとする5隻の軍艦に、飛龍(ひりゅう)豊安(ほうあん)といった輸送船、さらに外国船をチャーターし、万全の態勢を整えた新政府軍の8隻の艦隊が、岩手県の宮古湾に到着したのは、年が改まった明治二年(1869年)3月の事でした。

そのニュースを聞きつけた榎本・・・最新鋭の甲鉄を奪おうと考えます。

まずは、蟠龍と高尾(たかお・函館で手に入れた秋田藩の軍艦)の2隻で、甲鉄を左右からピッタリと挟み、回天からなだれ込んだ斬り込み隊が、そのまま甲鉄を乗っ取る・・・

はっきり言って、中世の海賊のような作戦ではありましたが、斬り込み隊の総指揮は、あの土方歳三・・・彼の他にも、元新撰組・隊士が多数、さらに、神木隊(しんぼくたい)彰義隊(しょうぎたい)遊撃隊(ゆうげきたい)と、いずれも腕に覚えのある猛者がズラリ・・・しかも、この時、新政府軍は、この宮古で攻撃されるとは夢にも思っていなかったようで、そう考えれば、成功を期待しなくもない作戦です。

ところが、ここで、3つめの誤算が生じます。

3月21日に函館を出航した3隻を、暴風雨と濃霧が直撃・・・彰義隊や遊撃隊が乗船した蟠龍はどこへともなく漂流し、神木隊が乗船した高尾はエンジントラブルで速力半減。

かくして、明治二年(1869年)3月25日早朝・・・宮古湾に姿を見せたのは、回天1隻だけという悲惨な事に・・・。

しかし、もう、後戻りはできません。

星条旗を掲げ、アメリカ船のように偽装して甲鉄に近づく回天・・・しかし、真横に接舷(せつげん)させるも、回天と甲鉄の高低差は、約3m・・・必死のパッチで回天から飛び降り、甲鉄に乗り移れたのは、わずか7名というありさまでした。

ただ、さすがに、斬り込みに慣れた猛者たち、また、新政府軍にとっては、ふいを突かれた奇襲戦とあって、新政府軍は7名の戦死者を出してしまいますが、回天側も、乗り移った7名のうち、無事に帰還できたのは、わずか2名・・・艦長・甲賀源吾(こうがげんご)をはじめ24名の死者を出してしまい、甲鉄の乗っ取りどころか、まったくの惨敗で、わずか30分ほどで、この奇襲作戦は終ってしまったのでした。

この敗戦によって、本州⇔北海道間の制海権を失う形となってしまった榎本らは、五稜郭などへ陸戦に備えての防備を調えざるを得なくなってしまいました。

函館戦争の先が見えた・・・榎本にとって、3月25日は、そんな歴史的な日であった事でしょう。
 

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2009年3月24日 (火)

壇ノ浦の合戦~平家の勇将・平教経の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平の戦いにおける最後の合戦となった壇ノ浦の合戦がありました。

・・・と、3月24日の日に、このように書かせていただくのも、今回で3回目・・・という事で、本日は、この一連の戦いで、荒くれ源氏の坂東武者にも負けるとも劣らない奮戦をする能登殿こと平教経(のりつね)の最期をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・

時間の流れでいきますと、まずは・・・
【壇ノ浦の合戦~潮の流れと戦況の流れ】(2008年3月24日参照>>)

ここで、事実上の大将であった平知盛(清盛の四男)の形勢不利との報告を聞いた二位尼(にいのあま・清盛の妻の時子)が、「もはやこれまで」と孫の安徳天皇を胸に抱き、ともに海の底へと旅立つ・・・【先帝の身投げ】(2007年3月24日参照>>)
・・・となり、この教経の最期は、その後のお話となるのですが・・・

その前に、本日の主役である教経さんについて・・・

平教経は、平清盛の弟・平教盛(のりもり)の次男・・・つまり、この源平の合戦における総大将の平宗盛(清盛の三男)や事実上戦闘の指揮をとっていた知盛とはいとこ同士という事になります。

冒頭にも書かせていただいたように、荒くれた坂東武者のイメージの強い源氏に対して、どこか貴族的で雅なイメージのする平家一門にあって、この教経は、そのくくりをぶち破る勇猛果敢な戦士と言える武将です。

平家が都落ちをした直後も、その事を知った西国豪族たちが、ここぞとばかりに寝返り始めた時、淡路摂津(大阪府北部)などを転戦し、連戦連勝を重ねて、西国支配における平家の力を何とか維持させたのも彼でした。

一の谷屋島の戦いでも、全体でこそ、平家は敗北を喫していますが、この教経の率いる一団だけは、常に、源氏に一泡吹かせています。

そう、あの屋島で、源義経の忠臣・佐藤嗣信(継信・つぐのぶ)を仕留めるのも彼です(2月19日参照>>)

そんな教経ですから、この壇ノ浦の合戦で、形勢不利となり、もはや諦めムードの中、先の安徳天皇や二位尼の入水に続いて、周囲の者が次々と身投げ・・・あるいは、逃げの一途をたどる中、ただ1人、疲れを見せず戦い続けていたのです。

先ほどの嗣信の最期のページでも書かせていただいた通り、教経は弓の名手・・・「彼に狙われたら射抜かれない者はいない」と言われたほどの腕前です。

重藤の弓に斑生の矢をつがえ、次から次へと射まくり、近づく源氏の者どもは、またたく間に倒れていきます。

さらに、射掛ける矢がなくなると、右に太刀、左に長刀を持って敵中に踊りこんでなぎ倒し、彼の足元は死体の山に・・・。

その様子を見ていた知盛は、「もはや、勝敗は決してる・・・しかも、まわりはザコばかり・・・これ以上、罪作りな事はやめとけ」と、彼をいさめます。

さすがに勇猛な教経も、大将の命令とあらば、おとなしく・・・と、思いきや、
「なるほど、ザコを殺らんと、大将・義経をいてまえ!ってか、よっしゃ!わかった」
とばかりに、兜を脱ぎ捨て、胴着だけの姿になって、敵中をかいくぐり、自らの船を、敵の大将・義経の船へと近づけていきます。

たとえ、この戦に負けようとも、一矢報いなくてはおさまらないのが教経の教経らしいところ・・・。

Minamotonoyositune700s ただ、もちろんの事ながら、彼は義経の顔を知りませんし、義経がどの船に乗っているのかさえ、あいまいです。

・・・と、そこに、なにやら豪華な甲冑を身に着けた武将を見つけた教経・・・早速、その船へと移り、相手に飛びかかってくんずほぐれつ・・・

しかし、残念ながら、これは別人・・・その間にも、義経は、教経が気づいていないのをいい事に、うまく、教経の船を避けて逃げまくっていましたが、やがて、ふたりの視線がぶつかり合う時が訪れ、教経は、「アレが義経に違いない!」と、船を近づけ、迫力満点の形相で、義経の船に飛び移りました。

「こんなんと、まともに戦ったら、ちっちゃいオッサンの俺は、絶対に殺られるやん」と、思ったかどうかは、知りませんが、とにかく義経は、教経との一戦を避け、逃げの一手です。

自分の船の、後方にいる、味方の船に飛び移り、また、その次の船に飛び移り・・・

そう、これが、有名な『義経の八艘飛び』・・・って、「なんや、八艘飛びって言うたらカッコエエけど、結局、逃げてんねやん!」と思ったのは、私だけではないはず・・・。

それでも執拗に食い下がる教経でしたが、彼は、どちらかと言えば豪傑・豪腕な武者・・・あのように、すばしっこく、こそこそと立ち回られては、やはり追いつけません。

もちろん、その間にも、彼の邪魔をする者をちぎっては投げ・・・いや、担いでは海に投げ込みしながら追いかけますが、さすがの猛将も、スタミナには限界があり、しかたなく、追うのを諦めますが、そうなると、当然のごとく、周囲は源氏だらけ・・・。

そこで、覚悟を決めた教経は、太刀や長刀、兜を海に投げ捨て、丸腰となった姿で大きく叫びます。

「おのれら、勇気あるモンは、この教経を生け捕りにせいや!俺も、鎌倉に行って、あの頼朝に、ひとこと言いたい事があるんや!ほら、はよ、出て来いや!」

・・・と、誰もが尻込みする中、それに答えたのは、安芸太郎時家(あきのたろうときいえ)という男・・・

時家は、30人力の怪力の持ち主とうたわれた男で、しかも、自分に勝るとも劣らない力持ちの従者を1人、さらに、同じくらいの強の者である弟を連れていて、「この3人で一斉に飛びかかれば、何とかなるだろう」と、相談のうえの登場でした。

そして、お互い目配せして、大きく太刀を抜いたかと思うと、3人同時に教経に飛びかかります。

しかし、教経、慌てる事なく、まずは、正面から飛びかかった時家を海に蹴り落とし、残りの二人を両脇に抱え込んだかと思うと・・・

「ほんなら、お前ら、死出の旅の供をせーや!」
と、叫び、敵将二人を道づれに、そのまま海中に身を躍らせたのでした。

その温厚な性格ゆえ、いつも後方で留守役をこなしていた父・教盛に代わって、常に最前線で戦い続けた息子・教経・・・。

一連の源平の合戦の中で、哀れで悲惨、涙涙で語られる事の多い平家一門の死の中で、この教経だけは異彩を放つ、武士の誇りに満ちた壮絶な最期でした。

確か、タッキー義経の大河ドラマの時は、この八艘飛びで逃げる義経を追いかけるシーンは、阿倍寛さん演じる知盛のエピソードとして登場していましたが、『平家物語』では、教経のエピソードとして語られています。
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2009年3月23日 (月)

大河ドラマ「天地人」に思うこと

 

本日は、歴史の話・・・というより、自分の見解or意見です。

今回の大河ドラマ「天地人」・・・歴史好きの間では、けっこうな不評となっています。

特に、言われているのは、主人公のミス・キャスト・・・

確かに、歴史が好きで、直江兼続の事をある程度知っている者から見れば、あのかたの兼続はあり得ない気がします。

直江兼続という人は、知略・計略に溢れる計算高い人で、どちらかと言えば戦争好き、さらに、その態度はいつも高飛車で「主君を軽んじている」とウワサされたのも確か・・・ただ、その分、実績も残してはいますが・・・。

イメージとしては、とてもじゃないが、少し気弱で心穏やかな愛あふれる人ではないような気がします。

歴史好きの中には、「大河ドラマは史実に忠実であってほしい」願う人も多くいて、そんな視聴者から見れば、あの兼続は完全にミス・キャストで、毎回、驚くような内容が展開されているのが、今回の「天地人」です。

今回、全面に推しだされている「愛」というキーワード・・・

そもそもは、ご存知のように、兼続が、その兜の前立てに大きく「愛」の文字を掲げた事から、そのイメージが愛溢れる武将となり、それが全面に推しだされる形となったのでしょうが、一般的な歴史的見解では、あの「愛」は、愛染(あいぜん)明王愛宕(あたご)神社「愛」だと言われています。

愛染明王は中世から近世にかけて、恋愛の成功を叶えてくれる神様として、遊女や花柳界からもてはやされた、どちらかと言えば、煩悩丸出しの愛欲の「愛」・・・つまり、現代風に言えば「H」とか「エロい」という事になりましょうか。

そのため、遊女や花柳界の女性たちからは、人気を得るために祈りを捧げられた傾向があるようで、戦国武将の兜に掲げた理由としては、ちょっとないような気がします。

・・・って事で、以前、このブログの【長谷堂の戦い】(9月20日参照>>)のところでも書かせていただいたように、私個人的には、あの「愛」の文字は、愛宕神社の「愛」だと思っています。

愛宕神社自体は火災除けの神様・愛宕権現(1月24日参照>>)ですが、愛宕山のご本尊は勝軍地蔵・・・その名の通り、戦いに勝利をもたらす神として、戦国武将の間で大いにもてはやされた神様で、その姿も、武装して馬にまたがっておられます。

あの徳川家康が、江戸に転封となった際、いち早く、京都の愛宕神社を分霊して、江戸城の西に置き、江戸の町の守りを固めた事でも、当時の武将の信仰の篤い事がわかります。

もちろん、この愛宕神社は、越前・越後・陸前・安房・・・などなど、ここには、書ききれないくらいの場所に分霊され、その各地に今も愛宕の地名が残ります。

また、当時の武将で、「愛」の前立てを兜につけた武将も兼続だけではなく、他にいく人かの武将の物が残っているようですので、やはり勝利の神への意味合いが強いのではないかと思います。

さらに、「愛」という文字自体が、いわゆる現代人がイメージするような意味ではなかった可能性が大いにあります。

ご存知のかたも多いかも知れませんが、夏目漱石の逸話の中に、こういう話が出てきます。

弟子たちが多く集まった勉強会で、ある英語で書かれた恋愛小説の「I Love You」というセリフを、「どう日本語に訳すかね?」と漱石が問うたところ、皆、首をひねる・・・

・・・で、「漱石先生は、どう訳されますか?」と逆に質問され、
「今日は月がとってもきれいですね」
と答えたと言います。

また、あの二葉亭四迷も、この「I Love You」「死んでもいい」と訳しています。

つまり、当時は、まだ「愛してる」とか「愛する」という言葉が、日本人には馴染みが無く、もっぱら男女のそういう場面には「情」という言葉が使われて、相手を「好きだ」という事の表現に「愛」という文字を用いる事はなかったらしいのです。

明治の頃でもそうなのですから、戦国の世に「愛」という言葉や文字が、現在のような意味で使用されていたとは、とても考え難い事ですね。

・・・と、長々と「愛」について書いてしまいましたが、「天地人」の原作者である火坂雅志氏は、この「天地人」のあとがきの中で、この兼続を小説の主人公にした動機を・・・

“中学時代に野球部に所属していた時、帽子のつばの裏に「愛」という字を書いていたが、歴史小説を書き始めた頃、自分と同じように「愛」の字を兜の前立てにした直江兼続という武将の存在を知り、「下克上の乱世に『愛』という優艶な言葉をキャッチフレーズにした男がいた」と感動して・・・”

という風に語っておられるようです。

そこらへんの歴史好きより、はるかに歴史におくわしいであろう火坂さんですから、おそらく、この兜の「愛」愛宕神社の「愛」かも知れないという事は、とっくにご存知のはず・・・上記のコメントは、『そこを、あえて、現代で言うところの「愛」を全面に推しだした愛溢れる武将として描きたかった』という事なのでしょう。

そこに、賛同したのが、大河のスタッフという事・・・

大河ドラマのホームページには、その企画意図として・・・
上杉家・景勝の家臣でありながら、豊臣秀吉徳川家康を魅了し、また、恐れられた男・・・上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、その波乱の生涯を通じて、民・義・故郷への愛を貫きました。

「利」を求める戦国時代において、「愛」を信じた兼続の生き様は、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人には鮮烈な印象を与えます。
大河ドラマは失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します!”

と書かれています。

つまり、女にハッパをかけられるくらい気弱な泣き虫で、敵でさえも斬る事をためらい、「ラブ&ピース」の博愛精神に溢れた兼続というのは、今回のドラマの作り手の意図なのでしょう。

そう考えると主人公もミス・キャストではないような気がします。

ただ、やはり、冒頭に書いたように、「大河ドラマだからこそ史実に忠実に・・・」という歴史ファンも多くいて、もちろん、そういう意見がある事も認めますが、私個人的には、おりに触れて書いております通り、史実と、ドラマや小説は別物だと思っていて、それは、大河ドラマであっても変わりなく、主人公をどのように描くのかは、作り手の自由だと考えております。

第一、今、現在、知り得る限りの歴史に忠実・・・となると、当然、セリフの言い回しや時代考証なんかも、その対象になるわけで、おそらく、セリフは字幕スーパーなしでは、何を言ってるかわからず、時代考証通りにお化粧した女優陣は、お歯黒の白塗りで、とても現代人には美人とは思えないようなのがズラリと並うえ、普段の挨拶から座り方かた、立ち居振る舞いまでいちいち説明を加えなければならない状態で、そんなのを見て楽しいかどうかは、はなはだ疑問です。

さらに、誰かのやった事を別の主役クラスの人に置き換える事ができないため、その主人公が一生がかりで出会ったちょっとした人物までを、たった一年間に出演させねばならず、役者の多い事、山の如し」となってしまいます。

しかも、一番の問題は、何度も大河で登場する、義経や秀吉や龍馬やといった人物が、毎回役者が変わるだけで、史実にもとづいた同じような描き方をする事になってしまいます・・・これは、いけません。

・・・なので、たとえ、大河ドラマであっても、史実に忠実に描く必要はないと思っています。

しかし、そのぶん、見る側にも、一つの姿勢が必要です。

ドラマや小説で描かれた事が、そのまま歴史の事実だと思わずに、興味を持った事から、いろいろな史料を読んで、自分なりの人物像、自分なりの歴史の解釈をする事が大事な事だという気がします。

ただし、作り手の自由に描いていいとは思いますが、出来上がった作品が物語としておもしろいかどうかは、また別の問題・・・そういう意味でも、この先、楽しみながら大河ドラマを見ていきたいと思います。

主人公が「泣かない」と言ったしりから号泣したり、冒頭で景虎「北条に上杉を乗っ取らせはせん」と言っておきながら、最後には、「三国峠で北条の軍勢に・・・」と、実家に頼り気味になる支離滅裂ぶりなところが少々気がかりではありますが・・・
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2009年3月22日 (日)

武田滅亡へのカウントダウン~第3次・高天神城の戦い

 

天正九年(1581年)3月22日、徳川家康武田勝頼配下の岡部元信が守る遠江・高天神城を落とした第三次高天神城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

某人気クイズ番組が、「武田氏が滅亡した戦い」と、間違った出題をしてしまうくらいの大敗の印象を受ける長篠設楽ヶ原の戦い(5月21日参照>>)・・・この戦いの結果によって信玄亡き後の武田氏を受け継いだ武田勝頼は、父との比較で愚将のレッテルを貼られる事が多いわけですが、領地の広さから見れば、信玄の時代より、勝頼の時代のほうが、少し大きくなっているのが事実です。

Takedakatuyori600a その象徴とも言えるのが、遠江(静岡県西部)駿河(静岡県東部)の国境の位置に建つ高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)・・・。

鶴舞城とも呼ばれるこの城は、16世紀の初頭に築城され、戦国時代は小笠原氏の居城でありましたが、甲斐(山梨県)の国から南側へ進攻したい武田氏にとっては、喉から手が出るほど欲しいと思う城だったわけで、信玄が度々攻めるも、どうしても落せなかった城なのです。

