徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順
明治四十年(1907年)3月12日、幕末期には幕府西洋医学所頭取・将軍家奥医師を務め、維新後は軍医総督となった名医・松本良順が亡くなりました。
・・・・・・・・・
天保三年(1832年)、下総(しもふさ・千葉県)佐倉藩の医師だった佐藤泰然(たいぜん)の次男として生まれた彼は、14歳の時に、やはり医者だった松本良甫(りょうほ)の養子となって松本良順(りょうじゅん)と名乗り、その後、長崎でオランダ医学を学びます。
当時の日本の医療事情は、未だ漢方が主流で、西洋医学はその下に置かれていた時代でしたが、あの緒方洪庵(こうあん)(6月10日参照>>)の活躍によって、徐々に、西洋の最新医療へと傾きつつあった時代でした。
やがて文久二年(1862年)、30歳になった良順は、将軍家の奥医師となり、その翌年の文久三年(1863年)には、病に倒れた洪庵の後を継いで江戸にあった西洋医学所の頭取となります。
その頃の事です。
良順のもとを訪ねてきた一人の青年がいました。
文久三年と言えば、その前年の8月に生麦事件(8月21日参照>>)、暮れには高杉晋作らの英国公使館を焼き討ち事件(12月12日参照>>)と、まさに、尊皇攘夷の嵐吹きまくりの頃・・・そんなご時世に思い悩む青年は、「西洋の最新情勢にくわしい良順さんの意見を聞きたい」と江戸の屋敷を訪れたのでした。
「攘夷(外国を排除)に凝り固まる事なく、西洋の良い部分は良い部分として受け入れつつ、かと言って屈する事もなく・・・」
という自分の本心を素直に語る良順に、青年は深く感銘を覚えた様子・・・
良順は良順で、その青年の国を思う気持ちや抱く夢に好感を持ち、二人はその場で意気投合します。
この青年・・・実は、来たるべき第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛の警固のために募集された浪士組に応募するために江戸にやってきた青年・・・後に、新撰組の局長となる近藤勇だったのです。
やがて、奥医師として、将軍・家茂の上洛のお供をして京都にやってきた良順は、すでに新撰組として京の町をかっ歩する近藤と再会するのです。
西本願寺の屯所に招待され、宴会でひとしきり盛り上がった後、副長の土方歳三の案内で、屯所の中を見物する良順でしたが、そこで、彼の怒りが爆発します。
「局長や副長が部屋に来ているのに、裸で寝てるとは、何たる事か!」
そうなんです。
いくつかの部屋に、幾人かずつ分かれていた隊士たちは、案内された良順が、土方らとともに部屋に入っても、起き上がろうともせず、挨拶もせず、裸のまま寝ているのです。
「目上の者に対する礼がなっていない」と・・・
しかし、これにはワケが・・・
「実は、彼らは皆、病人なんです」と、近藤・・・
「え゛え゛~っ!あんなにたくさん?」と、びっくり仰天の良順さん。
実は、この時、新撰組の隊士のうち約3分の1が病人だったのです。
その話を聞いてスゴ腕名医の良順さん・・・すぐに、その原因に気づき、解決策を打ち出します。
彼が、目上の者に対して失礼だと思った・・・
という事は・・・
その部屋は、どう見ても病室には見えなかったワケです。
つまり、メッチャ不潔だったんですね~
まぁ、男所帯だからなぁ・・・
良順は、早速、図面まで書いて、ちゃんとした病室を造るように、土方に指導・・・そして、ただ、寝かせておくのではなく、医師に往診してもらって、薬を服用するように・・・。
さらに、看護人を1人常駐させて、毎日世話をするようにすれば、1人の医師に時々来てもらうだけで完全な看護ができると・・・。
また、病人は毎日入浴させて、常に清潔を保つように・・・と。
衛生管理の指導をして、一旦、自分の持ち場に帰った良順でしたが、そのわずか2~3時間後に、彼のもとに土方がやってきて・・・
「あなたのご指導通りにやってみましたが、これで良いか見に来てもらえませんか?」
と、言うので、良順が見にいったところ・・・
すでに、本願寺の集会所を図面通りに改装して病室とし、病人も移動済み・・・しかも、お風呂の用意もバッチリ!
