不老不死は幸せ?人魚を食べた~伝説・八百比丘尼
日本における最も古い人魚の記録は、『日本書紀』にあるとされているそうですが、その日本書紀以外にも、各地に様々な人魚の伝説が残ります。
今日は、その中でも、特に興味深い『八百比丘尼(はっぴゃくびくに)』の伝説をご紹介します。
このお話は、若狭(福井県)の小浜、あるいは佐渡の羽茂(はもち)が舞台となっている事が多く、室町時代頃に最も広まったようで、地方によっては八百比丘尼を「やおびくに」と呼んだり、ヒロインの彼女の肌が白く美しかった事から『白比丘尼(しらびくに)』と呼ぶところもあるようです。
・‥…━━━☆
その日、ある漁師の地引網に、異様な姿をした獲物がかかります。
その頭には、人の顔・・・それも、17~8の美しい娘で、肩や胸のあたりも、まるで羽二重のような美しい肌・・・。
しかし、その下は金色のウロコに覆われていて、まるで魚の姿です。
「もしや・・・、これが、噂に聞く人魚?」
呆然とする漁師でしたが、そこに、どこからともなく、甘い香りが立ち込めてきます。
どうやら、その香りは人魚の物・・・。
やがて、我に返った漁師が、とりあえず胸に耳をあててみると、どうやら、人魚はすでに死んでしまっているようでした。
慌てて仲間を呼び、そのうち大勢が取り囲んで、「どうしたもんだろうか」と思案する中、漁師仲間の長老が進み出て・・・
「聞くところによれば、人魚の肉は、非常に美味だ言う。
どうだ? これを肴に宴を催そうではないか!」
確かに、その甘い香りは、食欲をもそそられる香りではありました。
ただ、もちろん、その長老も、本物の人魚を目にするのは初めて・・・それが、美味だというのも、小耳に挟んだ程度の話でしかありませんでしたが、それでも、宴会を催してみようと思うくらい、食欲をそそられる匂いだったのです。
長老の家で開かれた宴会には、村の長者も呼ばれました。
長者は、海に面したこの村で、唐の国との貿易なんかも手広くこなしている人で、外国の珍品を幾度となく目にしていますが、そんな彼でさえ、人魚は噂にしか聞いた事がありません。
宴会は、村の男たち総出で行われた盛大なもので、旬の酒の肴も用意され、お酒が入るにつれ盛り上がってきますが、お造りのように、一切れずつ美しく盛り付けられてはいても、やはり、あの人魚の肉には、誰も手をつけません。
どうしても、「人」の姿を思い出してしまって、とても「魚」とは思えなかったのです。
結局、誰一人手をつけないまま、宴会はおひらきとなりますが、それこそ、このまま長老のところに置いてかれても困りますから、とりあえず紙に包んで、一人少量ずつ持ち帰る事になりました。
かの長者も、一包み、もらって家路につきますが、帰り道で思い出すのは、あの美しい人魚の容姿ばかり・・・あの姿を思い出せば、とても、肉を口にする気分にはなりませんし、むしろ、なんだか重い気持ちで家にたどりつくと、慌てて自分の部屋に、先ほどの包みを隠し、気分を変えようと風呂に入りました。
そんな長者の部屋の前を通りがかったのが、長者の一人娘・・・年のころなら17~8の娘盛りでした。
すると、ふと、父親の部屋からの甘い香りに気づきます。
「あら、なんだかいい匂いがするわ」
・・・と、まだ、しばらくは父親が風呂に入っている今の情況を確認して、そっと部屋へ忍び込みます。
外を通っただけで、その香りに気づくくらいなのですから、中に入れば、それが、どこから香ってくるのかは、即座に見当がつきます。
娘は、ただただ興味本位で、戸棚を開け、包みを取り出し、中を覗き込みます。
「まぁ、いったい何の肉かしら?」
・・・と、思いながらも、その甘い香りを嗅げば嗅ぐほど、だんだんと食べたくて食べたくてしかたがなくなってくるのです。
「えぇい!食べちゃえ!一切れくらいわかんないや!」
長者は、この一人娘をことのほか可愛がっていましたから、それこそ、たとえ、食べた事がバレたとしても、怒られるなんて事はない事を、娘も重々承知・・・
しかし、一切れ食べたら、もう一切れ、もう一切れ食べたらまたまた・・・と、とうとう娘は全部食べてしまいました。
「もう、バレてもいいや!」