天正二年(1574年)に、この念願の高天神城を奪取した勝頼が、それを栄光のシンボルのように思った事は確かでしょう・・・なんせ、父・信玄が落とせなかった城を手に入れたのですから・・・(5月12日参照>>)

勝頼は、この城を、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、重要な戦略拠点としたのです。

しかし、翌年の天正三年(1575年)に起こった、先の長篠設楽ヶ原の戦いで、以前、徳川家康に奪われていた南の重要拠点=長篠城(愛知県新城市)(9月8日参照>>)を、織田信長と強力タッグを組んだ家康に阻まれて取り返す事が出来ずに敗戦した事で信玄時代からの古い家臣との間の溝は、ますます深まります。

そんな中、天正六年(1578年)に、あの上杉謙信が亡くなり(3月13日参照>>)天下の情勢は大きく信長へと向く時代となっていき、さらに勢力下降気味の武田氏にとって、国境=甲斐中心部から離れた位置にある高天神城の維持が難しくなってくる・・・という家康に恰好の展開となってきます。

天正七年(1579年)10月・・・わずか1ヶ月前に、妻・築山殿と息子・信康を死に追いやって(8月29日参照>>)まで、武田との敵対をあらわにした家康は、いよいよ、高天神城・攻略の準備に入ります・・・それも、家康らしく、慎重に慎重を重ねて・・・。

翌年・天正八年(1580年)には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城(ついのしろ・攻撃の拠点とするための仮の城8月19日【城割の重要性】参照>>などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築きます。

「鳥も通わぬ」と称されたこの包囲網に、さらに、勝頼からの援軍に備えて、一間ずつに番兵を配置しました。

城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となりましたが、さすがは勇将の元信・・・その采配は、見事で、徳川軍の度々の攻撃にも、その都度撃退し、耐え抜いていました。

しかし、もはや、それも時間の問題であるのは、誰もが思うところ・・・しかも、勝頼からの援軍も望めない状況となるに至って、元信らは決意を固めます。

こうなったら、降伏をして開城するか、城を枕に討死するか・・・

かくして、完全包囲されてから10ヶ月持ちこたえた天正九年(1581年)3月22日・・・彼らは、後者を選びます。

そう、この高天神城最後の戦いは、籠城していた元信から仕掛けたのです。

その日の午後10時、夜陰にまぎれて2手に分かれて出撃します。

・・・というのも、この高天神城・・・海抜132mの山の上に建つ山城なのですが、その峰は上部で東西に分かれており、その二つは独立した構造となってしました。

東に本丸・御前曲輪・三の丸、西に二の丸・西の丸など・・・と、どれも広い曲輪ではないうえ、斜面はどこも急な勾配だったのです。

まずは、西の丸から出撃した城主・岡部元信が率いる約500の軍勢・・・北西側に構築されていた空堀をなんなく通過し、その向こうを守っていた大久保忠世(ただよ)と接触!

決死の覚悟の岡部隊に推された大久保隊は、やむなく一時撤退するのですが、そこに南側を守っていた大須賀康高隊が救援に駆けつけ、数に劣る岡部隊は、城へと押し戻される形となり、その混乱の中、勇将・元信は討死します。

一方、岡部隊と同時に本丸から、北西に向かって出撃したのは、残る約500の兵をまかされた江馬(えま)直盛が率いる軍勢・・・本丸北西部の勾配は特に急になっており、断崖絶壁を綱づたいに降りていく彼らでしたが、その真下には、徳川方が構築した2重の堀が設けられているうえ、その場を守る石川康道隊と激突します。

さらに搦(からめ)手横を守っていた水野勝成隊、その東側を守ってした鈴木重時隊が、石川隊を加勢します。

なんせ、徳川方は総勢5000いますから・・・。

ここでは、徳川方の圧勝・・・江馬隊の中には、水堀にて溺死した者も多数いたのだとか・・・。

この間に、徳川方の正面部隊である松平康忠(家康の義弟)率いる部隊が大手門をぶち破って、城内に侵入し、城へと戻されつつあった、先の岡部隊の生き残りを討ち果たします。

もはや、城の北西部へ撃って出た岡部隊も江馬隊も全滅状態・・・しかし、この間にわずか50名の小隊で、西の丸から南西方向へ出撃した横田尹松(ただとし)・・・。

もちろん、徳川方の包囲は「鳥も通わぬ」わけですから、彼らの向かう方向にも、守りの兵はいたわけですが、その小隊ゆえのこまわりの良さをうまく利用し、彼らは、わざと徳川方の兵の少ない険しい山道を駆け抜けます

そう、彼らの使命は、敵を倒す事ではなく、この包囲網を突破する事・・・。

しかし、それも決死の使命には変わりません。

彼ら50名のうち、尹松を含む、わずか11名が信濃・伊那方面への脱出に成功し、甲府の勝頼のもとへと走ります。

尹松らから、高天神城・陥落のニュースを聞いた勝頼は、死を覚悟した壮絶な最期の一部始終を、ただただ涙を流しながら聞いていたと言います。

自分が唯一、父に誇れるこの城を失った勝頼の悲しみは、勇将・元信の死とともに、心に、深い傷を与えた事でしょう。

そんな勝頼が、妻子とともに、天目山にて最期を遂げるのは、ちょうど1年後の天正10年(1582年)3月11日・・・(3月11日参照>>)

長篠の合戦から、武田の衰退が始まったのだとしたら、この高天神城の戦いは、まさに、滅亡へのカウントダウンが始まった合戦と言えるでしょう。

その後の武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>
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2009年3月20日 (金)

激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?

 

明治十年(1877年)3月20日、西南戦争の中で最も激戦だったとされる田原坂の戦いで、政府軍が田原坂を占領しました

・・・・・・・・・

西郷隆盛の設立した私学校の生徒らの暴挙から、明治政府に不満の持つ士族の反乱へと発展した西南戦争・・・(1月30日参照>>)

まずは、熊本城を落す事を目標に鹿児島を出陣した薩摩軍でしたが(2月15日参照>>)、その堅固な城郭と鎮台(政府陸軍)兵の頑張りに阻まれる中、次々と上陸する政府の援軍を迎撃すべく、熊本城には包囲の兵を残し、本隊は北上する作戦へと切り替えたところまでは、先日、書かせていただきました(2月22日参照>>)

そして、北上まもなくぶつかった植木の決戦に勝利した薩摩軍に、「現在、政府軍が高瀬(玉名市)に集結中」との知らせが入ります。

2月27日、その高瀬を攻略すべく向かった桐野利秋ら主力2800名が、高瀬近くで政府軍とぶつかります。

しかし、政府軍は鉄道と船による大量輸送で、次々と戦力を増強中・・・この日の桐野らは撃退され、その後も、なかなか高瀬を落す事ができませんでした。

そこで、薩摩軍は、ムリを承知での進軍よりも、今は、この一線を死守する作戦へと変更します。

今、この時点では、本隊は、熊本城よりも北に位置してるわけで、しかも、熊本城の包囲も解いてはいませんから、孤立した熊本城は、いずれ兵糧がなくなり、籠城も時間の問題となったところで城を占拠すれば、そこを拠点に反撃を開始する事もできますから・・・。

山鹿田原吉次(きちじ)河内海岸・・・この40kmにわたる一帯に防衛線を築く薩摩軍。

特に、田原~吉次にかけては防塁や胸壁なと堅固な対策をほどこしました。

しかし、それは政府軍も考えるところ・・・

逆に、政府軍から見れば、熊本城の兵糧が尽きるまでに、この一線を突破しなければなりません。

3月3日・・・政府軍は、田原坂と吉次峠に焦点を絞って攻撃を開始しました。

翌日の4日では、薩摩軍に吉次峠から撃退されたため、その後の政府軍は、攻撃目標を田原坂一本に絞り、この頃から、薩摩が誇る斬り込み作戦に対抗できるよう、士族出身者による抜刀隊を組織したという事です。

つい先日書かせていただいた佐川官兵衛もそうでしたが、この抜刀隊には、旧会津藩士を多く起用して、戊辰戦争の恨みとばかりに活躍させた・・・なんて話もありますが、確かに、官兵衛さんが、熊本城の救援に豊後街道をひた走ったのも、この頃ですね(3月18日参照>>)

一方の薩摩軍は、田原坂の両側が高い土手になっている事を利用して、そこを通る政府軍の兵士に頭上から銃撃を浴びせ、そのドサクサで斬り込み隊が突っ込んでいく・・・というやりかたで、しばらくの間は政府軍を蹴散らしますが、徐々に形成は不利になっていき、3月15日には、田原坂と吉次峠の中間にあった薩摩軍の要所・横平山を奪取されてしまいます。

・・・というのも、すでに政府軍は、「数に勝る」「最新鋭の武器」以外にも、新たな秘密兵器を持っていたのです。

以前、西郷が鹿児島を出陣した時点で、陸軍の山県有朋(やまがたありとも)が、熊本鎮台・司令官の谷千城(たにたてき)に、「絶対死守!」の檄文を送ったと書かせていただきましたが・・・つまり、電報・・・この時、情報をいち早く得られる通信網を、政府は確保していたわけです。

日本の電信技術は、明治二年(1869年)の12月に東京⇔横浜間で電報の取り扱いを開始したのを皮切りに、急速にその網を広げていき、明治八年(1875年)には、すでに熊本まで架設されていたのです。

以前、明治九年(1876年)に起こった神風連の乱のページで、殺害された種田政明の愛人・小波さんの電報が話題になったお話を書かせていただいたのを、覚えてくださってる方もいらっしゃるかも・・・(10月24日参照>>)

この西南戦争の時には、政府軍はその上陸とともに通信網の構築を行い、占領していった地に次々と電信を架設していったのです。

しかも、電報は暗号化されていて、薩摩軍が傍受しても、解読できないようになっていたのだとか・・・。

実は、この田原坂の激戦中にも、南下する政府軍主力部隊と同時進行で、南側からの上陸作戦が展開されていて、3月19日には、熊本城のある島原湾から宇土半島を挟んだ八代海州口海岸から上陸し、海岸の防備にあたっていた少数の薩摩軍を蹴散らして、その日のうちに八代(熊本県八代市)を占領してしまっていたのです。

上記の連絡網の事を考えれば、田原坂の政府軍・主力部隊にも、そして熊本城で籠城する谷司令官にも、この八代の占領が即座に伝わった可能性もあります。

それゆえ・・・なのでしょうか、政府軍は、その日、翌日の田原坂・総攻撃を決定したのです。

3月3日に始まって、激戦を極めた17日間・・・ほとんどの日が雨だった田原坂の激突。

やはり、この日も、どんよりとした視界の悪さ・・・そこにつけ込んで、政府軍は夜の間に田原坂の南側を迂回して南東側に回りこみ、夜明けと同時に奇襲攻撃を仕掛けました。

「こちらからの攻撃はないだろう」と少し油断していた七本(ななもと)台場の薩摩軍は、一気に崩れ、またたく間に敗走・・・その勢いで連鎖的に崩れ出す薩摩軍は、もはやどうしようもありませんでした。

明治十年(1877年)3月20日・・・田原坂は、その日のうちに陥落しました。

この時、報知新聞の記者として、西南戦争を取材していた犬養毅(いぬかいつよし)は、薩摩の敗因を「一に雨、二に赤帽、三に大砲」と報告しています。

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田原坂激戦之図(熊本市立熊本博物館蔵)

上記の通り、激戦の17日間のほとんどが雨であったため、旧式の銃が主流だった薩摩軍は、湿気のため薬きょうに火がつき難かった・・・一方の政府軍の銃は、雨にも負けない最新の銃・・・。

そして、富国強兵で集められた農民中心の鎮台兵に比べて、士族中心で形勢された赤帽と呼ばれる近衛兵たち・・・

さらに、大砲の数は、政府軍が圧倒的に多かった・・・犬養の報告によれば、「薩摩軍は、大砲も小銃もほとんど撃つ事がなかった」と言います。

一方、田原坂を撤退した薩摩軍・・・政府軍と違って、こちらの情報網は、もっぱら人間による伝令だったため、戦いが終った後に、八代の占領を知る事になり、慌てて軍勢を南下させる事になるのですが・・・

そのお話は、4月15日の【熊本城救出作戦】でどうぞ>>

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年3月19日 (木)

天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都

 

天智六年(667年)3月19日、中大兄皇子が、都を近江(滋賀県)大津に遷しました。

・・・・・・・・・・

♪三輪山を しかも隠すか 雲だにも
  情
(こころ)あらなも 隠さふべしや ♪
「なんで、雲は三輪山を隠すのしょう・・・雲にも心があるなら、こんな日に隠さないでよ」

これは、住みなれた大和(奈良県)の地を離れる峠の道で、かの額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ、♪味酒(うまざけ) 三輪山・・・♪から始まる長歌への返歌として詠まれた歌・・・。

神代の昔から、この三輪山は特別な山・・・大和朝廷自身が、強く崇める神の山でした。

しかし、大和の地では毎日眺めていた三輪山も、都が大津に遷れば、その美しい姿を見る事ができません。

奈良山を越える峠の道で振り返ると、雨模様の空からどんよりとした雲が覆いかぶさり、三輪山の姿は見えない・・・最後のこの日に、もう一度三輪山を見て、しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのに・・・

そんな切なる思いを、ヒシヒシと感じさせてくれる歌です。

この額田王だけではなく、多くの人がとまどいを隠せなかった大津京への遷都・・・

遠まわしにいさめる声も多く、ちまたでは、「童謡(わざうた)も流行したと言います。

童謡というのは、子供のわらべ歌ではなく、風刺や異変の前兆を歌にしたもの・・・この大津京・遷都のときは、「なぜ?」という疑問とともに、「失策である」という批判を込めた歌詞だったと思われます。

この時、多くの人民は、政治の事情よりも、住みなれた土地を離れる事の寂しさや不安が先立ち、上記のような反対意見が吹き荒れてはいましたが、国家を預かる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)にとっては、一大決心の大冒険・・・現在の暗い時代を払拭し、この国の将来を賭けた遷都だったのです。

Tenzitennou500a 中大兄皇子は、ご存知の通り、あの蘇我入鹿・暗殺を決行した大化の改新の立役者(6月12日参照>>)・・・

『日本書紀』によれば、天皇の息子である中大兄皇子・自らが手を汚し、天皇に代わってすき放題やってた悪しき豪族の蘇我氏から実権を取り戻したにも関わらず、なぜか時の天皇である皇極天皇は退位し、しかも、そのクーデターの立役者であるはずの息子には皇位を譲らず、弟の軽皇子(かるのおうじ)が第36代・孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子のまま・・・

さらに、その孝徳天皇が亡くなってさえも、まだ中大兄皇子は即位せず、先の皇極天皇・・・つまり、中大兄皇子のお母ちゃんが、再び斉明天皇として即位します。

ここで、あの大化の改新から10年・・・すでに、中大兄皇子は30歳になってますから、「人の道を重んじる中大兄皇子が、年長者に譲った」なんていう美しきいいわけは通用しませんが・・・。

このあたりの「即位せずの謎」につきましては、異論・新説、多々あり・・・くわしくはその即位の日に書かせていただいたページ(1月3日参照>>)で見ていただく事として、とにかく、この斉明天皇の時代に、国家を揺るがす大事件が起こったわけです。

斉明七年(661年)、朝鮮半島を巡る新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)の争いが激化し、大陸からの脅威にさらされた日本は、その防御策として、斉明天皇以下、船団を組んで九州に移動しますが、かの地についた途端、天皇は崩御(7月24日参照>>)

しかも、その2年後、救援を求めてきた百済とともに助っ人として参加した白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで、日本は、新羅と唐(中国)の連合軍に大敗を喫してしまいます(8月27日参照>>)

「この勢いに乗って、大国・唐が攻めてくるかも知れない!」
そんなウワサがたつのも当然です。

実際には、その頃の唐は、日本とは友好関係を持ちたいと思っていたようで、戦いの翌年には、百済占領軍の司令官であった劉仁願(りゅうじんがん)を長とする使者を送り、貢物を献上しに来ているのですが・・・

それでも中大兄皇子は警戒心を緩める事なく、対馬(つしま)壱岐(いき)筑紫(福岡県)防人(さきもり)を置き(2月25日参照>>)、異変が起きた時に知らせるのろし台(4月23日参照>>)も設置、筑紫から大宰府の1kmに渡っては水城(みずき)と呼ばれる堤も構築しました。

今回の大津京・遷都は、その白村江の戦いから3年、しかも、改新から始まった新たな政治も重大な転機にさしかかっていた・・・つまり、対外的にも内政的にも、最も不安定な時期だったわけです。

そんな意味合いには気づかなかった多くの人々が、不安にかられたのは、その近江という土地が、未だ見も知らぬ土地であったからなのですが、確かに、大化の改新後、一度、大和を離れて難波(なにわ・大阪)に都を遷していますが、難波は、当時は、すでに遣唐使船の発着所でもあり、聖徳太子が建てたとされる四天王寺もあり、古くは、仁徳天皇高津宮もあった場所で、多くの渡来人が居住する都会であったのです。

でも大津は・・・。

しかし、それこそが、中大兄皇子が求めた、すべての不安を払拭する、新たな都であったのです。

考えてみれば、大津は琵琶湖を前にしての海運も望め、周囲は山に囲まれた天然の要害・・・さらに、『扶桑略記』には、この遷都の時期の事として書かれている日本最古の銅鐸(どうたく)発掘のニュースなどを考えれば、まったくの未開の地ではなかったわけですから、心機一転、新天地での新たな政治には、うってつけの場所だったのかも知れません。

民衆の批判にもめげずに決行した大津京・遷都・・・やがて、外敵の不安も徐々になくなり、滅亡した百済から大量に移住してきた渡来人たちによって発展した新たな文化も根づきはじめ、翌年の天智七年(668年)1月、中大兄皇子は、その大津宮で正式に即位し、第38代・天智天皇となります。

あの大化の改新から20年以上・・・夢に描いていた花の都が現実のものとなった瞬間でした。

しかし、天智天皇が理想とした花の都は、所詮、天智天皇だけの理想の都だったようで、その都としての命は、わずか数年で、天智天皇の死とともに終ってしまう事になります。

ご存知、壬申の乱の勃発です・・・(10月19日【希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発】へどうぞ>>)
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2009年3月18日 (水)

