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2009年3月13日 (金)

上杉謙信・暗殺説~容疑者は?

 

天正六年(1578年)3月13日、戦国武将の中でも屈指の有名人である越後上杉謙信が、春日山城で倒れ、49歳の生涯を閉じました

・・・・・・・・

以前、書かせていただいたように、【謙信・女説】(1月21日参照>>)なんて話も飛び出すほど、女性との浮いたウワサ一つなかった上杉謙信・・・おかげで、その死後、二人の養子の間で家督を巡って争われる御館(おたて)の乱が勃発する事になってしまうわけですが・・・

タイムリーですね~。
現在のところ大河ドラマ「天地人」は、ちょうど、このあたりをやってます。

Uesugikensin500 一般的な説では、合戦に次ぐ合戦の不規則な生活と栄養の偏り、さらに、浴びるように飲んでいたお酒などで高血圧と糖尿病が悪化していたところ、3月9日(11日とも)(かわや)にて脳卒中で倒れて、昏睡状態のまま帰らぬ人となってしまったとされています。

つまり、血圧高いのにキバリ過ぎたって事なのでしょうが、さすがに、この通りにドラマ化する事は、お食事中の視聴者もおられる手前、避けなければならず、大河では、いつも籠ってる毘沙門堂で意識を失う・・・となってしましたね。

大河と言えば、あの変わった造りの毘沙門堂は、「まさか、毘沙門を毘沙門にしちゃったの?」という疑問もなきにしもあらずですが、先日の平家の生き残り・平景清さん(3月7日参照>>)のように、1人籠ってお経を読むとなると、何となく洞窟が絵になる気がしないでもないので、謙信らしいカッコイイ最期としては、○って事でしょうね。

ところで、上記の通り、通説では脳卒中ですが、天下を狙う大物の急死という事で、やはり、あります!暗殺説・・・

推理物では、こういう場合、やっぱり、謙信が死んで一番得をした人が疑われるわけですが、そうなると、第1の容疑者は、織田信長という事になります。

なんせ、この前年の9月には、カッコ良く琵琶を奏でながら七尾城を落し(9月13日参照>>)、さらに加賀に進攻して、手取川では信長配下の柴田勝家を撃ち破った謙信・・・冬のため、一旦、春日山城に戻りますが、春になれば大軍を率いて上洛するつもりであったと言われているわけですから、そうなると、謙信VS信長の直接対決もあったかも知れないワケで・・・。

実際、謙信が亡くなった後に勃発した後継者争いで、上杉がゴタゴタしている間に、信長は、上杉の配下であった越中(富山)の半分ほどを、合戦らしい合戦をする事なく、いとも簡単に手に入れてしまいます(6月3日参照>>)

これには、謙信が用をたそうと、しゃがんだ時に、トイレの下に潜んでいた刺客がオケツの○をブスリと突き刺した・・・なんていう仮説まで囁かれていますが、確かに、この頃の謙信自身が、自分は狙われてるのかも・・・」死を予感するかのような行動をとってもいるのです。
(脳卒中は予測不可能ですから・・・)

死の1ヶ月前には、例の辞世とされる
♪四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒♪
「49年の自分の生涯は夢のように短かった 栄華も一杯の酒ほどの価値しかない」
という歌を詠んでいます

絵師を呼んで、自分の肖像画を書かせてもいましたが、奇しくもその肖像画が完成して春日山に届いたのは、この天正六年(1578年)3月13日亡くなった日だったのだとか・・・。

そんなところから、自殺説も囁かれています。

謙信は永禄八年(1565年)頃から左足に腫瘍ができていて、それ自体は死に至るものではないものの、例の突然「出家する」と言っては姿を消したり、「神の啓示があった」と言っては突拍子もない行動に出たりするところから躁鬱(そううつ)の傾向があったのではないかとされ、その腫瘍を苦に発作的に自殺したのだというのですが・・・やはり仮説の域を出ないものです。

ちょっと話がそれたので、暗殺説に戻しますが・・・

謙信の死で得をする人物・・・第2の容疑者として浮上するのは、今回の大河の主役・直江(樋口)兼続(かねつぐ)とその仲間たち・・・もちろん、彼らのトップである景勝(かげかつ)も含む、後継者争いにからむ人物たちです。