とばかりに、空の包みを入れて、もとにもどしておきました。
しかし、その日をさかいに、娘の様子が一転します。
翌朝、あさげの用意がされた部屋に娘が現れ、膳の前に座った姿を見た両親・・・思わず、ゴクリを唾を飲み込みます。
何と言うか・・・とにかく光輝いているような・・・
そこはかとない美しさをかもし出しているのです。
もちろん、もともとブサイクな少女だったわけではありませんが、それは顔形ではなく、それまでとはまったく違う不思議な輝きに満ちていて、まさに、人をとりこにするような魅力・・・とでも言いましょうか・・・。
そんな、娘は、またたく間に村の評判となり、やがて、それを聞きつけた近隣の村々からも、縁談の話が舞い込むようになります。
こうして、相手選び放題になった娘は、隣村の領主の跡取り息子と結婚する事に・・・嫁入りの日は、それこそ、彼女が見た事もないような数の馬が横づけされ、見た事もないような煌びやかなお道具、大勢の従者に囲まれ、彼女にとっては願ってもない相手のもとへと向かいました。
夫は、やさしい人で、彼女をこよなく愛してくれます。
いえ、それは、愛しすぎるくらい愛されます。
そうなんです。
彼女は、乙女のような外見とはうらはらに、夜の営みの時は、まるで娼婦のように大胆に夫を受け入れ、しかも、その最中には、例のあの甘い香りが・・・夫は、もう彼女を手放せなくなってしまうのです。
毎夜々々、夫の求めに応じる娘でしたが、娘のほうはまったく疲れる事がなく、むしろ、そのみずみずしさが増すように、よりいっそう美しく・・・しかし、夫のほうは、みるみるうちに痩せこけ、まるで生気がなくなっていくのです。
やがて、一年ほどで、夫は衰弱死してしいます。
泣く泣く、実家に戻った娘でしたが、そんな魅力的な娘ですから、その縁談は、またまた吐いて捨てるほど舞い込んできます。
そして、前夫の悲しみも癒えた頃、彼女は2度目の結婚をします。
もちろん、今回も、夫は彼女を愛してくれ、とても幸せな毎日だったのですが、やはり、またまた一年ほどで、2度目の夫も、老人のような姿になって死んでしまうのです。
そして、3度目も、4度目も・・・やがて、この頃になると、さすがに嫌な噂が囁かれるようになります。
「あの娘は男の精気を吸い取る鬼女だ」
「夫を死に追いやる女狐だ」などなど・・・
さらに、娘自身も、その異変に気づき始めます。
そうです・・・あの初々しかった一度目の結婚の時から、4度目を終えた今・・・・何年もの時が過ぎているはずなのに、自分の顔は相変わらずあの娘盛りの頃のまま。
もちろん、肌も10代のみずみずしさを保っています。
確かに、彼女は、時々
「いつまでも若いわね~うらやましいわぁ」
と、近所の奥さんに言われるけど・・・それとは明らかに違う何かが、彼女には存在します。
歳をとる・・・というのは老けるという意味だけではなく、結婚生活を続けていく中で、それとなく奥さんらしいというか、大人の女へと変化していくはずなのに、彼女には、それがありません。
彼女は、自分自身の中に、なにやら得体の知れない恐怖を感じ、思い悩みはじめます。
そして、何日か悩んだ末、彼女は一大決心をします。
「出家しよう・・・尼になって、男性との交わりを一切捨て、全国行脚して身を清めれば、何か道が開けるかも知れない」と・・・。
ある朝、両親には何も告げず、1人、尼寺のある山へと向かい、彼女は尼となり、やがて全国行脚の旅に出るのです。
熊野権現をはじめ、各地を渡り歩く彼女でしたが、そこは、まるで別天地でした。
なんせ、誰も彼女の事を知りませんから、どこへ行っても、17~8歳の若い尼として迎えられ、何も不思議がられずにすみますから・・・。
そうこうしているうちに、彼女は踊り念仏の一行に出会います。
一遍上人(8月23日参照>>)が始めた時宗(じしゅう)を広めるための踊り念仏・・・何も考えず、トランス状態となって踊り狂うその姿に魅了された彼女は、しばらく一行とともに、踊り念仏の輪の中で、全国行脚を続けていきます。
しかし、こうして、親しくなって旅をともにするようになると、やはり、再び、他人との差を感じずにはいられませんでした。