佐川官兵衛~会津魂・未だ衰えず

 

明治十年(1877)3月18日、警察官として、西南戦争に出動した元会津藩・佐川官兵衛戦死を遂げました。

・・・・・・・・・・・

佐川官兵衛(さがわかんべえ)は、天保二年(1831年)に会津藩士・佐川右衛門の嫡子として生まれました。

父は、300石取りの物頭(ものがしら)・・・物頭とは、足軽20人+小頭1人を束ねる長の事で、つまりは、その隊のリーダーという事。

官兵衛は、直情的で後先考えずに走り出すところのある性格でしたが、会津藩には、「300石以上の嫡子は、人の上に立つ者として学問を修めなければならず、武芸においても、弓・馬・槍・刀・銃のうち、一つ以上は免許を取る」という決まりがあった事から、おそらく彼も、幼い頃から学問に励み、未来のリーダーになるべき教育を受けて育った事でしょう。

そんな官兵衛は、藩主・松平容保(かたもり)に仕えていましたが、おりからの幕末動乱期となった文久二年(1862年)、京都の治安維持のために京都守護職に任命された容保とともに、上洛・・・するはずでしたが、その時、彼は、ケンカがもとで謹慎中

なんか、ここにも性格が出てるような気がしないでもありませんが、とにかく、藩主よりはちょっと遅れての上洛とあいなりました。

しかし、上京するやいなや、京都日新館学校奉行に任じられ、さらに、会津藩の精鋭で組織された別選組(べつせんぐみ)の隊長にも就任・・・若い後進の育成と京都の治安維持に力を注ぐ毎日となりました。

やがて勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、その別選隊を率いて、薩摩の放つ銃弾の中をかいくぐって敵陣の中に突っ込むという大活躍ぶりで、「鬼の官兵衛」との異名をとりました。

確かに・・・先の直情的な性格は、決戦の場合は、かなりの武器になりますからね。

しかしながら、ご存知のように、鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の敗戦となってしまいます。

大坂城が炎に包まれたあの日(1月9日参照>>)、彼ら会津藩は、陸路で和歌山へ抜け、その後、船で江戸へ・・・さらに、会津に到着した時には、すでに3月も半ばになっていました。

4月には江戸城が無血開城され、さらに北上する官軍と戦う事になった、あの会津戦争・・・以前、白虎隊のところで書かせていただきましたが(8月23日参照>>)、この時の会津藩には、官軍との決戦に備えて、年齢別に編制された白虎隊(16~17歳)朱雀隊(18~35歳)青龍隊(36~49歳)玄武隊(50歳以上)があり、さらに、本人の身分により3つの種類に分かれていました。

官兵衛が率いたのは、朱雀隊・四番士中隊・・・この隊は会津の中でも最強と言われ、各地を転戦して、時には勝利も収めたりしますが、やはり、時が経つにつれ、死者・負傷者の数が山のように増えていきます。

会津戦争も末期になって、容保の要請により、鶴ヶ城の防戦に徹する官兵衛は、千石取りの家老にまで出世しますが、戒名を書いた紙を懐に入れて、いつも決死の覚悟で奮戦したと言います。

しかし、徐々に濃くなる敗戦の色・・・開城の意思を匂わす容保に対して、当然のごとく彼は反対し、8月29日の長命寺の戦い(8月29日参照>>)に出陣した後は、「勝利の日まで藩主・容保には拝謁しない」と誓って、一度も城に戻る事なく、生き残りを集めては奮戦する・・・という事を続けていましたが、悲しいかな、城内では、すでに開城の話し合いがなされ、9月22日、鶴ヶ城は開城、会津藩は降伏となります(9月22日参照>>)

官兵衛が、この知らせを聞いたのは、2日後の24日・・・彼にとっては無念ではありますが、藩主がそうと決めたのであれば、それに従うのが武士の道というもの・・・。

家老という任務についていた彼は、会津戦争の首謀者として極刑も覚悟していましたが、処分を受けたのは、前任の家老で、官兵衛自身は、禁固刑となり、しばらくの間投獄される事になります。

やがて、明治三年(1870年)、許された官兵衛・・・すでに一度取り潰された後、斗南(となみ)と名を改め、陸奥(むつ・青森県)に3万石の領地を与えられていた旧・会津藩を頼って、彼も、斗南に移住しました。

しかし、かの「鬼の官兵衛」の異名をとった武勇の人を、新政府がほっておくわけがありません。

明治七年(1874年)、新政府は東京に警視局(警視庁)を設けますが、この時、長官として就任した川路利良(かわじよしとし)彼を呼んだのです。

しかし、官兵衛にしてみれば、明治新政府は、故郷・会津を焦土に変えた敵・・・そんな敵に仕えるなど、武士のプライドが許しません。

・・・と、強がってはみるものの、領地を与えられたとは言え、わずか3万石・・・そこに、寄り添うように暮らす旧・会津藩士たちは、貧困を極めていました。

新政府は、自分とともに、300人の旧会津藩士を警察官として雇ってくれると言う・・・背に腹は変えられません。

彼は、その300人の旧藩士とともに、東京へと向かいます。

そんなこんなの明治十年(1877年)、鹿児島で西南戦争が勃発します(1月30日参照>>)

確かに、かの戊辰戦争では、薩摩は会津の敵でした。

これは、新政府のプロパガンダに、きっちりハメられてしまったのかも知れませんが、昔、幕府側だった者の多くが、「戊辰戦争の恨みが晴らせる」と思った事も事実・・・。

官兵衛は、多くの旧家臣を含む警察官の1人として、ちょうどこの時、薩摩軍に包囲されていた熊本城(2月22日参照>>)の救援のため、九州へと向かう事になったのです。

豊後口第二号警視隊・副指揮長兼一番小隊長として、熊本城の東側・・・豊後街道から救援に向かう事になった官兵衛でしたが、その途中、阿蘇・外輪山の二重峠のところに、「薩摩軍が砦を構築している」との情報が入ります。

二重峠は天然の要害・・・「そこに砦を築かれては、落すのも容易ではない」と、進軍そのままの勢いで急襲作戦を提案する官兵衛でしたが、なかなかその案は採用されないまま、少しの時間をロスしてしまいます。

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かくして、明治十年(1877)3月18日、やっとの事で、出撃命令が出て、二重峠へ進出する官兵衛以下警視隊・・・しかし、その時には、もう、砦は完成していて、それを崩そうとする警視隊と死守しようとする薩摩軍とで、またたく間に激戦となります。

7時間にわたる死闘の最中、官兵衛は、薩摩軍の小隊長・鎌田雄一郎を視野に捕らえます。

付近の兵士たちも、皆、それぞれの戦いに没頭しており、二人は自然のうちに一騎打ちの体制となります。

官兵衛はもちろん、相手の雄一郎も、剣の腕では知られた人物・・・戊辰戦争の恨みを晴らすには絶好のシチュエーションが出来上がりました。

刃を交え、一進一退の戦いを繰り広げる中、とうとう官兵衛は、雄一郎を追い詰めます。

「さぁ、積年の恨み!」
と、大きく太刀を振り上げた時・・・

藪の中に潜んでいた薩摩の狙撃兵から狙い撃ちされ・・・

3発の銃弾を受け、官兵衛の身体は前のめりに崩れていきます。

佐川官兵衛・・・享年47歳。

あの鳥羽伏見で、雨のように降り注ぐ銃弾をかわした鬼は、故郷から遠く離れた阿蘇の山麓で、壮絶な最期を遂げました。

幼い頃にあこがれた最も武士らしい姿で・・・

・‥…━━━☆

搦め手の豊後街道から熊本城救援に向かった官兵衛たちと、同時進行で南下していた政府軍は、この2日後、あの運命の田原坂で、北上する薩摩軍とぶつかる事になります(3月20日参照>>)

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年3月17日 (火)

豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役

 

文禄元年(1592年)3月17日、朝鮮出兵のため、全国から京都に集まっていた諸大名のうち、先発隊が九州に向けて出陣を開始しました

・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役ですが、その経緯や謎については、以前、秀吉自身が京都を出立する日に書かせていただいた【豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎】(3月26日参照>>)を見ていただくとして、本日は、その出立の様子・・・

朝鮮出兵の際に、その本拠地となったのは、肥前(佐賀県)唐津にあった名護屋(なごや)・・・一旦、京都に集まった諸大名は、文禄元年(1592年)3月17日、隊列を組んで、その名護屋城に向けて出陣したのです。

彼らの勇姿を一目見ようと沿道には大勢の人だかり・・・見守る京都の町びとになったつもりで・・・

まず、先頭を行く一番隊は、前田利家隊・・・

加賀梅鉢紋をあしらった旗も勇ましく、鉄黒(かねぐろ)の甲冑・・・およそ2000の隊列は、加賀百万石にふさわしい威厳をかもし出しています。

やがて、その隊列が終ろうとすると、その向こうには、三つ葉葵の軍旗が見えてきました。

およそ3500の軍勢の中ほどには、あの金扇の馬標(うまじるし・馬印)が、朝日に光ります。
(金扇の馬標がどんな物かは、15代・慶喜が大坂城に忘れたお話とともにコチラでどうぞ>>

二番隊の徳川家康隊です。

・・・と、その時。

集まった民衆から、どよめきの声があがります。

竹に雀・・・仙台笹の家紋の軍旗に、紺地に金の日の丸をあしらった(のぼり)を、30本ほど風になびかせながら、黒の漆(うるし)の具足で統一された兵士たち・・・その黒一色の中に、ところどころ金の装飾が光ます。

刀と脇差は、朱色に銀の装飾で統一され、馬上の武者は、それぞれ豹や虎の馬鎧(うまよろい)に、金色の半月が書かれた黒の母衣(ほろ・背後からの矢を防ぐ布製の防具)で揃え、中には、孔雀の羽根でさらに豪華に演出する者も・・・

名のある武将は九尺(2m73cm)の太刀を背負い、それを金の鎖で肩に結ぶという画期的なスタイルで登場・・・

Datemasamune650 京都の人々のド肝を抜いた、この三番隊の武将は・・・ご存知、独眼竜・伊達政宗です。

華麗を極めたこの隊列のご本人は・・・

黒羅紗(らしゃ)の地、背中に大きな金色の家紋をあしらった陣羽織は、裾にいくにつけ紅羅紗の大小の水玉模様・・・さらに、袴は黒羅紗に金モールが放射状に広がり、おりからの春の日差しにキラキラと輝く・・・

赤の錦のひれ垂に、黒漆の五枚胴・・・もちろん、兜は、細く金に光る三日月の前たて・・・

金をふんだんに使った豪華さはあれど、派手になり過ぎないセンスの良さです。

政宗の幼い頃からつちかった芸術的センスが遺憾なく発揮された見事な隊列・・・

京の人々は、「さながら動く絵巻物を見るようだ」と絶賛したと言います。

皆口々に・・・
「さすがは伊達者は違う」
「あれが、伊達者か!」

と歓喜の嵐です。

オシャレな男の代名詞・伊達男(だておとこ)という言葉は、こうして生まれました。

まさに満開の桜吹雪の下、薄いピンクの花びらに、黒と金の豪華絢爛な隊列は、春の光を受けて、まばゆいばかりに輝いていた事でしょう。

カッコイイ・・・(≧∇≦)見たかったなぁ~

お詫び:個人的好みのため、政宗隊ばかりに密着で・・・ゴメンナサイです。
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2009年3月16日 (月)

日本~「初めての○○」と「最後の○○」の物語集

 

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、【日本・初めと終わりの物語集】と題して、「日本初の○○」「日本で初めて○○した人」「日本最後の○○」などをピックアップさせていただきました~

他のテーマと重複している記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

ただ、この類のお話には、諸説ある場合もありますので、ご紹介している事柄は「一般的に、そう言われている」あるいは「諸説あるうちの一つ」とお考えください。

・‥…━━━☆

★初めての○○

●色のはじまりは?
 【色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」】

●始めての相撲
 【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】

●初めての治水工事
 【最古の治水工事・茨田の堤の物語】

●日本最古の橋
 【日本最古の「つるのはし」】

●トイレのルーツ
 【トイレの歴史】

●お風呂のルーツ
 【お風呂の歴史】

●仏教伝来
 【仏教伝来・物部VS蘇我】

●初の遣隋使=ご存知!小野の・・・
 【国書を失くした小野妹子が出世する不思議】

●再建されても世界最古
 【聖徳太子のために再建された謎と不思議の法隆寺】

●日本に猫が来たのは?
 【猫と日本人・その交流の歴史】

●初めての水時計
【漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX】 

●初めての賭け事
 【天武天皇も怒られた?日本のギャンブルの歴史】

●日本初の火葬
 【日本の火葬の習慣はいつから?】

●活版印刷と印刷物
 【戦国の活版印刷と日本にある世界最古の印刷物】 

●初の勅撰和歌集・古今和歌集が奏上される
 【たった一首で大歌人?猿丸太夫の謎】

●おみくじの元祖
 【延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源】

●初めての借金と質屋
 【質屋の歴史】

●お茶
 【栄西のお土産・日本茶の日】

●日本に囲碁が伝わったのは?
 【いい碁の日に囲碁のお話】

●切腹を初めてした人は?
 【源為朝・琉球王伝説】
 【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】

●初めての福祉施設
 【奈良に始まる福祉の歴史】

●初めて入れ歯をした人
 【世界最古の入れ歯は日本製?】

●なぞなぞのルーツ
 【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

●初めての撰銭令
 【「びた一文」が多すぎの貨幣のお話】

●初の古墳の発掘調査
 【黄門様の大日本史~日本初の発掘調査】

●破魔矢のルーツ
 【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】

●鉄砲伝来
 【鉄砲伝来~異説とその後】

●初めてのクリスマス
 【日本のクリスマスはいつから?】

●初めての花火
 【花火の歴史】

●初の号外が報道したのは「速報!大坂夏の陣」
 【近代新聞と瓦版~大江戸情報ネットワーク】

●八丈島・流人の第一号
 【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】

●初めての大和暦
 【初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』】

●日本初の全国指名手配
 【大泥棒・日本佐右衛門ってどんな人?】

●日本に象がやって来たのは?
 【象の日】

●初めての出刃包丁
 【出っ歯の出刃包丁~刃物の日にちなんで…】

●初の西洋式正月祝賀~Happy New Year
 【江戸時代に西洋式の正月を祝った大槻玄沢】

●間宮海峡・発見
 【忍者・間宮林蔵~樺太探検の後に…】

●日本初のマラソン大会
 【安中藩主・板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン】

●初めて名刺を造った人は?
 【幕末遣欧使節・池田団長が初めてした事は?】

●初めての写真館
 【日本初の写真家・上野彦馬の伝えたかった事】 

●初のバーゲンセール
 【日本で最初のバーゲン】

●昔、着物は逆だった?
 【男女の前あわせとネクタイの始まり】

●初めての横綱
 【横綱は免許制?相撲最高位・横綱誕生秘話】

●華族制度&たった2年間の「藩」という呼び方
 【四民平等の明治政府が華族制度を造ったワケは?】

●郵便制度・実施
 【郵便の父・前島密の功績】

●近代上水の給水開始
 【江戸の上水・大阪の下水】

●初めての図書館
 【図書館記念日】

●造幣局・設置
 【文明開化の最先端!大阪・造幣局】

●初めての灯台
 【灯台記念日に灯台の歴史】

●日本初の女医さん
 【日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子】

●初めてスキーをしたのは?
 【日本のスキー発祥は?】

●初めてのスケート
 【スケート・事始め~スケートの歴史】

●初の鉄道馬車
 【鉄道馬車と車会党】

●初めての電信実験
 【ペリーのお土産…電信機なう】 

●初の水力発電(最後の三十石船)
 【琵琶湖疏水の完成】

●初の路面電車
 【京都で日本初の路面電車】

●初めての鉄道新橋⇔横浜間に鉄道が完成
 【初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る】 

●初のガス灯
 【文明開化・光の競争】

●初めての靴の製造
 【日本初の靴・製造工場】

●日本赤十字社・誕生
 【形なき未来への遺産~佐野常民の博愛精神】

●初めてのピストル強盗
 【文明開化~初のピストル強盗現る】

●初めての電話
 【電話はじめて物語】

●初飛行
 【ライト兄弟よりも早く~日本人が空を制す】

●ラジオ放送開始
 【放送記念日~初めてのラジオ放送】

●日本初のエレベーター
 【日本初のエレベーター…浅草・凌雲閣に誕生】 

●初の国際結婚
 【初の国際結婚&結婚の歴史】

●初めての万歳三唱と初代天皇
 【建国記念の日と神武天皇】

●初めてのミス日本は誰?
 【ミス日本に選ばれて退学処分】

●初めてのビアホール
 【日本初のビヤホール誕生】

●初めてのボーナス
 【日本でで初めてボーナスは?】

●日本での野球
 【野球の歴史は1本のバットから・・・】

●初めての野球中継
 【日本初の野球中継は?】

●食堂車・登場
 【東海道線に食堂車が登場!】

●初めてのタクシー
 【日本初のタクシー誕生】

●女優
 【日本初の女優・川上貞奴】 

●邦画・第1号
 【映画の日に映画の歴史】

●初めての飛行
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】

●ヒット曲・第一号
 【カチューシャの唄に寄せて・ヒット曲の歴史】

●初めてのケーブルカー
 【日本初のケーブルカー…生駒山に誕生】

●宝くじ・発売
 【昭和の宝くじ・江戸の富くじ】

●煙突男・第1号
 【労働者のヒーロー・煙突男登場!】

●日本初のスチュワーデス
 【日本初は世界初?はじめてのスチュワーデス物語】

●南極探検
 【南極探検と観測の歴史】

●東京タワー完成
 【東京タワーが333mのわけは?】

 

★最期の○○

●最後の踏み絵
 【「絵踏み」の「踏み絵」は、今、どこに?】

●最後の斬首刑
 【最後の斬首・高橋お伝の話】

●最後の斬首刑・執行人
 【最後の斬首刑で役目を終えた山田浅右衛門】

●最後の仇討ち
 【日本最後の仇討ち】

●最後の三十石船(初の水力発電)
 【琵琶湖疏水の完成】

●最後の大名
 【前代未聞!藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇】

 
★その他、年中行事や習慣・記念日などの初めては・・・

【伝統行事&習慣・言い伝えの歴史・豆知識】

【祝日&記念日の歴史・豆知識】・・・から、どうぞ
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2009年3月15日 (日)