この素早さに、良順は感激します。
ご存知のように、土方は、この後、近藤が処刑されても戦い続け、最後には、あの函館戦争(5月18日参照>>)にまで赴きますが、それもこれも、あの蝦夷共和国を夢見た榎本武揚(えのもとたけあき)や大鳥圭介(おおとりけいすけ)らと密接な関係があったから・・・。
実は、榎本や大鳥に土方を紹介したのは良順らしいのです。
その場にある物で、迅速に手際良く、かと言って手抜きではない、すばやく合理的な判断をした、この時の土方を高く評価しての推薦だったようです。
とにもかくにも、良順の指導によって生まれ変わった新撰組・屯所・・・なんと、わずか1ヵ月後には、重病人以外のほとんどの隊士が完治するという見事な物でした。
良順の名医ぶりは、かの家茂の信頼の厚さでもわかります。
昨年の大河ドラマでもそうだったように、将軍・家茂は、長州(山口県)との戦いの最中、大坂城にて病に倒れるのですが、家茂は、とにかく「良順にそばにいてほしい」と言って、彼を放さなかったようです。
本来なら、幾人かの奥医師が、交代でそばについて将軍の看病をするのですが、上記の通り、家茂が彼を望むので、良順は、何日も続けて治療をしていたところ、当然の事ながら治療中に寝るわけにいきませんから、もう、眠くて眠くてたまらなくなり、ある日、悪いとは思いながらも、家茂に、「少し眠りたいので、交代させてください」と申し出たのです。
すると、家茂は・・・
「そんなに眠いなら、ここに寝たらいい」
と、自分が布団の端っこに移動し、開いたスペースを指し示したのだとか・・・
大河ドラマ・篤姫では、勝海舟が家茂を抱きかかえ、その最期を看取っていましたが、実は、アレは良順さんのエピソード・・・まぁ、ドラマの場合は、後半部分は、勝さんが半主役みたいなところもありましたので、それはそれで結構なのですが、一応、豆知識としてお伝えしておきます。
そんな良順さんは、その後勃発した鳥羽伏見の戦いでも、負傷した幕府の兵の治療にあたり、沖田総司などは、自宅にひきとってまで治療しています。
さらに、江戸城無血開城の後は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の軍医として、会津(9月22日参照>>)から仙台にまで行っています。
もちろん、幕府の負傷兵を治療するためです。
これだけ、幕府どっぷりだった良順さん・・・さすがに、戊辰戦争終結後は、一時、投獄されてしまいますが、彼の医者としての腕は、誰もが認めるところで、そのノウハウは新政府だって欲しい・・。
・・・という事で、山県有朋らの推薦で、明治新政府では軍医総監として、陸軍の軍医制度を定めたり、公衆衛生の知識を広めたりと、新たな医学の発達に尽力する事になります。
しかし、一方では、近藤や土方の慰霊碑を建立したりと、徳川の武士としての心も捨ててはいない幕府の人でもありました。
明治四十年(1907年)3月12日・・・75歳で、その生涯を終えようとした時、彼の脳裏に浮かんだのは、徳川の世の暖かき思い出だったのか?、はたまた、明治の世の新しい医学の発展だったのでしょうか?
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コメント
こんにちは
松本良順という方は本当に柔軟で優秀な方だったんですね。いつの時代でもそういう人はいるんですね。憧れちゃいます。
家茂公に信頼されていたのも合点がいきます。
小説で家茂公の布団に良順さんが入って寝た話を読んだのですが、本当の話だったんですね。
家茂公の最後は良順さんが看取ったのでしょうか。将軍の布団に入ったなんて話が本当だとすると、その時、家茂公のそばには側室といえる女性はおられなかったのかな?いや、そばに女性はいたけれど、家茂公の病状が深刻になったので下がったのかしら?すると、家茂公の棺の中にあった女性の髪の毛はこの下がった女性の物なのか、それとも誰の物なのかしら?…等々、いろいろ考えました。まさか良順さんのってことはないでしょうね。(笑)(←笑うなんて不謹慎ですが…。)あくまでも家茂公は和宮様だけを最後まで想い続けて欲しかったのでいろいろこじつけてしまいました。本題と少々外れてしまい、すみません。
投稿: おみや | 2009年3月12日 (木) 15時46分
おみやさん、こんにちは~
たぶん小説は司馬遼太郎さんの「胡蝶の夢」というヤツじゃないかと思いますが、そのエピソードは、松本良順さんの自叙伝にも書かれているので、実際にあった話だと思います。
なんだかんだ言っても将軍の最期ですから、その場に同席した人は良順さんだけではないのかも知れませんが、やはり、女性の影はないほうがロマンチックですね。
投稿: 茶々 | 2009年3月12日 (木) 17時11分
はじめまして こんにちは
こんな名医がいたんですね。家茂にも信頼されていたなんて。