暑い夏、寒い冬・・・踊り念仏を続ける中、ある者は、崖から落ちて亡くなり、ある者は疫病で倒れ・・・しかし、娘は、いつまでたっても17歳のあの頃のままで、どんなに疫病が流行っても、病気にかかる事すらありませんでした。
やがて、年上はもちろん、年下の者まで、彼女は看取る事になります。
「私は、人を見送るばかり・・・私には終わりはないのだろうか・・・」
そう思うと、なんだかむしょうに故郷が恋しくなって、彼女の足は、思わず故郷のあの村へと向きました。
もう、何年、いや何十年も経っているでしょうが、彼女には、その年数すらわかりません。
やがて、自分の生家のあった場所に来て、彼女は目を疑いました。
荒れ果てた土地だけで、屋敷の面影すらなくなっているのです。
確かに、彼女は一人娘でしたから、跡取りがいなくなって、家が没落したのかも知れませんが、たとえ荒れ放題になっていたとしても、あれだけのお屋敷の跡形くらいは残っていてもよさそうなものです。
近くを通った老婆に訪ねます。
「昔、ここに、大きなお屋敷はありませんでしたか?」と・・・
すると老婆は、
「あたしゃ、生まれた時から何十年もここに住んどるが、この場所は、子供の時分から、こんな感じの荒れた土地だったさ・・・」
娘は、やっと気づくのです。
「自分が思っている以上に、年月は過ぎているのだ」と・・・
とぼとぼと歩きはじめた彼女は、薄い記憶をたどりながら、幼い頃、友人と隠れ家にして遊んでいた洞窟へと向かいます。
そこは、昔と変わらぬ姿で残っていて、少し安心した彼女・・・ただ、幼い頃は、自分の背丈ほどもなかった椿が、見上げるほどに生長して、その洞窟の前に美しい花を咲かせていました。
暗い洞窟の中に入り、冷たい石の上に正座して、静かに目を閉じた娘・・・その姿のまま、一切の水と食糧を断ち、ただひたすら念仏を唱えるのです。
やがて、何日か経ち、とうとう彼女は絶命・・・その800年の生涯を閉じたのでした。
・‥…━━━☆
室町時代の文献・『中原康富記』には、文安6年(1449年)5月に、京都に八百比丘尼が現れて大騒ぎになった事が記されていたり、その他にも、各地には、比丘尼が植えた木や、足跡の残る石などもあり、当時は、現実にあったかように伝えられているこのお話ですが、おそらくは、旅の尼や巫女などが、たまたま美しいがために、そのように噂されたり、あるいは、自称して全国を行脚して回ったりしたのでしょうが、それらの、諸国を巡り歩いた尼によって、この伝説が各地に伝わったものと思われます。
この最後の岩屋に籠って自ら命を絶つシーンは、橋を渡っている最中に転倒して死んだという物や、他にもいくつかのパターンがあるようですが、いずれも、お話がハッピーエンドで終る事はありません。
本来、不老不死は、あらゆる人の夢であり、それは、時代が変わっても不変の物であるはず・・・しかし、この昔話は、必ずしも、それが幸せではない事、不老長寿が、ただ単に、人間の無いものねだりである事を教えようとしてくれているのかも知れません。
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コメント
八百比丘尼の八百も本当に八百年生きたってコトじゃなく、人並みはずれた長生きを表してるんでしょうね。東京の八百八町・大阪の八百八橋。日本の天神地祇を総称して八百万神。口から出任せ言うのは嘘八百。野菜を商う店が品ぞろえの豊富さを謳って、八百屋と名乗った…こうして見ると日本じゃ八百って数は、規格外れの大きな数を指す場合に使われてる事は一目瞭然です。
投稿: マー君 | 2009年3月31日 (火) 17時48分
こんにちは。
手塚治虫の火の鳥シリーズの短編で、八百比丘尼をテーマにしたものがあります。
死と再生の無限地獄、当時小学生だった私には、かなり重過ぎました(@Д@;
婿になる相手が次々早死にする話は、落語でやってたのを見たことがあります。
まだ病気になる前の円楽師匠の「そうこうするうちに、婿入りした男の頬がゲソッ」が懐かしいです。
投稿: おきよ | 2009年3月31日 (火) 17時56分
マー君さん、こんばんは~