江戸総攻撃の予定日に散った忠義の幕臣・川路聖謨

 

慶応四年(1868年)3月15日、大坂東町奉行や外国奉行などを歴任した幕臣・川路聖謨が自殺しました。

・・・・・・・・・・・

享和元年(1801年)に、豊後(大分県)日田の下級武士の家に生まれた川路聖謨(かわじとしあきら)・・・父は、とても実直な人で、しつけに厳しく、武士としての心構えを、息子に徹底的に叩き込むような人でした。

その父の教えに素直に答え、聖謨も、武士道を重んじる真面目で一所懸命な少年に育ちますが、いかんせん、彼の実家は、下級武士の中でも、さらに下のほうの身分でした。

12歳で、ちょっとだけマシな川路三左衛門の養子となって、その後、川路姓を名乗りますが、やはり下級であった事には変わりませんでした。

江戸時代・・・武士とは言え、それ相当の特別な家柄に生まれなければ、何もしないでの出世は望めません。

彼ら、下級武士は、とにかく猛勉強して、幕府がおこなう採用試験に合格し、その後、仕事を真面目に、かつ順調にこなし、成果をあげ、少しずつ出世していく・・・低い身分から脱出するためには、それしかありません。

そんな中、聖謨は17歳で勘定所の採用試験に合格し、勘定奉行所支配勘定出役という下級官吏からスタートします。

もともと、頭のいい人ですし、実父の教えを守り、合格後も努力を惜しまず仕事に励みますから、徐々に徐々にではありますが、やがては重要な役どころにつく事になります。

老中・水野忠邦の派閥に属していた彼は、その忠邦の失脚とともに、一時、左遷されたりもしましたが、それにもめげず仕事に励み、52歳で勘定奉行に就任し、500石の知行取りとなります。

これは、スタートが下級武士だった事を考えると、まさに、異例の出世と言えます。

常に努力していた、その真面目さがうかがえますね。

しかし、その翌年の嘉永六年(1853年)、幕府を揺るがす出来事が起こります。

ご存知、ペリーの黒船来航です・・・と、一般的に有名なペリーの名を出しましたが、以前、ブログに書かせていただいたように、わずか1ヶ月半遅れで、ロシアプチャーチン長崎に来航しています(10月14日参照>>)

少しだけ、ペリーが早かった事、江戸に近い浦賀に来航した事で、ペリーばかりが注目を浴びますが、この時、ロシア側との交渉に臨んだのが、本日の主役・川路聖謨でした。

彼は、もともと、仕事のかたわら、シーボルト鳴滝塾の卒業生をはじめ蘭学者・儒学者などが集う尚歯会(しょうしかい)という勉強会に参加しており、その会の高野長英らとの親交もあつく、西洋事情にもくわしかったと言いますので、その腕を振るえる大役に胸が躍った事でしょう。

そのプチャーチン来航のページにも書かせていただいたように、その後、長崎での交渉が難しくて場所を変えた事や、ロシア自身のお国の事情などで少し遅れはしましたが、安政元年(1853年)、聖謨の努力の甲斐あって、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけました。

しかし、これが、彼の人生のピークでした。

この後、和親条約に続く、修好条約の締結に関して、朝廷の勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)をもらうために上洛するのですが、どうしても許しが得られなかったのです。

つまり・・・仕事に失敗してしまいました。

さらに、ちょうど起こった次期・将軍問題・・・当時、第13代・徳川家定の次ぎの将軍を決めるにあたって、紀州徳川慶福(よしとみ・後の家茂)を推す派と、一橋家徳川慶喜(よしのぶ)を推す派に、幕府内は真っ二つに分かれていたのですが、ご存知のように、第14代将軍は慶福に決まり、大老・井伊直弼(なおすけ)によって、一橋派を一掃する安政の大獄(3月3日参照>>)が行われます。

・・・で、一橋派だった聖謨も、安政六年(1869年)、隠居&蟄居(謹慎処分)を言いわたされてしまうのです。

聖謨・・・60歳の時でした。

「この平成の現代だって、定年は60歳・・・異例の出世もした事だし、ちょうど良かったんじゃない?」
・・・と思いますが・・・

現に、彼の多くの友人もそう思っていたようですが、何よりも、聖謨自身が、その事に納得していなかったようです。

その後、63歳で中風を患って、半身不随になった後も、外出時は必ず馬に乗り、従者を連れて、武士らしい姿での外出にこだわっていました。

かの友人から・・・
「もう、隠居してるんやから、もっと気軽な外出したら?」
と言われると・・・
「いつ、登城せよとの声がかかるかも知れぬ」
と言って、その後もずっと、現役時代のままの生活を続けていたそうです。

万が一、幕府に一大事が起これば、その身を投じて、将軍様に奉公する・・・彼の心の中は、下級武士から勘定奉行へと取り上げてくれた、幕府への恩義に満ち溢れていたのです。

きっと、武士=幕臣以外の自分の姿など、彼には考えられない事だったのでしょう。

やがて、聖謨・67歳・・・運命の慶応四年(1868年)3月14日

そうです。
昨日の西郷隆盛と勝海舟の会談です(3月14日参照>>)

彼は、この会談で、江戸城明け渡しが決まった事を耳にします。

昨日のページで書かせていただいたように、昨日の会談で正式に決定されたのは、この日=3月15日に決行される予定であった江戸総攻撃が中止になった事だけですが、降伏の条件などの話し合いとともに、江戸城明け渡しが話し合われた事は確か・・・。

書面での正式決定は、また後ほどですが、幕府に江戸城を明け渡す用意があり、新政府軍が攻撃を中止したとなると、武士たちの間では、「江戸城は明け渡されるのだ」というニュースとなって飛び交う事は当然です。

厳密には、まだ、しばらくの間、徳川家は一大名として残り、彰義隊(しょうぎたい)とのひとモンチャクもあり、鳥羽伏見に始まった戊辰戦争も、東北から果ては北海道まで続く事になるわけですが、実直な聖謨は、「ここで幕府は終った・・・」と考えたのです。

世紀の会談から一夜明けた慶応四年(1868年)3月15日・・・江戸総攻撃が予定されていたその日に、聖謨は、幕府とともに散る事を選びます。

あの幼い頃の父の教え通り、武士らしく、忠義の念を込めて・・・

しかし、半身不随となったこの身では、うまく切腹できないかも知れない・・・と、彼は、念のめ用意したピストルをかたわらに置きます。

彼は、あのロシアとの交渉の時、条約締結に喜んだプチャーチンが、「一緒に写真を撮ろう」と誘うと・・・

「これ、帰ってロシア人に見せるよね・・・なんか、俺みたいなブサイクが日本人の平均だと思われたらマズイなぁ」
と、冗談を言って、プチャーチンらを大いに笑わせたのだとか・・・

決意を固めた彼の脳裏には、その頃の活き活きと仕事をこなす自分が浮かんでは消えた事でしょう。

おもむろに刀を構え、見事、武士らしく割腹した聖謨は、そのまま、ピストルを手に持ち、喉を撃ち抜いて、自分自身にトドメを刺しました。

幕府の崩壊とともに散った川路聖謨・・・子孫に宛てたその遺書には、「忠義の心は片時も忘れないように・・」と書かれていたと言います。

♪天津神に 背(そむ)くもよかり 蕨(わらび)つみ
 飢えにし人の 昔思えば  ♪
    川路聖謨・辞世

・‥…━━━☆

そんな川路聖謨さんは、地方の役職につく事も多く、佐渡奉行奈良奉行などをこなしていた事で、その地方での逸話も多く残るかたなのですが、それぞれのエピソードは、また別の機会に書かせていただきたいと思います。

Dscn0225a1000
↑奈良は猿沢池のほとりにある植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)
奈良奉行時代の川路聖謨この周辺一帯に数千株の桜の苗木を植えて庶民に自然とのふれあいを推奨した事を讃えた記念碑です。
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2009年3月14日 (土)

江戸無血開城へ~西郷隆盛と勝海舟の会談…その内容は?

 

慶応四年(1868年)3月14日、新政府軍の江戸総攻撃を明日に控えて、東征大総督府・参謀の西郷隆盛と、幕府・陸軍総裁の勝海舟2日目の会談が行われました

・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗を掲げて官軍となった新政府軍・・・かたや、幕府軍の大将である第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が、単身にて大坂城を脱出し、江戸城へと戻った事により、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終ります(1月9日参照>>)

その後、東海道東山道の二手に分かれて東へと進軍する新政府軍ですが、特筆すべきぶつかり合いは、東山道側で起こった勝沼戦争(3月6日参照>>)くらい・・・新政府軍は、ほとんど戦いを交える事なく、東海道側は3月12日に品川へ、東山道側も3月13日に江戸に到着しました。

その間に、第13代将軍・徳川家定御台所(正妻)で薩摩藩の出身であった天璋院・篤姫が、同じ薩摩出身で東征大総督府・参謀だった西郷隆盛に手紙を出したり(2008年4月11日参照>>)、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の御台所で孝明天皇の妹であった和宮(静寛宮)橋本実麗(さねあきら・伯父)岩倉具定(ともさだ・岩倉具視の息子)手紙を書いたり、慶喜が朝廷に出す嘆願書の書き方の手ほどきをしたり(1月17日参照>>)と、使えるコネをフルに使って、幕府が戦う意志がない事をアピールします。

しかし、すでに、新政府軍は、3月6日の駿府城での参謀会議の時点で、江戸総攻撃を3月15日に行う事を決定してしまっていたのです。

Katukaisyuu650ats 何とか衝突を回避したい幕府陸軍総裁の勝海舟は、部下の山岡鉄舟(てっしゅう)益満休之助(ますみつきゅうのすけ)という手土産を持たせて、西郷のもとへと走らせます。

この益満という人物は薩摩の出身で、鳥羽伏見の戦いの前に幕府を挑発すべく江戸でテロを行っていた時に逮捕されていた人物(12月27日参照>>)・・・つまり、事実上の釈放みたいなモンなのですが、とにかく、益満を連れていったおかげなのか、山岡は3月9日に西郷に会う事ができ、江戸総攻撃を回避する六つの条件を持ち帰る事に成功しました(条件の内容は2007年4月11日参照>>)

しかし、上記のようにこの時点では、新政府の提示した江戸総攻撃中止のための条件を持ち帰っただけ・・・まだ、3月15日:総攻撃は回避されていません。

未だ、新政府軍は、江戸の市街地を焼き払いながら、まっしぐらで江戸城へと突入する作戦を決行するつもりでいました。

そこで、新政府軍が江戸近くへとやってきた時に、勝が西郷へ会談を持ちかけたわけです。

その会談が、3月13日と14日、2日間に渡って行われた有名な西郷隆盛と勝海舟の会見です。

一日目の13日は、高輪の薩摩藩邸で行われましたが、この時決定されたのは、天璋院・篤姫と和宮の身の安全の保証・・・つまり、「朝廷や薩摩に縁があるからと言って、彼女たちを人質として利用したりはしない」という事だけでした。

そして、やってきた2日目・慶応四年(1868年)3月14日の会談・・・もはや、総攻撃予定の前日・・・一刻の猶予なりません。

その日、田町(たまち)の薩摩藩邸にやってきた勝の前に現れた西郷は、いつも通りの落ち着き払った様子だったと言いますが、この時、勝が出した降伏条件は3つ・・・

  • 江戸城は田安家(たやすけ・徳川御三卿の一つ)預かりとする。
  • 現在、幕府が所持する武器・弾薬・軍艦などは、徳川の新しい石高が決まった時点で、それに見合う量を残し、新政府軍側へ引き渡す。
  • 徳川家が江戸にて巨大な大名として存続する事を保証する。

先ほどの山岡が持ち帰った新政府の六つの条件を確認していただければおわかりのように、とてもじゃないが、それとは似ても似つかない条件・・・ほぼ全面拒否に近いものでした。

もちろん、この条件を提示するにあたっては、勝も覚悟を決めていたようで、決裂したら、速やかに江戸市民をできるだけ避難させ、房総に船を集めて難民を救済する手はずもすでに整えており、なんなら、新政府軍が江戸の中心部に入った時点で、彼らが火を放つ前に、外側から火消しの親分たちに火をつけさせ、敵を孤立させてやろうというダンドリも組んでいたのです(1月23日参照>>)

しかし、勝の意気込みとはうらはらに、西郷はいとも簡単に「はい、わかりました」と言ったというのです。

えぇっ~?
・・・と思ってしまいますね~

実は、私も、最初にこの話を知った時、「えぇ~?」って思いました。

一般的な印象では、西郷と勝の会見で、江戸総攻撃が回避され、江戸城無血開城となる・・・この二人の会見は世紀の会見!

しぶる西郷を勝が説得し・・・なんてシーンを想像していたもので・・・

ただ、あっさりめではありますが、確かに、世紀の会見には間違いないです・・・なんせ、明日の江戸総攻撃がなくなったのですから・・・。

そうなんです。

この西郷の「はい、わかりました」というのは、「明日の江戸総攻撃を中止します」という意味なのです。

つまり、この2日目の会談で決定した事は、3月15日の江戸総攻撃が無くなった=攻撃を延期した事だけで、それ以外の今後の事は、上記の条件も含め、すべて「相談してきます」と、西郷がこの日に返事をする事なく持ち帰っているのです。

そう言えば・・・考えてもみてください。

西郷の肩書きは東征大総督府・参謀・・・つまり、彼が独断で決定できる範囲は、「とりあえず、明日は攻撃をしない」という事だけでせい一杯、いや、むしろ、これでもムリめの決断です。

現に、もう一方の東山道東征軍・参謀の板垣退助などは、「なんで、そんな事、勝手に決めたんだ!」と怒り爆発でした。

実は、この会談の直前に、西郷は、木梨精一郎渡辺清左衛門という二人の部下を、イギリス公使のパークスのもとへ派遣して、「江戸の戦争でのケガ人の治療をするのに、医師や病院施設を貸してほしい」と頼みに行っていたのですが、きっちりと断られているのです、

いや、むしろ、怒られました。

イギリスをはじめとする欧米列強は、すでに幕府側が戦争を回避しようと恭順な態度をとっている事を知っていて、「それなのに、攻めるのは無法である!」と、皆、戦争に反対の立場をとっていたのです。

このままの状態で、江戸総攻撃をすれば、外国勢を敵に回す事になりますし、西から移動してきた新政府軍ですから、外国の施設が使えないとなると、けが人を収容する場所すらない事になってしまいます。

この事は、少なからず西郷の攻撃中止の決定に影響したと思われます。

なぜなら、その噛みついた板垣を抑えるのに、このパ-クスの意見を例に出して説得していますので・・・。

とにもかくにも、この3月14日の会談で、江戸総攻撃は中止され、その後、西郷と勝だけではなく、新政府・幕府の両方から、様々な人たちによる幾度かの会談がなされ、紆余曲折ありながら、徳川家の一大名としての存続や、江戸城明け渡し=江戸城無血開城などが決定していく事になるのです。

ちなみに、「池上本門寺と薩摩藩邸の両方が会談場所となっているけど、どっちが本当なの?」てな疑問をよく聞きますが、上記の通り、この13日と14日の会見は、どちらも薩摩藩邸で行われています。

ただ、本日書かせていただいたように、その2日間ですべてが決定したわけではないので、その後に行われた何度か話し合いの中には、池上本門寺での会談もあったようなので、どちらも本当であるという事のようです。
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2009年3月13日 (金)

上杉謙信・暗殺説~容疑者は?

 

天正六年(1578年)3月13日、戦国武将の中でも屈指の有名人である越後上杉謙信が、春日山城で倒れ、49歳の生涯を閉じました

・・・・・・・・

以前、書かせていただいたように、【謙信・女説】(1月21日参照>>)なんて話も飛び出すほど、女性との浮いたウワサ一つなかった上杉謙信・・・おかげで、その死後、二人の養子の間で家督を巡って争われる御館(おたて)の乱が勃発する事になってしまうわけですが・・・

タイムリーですね~。
現在のところ大河ドラマ「天地人」は、ちょうど、このあたりをやってます。

Uesugikensin500 一般的な説では、合戦に次ぐ合戦の不規則な生活と栄養の偏り、さらに、浴びるように飲んでいたお酒などで高血圧と糖尿病が悪化していたところ、3月9日(11日とも)(かわや)にて脳卒中で倒れて、昏睡状態のまま帰らぬ人となってしまったとされています。

つまり、血圧高いのにキバリ過ぎたって事なのでしょうが、さすがに、この通りにドラマ化する事は、お食事中の視聴者もおられる手前、避けなければならず、大河では、いつも籠ってる毘沙門堂で意識を失う・・・となってしましたね。

大河と言えば、あの変わった造りの毘沙門堂は、「まさか、毘沙門を毘沙門にしちゃったの?」という疑問もなきにしもあらずですが、先日の平家の生き残り・平景清さん(3月7日参照>>)のように、1人籠ってお経を読むとなると、何となく洞窟が絵になる気がしないでもないので、謙信らしいカッコイイ最期としては、○って事でしょうね。

ところで、上記の通り、通説では脳卒中ですが、天下を狙う大物の急死という事で、やはり、あります!暗殺説・・・

推理物では、こういう場合、やっぱり、謙信が死んで一番得をした人が疑われるわけですが、そうなると、第1の容疑者は、織田信長という事になります。

なんせ、この前年の9月には、カッコ良く琵琶を奏でながら七尾城を落し(9月13日参照>>)、さらに加賀に進攻して、手取川では信長配下の柴田勝家を撃ち破った謙信・・・冬のため、一旦、春日山城に戻りますが、春になれば大軍を率いて上洛するつもりであったと言われているわけですから、そうなると、謙信VS信長の直接対決もあったかも知れないワケで・・・。

実際、謙信が亡くなった後に勃発した後継者争いで、上杉がゴタゴタしている間に、信長は、上杉の配下であった越中(富山)の半分ほどを、合戦らしい合戦をする事なく、いとも簡単に手に入れてしまいます(6月3日参照>>)

これには、謙信が用をたそうと、しゃがんだ時に、トイレの下に潜んでいた刺客がオケツの○をブスリと突き刺した・・・なんていう仮説まで囁かれていますが、確かに、この頃の謙信自身が、自分は狙われてるのかも・・・」死を予感するかのような行動をとってもいるのです。
(脳卒中は予測不可能ですから・・・)

死の1ヶ月前には、例の辞世とされる
♪四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒♪
「49年の自分の生涯は夢のように短かった 栄華も一杯の酒ほどの価値しかない」
という歌を詠んでいます

絵師を呼んで、自分の肖像画を書かせてもいましたが、奇しくもその肖像画が完成して春日山に届いたのは、この天正六年(1578年)3月13日亡くなった日だったのだとか・・・。

そんなところから、自殺説も囁かれています。

謙信は永禄八年(1565年)頃から左足に腫瘍ができていて、それ自体は死に至るものではないものの、例の突然「出家する」と言っては姿を消したり、「神の啓示があった」と言っては突拍子もない行動に出たりするところから躁鬱(そううつ)の傾向があったのではないかとされ、その腫瘍を苦に発作的に自殺したのだというのですが・・・やはり仮説の域を出ないものです。

ちょっと話がそれたので、暗殺説に戻しますが・・・

謙信の死で得をする人物・・・第2の容疑者として浮上するのは、今回の大河の主役・直江(樋口)兼続(かねつぐ)とその仲間たち・・・もちろん、彼らのトップである景勝(かげかつ)も含む、後継者争いにからむ人物たちです。

今回の大河では、やはり、主役の手を汚させるわけにはいきませんから、主役クラスは誰も悪くないのに、何となく、悪人タイプの家臣の入れ知恵で、お互いが疑心暗鬼になり、ギクシャクしはじめて乱に突入・・・てな感じになってましたが、実際には、「準備してたんちゃうん?」と疑いたくなるほど、彼ら景勝組は、素早い行動で本丸を奪取しています。

(ドラマで、すでにご存知かも知れませんが・・・)もともと、冒頭に書いた通り、女性を寄せつけなかった謙信には子供が無く、後継者となるべき人物としては、姉・仙桃院(せんとういん)の息子・景勝と、北条との和睦の時にその証しとしてやってきた北条氏政の弟・景虎(かげとら)、そして能登の畠山氏から養子に入った政繁という三人の養子がいたわけですが、このうち政繁は、重臣の上条氏を継いだので、残るは景勝と景虎の二人という事になります。

もちろん、謙信が、そのどちらとも後継者を指名しないで倒れてしまう事でモメるわけです。

・・・と、ここまでは、ドラマと同じですが・・・

実際には、9日もしくは11日に謙信が倒れた直後に、景勝は、もう一人の養子・政繁や謙信の側近だった直江信綱(今のところお船さんのダンナです)らの手引きで本丸に入って、すぐさま上田衆が警固を固めてしまったようで、謙信の急を聞いた景虎が、12日に本丸にやってきた時には、入城を断られ、追い返されているのです。

これ、まだ謙信、死んでないんですよ!