僕は去年の4月から歴史に興味を持ち始めていました。今年の3月のある日「勝海舟 股間 犬」と検索したらこのサイトがでてきました。こんな分かりやすいサイトはなかなかないですよ。これからも利用していきたいと思います。
小学生なので、まだたいしたことは習えなくて・・・
投稿: 力道山 | 2009年3月12日 (木) 19時12分
こんばんは。
再びお邪魔します。
私の読んだのは【胡蝶の花】ではありません。そういう小説があるのも知りませんでした。お恥ずかしいことです。
家茂公の最期を看取ったのは良順さんだけではなく他にもおられたと思います。
側室とおぼしき女性もいたかもしれません。でも家茂公が自分の布団に入るように良順さんに命じた時には、きっとそばに女性はいなかっただろうと私は想像しました。いくら何でも側室がそばに控えている中で家茂公、そんなことは言わないだろうと思うので…。
ただ、そうだからといってそれが家茂公に大阪夫人がいなかった証拠にはならないのが辛いところです。(笑)
良順さんのような名医がついていたのならそのスキをぬって家茂公に毒を盛るなんてことはできませんよね。いや、できなかったと信じたいです。家茂公には毒殺説もあるので…。前にも書きましたが、病死ならまだ諦めもつくけど、毒殺では和宮様があまりにもおかわいそうですから…。
投稿: おみや | 2009年3月12日 (木) 20時13分
すみません。
本の題名は【胡蝶の花】ではなく【胡蝶の夢】ですね。間違えました。失礼致しました。
投稿: おみや | 2009年3月12日 (木) 20時21分
力道山さん、はじめまして。
わかりやすいと言っていただけるとウレシイです。
私も小学生の頃から歴史好きでした。
これからも、時々遊びにきてくださいね。
投稿: 茶々 | 2009年3月12日 (木) 23時39分
おみやさん、こんばんは~
>私の読んだのは【胡蝶の夢】ではありません・・・
そうでしたか・・・私のほうこそ、早がてんしてしまってスミマセンo(_ _)o
そう言えば毒殺説もありましたね~
でも、私も、やっぱり病死だと信じたいですね。
投稿: 茶々 | 2009年3月12日 (木) 23時45分
はじめまして。テンポの良い描写で、楽しく読ませていただきました。
「榎本や大鳥に土方を紹介したのは良順」とのことですが、この根拠となる史料をご存知でしたら、ご教示いただけませんでしょうか。
と申しますのは、大鳥圭介の日記や回顧録で確認されるのは、会津戦争時に松本良順と会津で会ったことのみであり、土方の紹介を良順から受けたという記述は目にしたことがありませんでした。もし事実として確認できるのでしたら、知りたいと思いました。
投稿: 金山 | 2009年3月17日 (火) 21時42分
金山さん、はじめまして、コメントありがとうございます。
ご質問の件ですが・・・
良順さんの自伝「蘭疇」に、土方さんの事をとても褒めて書いてあった事を覚えているのですが、残念ながら、今、手元になく、「そこに紹介したと書かれていたか?」と聞かれると自信がありません。
普段は、記憶だけにある事は、なるべく書かないよう心がけているのですが、今手元にある書籍で(孫引きではありますが・・・)日本博学倶楽部の「幕末維新あの人のその後」(PHP文庫)にも、そう書かれてあったので、今回、書かせていただいた次第です。
幕末は、まだまだ知らない事がたくさんありまして、これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年3月18日 (水) 00時58分
こんにちは。再度お邪魔いたします。ご丁寧なご教示、ありがとうございました。
「蘭疇」をざっと見たところ、紹介についての記述を見つけることはできませんでした。
特に新撰組関係の記述は、小説の影響などを強く受けていて、何が本当で何が創作なのか、はっきりしないことが多いですね。
その中で読み解かれるのは、大変なことと存じます。ご研究の実り多いことをお祈りいたします。
投稿: 金山 | 2009年3月22日 (日) 14時42分
金山さん、再びのご訪問ありがとうございました。
そうですか、「蘭疇」ではありませんでしたか・・・お教えいただいてありがとうございました。
おっしゃる通り、幕末期を描いた小説は、傑作が多くて、あたかもそれが本当にあったかのように錯覚してしまう事も多々あります。
素人なので限界もあるでしょうが、自分なりに、この話の出所をもう一度探して見たいと思いますので、今後ともご教示、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年3月23日 (月) 01時54分
将軍から新撰組まで色々な方々と関わった人ですね。牛乳飲んだりとか海水浴したりしててとても柔軟な頭の方だった容ですね。(伝説作りまくってる!!)