今回の大河では、やはり、主役の手を汚させるわけにはいきませんから、主役クラスは誰も悪くないのに、何となく、悪人タイプの家臣の入れ知恵で、お互いが疑心暗鬼になり、ギクシャクしはじめて乱に突入・・・てな感じになってましたが、実際には、「準備してたんちゃうん?」と疑いたくなるほど、彼ら景勝組は、素早い行動で本丸を奪取しています。

(ドラマで、すでにご存知かも知れませんが・・・)もともと、冒頭に書いた通り、女性を寄せつけなかった謙信には子供が無く、後継者となるべき人物としては、姉・仙桃院(せんとういん)の息子・景勝と、北条との和睦の時にその証しとしてやってきた北条氏政の弟・景虎(かげとら)、そして能登の畠山氏から養子に入った政繁という三人の養子がいたわけですが、このうち政繁は、重臣の上条氏を継いだので、残るは景勝と景虎の二人という事になります。

もちろん、謙信が、そのどちらとも後継者を指名しないで倒れてしまう事でモメるわけです。

・・・と、ここまでは、ドラマと同じですが・・・

実際には、9日もしくは11日に謙信が倒れた直後に、景勝は、もう一人の養子・政繁や謙信の側近だった直江信綱(今のところお船さんのダンナです)らの手引きで本丸に入って、すぐさま上田衆が警固を固めてしまったようで、謙信の急を聞いた景虎が、12日に本丸にやってきた時には、入城を断られ、追い返されているのです。

これ、まだ謙信、死んでないんですよ!

そして、その翌日に謙信が亡くなって、その2日後の15日には、景勝は、自分が後継者である事を内外に公言しています。

つまり、ドラマのように、「今は喪に服する時じゃ」なんて、余裕ブッこいてるヒマなんてありゃしない事になってしまうわけです。

・・・で、この後の後継者争い=御館の乱につきましては、以前、書かせていただいた【謙信の死後・御館の乱】のページ(3月17日参照>>)で見ていただくとして、その御館乱のページには、今回の大河の主役・兼続さんの、「カ」の字も出てきやしません。

実は、この兼続さん・・・この御館の乱以前も、そしてこの乱での活躍も、ほとんど史料には出てきません。

この乱が終ってから、突然出世をし始め、歴史の舞台に登場するのです。

しかも、この乱での論功行賞(恩賞の分配)に不満を持った者の巻き添えとなって、かの信綱が死んでしまった事で、ちゃっかりと、お船さんと結婚して直江家を継ぎ、わずか22歳で上杉のナンバー2にのし上がってしまうのですよ。

臭います~~
いったい兼続さんは、この御館の乱で、どんな手柄を立てて、そこまでの出世をしちゃったのやら・・・

・・・とは、言うものの、これらは、あくまで、歴史を楽しむ側の、想像力たっぷりの推理・・・実際には、やはり、謙信の死は脳卒中だったのでしょう。

死を予感していたというのも、明日をも知れぬ戦国の世では、当然の事かも知れませんし・・・もちろん、兼続さんが疑わしいからと言って、ドラマの内容を否定するものでもありません。

今回の大河は、直江兼続が主役・・・主役は、思いっきりカッコよく描いていただかなければ、つまらないドラマになってしまいます。

ドラマや小説は、歴史の中にフィクションを織り交ぜて、いかにおもしろく仕上げていくかが勝負ですからね。

『天地人』・・・この先も楽しみです。
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コメント

再び こんにちは。
歴史はやはりミステリーですね。
「武田信玄」という漫画を読んだことがありまして、そこには「脳卒中」と書かれていしたが・・・
歴史は常に疑う、実際に自分で調べる の方が納得できるかもしれません。
これからも 面白いブログ 続けてください!応援してます!

投稿: 力道山 | 2009年3月13日 (金) 17時29分

力道山さん、こんばんは~

そう言えば、武田信玄も病死だと言われながらも、野田城での狙撃っていう説もありますね~。

イロイロな推理を考えられるのが、歴史の楽しいところです~

投稿: 茶々 | 2009年3月13日 (金) 18時39分

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