そして、その翌日に謙信が亡くなって、その2日後の15日には、景勝は、自分が後継者である事を内外に公言しています。

つまり、ドラマのように、「今は喪に服する時じゃ」なんて、余裕ブッこいてるヒマなんてありゃしない事になってしまうわけです。

・・・で、この後の後継者争い=御館の乱につきましては、以前、書かせていただいた【謙信の死後・御館の乱】のページ(3月17日参照>>)で見ていただくとして、その御館乱のページには、今回の大河の主役・兼続さんの、「カ」の字も出てきやしません。

実は、この兼続さん・・・この御館の乱以前も、そしてこの乱での活躍も、ほとんど史料には出てきません。

この乱が終ってから、突然出世をし始め、歴史の舞台に登場するのです。

しかも、この乱での論功行賞(恩賞の分配)に不満を持った者の巻き添えとなって、かの信綱が死んでしまった事で、ちゃっかりと、お船さんと結婚して直江家を継ぎ、わずか22歳で上杉のナンバー2にのし上がってしまうのですよ。

臭います~~
いったい兼続さんは、この御館の乱で、どんな手柄を立てて、そこまでの出世をしちゃったのやら・・・

・・・とは、言うものの、これらは、あくまで、歴史を楽しむ側の、想像力たっぷりの推理・・・実際には、やはり、謙信の死は脳卒中だったのでしょう。

死を予感していたというのも、明日をも知れぬ戦国の世では、当然の事かも知れませんし・・・もちろん、兼続さんが疑わしいからと言って、ドラマの内容を否定するものでもありません。

今回の大河は、直江兼続が主役・・・主役は、思いっきりカッコよく描いていただかなければ、つまらないドラマになってしまいます。

ドラマや小説は、歴史の中にフィクションを織り交ぜて、いかにおもしろく仕上げていくかが勝負ですからね。

『天地人』・・・この先も楽しみです。
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2009年3月12日 (木)

徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順

 

明治四十年(1907年)3月12日、幕末期には幕府西洋医学所頭取将軍家奥医師を務め、維新後は軍医総督となった名医・松本良順が亡くなりました。

・・・・・・・・・

天保三年(1832年)、下総(しもふさ・千葉県)佐倉藩の医師だった佐藤泰然(たいぜん)の次男として生まれた彼は、14歳の時に、やはり医者だった松本良甫(りょうほ)の養子となって松本良順(りょうじゅん)と名乗り、その後、長崎でオランダ医学を学びます。

当時の日本の医療事情は、未だ漢方が主流で、西洋医学はその下に置かれていた時代でしたが、あの緒方洪庵(こうあん)(6月10日参照>>)の活躍によって、徐々に、西洋の最新医療へと傾きつつあった時代でした。

Matumotoryouzyun500a やがて文久二年(1862年)、30歳になった良順は、将軍家の奥医師となり、その翌年の文久三年(1863年)には、病に倒れた洪庵の後を継いで江戸にあった西洋医学所の頭取となります。

その頃の事です。

良順のもとを訪ねてきた一人の青年がいました。

文久三年と言えば、その前年の8月に生麦事件(8月21日参照>>)、暮れには高杉晋作らの英国公使館を焼き討ち事件(12月12日参照>>)と、まさに、尊皇攘夷の嵐吹きまくりの頃・・・そんなご時世に思い悩む青年は、「西洋の最新情勢にくわしい良順さんの意見を聞きたい」と江戸の屋敷を訪れたのでした。

「攘夷(外国を排除)に凝り固まる事なく、西洋の良い部分は良い部分として受け入れつつ、かと言って屈する事もなく・・・」
という自分の本心を素直に語る良順に、青年は深く感銘を覚えた様子・・・

良順は良順で、その青年の国を思う気持ちや抱く夢に好感を持ち、二人はその場で意気投合します。

この青年・・・実は、来たるべき第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛の警固のために募集された浪士組に応募するために江戸にやってきた青年・・・後に、新撰組の局長となる近藤勇だったのです。

やがて、奥医師として、将軍・家茂の上洛のお供をして京都にやってきた良順は、すでに新撰組として京の町をかっ歩する近藤と再会するのです。

西本願寺の屯所に招待され、宴会でひとしきり盛り上がった後、副長の土方歳三の案内で、屯所の中を見物する良順でしたが、そこで、彼の怒りが爆発します。

「局長や副長が部屋に来ているのに、裸で寝てるとは、何たる事か!」

そうなんです。

いくつかの部屋に、幾人かずつ分かれていた隊士たちは、案内された良順が、土方らとともに部屋に入っても、起き上がろうともせず、挨拶もせず、裸のまま寝ているのです。

「目上の者に対する礼がなっていない」と・・・

しかし、これにはワケが・・・
「実は、彼らは皆、病人なんです」と、近藤・・・

「え゛え゛~っ!あんなにたくさん?」と、びっくり仰天の良順さん。

実は、この時、新撰組の隊士のうち約3分の1が病人だったのです。

その話を聞いてスゴ腕名医の良順さん・・・すぐに、その原因に気づき、解決策を打ち出します。

彼が、目上の者に対して失礼だと思った・・・
という事は・・・
その部屋は、どう見ても病室には見えなかったワケです。

つまり、メッチャ不潔だったんですね~
まぁ、男所帯だからなぁ・・・

良順は、早速、図面まで書いて、ちゃんとした病室を造るように、土方に指導・・・そして、ただ、寝かせておくのではなく、医師に往診してもらって、薬を服用するように・・・。

さらに、看護人を1人常駐させて、毎日世話をするようにすれば、1人の医師に時々来てもらうだけで完全な看護ができると・・・。

また、病人は毎日入浴させて、常に清潔を保つように・・・と。

衛生管理の指導をして、一旦、自分の持ち場に帰った良順でしたが、そのわずか2~3時間後に、彼のもとに土方がやってきて・・・

「あなたのご指導通りにやってみましたが、これで良いか見に来てもらえませんか?」
と、言うので、良順が見にいったところ・・・

すでに、本願寺の集会所を図面通りに改装して病室とし、病人も移動済み・・・しかも、お風呂の用意もバッチリ!

この素早さに、良順は感激します。

ご存知のように、土方は、この後、近藤が処刑されても戦い続け、最後には、あの函館戦争(5月18日参照>>)にまで赴きますが、それもこれも、あの蝦夷共和国を夢見た榎本武揚(えのもとたけあき)大鳥圭介(おおとりけいすけ)らと密接な関係があったから・・・。

実は、榎本や大鳥に土方を紹介したのは良順らしいのです。

その場にある物で、迅速に手際良く、かと言って手抜きではない、すばやく合理的な判断をした、この時の土方を高く評価しての推薦だったようです。

とにもかくにも、良順の指導によって生まれ変わった新撰組・屯所・・・なんと、わずか1ヵ月後には、重病人以外のほとんどの隊士が完治するという見事な物でした。

良順の名医ぶりは、かの家茂の信頼の厚さでもわかります。

昨年の大河ドラマでもそうだったように、将軍・家茂は、長州(山口県)との戦いの最中、大坂城にて病に倒れるのですが、家茂は、とにかく「良順にそばにいてほしい」と言って、彼を放さなかったようです。

本来なら、幾人かの奥医師が、交代でそばについて将軍の看病をするのですが、上記の通り、家茂が彼を望むので、良順は、何日も続けて治療をしていたところ、当然の事ながら治療中に寝るわけにいきませんから、もう、眠くて眠くてたまらなくなり、ある日、悪いとは思いながらも、家茂に、「少し眠りたいので、交代させてください」と申し出たのです。

すると、家茂は・・・
「そんなに眠いなら、ここに寝たらいい」
と、自分が布団の端っこに移動し、開いたスペースを指し示したのだとか・・・

大河ドラマ・篤姫では、勝海舟が家茂を抱きかかえ、その最期を看取っていましたが、実は、アレは良順さんのエピソード・・・まぁ、ドラマの場合は、後半部分は、勝さんが半主役みたいなところもありましたので、それはそれで結構なのですが、一応、豆知識としてお伝えしておきます。

そんな良順さんは、その後勃発した鳥羽伏見の戦いでも、負傷した幕府の兵の治療にあたり、沖田総司などは、自宅にひきとってまで治療しています。

さらに、江戸城無血開城の後は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の軍医として、会津(9月22日参照>>)から仙台にまで行っています。

もちろん、幕府の負傷兵を治療するためです。

これだけ、幕府どっぷりだった良順さん・・・さすがに、戊辰戦争終結後は、一時、投獄されてしまいますが、彼の医者としての腕は、誰もが認めるところで、そのノウハウは新政府だって欲しい・・。

・・・という事で、山県有朋らの推薦で、明治新政府では軍医総監として、陸軍の軍医制度を定めたり、公衆衛生の知識を広めたりと、新たな医学の発達に尽力する事になります。

しかし、一方では、近藤や土方の慰霊碑を建立したりと、徳川の武士としての心も捨ててはいない幕府の人でもありました。

明治四十年(1907年)3月12日・・・75歳で、その生涯を終えようとした時、彼の脳裏に浮かんだのは、徳川の世の暖かき思い出だったのか?、はたまた、明治の世の新しい医学の発展だったのでしょうか?
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2009年3月11日 (水)

秀吉VS勝家~一触即発の賤ヶ岳前夜

 

天正十一年(1583年)3月11日、柴田勝家の北ノ庄出陣を聞いた羽柴秀吉が、来たるべき決戦に向けて近江佐和山城へ入りました

来たるべき決戦とは、ご存知、『賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦』です。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前の織田信長本能寺(6月2日参照>>)にて倒れた後、山崎の合戦(6月13日参照>>)明智光秀を討ち、主君の仇を討った形になった羽柴(豊臣)秀吉は、その後開かれた織田家の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)を有利に進め、後継者は、秀吉の推す信長の孫・三法師(さんほうし)に決定します。

その清洲会議のページで書かせていただいたように、その決定に不満なのは、対立後継者であった信長の三男・神戸(織田)信孝と、彼を推す織田家重臣の柴田勝家です。

その勝家はもちろん、会議に欠席した滝川一益(神流川の戦い:8月18日参照>>)も、秀吉に不満をブチまけますが、いずれも秀吉は一蹴・・・聞く耳を持ちません。

一方、岐阜城の信孝も、その時まだ、岐阜城にいた三法師を安土に移すよう秀吉が要請しても、それに応じないという抵抗姿勢を見せ、もはや、両者の関係は修復不可能な状態となってしまいます。

・・・が、しかし、11月2日になって、勝家は、前田利家らを派遣して、秀吉との関係を取り戻そうとします。

実は、コレ、勝家のその場しのぎの冬対策・・・本当に仲良くしようなんて気はさらさらありません。

そう、勝家の本拠地である北ノ庄は、豪雪地帯の越前(福井県)・・・先の清洲会議で決まった勝家の領地の最南端は、あの近江(滋賀県)長浜城ですから、もし、冬場に長浜を攻められでもしたら、援軍を派遣する事も容易ではありません。

さらに、勝家には、信長が畿内を手中に収めた時に石山本願寺や延暦寺と諸将が手を組んで包囲網を敷いたように、安芸(広島県)毛利氏四国長宗我部氏とともに、秀吉包囲網を造るという思惑もあり、そのための時間稼ぎでもありました。

しかし、秀吉もさる者・・・この勝家の和睦の申し入れに
「しても、いいよ!」
という口約束だけで、書面のほうは、
「みんなと話し合ってみないと・・・」
と、うまくゴマかしてしまいます。

・・・というか、その舌の根も乾かない12月7日、筒井順慶池田恒興(つねおき)らとともに、5万の大軍を率いて長浜城を囲んでしまうのです。

上記の通り、この時期の越前からの援軍が期待できない事は、長浜城主の柴田勝豊(勝家の養子)も承知していますから、半月も経たないうちに、この長浜城は開城されてしまいます(12月11日参照>>)
Sizugatakezikeiretu

次に狙うは、信孝の岐阜城・・・12月20日、秀吉は、岐阜城に向けて進軍を開始しますが、稲葉一鉄(いなばいってつ)をはじめとする美濃(岐阜県)国人(地元の半農の武将)たちは、すでに、秀吉の掌中に・・・(12月29日参照>>)

実は、この時、秀吉は、信長のもう一人の息子・次男の織田信雄の名前をフルに活用しています。

なんせ、勝家は、織田家の重臣・・・秀吉にとっては上司なわけですし、信孝にいたっては社長の息子なんですから・・・。

ただ単に、長浜城を囲んだり、岐阜城に兵を向けたりしたら、謀反人=反逆者になってしまいます。

とにかく、「この一連の行動は、信雄坊ちゃんの意向なのだ」という事を強調して事を運んでいたのです。

美濃の国人衆が早々と味方についたのも、この信雄坊ちゃんの署名した文書の効き目が大いにあったわけです。

・・・で、結局、地元の国人衆なしでは、決戦は不可能と判断した信孝は、あっさりと降伏・・・この時、何とか抵抗を見せる事ができたのは、伊勢方面を預かる一益だけでした(2月12日参照>>)

一益は、秀吉方に属していた亀山城(3月3日参照>>)をはじめ、峯城国府(こう)関城などを奪い、秀吉との国境線の守備の強化を計ります。

何とか、踏ん張る一益相手に、少々苦戦気味の秀吉・・・勝家にとって、この時ほど春が待ち遠しい事はなかった事でしょう。

「自分たちが動けるようになるまで、何とか一益よ、踏ん張ってチョーダイ」と・・・

やがて訪れた天正十一年(1583年)2月28日・・・前田利長を先鋒に、佐久間盛政前田利家ら、北陸組先発隊が出陣します。

この日づけは、旧暦では4月の後半・・・待ちに待った春がやってきました~!

しかしながら、この年は、大変な豪雪だったらしく、春とは名ばかりの雪をかき分けかき分けの行軍だったようですが、何とか、一益がネをあげる前に出陣する事ができました。

そして、続く3月9日・・・いよいよ勝家が北ノ庄を出陣したのです。

一方、伊勢で苦戦中に、この勝家出陣の一報を聞いた秀吉は、すぐさま近江を目指し、3月11日佐和山城へと入ります。

秀吉側に集まったその数は4万・・・・。
対する勝家側は2万・・・。

翌・3月12日には、余呉湖の北にあたる最前線の行市山(ぎょういちやま)盛政が着陣・・・勝家も後方の内中尾山に陣を敷きます

その同じ日、秀吉は、長浜城へと場所を変え、両者、南北に分かれてのにらみ合い状態となり、3月17日には、秀吉がちょっかいをかけるも、勝家は、なかなか、その誘いに応じません。

・・・というのも、勝家は、今もなお、毛利や長宗我部の援助をあきらめてはいなかったのです。

彼らの返事を待ちつつ勝家は、自らの周辺に砦を築き始めます。

一方、秀吉が近江に行った事で、余裕ができた一益は、信孝と結託して、秀吉になびいた国人衆への攻撃を開始・・・

しかし、そうなると、近江の秀吉は、またしても動くしかなく、4月16日今度は2万の軍勢だけを率いて、再び岐阜へと向かいます。

これを最大のチャンスと見て取った盛政は、自ら勝家に奇襲攻撃を提案・・・かくして、佐久間盛政の先制攻撃によって、賤ヶ岳の合戦の火蓋が切られる事となりますが・・・。

この続き・・・賤ヶ岳の合戦については、4月20日【決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】でどうぞ>>
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2009年3月10日 (火)

日露戦争~日本軍・極寒の奉天占領!