余談ですが、後に松本順となるから嵐の`マツジュン´と名前が同じですね。(漢字違うけど)
投稿: Ikuya | 2011年8月 7日 (日) 01時05分
Ikuyaさん、こんばんは~
幕末期のお医者さんは、皆さんスゴイです。
ホント尊敬します。
投稿: 茶々 | 2011年8月 7日 (日) 02時02分
茶々様、こんばんは。
「明治・大正・昭和・平成の年表」ページのこの記事の見出しが「松本旅順」になっています。年表ページにコメントを残したくなかったのでこちらに書かせていただきます。
さらに、「幕末」の年表の1868年5月2日と5月13日の記事が共に「朝日山争奪戦」になっており、リンク先も同一で、「朝日山争奪戦」か「長岡会談」のどちらかが読めなくなってるのを発見しました。(悪いニュースはまとめて)
良順さんのことは名前は知っていましたが詳しいことは存じませんでした。
近い時代の人なのに伝説が一杯ですね。
投稿: りくにす | 2012年7月 3日 (火) 20時51分
りくにすさん、見つけていただいてありがとうございます。
良順さんは「う」を打つのを飛ばしてしまってたようですね。
「朝日山争奪戦」のほうは、同じページに小千谷会談の事も書いてしまったので、そのような表示の仕方になってしまいましたが、確かにややこしかったですね。
2日の項は排除しておきました。
投稿: 茶々 | 2012年7月 4日 (水) 00時11分
長岡の方はもともと同一記事へのリンクだったのですね。クリックしてみればよかったのですが…
おかげさまで「良順さんは日露戦争が終わってから亡くなった」ことを忘れないで済みそうです。「日露戦争」+「軍医総監」というとつい脚気問題を連想してしまいます。別の人だと分かっていはいますが。
それはさておき、彼が日露戦争勝利をどう思っていたのかふと気になったのでした。
投稿: りくにす | 2012年7月 4日 (水) 18時09分
りくにすさん、こんばんは~
「う」抜きの「りょじゅん」と打ち込んで「旅順」と変換されるのは、日清・日露の事を書いていたからですね。。。たぶん
投稿: 茶々 | 2012年7月 5日 (木) 00時11分
茶々さま こんにちは。
今日は松本良順さんの亡くなられた日だったんですね。
司馬さんの小説を読んで、以前から気になっていた人でした。(「仁」にちらっと出てました?)
家茂公が一番信頼し、その最期を看取った奥医師・・・当時№1のドクターということですよね。
家茂公は、例のお布団エピソードもそうですが、残っている逸話のどれもが「いい人感」満載ですよね。
将軍就任以来、困難な時期に、最高責任者としてずっと苦しみながら、あんなに早く人生を終えてしまったことが本当に悲しいです。
良順さんが、最後まで幕府の人として振る舞い続けたのも、無念の思いを抱きながら、若くして逝ってしまった家茂公への忠誠心からだったのでしょうか?
投稿: きょちゃ | 2013年3月12日 (火) 13時54分
きょちゃさん、こんにちは~
そうですね。
心の内となると、あくまで想像になりますが、やはり、家茂さんへの思いは強くあったと思います。
新撰組の若き隊士たちにも、イロイロと思う所があったでしょうね。
かと言って、時代が変わった事で変化する世の中に、あえて反発しない所も、良順さんらしい感じもします。
投稿: 茶々 | 2013年3月12日 (火) 14時08分
度々すみません。
松本良順で思い出したのですが、
ノーベル賞候補にもなった世界的な大作家の井上靖が自叙伝で血のつながらない曽祖父が松本良順の弟子で正妻が武家の娘で何も家事はしなくて、妾の下田の元芸者の方と仲良くなり隠居後分家を作り、靖の母を隠居で譲った甥である靖の祖父から奪う様に養女にし、近辺に住む靖の父親を婿入りさせたそうです。どうも医者を継がせたいので軍医の父親を婿入りさせたそうです。
ところでこの人は松本良順の弟子なので良順が来た時に接待しましたが、その時に給仕や料理を作ったのは妾の方のお婆さんでした。それで褒めちぎったそうで、お婆さんは近所で非難されても堂々としたのはそのことが誇りだったからだそうです。
しろばんばでもその頃の思い出を靖をモデルにした洪作が祖母から聞いた話として出てきます。それから松本良順を知ったのです。裏口的な知り方で申し訳ありません。
投稿: non | 2020年6月 1日 (月) 06時18分
nonさん、こんにちは~
小説は読まないので作家さんのお話はよく分かりませんが、なるほど、イロイロあるんですね~
投稿: 茶々 | 2020年6月 1日 (月) 15時26分