秀吉VS勝家~一触即発の賤ヶ岳前夜
天正十一年(1583年)3月11日、柴田勝家の北ノ庄出陣を聞いた羽柴秀吉が、来たるべき決戦に向けて近江佐和山城へ入りました。
来たるべき決戦とは、ご存知、『賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦』です。
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天正十年(1582年)6月2日、天下目前の織田信長が本能寺(6月2日参照>>)にて倒れた後、山崎の合戦(6月13日参照>>)で明智光秀を討ち、主君の仇を討った形になった羽柴(豊臣)秀吉は、その後開かれた織田家の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)を有利に進め、後継者は、秀吉の推す信長の孫・三法師(さんほうし)に決定します。
その清洲会議のページで書かせていただいたように、その決定に不満なのは、対立後継者であった信長の三男・神戸(織田)信孝と、彼を推す織田家重臣の柴田勝家です。
その勝家はもちろん、会議に欠席した滝川一益(神流川の戦い:8月18日参照>>)も、秀吉に不満をブチまけますが、いずれも秀吉は一蹴・・・聞く耳を持ちません。
一方、岐阜城の信孝も、その時まだ、岐阜城にいた三法師を安土に移すよう秀吉が要請しても、それに応じないという抵抗姿勢を見せ、もはや、両者の関係は修復不可能な状態となってしまいます。
・・・が、しかし、11月2日になって、勝家は、前田利家らを派遣して、秀吉との関係を取り戻そうとします。
実は、コレ、勝家のその場しのぎの冬対策・・・本当に仲良くしようなんて気はさらさらありません。
そう、勝家の本拠地である北ノ庄は、豪雪地帯の越前(福井県)・・・先の清洲会議で決まった勝家の領地の最南端は、あの近江(滋賀県)の長浜城ですから、もし、冬場に長浜を攻められでもしたら、援軍を派遣する事も容易ではありません。
さらに、勝家には、信長が畿内を手中に収めた時に石山本願寺や延暦寺と諸将が手を組んで包囲網を敷いたように、安芸(広島県)の毛利氏や四国の長宗我部氏とともに、秀吉包囲網を造るという思惑もあり、そのための時間稼ぎでもありました。
しかし、秀吉もさる者・・・この勝家の和睦の申し入れに
「しても、いいよ!」
という口約束だけで、書面のほうは、
「みんなと話し合ってみないと・・・」
と、うまくゴマかしてしまいます。
・・・というか、その舌の根も乾かない12月7日、筒井順慶・池田恒興(つねおき)らとともに、5万の大軍を率いて長浜城を囲んでしまうのです。
上記の通り、この時期の越前からの援軍が期待できない事は、長浜城主の柴田勝豊(勝家の養子)も承知していますから、半月も経たないうちに、この長浜城は開城されてしまいます(12月11日参照>>)。
(【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
次に狙うは、信孝の岐阜城・・・12月20日、秀吉は、岐阜城に向けて進軍を開始しますが、稲葉一鉄(いなばいってつ)をはじめとする美濃(岐阜県)の国人(地元の半農の武将)たちは、すでに、秀吉の掌中に・・・(12月29日参照>>)
実は、この時、秀吉は、信長のもう一人の息子・次男の織田信雄の名前をフルに活用しています。
なんせ、勝家は、織田家の重臣・・・秀吉にとっては上司なわけですし、信孝にいたっては社長の息子なんですから・・・。
ただ単に、長浜城を囲んだり、岐阜城に兵を向けたりしたら、謀反人=反逆者になってしまいます。
とにかく、「この一連の行動は、信雄坊ちゃんの意向なのだ」という事を強調して事を運んでいたのです。
美濃の国人衆が早々と味方についたのも、この信雄坊ちゃんの署名した文書の効き目が大いにあったわけです。
・・・で、結局、地元の国人衆なしでは、決戦は不可能と判断した信孝は、あっさりと降伏・・・この時、何とか抵抗を見せる事ができたのは、伊勢方面を預かる一益だけでした(2月12日参照>>)。
一益は、秀吉方に属していた亀山城(3月3日参照>>)をはじめ、峯城や国府(こう)城・関城などを奪い、秀吉との国境線の守備の強化を計ります。
何とか、踏ん張る一益相手に、少々苦戦気味の秀吉・・・勝家にとって、この時ほど春が待ち遠しい事はなかった事でしょう。
「自分たちが動けるようになるまで、何とか一益よ、踏ん張ってチョーダイ」と・・・
やがて訪れた天正十一年(1583年)2月28日・・・前田利長を先鋒に、佐久間盛政・前田利家ら、北陸組先発隊が出陣します。
この日づけは、旧暦では4月の後半・・・待ちに待った春がやってきました~!
しかしながら、この年は、大変な豪雪だったらしく、春とは名ばかりの雪をかき分けかき分けの行軍だったようですが、何とか、一益がネをあげる前に出陣する事ができました。
そして、続く3月9日・・・いよいよ勝家が北ノ庄を出陣したのです。
一方、伊勢で苦戦中に、この勝家出陣の一報を聞いた秀吉は、すぐさま近江を目指し、3月11日、佐和山城へと入ります。
秀吉側に集まったその数は4万・・・・。
対する勝家側は2万・・・。
翌・3月12日には、余呉湖の北にあたる最前線の行市山(ぎょういちやま)に盛政が着陣・・・勝家も後方の内中尾山に陣を敷きます。
その同じ日、秀吉は、長浜城へと場所を変え、両者、南北に分かれてのにらみ合い状態となり、3月17日には、秀吉がちょっかいをかけるも、勝家は、なかなか、その誘いに応じません。
・・・というのも、勝家は、今もなお、毛利や長宗我部の援助をあきらめてはいなかったのです。
彼らの返事を待ちつつ勝家は、自らの周辺に砦を築き始めます。
一方、秀吉が近江に行った事で、余裕ができた一益は、信孝と結託して、秀吉になびいた国人衆への攻撃を開始・・・
しかし、そうなると、近江の秀吉は、またしても動くしかなく、4月16日、今度は2万の軍勢だけを率いて、再び岐阜へと向かいます。
これを最大のチャンスと見て取った盛政は、自ら勝家に奇襲攻撃を提案・・・かくして、佐久間盛政の先制攻撃によって、賤ヶ岳の合戦の火蓋が切られる事となりますが・・・。
この続き・・・賤ヶ岳の合戦については、4月20日【決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】でどうぞ>>
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コメント
前々回・6日の放送で「さるかに合戦」に見立てたのはうまいですね。当時の冬は今とは比較できないほど寒い(着る物が違うので)と思うので、あまり冬場は戦いをしないですね。
NHKの番組ガイドブック前編を見て気になった事で、人物相関図・徳川家の項目に「保科正之」の氏名がなかったんです。多分、無視してストーリーが進行するとは思わないのですが、後編にはちゃんと載るかな?
あと大地震の影響で有名俳優の起用発表がないですね。そろそろ後半に出る人が決まらないと。
投稿: えびすこ | 2011年3月27日 (日) 09時40分
えびすこさん、こんにちは~
「さるかに合戦」に例えたのはウマイと思いますが、いつまでもあの三姉妹が、秀吉の事を憎たらしそうに「サル」と呼ぶのが、秀吉ファンとしてはどうも…(;´Д`A
社長には恩があるので、その妹くらいまでは許せても、その娘は…かなりの年下だし、これからは世話になる側なのに…
まぁ、今後は、彼女たちの態度も変わるのかも知れませんが…勝家へのツンデレのごとく変わる方向に期待(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2011年3月27日 (日) 15時44分