 

明治三十八年(1905年)3月10日、日露戦争において日本軍が奉天を占領しました。

・・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

明治三十七年(1904年)2月10日に、日本の宣戦布告によって開戦された日露戦争・・・(2月10日参照>>)

翌・明治三十八年(1905年)1月2日には、多大なる犠牲を払って旅順(りょじゅん)を陥落させた(1月2日参照>>)日本軍でしたが、数々の熱戦は、とても勝利として手放しで喜べるものではなく、ロシア軍の撤退に助けられた感の残る戦いでした。

その後、1月の終わり頃には、旅順の北東にある奉天(ほうてん)に近い、沙河(さが)まで軍を進めた日本軍でしたが、厳しい冬という事もあって、もはや将兵は疲れきった状態でありました。

しかし、一方のロシア側は、確かに苦戦してしはいましたが、シベリア鉄道の全線開通によって、未だ無傷の兵が続々と西からやって来る状況・・・。

ロシア側は、日本の疲れを見切ってか、ここらあたりでの決戦を決意します。

ただし、それは、日本も同じ事・・・ここらあたりで早期に決着をつけなければ、兵士の疲れのピークが迫っています。

そんな中、奉天の南方で、大きく広がる形でお互いに対峙していたロシア軍と日本軍・・・

その日本軍の最西端を守る秋山好古(よしふる)少将率いる支隊に、1月25日未明、ロシア軍の攻撃が開始されます。

確かに、ここは最西端という事もあって、守りが手薄なうえ、大量の積雪があり、日本軍は、この時期のここへの攻撃は無いだろうと予測していたのです。

黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)と呼ばれるこの戦いを、少ない兵で応戦する秋山隊でしたが、思っていた以上に早くロシア軍が撤退してくれたおかげで、何とか死守する事に成功しました。

しかし、この戦いは、勝ったとは言え、もはや、ロシア側の戦力が日本のそれを上回っている事を、まざまざと感じさせられる結果となってしまいました。

もう、待てません!
ロシア軍32万、日本軍25万・・・いよいよ一大決戦の幕が上がります。

第1軍から第4軍に分かれた日本軍・・・大将の乃木希典(のぎまれすけ)は第3軍を率います。

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画像をクリックしていただければ、日づけごとに変化する関係図が見られます。
*このイラストは、わかりやすくするために趣味の範囲で制作した物で、必ずしも正確さを保障できる物ではありません。

日本軍の作戦は、まず、東側(右翼)に展開したおとりの軍でロシア側をひきつけ、主力である第3軍が、西側(左翼)から奉天へと回り込んで、ロシア軍を攻撃するという作戦・・・。

かくして2月21日・・・まずは、動き出したのは、おとり部隊である鴨緑江(おうりょくこう)・・・。

幸いな事に、ロシア軍はこの鴨緑江軍を日本の第3軍と勘違いし、大量の兵を東へと移動させます。

おかげで、真正面で奮闘中の第2軍は、攻撃を受けるも、それほどのダメージはなく、27日には、第3軍が、予定通り西側から奉天への迂回コースにて攻撃を開始します。

対する、ロシア軍は予備に温存していた部隊を投入し、大激戦となりました。

連日の激戦が10日間ほど続いた3月7日の夜・・・日本側の第1軍と第4軍が、撤退するロシア軍を確認します。

実は、日本軍には、未だ無傷の予備兵力が少なからずいた事を察したロシア軍の大将・クロパキトンの判断でした。

「その予備軍に退路をふさがれては、撤退ができなくなる」と・・・ひょっとしたらロシア側も、日本軍が全軍を挙げての一大決戦を仕掛けてきている事に気がついていたのかも知れません。

逃すまいと、第3軍と第4軍によって挟み込む形で、包囲網を狭める日本軍でしたが、もはや、それ以上の追撃する余力もない日本軍・・・。

9日の夜、ロシア軍の撤退が成されてしまいます。

かくして明治三十八年(1905年)3月10日日本軍は奉天の占領に成功します。

しかし、この占領は、上記の通り、敵を撃滅というにはほど遠いもので、この後、ロシア・日本の両軍は、鉄嶺(てつれい)付近にて対峙を続けるという緊張状態が続きます。

・・・と、これらの決戦を見てみると、確かに、日本の勝利に終ってはいますが、何だかんだで、ロシア軍の撤退ばかり・・・まぁ、日本はそれで助かってますが・・・。

それって・・・
決死の日本軍に恐れをなしたのか?
はたまた、ヤル気がなかったのか?

いえいえ、大国ロシアには、未だ無傷のバルチック艦隊がいますから・・・!

たとえ、陸上で一進一退であっても、バルチック艦隊で日本の海軍を撃ち破って、制海権を握れば、日本陸軍への補給路は断たれるわけで、窮地の立つのは日本のほう・・・なので、何も、今ここで、陸上戦の勝ちにこだわる必要はないワケです。

そのバルチック艦隊は、すでに昨年の10月15日に母港のリバウ軍港を出港し、この極東の戦線に向かって洋上を航行中・・・

さぁ、連合艦隊の出番です!

・・・が、連合艦隊のお話は5月27日【日本海海戦・伝説の東郷ターンは?】でどうぞ>>
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2009年3月 9日 (月)

「京の冬の旅」特別公開~安国寺恵瓊の茶室・作夢軒と勝林寺と伏見稲荷お茶屋

 

京都では、毎年12月頃~3月頃まで、京都市観光協会・主催の『京の冬の旅』というキャンペーンをやってます。

ご存知のように、京都は日本でも有数の観光都市・・・観光客の姿が絶える事がない町ではありますが、春の花の季節、夏の行楽シーズン、秋の紅葉にお正月の伝統行事と、魅力が目白押しの中で、1月半ば~3月半ばまでが、ちょっとだけオフシーズンなわけで、悪く言えば、「そのお客さんの少ない時期にイベントやって来てもらおう」って事なんですが、この『京の冬の旅』の目玉とも言える
『非公開文化財特別公開』・・・

これは、毎年、10箇所くらいの社寺(今回は12箇所)の協力のもと、いつもは非公開な場所を、同一期間に均一の拝観料(今回は1ヶ所=600円)で拝観させていただけるイベントなのですが・・・

これが、ホントにいつも、ものすごい非公開な場所を選んで公開してくださるので、歴史好き&寺社好きの一般人としては、大変ありがたいイベントなのです。

ただ、上記の通り、12箇所とも一日で廻れば、拝観料だけで合計=7200円・・・しかも、離れた場所を行き来すれば、交通費も・・・

もちろん、途中でお会いした遠方から来られた方は、「全部廻る」とおっしゃっていましたし、3箇所以上を制覇すればプレゼントがいただけるスタンプラリーなんかもあるので、そりゃ、私だって、遠い場所で、次にいつ来られるかわからないなら、全部廻りますが、近いだけに、ちょっと・・・

・・・って事で、今回は、どうしても見たがった東福寺塔頭(たっちゅう・本寺の敷地内にある所属する寺)退耕庵(たいこうあん)と、距離的に近い同じく東福寺塔頭の勝林寺、そして、東福寺駅から、JRだと1駅南の稲荷駅、京阪電車なら2駅南の伏見稲荷駅が近い伏見稲荷大社・お茶屋の3箇所の拝観をしてきました~。

東福寺&伏見稲荷への行き方はHPの歴史散歩で・・・
・東福寺>>(退耕庵と勝林寺は東福寺の北側にあります)
・伏見稲荷大社>>(お茶屋は神楽殿の近くにあります)

先ほど、ものすごい非公開と言いましたが、たとえば、今回行かせていただいた、この3箇所ともが、実は一般公開をまったくしていないのです。

退耕庵も、勝林寺も、境内に入れるのは、檀家さんか先祖のお墓のある人だけ・・・

しかも、勝林寺などは、その檀家さんでも入った事のない建物内を83年ぶりに公開なんです。

以前公開したのは大正十五年で、その時に本堂の襖絵を新しくしたので、そのお披露目としてチョコッと公開しただけなんだとか・・・建物は、あの近衛家の大玄関を移築したもので、「この襖を開けたのも83年ぶりかも・・・」なんておっしゃってました~。

Dscn7679800
勝林寺・本堂

建物内は撮影禁止でしたが、「お庭はいいですよ」とおっしゃるので、外観を思いっきり正面から撮影させていただきました。

天を仰ぐために床が斜めに造られている毘沙門堂には、平安時代の毘沙門天像があり、この仏様は、長く東福寺の天井内に密かに安置されていた秘仏だったのだとか・・・

・・・で、話が前後しましたが、今回、最も見てみたかったのが、退耕庵・・・、ここも、上記の通り、普段は檀家さんと先祖のお墓など、ゆかりのある人しか入れないお寺なのです。

Dscn7671a800 この退耕庵は、小野小町ゆかりのお寺でもあり、有名な彼女の100歳の姿を描いた像や、彼女に送られた多数のラブレターを胎内に収めたお地蔵様がおられるのですが、何と言っても、ここを、現在のような建物に再建したのは、第十一世住持となったあの安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・・・。

恵瓊さんについては、9月23日【戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗】>>でご覧いただくとして、ここには、その恵瓊さんが設計した作夢軒(さくむけん)という茶室があるのです。

実は、あの関ヶ原の合戦の時、恵瓊は、この茶室にて、石田三成や宇喜多秀家、小早川秀秋らと、作戦を練ったと言われているのです。

茶室の中には入れず、上部が丸くなった扉の部分から、1人ずつの見学で、もちろん茶室もお庭の前面撮影禁止でしたので、他のかたの迷惑にならないようチラ見しながらスケッチをとり、何とかイラストで再現できないかと描いてみました~↓。

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茶室・作夢軒・・・画像をクリックしてください。
何とか、実際に見ている臨場感を味わえないかと動きのあるイラストを作成してみましたので・・・

手前には、警固の侍が控える2畳の伏侍(ふせざむらい)の間があり、その向こうに4畳半の茶室・・・天井は、隠し天井となっていて、空間に警固の侍が潜めるよう、あるいは、まさかの時の隠れ場所となっているのでしょうね。

今は誰もいない茶室に、恵瓊さんや三成さんの姿を重ね合わせ、わくわくドキドキ・・・「時間よ止まれ!」ではなく、「時間よ戻れ!」って思っちゃいました~。

そして、一言・・・小早川秀秋に向かって「お前、裏切んなよ!」と、釘を刺しておかねば・・・せっかくの作夢軒なのに、アンタおかげで夢が崩れたやないかい!なんてね~

最後に立ち寄らせていただいた伏見稲荷・お茶屋・・・これは、お団子やうずらの焼き鳥を出すお稲荷さんのお土産屋さんではなく、第108代後水尾(ごみずのお)天皇(後水尾天皇については4月12日のページでどうぞ>>)のからの賜物で、御所の古御殿を移築した建物です。

Dscn7718a800_2 門内は、お庭も含めて、すべて撮影禁止ですので、お写真で紹介できないのが残念ですが、稲荷山を借景にした(木が生長しすぎて稲荷山が見えませんでしたが・・・)回遊式の庭園に、そのお茶屋の建物をメインとして、3つの茶室と、松の下屋という、以前、神官さんの居宅だった建物があります。

松の下屋は、そこに長期滞在した棟方志功(むなかたしこう)が滞在中に描いた襖絵が見事です。

Inariotyayaa500 お茶屋は、上の間下の間の二間続きの書院造で、宮廷好みが色濃く出た重要文化財・・・表にあったイベントの看板を写した写真で雰囲気だけでもどうぞ→

ここも、茶会が開かれる時に、その茶道の一門、あるいはゆかりのある人のみが入れる場所で、以前、一般公開されたのは平成六年・・・13年ぶりの今回の公開ですが、もちろん、次は、いつ公開されるかは未定なのです。

以上、今回訪れた3箇所をご紹介・・・今回は、3月18日までの公開です!
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2009年3月 7日 (土)

頼朝暗殺計画・実に37回~平家の生き残り・平景清

 

建久六年(1195年)3月7日、壇ノ浦で滅亡した平家の家臣・平景清が亡くなりました

・・・・・・・・・

本日の主役・平景清(かげきよ)さん・・・

実際には、平家の人ではなく、藤原南家伊藤の流れを汲む藤原忠清(ただきよ)の息子なので、本名は藤原景清と言い、その勇猛さから、通称・上総悪七兵衛(かずさあくしちひょうえ)と称されるかたなのですが、代々平家に仕えた家臣の家柄で、平家の血を引いているとも言われ、今回は平景清さんのお名前で紹介させていただきます。

さらに、この景清さん・・・上記の通り、壇ノ浦でも生き残り、その後、何度も頼朝の暗殺計画をくわだてるところから、武門の誇りと滅びゆく判官びいきが相まって、多くの伝説に彩られた武将です。

謡曲や浄瑠璃・歌舞伎のモデルにもなり、それらも含めれば、その伝説は数知れず・・・

今回は3月7日とさせていただきましたが、亡くなった日にちにしても、諸説ありますし、その死因についても、現在では、ただの病死であったとも言われているのですが、ここは、やはり、もともとの伝説に従って、思いっきりカッコよくご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

景清は、源平の戦いが本格的になってきた、あの富士川の合戦(10月20日参照>>)の直後に、父・忠清から信濃守に推挙され、彼自身も、本格的に源氏との合戦に参加するようになります。

木曽義仲源行家らとも戦い、一の谷の合戦では侍大将も努めています。

その後の屋島の合戦は、源義経の作戦で、わずかの兵を多勢と勘違いしてしまった平家が、早々と船に逃げ込むという義経ヒーロー伝説のような話(2008年2月19日参照>>)になってしまっていますが、その中でも景清の姿だけは、平家側の武勇伝として光っています。

それは、あの有名な扇の的(2月19日参照>>)の後の事・・・この日、早朝からの義経軍の民家への放火に幕を開けた屋島の合戦が、夕方近くになって一息ついた頃に、その扇の的の話が展開されるわけで、ご存知のように那須与一(なすのよいち)見事に扇を撃ち落とします。

この時、与一の弓に感動して、「あっぱれ!」とばかりに、船の上で舞いを舞い始めた平家の者がいたのですが、義経は、「あれも討ってしまえ!」と、与一に命令・・・与一は、やはりその者も撃ち落すのですが、何となくルール違反っぽいですよね。

案の定、この後、戦闘が再開される事になるのですが、その時、「ルール違反やないかい!」と、真っ先に、陸の義経軍めがけて突っ込んでいったのが、彼・・・景清なのです。

Kabutosikorocc しかも、源氏方の美尾屋(みおのや・美尾谷・水尾谷)十郎との死闘を繰り広げ、逃げようとした十郎の兜の(しころ・→右のイラスト参照)素手で引きちぎるという離れ業をやってのけ、平家物語のこの部分は「景清の錣引き」として有名な話となってます。

そんな勇猛果敢な景清は、あの壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)でも、討たれる事もなく、生け捕られる事もなく、うまく戦場を逃れて生きのびました。

そして、やはり、戦線を離脱して生き残っていた兄・忠光(ただみつ)とともに、その後は、源頼朝の命を狙う事に賭けるのです。

しかし、兄・忠光は、建久三年(1192年)、鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場にて、頼朝を暗殺しようとして失敗し、捕らえられて斬首されてしまいました。

そして訪れた建久六年(1195年)、頼朝が東大寺大仏殿にお参りをする事を知った景清は、チャンスとばかりに、平家の残党たちとともに上洛・・・当日は、東大寺・転害門(てがいもん)に身をひそめ、頼朝が来るのを待っていました。

Tegaimonkagekiyocc800
東大寺・転害門

しかし、肝心の頼朝が到着する前に見つけられ、捕らえられてしまいます

さすがの猛将も年貢の納め時・・・彼は、それまでに、なんと37回も頼朝の暗殺計画を立てていたのですが、これで万事休す!

しかし、捕らえられはしたものの、彼が、すぐに斬首される事はありませんでした。

どうやら、悲惨な逃亡生活の中、果敢にアタックし続けた姿が、主君を思う武将の誉れとして鎌倉武士に写ったようで、彼には、かなりの同情が寄せられていたのです。

とりあえずは、幕府でも武闘派で知られる重臣・和田義盛(よしもり)のもとに預けられ、屋敷の外へさえ出なければ、自由の身としての生活を送る事になりました。

自由とは言え、まわりは敵ばかり・・・さぞや肩身の狭い生活を・・・と思いきや、「運動不足や!」と言っては庭で馬を乗り回し「自由なんやからえぇやん!」と言っては和田一族の宴会で大騒ぎ・・・。

困った義盛は、頼朝に相談して、景清のおもり役を交代してもらいます。

次に、彼を預かったのは、八田知家(はったともいえ)という人物・・・彼も、義盛に勝るとも劣らない武闘派で、とても情け深い男気のある人でした。

敵ながら豪快で大胆な景清に、良い印象を持っていた知家は、義盛にも増して親切に、丁寧に、景清を保護したのです。

この彼の親切さに、張りつめていた景清の心が、プッツンと切れてしまったのです。

そう、景清は、武勇優れた豪快な人ではありましたが、生意気でずうずうしい人ではありません。

実は、義盛宅でのあの大胆な行動は、敵に捕らえられ、その地で保護されるというミジメで悲しい心の内を悟られまいとしての、精一杯の横暴ぶりだったのです。

しかし、そんな自分の態度に、何一つ文句を言わず、まるで息子のように、厚くもてなしてくれる知家のやさしさに、彼の心は、見事に崩れました

実は、源氏に殺されたのは、兄だけではありません。

父・忠清も、平家滅亡の直後に捕らえられ、京の六条河原で斬首されていたのです。

「それなのに、自分だけ、こうして生きながらえている・・・しかも、敵なのに、こんなに厚い待遇で・・・」

やがて、彼は、化粧坂(けわいざか・仮粧坂)の中腹にある洞窟に籠るようになります。

しかし、それでも、毎日八田家から、食事が運ばれて来るのですが、彼は、それには手をつけず、ただ、ひたすら読経を続けるのです。

やがて、勇猛と称された武将の身体は痩せ細って見る影もなくなり、建久六年(1195年)3月7日・・・とうとう、その命、尽き果てたのです

現在、鎌倉市にある化粧坂の入り口には、「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などと呼ばれている洞窟があり、そこが景清最期の地だと言われています。

何度も挑戦した頼朝暗殺・・・
痛快で豪快な武将の滅び行く哀れ・・・

そんな彼の最後を、思いっきり美しく描きたいと思う人の心が、これまでも、そしてこれからも、景清の更なる伝説を、より鮮やかにしてくれる事でしょう。
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2009年3月 6日 (金)

甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗

 

