信長が副将軍を断り「経済の鬼」と化す?
永禄十二年(1569年)3月2日、足利義昭の働きかけで、正親町天皇から織田信長のもとに勅使が遣わされ、副将軍・補任の内命が伝えられました。
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このブログでも、今まで度々登場している「京を制する者は天下を制す」という言葉・・・実際に、戦国武将の間でこの言葉が使われてはいなかったかも知れませんが、要するに、「天下」というシロモノは、単に全国制覇をするという意味ではないわけです。
京都・・・つまり、天皇や朝廷に認められていなければ、いくら武力で以って多くの領地を支配したとしても、それは一地方大名に過ぎないわけで、京都を制すとは、天皇や朝廷に、自分自身を認めさせる事にあったのです。
ご存知の永禄十一年(1568年)の足利義昭を奉じての織田信長の上洛(9月7日参照>>)・・・
あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前の年・永禄二年(1559年)に、一度上洛しているのです。
はっきりと記録されてはいなので、その数は80人とも500人とも言われる曖昧さではありますが、派手好きの信長らしく、その風貌はとてつもなく目立つ雰囲気・・・都の人々のド肝を抜くいでたちで、鳴り物入りの上洛だったようです。
一番の目的は、当時、室町幕府13代将軍であった足利義輝(義昭の兄)に会う事でしたが、もちろん、上記の「京を制す」という意味合いも含むもので、26歳の若き信長にとっては、一世一代のパフォーマンスであったはず・・・
しかし、結果は散々なものだったのです。
一応、義輝に会う事だけは叶いましたが、ただ、それだけ・・・単に、挨拶をしただけで、政治的な成果にはまったく結びつく事なく、振り返れば、田舎侍の大規模な京都見物で終ってしまったのでした。
武田信玄のような、由緒正しき家柄なら、まだ、朝廷も食いついたかも知れませんが、織田家程度では、朝廷はまったく振り向いてもくれません。
プライドの高い信長さんとしては、この上なくミジメな上洛だった事でしょう。
「朝廷を振り向かせるためには、それなりのカードが必要だ」という事を痛感させられた信長でしたが、そのうち、時代は転換期を迎えます。
その義輝が殺害され、第14代・足利義栄(よしひさ)という飾り物の将軍の下、事実上、三好党と松永久秀による実力支配となった事で、殺された義輝の弟で仏門に入っていた義昭(秋)が還俗(出家していた人が一般人に戻る事)し、「自分こそが正統な将軍の後継者である」として、有力な武将を後ろ盾に、実質的な足利将軍家再興を模索するのです。
しかし、この時点でも、義昭は、まずは越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を頼ります。
それだけ、織田家は、未だ、中央(京都)では、認められていなかったという事なのでしょう。
しかし、その義景が、義昭を奉じての上洛を拒み続けた事で(9月24日参照>>)、切れ者の明智光秀から信長を紹介され、義昭は、やっと信長を頼る事にしたわけです(10月18日参照>>)。
すでに永禄七年(1564年)に尾張(愛知県西部)を統一し、永禄十年(1567年)には美濃(岐阜県)をも手に入れていた信長にとって、いくら力をつけても手に入れられなかった朝廷を振り向かせるカードが手に入ったのです。
かくして、冒頭に書いた通り、義昭を奉じて上洛した信長は、その自信満々の武力で三好三人衆らを京から追い出して(9月29日参照>>)義昭を喜ばせ、天皇に対しても、内裏の修復などをやって、朝廷のハートもバッチリとキャッチします。
義昭は、3歳しか違わない信長の事を「御父」と呼び、その貢献への報酬として、まずは管領に任命しようとしますが、信長はこれを断ります。
・・・で、「きっと、管領だと不満なのねん」
と思った義昭が、時の天皇である第106代・正親町(おおぎまち)天皇に働きかけ、天皇からの使いがやって来たのが永禄十二年(1569年)3月2日・・・それは、「信長を副将軍に任命する用意がある」というものでした。
しかし、信長は、その場での即答を避け、やがて後日、管領と副将軍を断った代わりに、近江国(滋賀県)の大津と草津、そして、和泉国(大阪府南部)の堺を、自分の直轄地とする事を了承してもらえるようにと求めるのです。
当時の朝廷の人たちからすれば、「信長は欲がないなぁ」な~んて、思っていたようですが、歴史の流れを知っている私たちから見れば、信長らしい当然の要求ですね。
ここで、管領や副将軍になって、将軍・義昭の臣下になってしまっては、次に、天下を取ろうとする時、上司・義昭への謀反になってしまいますから・・・。
信長は、初めての上洛で、大恥をかいたあの日から、目指すは京を制する事・・・義昭なんて、はなから眼中にありません。
信長が直轄と要求した大津・草津・堺の三つの都市・・・これは、もう、すぐにお解かりでしょう。
それぞれが交通・交易の要所・・・特に堺は、日本のベニスと呼ばれた商業都市です。
当時、一番の物流の要であった瀬戸内海・・・室町時代の初期までは、兵庫(神戸)の港がその交易の中心でしたが、あの応仁の乱において、その決戦の近くとなってしまったために、戦国も中期になれば、瀬戸内を通って物資を運んでくる船のほとんどは、堺の港に到着していたのです。
さらに、それらの物資は、そこで取引され、京都・奈良・大坂へと運ばれる・・・金と人と情報の集まる自由都市だったのです。
自由都市・・・それは、ここ堺には、すでに商いで巨額の富を得ていた裕福な商人・36人からなる会合衆(えごうしゅう)なる組織ができあがっていて、この町の事は、皆、その会合衆が取り仕切り、領主などの介入できない自治システムが完成していたのです。
そこに、信長です。
始めは、彼ら会合衆も、町の周囲に堀を築き、櫓を建て、浪人を雇い入れて信長の介入に抵抗するのですが、結局は、信長に屈する事を選びます・・・それが、この2ヶ月前の出来事(1月9日参照>>)ですから、彼ら町人を抑え、朝廷・将軍の許可も得た信長は、大満足・・・。
そう、朝廷に認めさせて、京を制した信長にとって、この先に必要なのは、全国支配へ向けての武力ですから・・・。
弾薬・武器・兵糧の調達・・・それに、何より堅固な城を造るためには、やはり、経済力が必要・・・「世の中、銭ずら~」(←銭ゲバより)とは言ってないと思いますが、副将軍なんて名誉より、大津・草津・堺という交易の中心地を手に入れた事は、この先の信長の天下取りへの道に、最も有効な事だったに違いありません。
ところで、この頃の事でしょうか・・・義昭の住む二条館の前に「9個の欠けた貝が置かれる」というイタズラがありました。
これを聞いた信長は、「義昭がアホやから、公界(くかい・世の中の動きや情報)が欠けてるって意味なんちゃうん(笑)」と、言ったのだとか・・・。
その話を聞いた義昭でしたが、ここは、波風立てずに静観していたのだそうです。
義昭は、義昭で、丸々騙されていたわけではなく、すでに信長の心の内を少しずつ気づいていたようですが、もう少し信長を利用して、うまくやってやろうと思ってたのかも知れませんね。
しかし、残念ながら、間もなく二人の関係は崩れる事となります(1月23日参照>>)が・・・。
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