日露戦争~日本軍・極寒の奉天占領!
明治三十八年(1905年)3月10日、日露戦争において日本軍が奉天を占領しました。
・・・・・・・・・・
これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…
・‥…━━━☆
明治三十七年(1904年)2月10日に、日本の宣戦布告によって開戦された日露戦争・・・(2月10日参照>>)。
翌・明治三十八年(1905年)1月2日には、多大なる犠牲を払って旅順(りょじゅん)を陥落させた(1月2日参照>>)日本軍でしたが、数々の熱戦は、とても勝利として手放しで喜べるものではなく、ロシア軍の撤退に助けられた感の残る戦いでした。
その後、1月の終わり頃には、旅順の北東にある奉天(ほうてん)に近い、沙河(さが)まで軍を進めた日本軍でしたが、厳しい冬という事もあって、もはや将兵は疲れきった状態でありました。
しかし、一方のロシア側は、確かに苦戦してしはいましたが、シベリア鉄道の全線開通によって、未だ無傷の兵が続々と西からやって来る状況・・・。
ロシア側は、日本の疲れを見切ってか、ここらあたりでの決戦を決意します。
ただし、それは、日本も同じ事・・・ここらあたりで早期に決着をつけなければ、兵士の疲れのピークが迫っています。
そんな中、奉天の南方で、大きく広がる形でお互いに対峙していたロシア軍と日本軍・・・
その日本軍の最西端を守る秋山好古(よしふる)少将率いる支隊に、1月25日未明、ロシア軍の攻撃が開始されます。
確かに、ここは最西端という事もあって、守りが手薄なうえ、大量の積雪があり、日本軍は、この時期のここへの攻撃は無いだろうと予測していたのです。
黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)と呼ばれるこの戦いを、少ない兵で応戦する秋山隊でしたが、思っていた以上に早くロシア軍が撤退してくれたおかげで、何とか死守する事に成功しました。
しかし、この戦いは、勝ったとは言え、もはや、ロシア側の戦力が日本のそれを上回っている事を、まざまざと感じさせられる結果となってしまいました。
もう、待てません!
ロシア軍32万、日本軍25万・・・いよいよ一大決戦の幕が上がります。
第1軍から第4軍に分かれた日本軍・・・大将の乃木希典(のぎまれすけ)は第3軍を率います。
画像をクリックしていただければ、日づけごとに変化する関係図が見られます。
*このイラストは、わかりやすくするために趣味の範囲で制作した物で、必ずしも正確さを保障できる物ではありません。
日本軍の作戦は、まず、東側(右翼)に展開したおとりの軍でロシア側をひきつけ、主力である第3軍が、西側(左翼)から奉天へと回り込んで、ロシア軍を攻撃するという作戦・・・。
かくして2月21日・・・まずは、動き出したのは、おとり部隊である鴨緑江(おうりょくこう)軍・・・。
幸いな事に、ロシア軍はこの鴨緑江軍を日本の第3軍と勘違いし、大量の兵を東へと移動させます。
おかげで、真正面で奮闘中の第2軍は、攻撃を受けるも、それほどのダメージはなく、27日には、第3軍が、予定通り西側から奉天への迂回コースにて攻撃を開始します。
対する、ロシア軍は予備に温存していた部隊を投入し、大激戦となりました。
連日の激戦が10日間ほど続いた3月7日の夜・・・日本側の第1軍と第4軍が、撤退するロシア軍を確認します。
実は、日本軍には、未だ無傷の予備兵力が少なからずいた事を察したロシア軍の大将・クロパキトンの判断でした。
「その予備軍に退路をふさがれては、撤退ができなくなる」と・・・ひょっとしたらロシア側も、日本軍が全軍を挙げての一大決戦を仕掛けてきている事に気がついていたのかも知れません。
逃すまいと、第3軍と第4軍によって挟み込む形で、包囲網を狭める日本軍でしたが、もはや、それ以上の追撃する余力もない日本軍・・・。
9日の夜、ロシア軍の撤退が成されてしまいます。
かくして明治三十八年(1905年)3月10日、日本軍は奉天の占領に成功します。
しかし、この占領は、上記の通り、敵を撃滅というにはほど遠いもので、この後、ロシア・日本の両軍は、鉄嶺(てつれい)付近にて対峙を続けるという緊張状態が続きます。
・・・と、これらの決戦を見てみると、確かに、日本の勝利に終ってはいますが、何だかんだで、ロシア軍の撤退ばかり・・・まぁ、日本はそれで助かってますが・・・。
それって・・・
決死の日本軍に恐れをなしたのか?
はたまた、ヤル気がなかったのか?
いえいえ、大国ロシアには、未だ無傷のバルチック艦隊がいますから・・・!
たとえ、陸上で一進一退であっても、バルチック艦隊で日本の海軍を撃ち破って、制海権を握れば、日本陸軍への補給路は断たれるわけで、窮地の立つのは日本のほう・・・なので、何も、今ここで、陸上戦の勝ちにこだわる必要はないワケです。
そのバルチック艦隊は、すでに昨年の10月15日に母港のリバウ軍港を出港し、この極東の戦線に向かって洋上を航行中・・・
さぁ、連合艦隊の出番です!
・・・が、連合艦隊のお話は5月27日【日本海海戦・伝説の東郷ターンは?】でどうぞ>>
.
★あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
茶々さん、こんにちは。
明治世代は知っていますが、奉天会戦を司馬遼太郎によって秋山好古の功績になっていますし、その作戦は児玉源太郎と言っていますが、囮だった乃木軍が踏ん張ったどころか主力をクロパトキンが差し向けたのにそれを優勢に進めてその乃木によって秋山部隊が活躍したのを忘れ去られています。
やはり明治時代に海の東郷、陸の乃木と言った様にこの二人こそ真の英雄だと思います。
でもこの二人は全然自慢しないし、乃木に至っては自分のせいで民を殺したと謝っていました。でもそう言うのは昭和世代は知られていません。残念です。
軍神は真の英雄だと思う謝罪をする心それ出る。と言う下手な一首で乃木に捧げます。
投稿: non | 2015年10月18日 (日) 16時34分
nonさん、こんばんは~
司馬遼太郎氏は史実と創作の絡め方が天才的にウマいので、ご本人が「小説だ」とことわって書いていらっしゃるにも関わらず、読み手側が史実のように思ってしまう事が多々ありますね。
小説の主人公を書き手が持ちあげるのは当然なのですが、そのために評価が下がってしまっている方々がいて残念です。
投稿: 茶々 | 2015年10月19日 (月) 01時07分