慶応四年(1868年)3月6日、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が、板垣退助の率いる新政府軍と、甲州(山梨県)勝沼で激突した勝沼戦争がありました。

・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍・・・(1月3日参照>>)

1月6日に幕府軍の大将である15代将軍・徳川慶喜が大坂城を脱出した事に気づいた諸藩の将兵たちは、1月7日~8日にかけて次々と大坂城を後にしますが、9日には、大坂城脱出をヨシとせず、城を枕に討死する覚悟であった居残り組によって火が放たれ、大坂城は炎に包まれました(1月9日参照>>)

この時、大阪湾を出発し、一路江戸を目指した幕府軍艦には、あの新撰組近藤勇土方歳三も乗っていたのです。

Dscn2833a550 近藤は、昨年の暮れに高台寺党の残党に襲われて(12月18日参照>>)大坂城内でにて静養中であったため、鳥羽伏見の戦いでは、土方が新撰組の指揮をとって、大いに活躍しましたが、やはり、戦死者・脱走者も数知れずで、江戸に戻った新撰組は、わずか117名になっていました。

やがて、恭順の姿勢をとる慶喜が、上野寛永寺にて謹慎生活を送る頃には、新撰組も将軍警固として、守りをかためていましたが、この頃に誕生したあの彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)と同様に、近藤以下新撰組も、幕府がこのまま終ってしまう事うを不満に思っていたのです。

そんな、彼らの不満をうまく利用したのが、幕府陸軍総裁だった勝海舟です。

もちろん、すでに海舟の頭の中には、江戸城無血開城(4月11日参照>>)のシナリオがあったのでしょうが、これだけは、相手もいる事ですから、そのシナリオ通りにコトが運ぶとは限りません。

あの鳥羽伏見以来、東海道東山道の二手に分かれて江戸を目指す新政府軍とは、ここまで、まだ一度も交戦していませんから、相手の出方を見るためにも、ちょっとでも有利な条件で開城するためにも、何らかのアクションを起しておく必要があったのかも知れません。

不満ムンムンで血気盛んな彼らは、その役どころにピッタリだったのでしょう。

海舟は、近藤に新撰組の甲州進撃を提案し、東山道を進む新政府軍を迎え撃つため、その資金として金500両、大砲2門、小銃5000挺を手渡します。

新撰組の生き残り70名を中心に、新たに編成された総勢170名は、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名付けられ、3月1日に意気揚々と江戸を出発します。

ちなみに、この時、若年寄に任命された近藤は大久保剛(たけし)寄合席の土方は内藤隼人(はやと)と名乗っていましたが、ややこしいのでブログでは近藤勇&土方歳三で通させていただきます。

そんなこんなで、甲州街道を西に進む彼らでしたが、血気盛んな者の常として、宿場での女遊びに豪遊・・・まぁ、それでも、まだ、よかったんですが、近藤や土方の故郷・多摩を通りかがった時にエラい事になってしまいます。

傾きかけた幕府とは言え、それまでの京都での新撰組の活躍は、ここ多摩にも伝わっていますから、地元の人々は・・・
「英雄が帰って来たゾ~!」
「故郷に錦を飾るってのはこの事でぃ!」
と、大騒ぎになるのです。

当然の事ながら、彼らを迎えての宴会が開かれます。

もともと豪快で、「来る者拒まず」の性格の近藤が、せっかくの酒やご馳走を断るわけがありません。

例の襲撃で、未だ使えない右手をかばいながら、左手でグイグイとお酒を飲み干し、接待の嵐に酔いしれながら、飲めや唄えの大騒ぎ・・・

それでも、さすがに、軍の指令を忘れるわけにはいきませんから、何とか、故郷の人々を振り払い、千鳥足でやっとこさ、甲府まであと68kmの与瀬(よせ)に到着しますが、そんな彼らのもとに届いたのは・・・
「土佐の板垣退助が甲府城まで52kmのところまで来ている!」
というニュースでした。

こうなったら、一刻の猶予もあません。

とにかく、新政府軍より先に甲府城へ到着しなければ!

しかし残念ながら、頭はガンガン、目はグルグル・・・そう、二日酔いです。

「このままでは、どうしようもない」と、しかたなく、与瀬にて一泊・・・。

さらに、翌朝は大雪に見舞われ、またまた出発できず・・・。

かくして、慶応四年(1868年)3月6日、甲府・勝沼に到着した甲陽鎮撫隊が見た物は・・・
すでに板垣の手に落ちた甲府城でした。

慌てて土方が、旧幕府軍の神奈川守備隊であった菜葉隊(なっぱたい)に援軍を出してくれるように頼みに向かいますが、もはや、借りだせる兵もいませんでした。

しかし、このままで終るわけにはいきません・・・というより、終るはずがありません。

柏尾(かしお)大善寺というお寺に陣を敷いた甲陽鎮撫隊でしたが、このお寺は、奈良時代の行基(ぎょうき)によって建立された由緒あるお寺・・・この伽藍を戦火に巻き込みたくないと思った近藤勇は、少し、離れたところで戦闘を開始します。

しかし、勝敗は明らかでした。

甲陽鎮撫隊は、再編制したとは言え、軍隊自身は新撰組のままの旧式・・・かたや、新政府軍は、にわか召集ではあったものの西様式軍隊の最新装備で、しかも1200人もの軍勢・・・鎮撫隊の9倍近くあります。

もはや、刀や槍では、とうてい立ち向かう事はできず、いつしか、その人数は100人を切ってしまっていました。

こうして、鳥羽伏見の戦いと江戸城無血開城の間にあった唯一の本格的な合戦・勝沼戦争は、新政府軍の勝利に終わりました。

そして、敗走した近藤が、逮捕されるのは、翌月の4月・・・(4月25日参照>>)

故郷に錦を飾った男の夢は、もう少しの間だけ、同郷の土方へと引き継がれる事となります。
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2009年3月 5日 (木)

彗星のごとく関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉

 

慶長十二年(1607年)3月5日、徳川家康の四男・松平忠吉が亡くなりました

・・・・・・・・・

松平忠吉(ただよし)は、天正八年(1580年)9月10日、徳川家康の四男として浜松で生まれました。

お母さんは、家康の側室の西郷局(さいごうのつぼね・宝台院)と呼ばれる女性で、同じ母を持つすぐ上の兄に、後に2代将軍を継ぐ三男の秀忠がいます。

幼くして三河松平家の一つである東条松平家家忠の養子となって、病弱だった養父の死後、その東条松平家を継ぎます・・・なので、徳川家康の息子ですが、姓は松平です。

家康が関東に入ってからの文禄元年(1592年)には、わずか13歳で下野守(しもつけのかみ)となり、10万石を要する武蔵国(埼玉県)忍城(おしじょう)城主となります。

・・・と、書いてはみましたが、この忠吉さんは、若くして亡くなられてしまったので、歴史の表舞台に登場するのは、ほんの一時期だけ・・・そのエピソードはあまり多くはありません。

そんな忠吉さんが、最も輝いたのは、その初陣である関ヶ原の合戦です。

ご存知のように、この時、家康は、あととり息子である秀忠に、榊原康政大久保忠隣(ただちか)本多正信といった徳川家臣のそうそうたるメンバーに3万8千の軍勢をつけて東山道から西へ向かわせました。

もちろん、家康自身も東海道を西へと向かうわけですが、度々、このブログでも書いている通り、家康の軍は、もともと「豊臣への謀反の疑いあり」として上杉征伐のために北へ向かっていた軍ですから、その中には多くの豊臣恩顧の家臣・・・いわゆる外様が含まれているわけです(8月11日参照>>)

なので、一説には秀忠の軍が、関ヶ原の本隊だったとも言われるくらいなのですが、ご存じのように、東山道を進んだ秀忠軍は、西軍に属する上田城を守る真田昌幸幸村父子のゲリラ戦に手こずり、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまいます(9月7日参照>>)

そこで、本来なら、その秀忠の位置だったかも知れない先陣のいい位置で、弟の忠吉が初陣を飾る事になったわけです。

↓は、何度も登場している関ヶ原の布陣図ですが、あったほうがわかりやすいので・・・
Sekigaharafuzinzu1cc
見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

徳川四天王のうちの二人・井伊直政本多忠勝守られるように、かつ先陣の中央部に配置された忠吉・・・初陣とは思えないこの位置は、やはり秀忠の一件のおかげなのでしょうね。

やがて、運命の慶長五年(1600年)9月15日、
まもなく開戦という朝・・・その日の先鋒を命じられていたのは、かの福島正則

しかし、それが、どうも井伊直政には、納得がいきません。

直政は、以前から、「今度の戦いが豊臣恩顧の大名たちの活躍によって勝利するような事になれば、戦後の彼らの態度が大きくなる事は必至・・・」と考え、家康にも何度も進言していたんです。

もちろん家康も、その気持ちを汲んでの直政ド真ん中の配置なわけですが、それでも、福島隊先鋒の決定に納得がいかなかった彼・・・

そこで、家康の息子・忠吉が、この関ヶ原が初陣だった事を利用します。

なんせ、忠吉の奥さんは自分の娘・・・つまり、娘婿だった事で、直政は、その後見役も務めていましたから・・・

夜明けからの霧が晴れは始めた午前8時・・・忠吉を連れて、福島隊の前へと出ようとする直政に、福島隊の先頭にいた可児才蔵(かにさいぞう)が声をかけます。

「おいおい、今日の先鋒は、俺ら福島隊や、なに、前へ出ようとしとんねん」と・・・

ここで、直政・・・娘婿の威力を利用・・・
「坊ちゃんが初陣なので、合戦とはどういうものかを間近で、見物させてあげようかと・・・」

見れば、直政の横には、忠吉がいます・・・今回の総大将である家康様の御子ですから、才蔵も、ムリヤリ止めるわけにはいきません。

そのスキを狙って、忠吉&直政とともに前へ出てきたわずかの手勢が、西軍の先頭にいる宇喜多秀家隊に向けて、一斉に発砲・・・この鉄砲が合図となって、天下分け目の関ヶ原が開戦されたのです。

もちろん、福島隊にさとられないように、わずかの精鋭だけを引き連れての前進でしたので、そのまま宇喜多隊と正面でぶつかるという事はなく、あくまで、形として火蓋を切ったという雰囲気でしたが・・・

結局、宇喜多隊と戦ったのは、福島隊・・・直政&忠吉らは、矛先を変えて島津隊を攻めに向かいますが、忠吉は初陣とは思えない大活躍!

やがて午後になって、戦況が危うくなった西軍は、次々と戦場を離脱していくのですが、その時、島津隊がとったのが、有名な敵中突破=島津の背進(9月16日参照>>)・・・

こちらに向けて鉄砲を撃ちながら背後へ進んでゆく島津隊を、負傷しながらも追撃する忠吉・・・そして彼は、島津隊の大将である島津義弘甥・豊久を討ち取るという、華々しい武功を挙げます。

これには、秀忠の遅刻にイラついていた家康も、手放しで大喜びです。

これが、忠吉・・・忍城10万石から、一気に尾張国(愛知県)清洲城52万石へのオヤジ大奮発!へとつながるのです。

そう、この忠吉さんは、あの御三家=尾張・徳川家の祖となる人物なのです。

将軍の息子として分与されるのが、平均10万石~20万石であった事を考えると、破格の転封だった事がわかりますね。

さらに、慶長十年(1605年)には、官位も従三位近衛中将に昇進して薩摩守(さつまのかみ)となります。

しかし、その、わずか2年後の慶長十二年(1607年)3月5日28歳の若さでこの世を去ってしまうのです。

関ヶ原で受けた傷が悪化したとも、悪性の腫瘍ができていたとも言われますが、関ヶ原での武功を思えば、大変、残念です~。

しかも、その若さゆえに子供がおらず、尾張松平家は、彼の代で断絶となってしまいます。

代わって尾張を継いだのは、家康の九男・義直・・・後に、御三家の中でもトップの62万石となる尾張徳川家・・・やがては、8代将軍となった徳川吉宗をビビらせるほどの尾張徳川家には、やはり、忠吉さんの52万石が光ってます。

若くして亡くなり、あまり脚光を浴びる事がない忠吉さんですが、尾張徳川家の形成に貢献した偉大なる存在である事は、心にとどめておきたいものです。
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2009年3月 4日 (水)

征隼人持節大将軍・大伴旅人と隼人族の悲しみ

 

養老四年(720年)3月4日、大隅隼人の乱の鎮圧のため、大伴旅人が征隼人持節大将軍に任じられました。

・・・・・・・・・・・

なんじゃら、かんじゃらと、スッタモンダのあった古代日本国でしたが、大宝元年(701年)の大宝律令(8月3日参照>>)で法律を定めて戸籍や土地を管理し、和銅三年(710年)には、唐にならった立派な首都・平城京もでき(2月15日参照>>)大和朝廷を中心とした律令国家は、ほぼ完成しました。

次ぎは、未だ従わぬ地方を配下に加え、より広範囲の中央集権国家にする事です。

都のある畿内から西へは、山陽道山陰道南海道西海道、東へは東海道東山道北陸道・・・当時、これらの七道を区分して支配を進めていた政府でしたが、東北地方の蝦夷(えみし・えびす)、南九州地方の隼人(はやと)は、最後まで、その支配に抵抗していた人たちです。

そのうち東北の蝦夷に対しては、すでに斉明天皇の時代(655年~661年)から阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、日本海側を中心に新潟県秋田県あたりまでを探索させて、何度もちょっかいをかけていますが、その蝦夷平定を現実の物にしたのは、ご存知、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・・・(11月5日参照>>)

田村麻呂が、蝦夷を征伐するという意味の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、その後、蝦夷が平定された後もその名称が使用され、いずれは武家の棟梁を指す名称になる事はご存知でしょう(1月11日参照>>)

一方、今回の征隼人持節大将軍(じせつたいしょうぐん)・・・他にも、平安期にはいくつかよく似た名前の将軍職があったようですが、その後は使用されなかったのか、あまり聞きなれませんねぇ。

とにかく、読んで字の如く、こちらは、南九州地方の隼人を征伐するために派遣された将軍です。

隼人は、5世紀頃の仁徳天皇の時代の一時期に、大和政権に服属していた事がありましたが、その支配体制は完全ではなく、農業国家としての体制を進める大和政権と、稲作に適した土地があまりなかった南九州とでは、なかなか相容れる事ができなかったのです。

大和政権も、農業指導者を移住させるなどして、何とか、この地を律令体制の支配下に置こうとしますが、中国大陸との交易が盛んな南九州の住人たちが、ムリヤリ稲作に従事するより、交易に力を入れたほうが良いと考えるのは当然のなりゆきで、やがて、大和政権が、その支配を強化するに至って、彼らは抵抗するようになったわけです。

ただ、こちらの地方は一枚岩ではなく、その住んでいる地域によって、日向隼人(ひゅうがはやと)大隅隼人(おおすみはやと)薩摩隼人(さつまはやと)甑隼人(こしきはやと)などと呼ばれる小さな部族集団であったため、大和政権は、その一つ一つを順々に統治していくのです。

上記のように、彼らが小集団であったせいか、あまり大きな反乱にならず、各首長が治める地域ごとに都を配置するという形で、徐々に統治し、律令体制を整えていく事になるのですが、その中での今回の大隅隼人の反乱・・・。

養老四年(720年)の2月29日に、大隅国司の陽候史麻呂(やこのふみまろ)が殺害された事に単を発したこの反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、現在では、隼人の反乱と言えば、この養老四年の反乱の事を指すようです。

・・・で、今回、養老四年(720年)3月4日に、その国司殺害を受けて、かの征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人(おおとものたびと)さん・・・

Ootomonotabito800a このかた、あの万葉集の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)(8月28日参照>>)のお父さんで、私としては、将軍というイメージより、歌人としてのイメージのほうが強い人であります。

この大隅隼人の反乱の時にも、最初の5箇所の城を攻略して、残りの城の攻略を長期戦の持ち込む作戦に切り替えた8月12日、これからの事を副将軍たちにまかせて戦線を離脱・・・都に戻ってきています。

その後、大宰師(だざいのそち・大宰府の長官)になった事で、中央政界から一線を引く形となった彼は、山上憶良(やまのうえのおくら)らと親交を深めます。

多くの歌を詠んだのは、この頃で、それゆえ、将軍というよりも歌人としての印象が強いのでしょう。

とにかく、彼はお酒好き・・・そのお酒にまつわる歌は、現代のお酒好きにも通じるものがあり、とても面白いです。

♪あな醜賢(みにくさか)しらをすと
  酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似む♪

「酒も飲まんと、かしこぶってるヤツって、猿みたいでメッチャぶっさいくやんけ」

♪なかなかに人とあらずは 酒壷に
  なりにてしかも 酒にしみなむ  ♪

「中途半端に人として生きるよりは、酒の入れもんになって、ず~と酒に浸かってたいわ~」

♪験(しるし)なき 物を念(おも)わず一杯(ひとつき)
  にごれる酒を飲むべくあるらし♪

「グダグダ悩むんやったら、一杯のにごり酒でも飲んだほうがマシやっ・・・て」

♪言はむすべ せむすべ知らず極まりて
  貴きものは 酒にあるらし  ♪

「言葉に出して言うすべも、なすすべもなく追い詰められた俺には、酒ほどえぇもんはないなぁ」

・・・って、どんだけ酒好きやねん!
ほんで、どんだけ、悩んどんねん!

実は、あの菅原道真の一件(1月25日参照>>)でもおわかりのように、やはり中央から地方へ派遣されるのは、長官と言えど、左遷です。

しかも、この時代は、家柄による昇進が一般的ですから、代々勇敢な武将として仕えてきた大伴家の自分が中央から追われたとなると、もはやお家は没落・・・復活は、ほぼあり得ません。

さらに、そんな没落必至の自分を慕って、はるばる大宰府までついてきてくれた奥さんを、到着後まもなく亡くしてしまい、旅人さん・・・昇進を断念の傷心です。

その悲しみのあまり、どうやら、晩年の彼は、酒好きの風流なオッチャンになっていたようです・・・おかげで、ステキな歌がたくさん残りましたが・・・。

ところで、先ほどの反乱を起した隼人の皆さんですが・・・

翌・養老五年(721年)7月7日に鎮圧された彼らを待っていたのは、征服者による卑劣な支配でした。

大隅の彼らだけではなく、南九州一帯の隼人たちの中の多くの者が強制的に中央に移住させられ、守護人(まもりびと)として宮殿の警備をする仕事や竹製品作りの仕事に従事させられました。

また、6年交代で土地の特産物献上するために上京し、天皇の前で舞いや相撲などを披露する事が義務づけられていたのです。

それに、先ほどの宮殿の警備にしても、ただの警備ではなく、犬の遠吠えのマネをするといったようなミジメなもので、天皇の前で舞う舞いも、カッコイイものではなく、どちらかと言えば恥ずかしい舞いだったそうで、中央の政権は、彼らをかなり差別的に扱っていたようです。

皆さんは、昔話としても有名な海幸山幸の神話をご存知でしょうか?