そう言えば、7も、そんな感じで使いますね。
「七曲がり」とか、「七光」とか・・・
投稿: 茶々 | 2009年3月31日 (火) 23時51分
おきよさん、こんばんは~
単純に不老長寿だと喜べない・・・複雑で考えさせられます~
投稿: 茶々 | 2009年3月31日 (火) 23時53分
人生には終わりがあるから、命の大切さを知ることが出来るんでしょうね。不老不死では命の尊厳を知る前に友人知人の死を幾つも見る間に、死ねない自分を呪い、命の意味を見失ってしまいそうです。
投稿: マー君 | 2009年4月 2日 (木) 19時20分
物事を深く考えない自分は、もうちょっと早く生まれて、信長さんや秀吉さんに会って、その印象を400年後の現代に、テレビで語ったり、本を出したり・・・ウハウハ儲かりまっせ!という、浅はかな事を考えてしまう・・・
投稿: 茶々 | 2009年4月 3日 (金) 01時07分
はじめまして。
いつも楽しみにして拝見させていただきながら勉強させていただいております。
八百比丘尼、懐かしく何度も読み返してしまいました。
ここに出てくる洞窟の隣にある小学校に通っていました。今では囲いがしてありますが、子供の頃には洞窟の中まで入って遊んでおりました。
小学生の頃、洞窟は京都までつながっていると信じておりました(笑)
小浜という土地柄神社仏閣が多くこちらのブログにも登場したりすることもあり懐かしんでおります。
歴史があまり得意ではありませんでしたが、ブログに出会ってから少しずつですが興味が湧いてきました、これからも楽しみにしております。
投稿: yasu | 2009年4月 5日 (日) 23時57分
yasuさん、こんばんは~
そうですか・・・小浜には、この伝説の洞窟が今もあるんですね~いいですね
うれしくなるようなコメントありがとうございました。
これこそ「ブログやっててよかった」と思う瞬間・・・私の不老長寿の薬です。
投稿: 茶々 | 2009年4月 6日 (月) 01時20分
見送り続けるより先立ちたい自分としては不老長寿は苦痛以外の何者でもありませんね・・・
そういえば大泉学園の辺りに「比丘尼」という交差点があります。
最近越してきたばかりで郷土史などは調べていないのですが、関わりや言い伝えがあるかもしれないですね。
投稿: Noname | 2011年12月 3日 (土) 11時03分
Nonameさん、こんばんは~
やはり不老長寿は無い物ねだり…現実には、厳しい物でしょうねぇ。
古き地名は何らかの関わりがおる事が多いです。
調べてみる価値はありそうですね。
投稿: 茶々 | 2011年12月 3日 (土) 18時20分
こんにちは、
八百比丘尼をググッていたらここをみつけました。興味深く読ませていただきました。
職業柄、お年寄りに接する機会が多いのですが、90歳を超えて元気なお年寄りは、プチ八百比丘尼の方もよくいます。友達はみな先に亡くなって、近所の年寄りといっても10も20も年下。人によっては子供が先に亡くなってしまっている人もいます。
でもプチ八百比丘尼の方の昔話を聞くのはおもしろいです。
先の大戦で撃沈された戦艦から生還したつわもの話や、田んぼの水をめぐっての村VS村の戦いの話などなど
投稿: | 2013年2月 2日 (土) 13時13分
こんにちは~
先人の経験話を聞くのは、ワクワクしますね~
歴史の中でも逸話・説話と呼ばれる物は、ほとんどが、この昔語り…
映画やドラマで戦国武将がいきいきと描かれるのも、昔語りがあればこそ!ですね。
投稿: 茶々 | 2013年2月 2日 (土) 13時52分
「やおびくに」が普通で「はっぴゃくびくに」や「ぁびくに」が例外だろうが。ちゃんと調べてから書けよ。
投稿: 通りすがり | 2014年11月22日 (土) 20時40分
通りすがりさん、こんばんは~
『日本民族大辞典』では「はっぴゃくびくに」、『日本民族事典』では「やおびくに」で紹介されていますが…
てか、そもそも全国28都県121箇所もの場所に166パターン(民俗学者の高橋清美氏の調査)も伝承されている物語の「普通」って何でしょう?