以前、【針供養】のページ(2月8日参照>>)で、チョコッとこのお話を紹介させていただきましたが、昔話の場合は、大抵、海の神の宮殿に行って宝物を持ち帰ってきた弟の山幸彦が、攻めてきた兄・海幸彦を、その宝物を使って散々にやっつけてしまうところで終っています。

しかし、『古事記』『日本書紀』では、この時に戦いに勝利した弟・山幸彦=ホヲリノミコト(火遠理命)の孫が初代の神武天皇で、その弟に征服されて家来となる兄・海幸彦=ホデリノミコト(火照命)の子孫が隼人族なのだと・・・

しかも、天皇の前で舞う舞いは、山幸彦の持ち帰った潮の満ち退きを自由に操れる宝物によって、海幸彦の一族が溺れさせられた時の状況を再現したものなのだそうです・・・ヒドイ( ゚皿゚)

日本書紀は、この反乱の勃発した年と同じ年に、古事記は、もう少し先に誕生していますが、もちろん、これは、征服された側の隼人族が、なぜ、そんなミジメな奉仕をさせられるのかを、もっともらしく説明するものだったのでしょう。

浦島太郎によく似たこの手の神話が、ポリネシアや南太平洋生まれの神話であった事は、よく知られていますが、かの隼人の人たちが、南方系の人だった事で、記紀神話にこの話を取り入れ、大和朝廷の中央集権を、より強固なものにしようとしたのかも知れません。

ひょっとしたら、大伴旅人が途中で都に戻ったのも、大宰府に左遷されたのも、坂上田村麻呂と同様に、中央の役人や官僚と、最前線の軍人との間にあった、彼ら隼人族の扱いについての意識の違いがあったのかも知れませんね・・・田村麻呂と蝦夷の場合と違って、こちらは、あくまで想像ですが・・・。

征服される者と没落する者・・・二者の悲しい結末が、涙を誘います(ノ_-。)

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2009年3月 3日 (火)

桜田門外の変~井伊直弼の覚悟

 

安政七年(1860年)3月3日、大老・井伊直弼水戸脱藩浪士らに襲われ、命を落としました・・・世に言う『桜田門外の変』です。

・・・・・・・・

安政七年(1860年)3月3日・・・その日は、前夜から降った大雪で、あたりは銀世界となってしました。

3月3日は上巳(じょうし)の節句の日で、この日、江戸城内では節句を祝う盛大な祝宴が行われる事になっており、城の櫓からは、一定間隔に太鼓が打ち鳴らされ、諸大名たちは、その合図に従って、次々と登城しておりました。

その様子を見物するように眺めていた集団・・・西の丸下へと通じる桜田門に向かう途中の道に陣取った彼らは、水戸脱藩浪士・17名薩摩脱藩浪士・1名・・・。

Iinaosuke600a 午前9時頃・・・そんな彼らの前を、大老・井伊直弼(なおすけ)を乗せた駕篭を中心に、警固の侍・数十名の行列が通りかかった時、浪士集団の中の一人・森五六郎(ごろくろう)が前へ進み出て、前傾姿勢をとり、直訴状を差し出すような仕草を見せます。

「下がれ!下がれ!」
・・・と、時代劇でお馴染みの光景で、供の者が一喝すると、いきなり抜刀して斬りつけ、先頭の槍を奪いに走ります。

直弼の駕篭のまわりにいた警固の侍が、五六郎の後を追った瞬間、鳴り響く銃声音!・・・と、同時に、それが合図であったかのように、他の浪士が一斉に駕篭に押し寄せ、外から何度も駕篭を突き刺しました。

もちろん、供の侍たちも、すぐに応戦しますが、あいにくの雪模様で、刀には柄袋(つかぶくろ・布でできた刀の柄と鍔(つば)のカバー)がかぶせてあり、手間取る者もチラホラ・・・。

行列のあちこちで斬り合いが展開される中、ただ一人参加の薩摩脱藩浪士・有村次左衛門兼清(じざえもんかねきよ)が駕篭の戸を破り、中から、すでにぐったりしている直弼を引きずり出して、一刀のもとに首を落としました。

示現流(じげんりゅう)の使い手として名を馳せた彼でしたが、すでに斬り倒されていた井伊家の家臣・小河原秀之丞宗親(ひでのじょうむねちか)の必死の一振りに背中を斬られてしまいます。

それでも、何とか立ち上がり、直弼の首を持って逃走をはかる兼清・・・主君の首を持ち去られまいと、追いすがる宗親・・・

しかし、宗親は、それに気づいた他の浪士2~3名に再び斬られてしまいました。

重傷を負いながらも、逃げる兼清でしたが、辰の口の若年寄・遠藤胤統(つねのり)の屋敷の辻番所の前に差し掛かったところで力尽きてしまいます。

もはや、歩行が困難になっていた兼清は覚悟を決め、直弼の首を前に置き、その場で自刃しました。

襲撃した18名のうち、その場で切られて即死した者が1名、兼清と同様に重傷を負ったため自刃した者が彼を含めて4名、重傷&軽傷を負いながら他の藩邸に自首した者が8名、逃走するも捕縛された者が3名・・・逃げ切ったのは、増子金八海後蹉磯之助(かいごさきのすけ)わずか2名でした。

なお、自首・8名と捕縛・3名の合わせて11名のうち、2人は受けた傷が重くて死亡、1人は病死、残りの8名は、翌年の7月26日と27日に斬首刑に処せられています。

以上、彦根藩上屋敷から桜田門までわずか400mの途中に起こった15分間の出来事でした。

・・・・・・・

その後、直弼の遺骸を受け取った井伊家では、胴体だけで首が無い事に驚き、八方手を尽くして探しだしたのですが、実は、あの兼清が自刃した場所の辻番所の役人が、その首を拾ったものの、どうしていいかわからず、先の遠藤家に預けたままになっていたのです。

首が戻った井伊家では、藩医の岡島玄達が首と胴を縫い合わせ、表向きには重傷を負っただけという事にして、約1ヶ月間、その死を隠したのです。

ところで、この暗殺劇の原因となったのは、ご存知、直弼が断行した安政の大獄(10月7日参照>>)です。

その時の直弼さんの心情については、上記のページでご覧いただくとして、その安政の大獄で重い刑を受けたのは・・・

切腹:安島帯刀(あじまたてわき・水戸藩家老)
死罪:茅根伊予之介(ちのねいよのすけ・水戸藩奥右筆頭取)
    :鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居)
    :橋本左内(越前藩士)
    :頼三樹三郎(らいみきさぶろう・儒学者)
    :吉田松陰(しょういん・長州藩士)
獄門:鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居助役)
獄死:梅田雲浜(うんびん)他・数名

つまり、重い罰を受けた7名のうち4名が水戸藩の関係者・・・しかも、徳川斉昭(なりあき・水戸9代藩主)徳川慶篤(よしあつ・水戸10代藩主で斉昭の長男)一橋慶喜(よしのぶ・斉昭の七男で後の15代将軍)らも、蟄居(ちっきょ)や謹慎処分にしています。

これに、怒って、彼ら水戸脱藩浪士たちは、襲撃を決行したわけですが、なぜ、水戸藩に対して、これほど厳しい弾圧が行われたたのか?というのは・・・

簡単に言わせていただくと、あのペリーの黒船来航以来、鎖国を続けるのか?開国するのか?と真っ二つに別れたその両極端が、水戸藩と井伊大老という事です。

以前、後に起こる徳川慶喜さんの戊辰戦争での敵前逃亡のページ(1月6日参照>>)で書かせていただいたように、水戸家と天皇家は特別な関係にありました。

この当時、時の天皇・第121代孝明天皇は、開国を嫌って攘夷(外国を追いはらう)まっしぐら状態で、天狗党のところ(12月17日参照>>)でもチョコッと書きましたが、首を縦に降らない幕府を飛び越して水戸藩に直接、攘夷の命令を出したりなんていう前代未聞の事をしたりしてますから、無視された幕府の代表・直弼としては、水戸家に厳しくせざるをえないわけです。

ところで、そんなこんなで起こってしまった桜田門外の変ですが、上記の通り、ほぼ無抵抗な状態で、幕府のトップが、わずかのテロリストに殺されてしまう事は、とても不可解な事です。

かなり無防備だったとされるこの日の直弼ですが、彼は、命の危険を感じていなかったのでしょうか?

実は、すでに、事件の朝、登城の支度をしている直弼のもとに、江戸城から「暗殺の注意を促す書状」が届いていたのです。

つまり、危険は充分知っていたのです。

もちろん、直弼だけでなく、家臣たちも気づいていて、この日は雪模様だったにも関わらず、雨具や例の柄袋をはずすようにと側近が命令していたのに、直弼自身が、それをやめさせて、「いつも通りの状態で登城するように」と、再び変更させたのだそうです。

さらに、襲撃された後でも、駕篭から出て応戦する事なく、一歩も駕篭から出ないまま殺されています。

これには、最初の銃弾が、彼の大腿から腰を貫通していたため、もう、すでに動けない状態だったのではないか?とも言われますが、彼は当時、まだまだ現役の45歳・・・命中したのが、心臓や頭部でないのなら、這ってでも出ようと思えば出れなくもない気がしますよね。

そこで、もう一つの考え・・・この時代の武士のルールというものがあります。

そのルールでは、「登城の途中には駕篭から出てはいけない」というのがあります。

もちろん、上記の雨や雪の日は、それなりの恰好をするのもルール。

また、大名には、その格によって供侍の数も決まっているというルールもあるわけですが、この日の直弼は、江戸城から警戒しなさいという通知を貰っても、警固を厳しくする事なく、いつも通りの人数で出発・・・つまり、これも、かたくなにルールを守っているわけです。

おそらく、直弼の中では、あの安政の大獄も、武士のルールに乗っ取った判断での処分だったのではないでしょうか?

やられた水戸家から見れば、怨み残りまくりの処分ですが、直弼にしてみれば、ルール違反をした武士に対する、ルールに基づいた処分・・・たとえ怨みを買う事になっても、ルールを無視して身を守る事は、彼のプライドが許さなかったのではないでしょうか?

彼は、大老になる事が決まって故郷の彦根を出る際、自らの戒名を定めて側近に手渡していったと言います。

動乱の時代に、大老という役職に従事する事は、その命をも賭けなければならないという武士のルールを、その時がいつか訪れるという覚悟を、常に心に持っていたのでしょうね。

昨年の大河ドラマでも、「これが、自分の役割」と、誰かがやらねばならない安政の大獄を、怨みをかう事を承知でやったというようなニュアンスのセリフがありましたが、案外、それが正解なのかも知れませんね。
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2009年3月 2日 (月)

信長が副将軍を断り「経済の鬼」と化す?

 

永禄十二年(1569年)3月2日、足利義昭の働きかけで、正親町天皇から織田信長のもとに勅使が遣わされ、副将軍・補任の内命が伝えられました。

・・・・・・・・・

このブログでも、今まで度々登場している「京を制する者は天下を制す」という言葉・・・実際に、戦国武将の間でこの言葉が使われてはいなかったかも知れませんが、要するに、「天下」というシロモノは、単に全国制覇をするという意味ではないわけです。

京都・・・つまり、天皇や朝廷に認められていなければ、いくら武力で以って多くの領地を支配したとしても、それは一地方大名に過ぎないわけで、京都を制すとは、天皇や朝廷に、自分自身を認めさせる事にあったのです。

ご存知の永禄十一年(1568年)の足利義昭を奉じての織田信長の上洛(9月7日参照>>)・・・

Odanobunaga400a 実は、信長の上洛は、この時が初めてではありません。

あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前の年・永禄二年(1559年)に、一度上洛しているのです。

はっきりと記録されてはいなので、その数は80人とも500人とも言われる曖昧さではありますが、派手好きの信長らしく、その風貌はとてつもなく目立つ雰囲気・・・都の人々のド肝を抜くいでたちで、鳴り物入りの上洛だったようです。

一番の目的は、当時、室町幕府13代将軍であった足利義輝(義昭の兄)に会う事でしたが、もちろん、上記の「京を制す」という意味合いも含むもので、26歳の若き信長にとっては、一世一代のパフォーマンスであったはず・・・

しかし、結果は散々なものだったのです。

一応、義輝に会う事だけは叶いましたが、ただ、それだけ・・・単に、挨拶をしただけで、政治的な成果にはまったく結びつく事なく、振り返れば、田舎侍の大規模な京都見物で終ってしまったのでした。

武田信玄のような、由緒正しき家柄なら、まだ、朝廷も食いついたかも知れませんが、織田家程度では、朝廷はまったく振り向いてもくれません。

プライドの高い信長さんとしては、この上なくミジメな上洛だった事でしょう。

「朝廷を振り向かせるためには、それなりのカードが必要だ」という事を痛感させられた信長でしたが、そのうち、時代は転換期を迎えます。

その義輝が殺害され、第14代・足利義栄(よしひさ)という飾り物の将軍の下、事実上、三好党松永久秀による実力支配となった事で、殺された義輝の弟で仏門に入っていた義昭(秋)が還俗(出家していた人が一般人に戻る事)し、「自分こそが正統な将軍の後継者である」として、有力な武将を後ろ盾に、実質的な足利将軍家再興を模索するのです。

しかし、この時点でも、義昭は、まずは越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を頼ります。

それだけ、織田家は、未だ、中央(京都)では、認められていなかったという事なのでしょう。

しかし、その義景が、義昭を奉じての上洛を拒み続けた事で(9月24日参照>>)、切れ者の明智光秀から信長を紹介され、義昭は、やっと信長を頼る事にしたわけです(10月18日参照>>)

すでに永禄七年(1564年)に尾張(愛知県西部)を統一し、永禄十年(1567年)には美濃(岐阜県)をも手に入れていた信長にとって、いくら力をつけても手に入れられなかった朝廷を振り向かせるカードが手に入ったのです。

かくして、冒頭に書いた通り、義昭を奉じて上洛した信長は、その自信満々の武力で三好三人衆らを京から追い出して(9月29日参照>>)義昭を喜ばせ、天皇に対しても、内裏の修復などをやって、朝廷のハートもバッチリとキャッチします。

義昭は、3歳しか違わない信長の事を「御父」と呼び、その貢献への報酬として、まずは管領に任命しようとしますが、信長はこれを断ります。

・・・で、「きっと、管領だと不満なのねん」
と思った義昭が、時の天皇である第106代・正親町(おおぎまち)天皇に働きかけ、天皇からの使いがやって来たのが永禄十二年(1569年)3月2日・・・それは、「信長を副将軍に任命する用意がある」というものでした。

しかし、信長は、その場での即答を避け、やがて後日、管領と副将軍を断った代わりに、近江国(滋賀県)の大津と草津、そして、和泉国(大阪府南部)の堺を、自分の直轄地とする事を了承してもらえるようにと求めるのです。

当時の朝廷の人たちからすれば、「信長は欲がないなぁ」な~んて、思っていたようですが、歴史の流れを知っている私たちから見れば、信長らしい当然の要求ですね。

ここで、管領や副将軍になって、将軍・義昭の臣下になってしまっては、次に、天下を取ろうとする時、上司・義昭への謀反になってしまいますから・・・。

信長は、初めての上洛で、大恥をかいたあの日から、目指すは京を制する事・・・義昭なんて、はなから眼中にありません。

信長が直轄と要求した大津・草津・堺の三つの都市・・・これは、もう、すぐにお解かりでしょう。

それぞれが交通・交易の要所・・・特に堺は、日本のベニスと呼ばれた商業都市です。

当時、一番の物流の要であった瀬戸内海・・・室町時代の初期までは、兵庫(神戸)の港がその交易の中心でしたが、あの応仁の乱において、その決戦の近くとなってしまったために、戦国も中期になれば、瀬戸内を通って物資を運んでくる船のほとんどは、堺の港に到着していたのです。

さらに、それらの物資は、そこで取引され、京都・奈良・大坂へと運ばれる・・・金と人と情報の集まる自由都市だったのです。

自由都市・・・それは、ここ堺には、すでに商いで巨額の富を得ていた裕福な商人・36人からなる会合衆(えごうしゅう)なる組織ができあがっていて、この町の事は、皆、その会合衆が取り仕切り、領主などの介入できない自治システムが完成していたのです。

そこに、信長です。

始めは、彼ら会合衆も、町の周囲に堀を築き、櫓を建て、浪人を雇い入れて信長の介入に抵抗するのですが、結局は、信長に屈する事を選びます・・・それが、この2ヶ月前の出来事(1月9日参照>>)ですから、彼ら町人を抑え、朝廷・将軍の許可も得た信長は、大満足・・・。

そう、朝廷に認めさせて、京を制した信長にとって、この先に必要なのは、全国支配へ向けての武力ですから・・・。

弾薬・武器・兵糧の調達・・・それに、何より堅固な城を造るためには、やはり、経済力が必要・・・「世の中、銭ずら~」(←銭ゲバより)とは言ってないと思いますが、副将軍なんて名誉より、大津・草津・堺という交易の中心地を手に入れた事は、この先の信長の天下取りへの道に、最も有効な事だったに違いありません。

ところで、この頃の事でしょうか・・・義昭の住む二条館の前に「9個の欠けた貝が置かれる」というイタズラがありました。

これを聞いた信長は、「義昭がアホやから、公界(くかい・世の中の動きや情報)が欠けてるって意味なんちゃうん(笑)」と、言ったのだとか・・・。

その話を聞いた義昭でしたが、ここは、波風立てずに静観していたのだそうです。

義昭は、義昭で、丸々騙されていたわけではなく、すでに信長の心の内を少しずつ気づいていたようですが、もう少し信長を利用して、うまくやってやろうと思ってたのかも知れませんね。

しかし、残念ながら、間もなく二人の関係は崩れる事となります(1月23日参照>>)が・・・。
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