すべての伝説から統計をとって1番多い呼称が「普通」って事になるんですかね?
それとも、今、人気の妖怪ウオッチに登場する妖怪が「やおびくに」と呼ばれていたら、それが「普通」って事になるのでしょうか?
それなら解ります…人気者には勝てないです。
紙と紙をくっつけるアレを「セロテープ」と言ったり、乳酸菌飲料を「ヤクルト」と言ってしまうのと同じですねww
投稿: 茶々 | 2014年11月23日 (日) 01時19分
八百比丘尼は名主の娘ではなく孫娘なんだぞ あなたは娘と嘘を書いている
埼玉県八潮市教育総務部 文化財保護課 文化財保護係が掲載している
八百比丘尼の伝説
http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?_jurl=http%3A%2F%2Fwww.city.yashio.lg.jp%2F3220.htm&_jlite=0&_juid=&_jsrc=&_jkw=%94%AA%95S%94%E4%8Bu%93%F2&_jimg=1&guid=on
投稿: 八潮市民 | 2015年3月24日 (火) 02時58分
八潮市民さん、こんばんは~
以前の通りすがりさんのコメントにもお返事させていただきましたが、この物語は全国28都県121箇所もの場所に166パターン(民俗学者の高橋清美氏の調査)も伝承されている物語なので、様々なパターンがあって当然です。
私とて、すべての伝承を把握しているわけではありませんが、いくつか調べさせていただいた中では、娘という設定が複数あり、その父親の職業も、名主や長者だけでなく、漁師や僧などになってる物も存在します。
今回のお話は、そんな中でも数多く舞台になっていて、おそらく物語のルーツとなる場所であろうとおぼしき若狭・小浜に伝わるお話を中心にして書かせていただきました。
ご紹介いただいた八潮市のサイトのお話も、この機会に拝見させていただきましたが、「人魚の肉を食べて不老不死になった」以外はあまり共通点が無いお話ですよね。
(「若狭の小浜での話」だと舞台が小浜である事は共通してますが…)
要は…この「八百比丘尼」のお話のテーマは「タブーを犯して(食べてはいけない物を食べて)不老不死になった事で主人公が抱える死生観」であって、それ以外の「誰が」「どこで」などの固有名詞的な部分は、さほど重要では無いのだと思うのです。
なので、物語によって時代も場所も様々ですし、中には主人公が食べる物でさえ「人魚の肉」ではなく「人魚の生き血」の場合や「人肉」「竜宮城のお土産」のパターンもあります。
しかし、だからと言って、「(食べた物が)人魚の肉では無いので、その話は嘘だ」という事にはならないでしょう。
そもそも、各地へ口伝えされた伝承&伝説なのですから、「孫娘か娘か」「どちらがホントか嘘か」という事よりも、
むしろ、孫娘が娘になっている地域はどのように分布しているのか?この地域とこの地域ではどこが違っているのか?それはなぜだろう?というような、伝承されている地域による「違い」を探究し、伝説が伝わっていくルートや過程などを検証していく方がオモシロイと感じますが、いかかでしょう?
逆に、ほとんどの伝承が人魚を食べて不老長寿になる主人公は一人なのに、ご紹介いただいた八潮市のお話では孫娘2人=姉妹となっている事なんかは、非常に興味深いです。
同じ境遇の人がもう一人いるとなると、根本のテーマである「主人公の死生観」に変化が出て来るのでは?と色々と考察してしまいます。
投稿: 茶々 | 2015年3月24日 (火) 03時50分