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2009年3月26日 (木)

ラブソングの帝王・与謝野鉄幹

 

昭和十年(1935年)3月26日、明治末期から大正・昭和にかけて活躍した歌人・与謝野鉄幹が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

与謝野鉄幹(よさのてっかん)と言えば、有名な『人を恋うる歌』・・・

♪妻をめとらば才たけて・・・♪
ってヤツで、最近こそ聞かなくなりましたが、戦前・戦中に青春を過ごしたオッチャンは、お酒が入ると、よく、この歌を歌ってました~。

そして、そんな鉄幹がめとった妻が、あの与謝野晶子・・・

つまり、鉄幹は、国語の教科書や歴史の教科書にデ~ンと載ってるあの与謝野晶子のダンナさん・・・と、書くと、また鉄幹さんの心を傷つけそうですね。

なんせ、結婚してからは、鉄幹さんは、スランプの嵐・・・一方の晶子夫人が人気を博してスポット浴びまくりの中、なかなか抜け出せず、かなり思い悩んでいらっしゃったようですから・・・。

そんな鉄幹さんは、本名をと言い、京都の僧侶の家系に生まれますが、10歳の時に、やはり大阪のお寺さんだった安藤秀乗という人の養子になって、一時、安藤姓を名乗りますが、その後、兄のいるお寺へと身を寄せ、そのお寺さんが経営していた徳山女学校の教員となります。

そして、お寺の布教活動の一環として機関紙を発行・・・この頃から、姓を与謝野に戻して、名前も鉄幹と名乗るようになりますが、かの徳山女学校を、わずか4年で退職します。

その原因はスキャンダル・・・そう、教え子とデキちゃったんですねぇ・・・。

今回、鉄幹さんをご紹介するにあたって、ご命日のこの日に、書こうか書くまいか迷いましたが、教科書通りの紹介になってしまうのも、「なんだかなぁ・・・」って感じなので、あえて、書かせていただきますが、この鉄幹さん、とても女グセが悪い・・・手の速きこと風のごとく、浮気すること山のごとし。

・・・と、言っても、決して悪口ではありません。

Yosanotekkann500a 鉄幹さんは、歌人・・・それも、情熱的な恋の歌がお得意なのですから、ある意味、芸のこやしとでも言いましょうか・・・だからこそ、ステキな恋の歌も歌えるって事で、決して、真っ向から、その行動を否定しているわけではありませんよ。

しかも、恋愛は相手もいる事・・・鉄幹さん、ひとり頑張っても、相手もその気にならなければ成就しないわけですから・・・。

とにかく、最初のその女性・浅田信子との間に女の子が生まれますが、残念ながら、その子供は、早くに亡くなってしまいます。

その後、間もなく、別の女子生徒・林滝野に手を出して、またまた子供が誕生・・・その後、20歳で東京に出て、歌人・落合直文の弟子になります。

翌年の明治二十七年(1894年)に短歌論『亡国の音』を発表し、その翌年には、出版社の編集長を務めながら女学校の教員もやり、歌集も立て続けに出して大人気に・・・。

明治三十二年(1899年)には、最初の信子夫人とちゃんと別れて、滝野さんと同棲しますが、彼女以外にも、弟子や生徒やら複数の女性との関係を続けていたようです。

なんせ、鉄幹さんモテるんです。

もちろん、彼は、それほどお金持ちでもありませんし、それほどイケメンでもありませんでしたが、なんせ歌がウマイ・・・

それは、かなりの武器になります。

今だってアーティストと呼ばれる人に、ポロンとギター片手に、ただひとりのために捧げるラブソングなんか唄われたひにゃ、女の子もコテンと落ちる・・・ってアレですがな。

そんな中、明治三十三年(1900年)に創刊した『明星』が大当たり!

北原白秋石川啄木を輩出し、日本近代浪漫派の中心的人物となります。

その頃です。

未だ、無名の若手歌人だった鳳晶子と出会い、彼女の才能に惚れこんだ鉄幹は、晶子の歌集・『みだれ髪』をプロデュース・・・もちろん、手もつけちゃいました~。

翌年、滝野と別れて、晶子と一緒に・・・かの『みだれ髪』も大ヒットし、それとともに『明星』も全盛期を迎えます。

しかし、その晶子に・・・
♪やわ肌の あつき血汐に ふれも見で
  さびしからずや 道を説く君 ♪

と言われようとも、まだまだ、浮気の虫はおさまりません。

有名な、山川登美子との三角関係・・・

しかし、この登美子さんと晶子さん、鉄幹を巡ってドロ沼の争い・・・てな事にはならず、後には、女性二人協同で歌集を出したりなんかもする仲で、どちらかと言えば、両方ともが、ただただ「鉄幹を好き~」と、燃えるような気持ちを彼に向かってぶつけるだけで、女が相手の女をライバル視して、嫉妬に狂うという感じではなかったようです。

男としては、なんと幸せなシチュエーションなんでござんしょ。

・・・とは、言うものの、晶子は、
♪春短し 何に不滅の 命とぞ
  力ある乳を 手にさぐらせぬ ♪

なんて、積極的な態度なもんで、

一方の登美子は、
♪それとなく 紅き花みな 友にゆづり
  そむきて泣きて 忘れ草摘む ♪

と、それとなく、紅い花を諦めて去っていったようです。

ここで、ようやく、晴れて二人は結婚・・・二人の間には、最終的に六男・六女の子宝に恵まれるわけですが、冒頭にも書いたように、ここらあたりから鉄幹は大スランプに陥ります。

かたや、晶子は人気を博し、子育てと仕事で身を粉にする毎日・・・

鉄幹も、
♪子の四人(よたり) そがなかに寝る 我妻の
 細れる姿 あわれとぞ思う ♪

なんて、妻を気遣う歌を残しています。

「鉄幹さん・・・なんて、やさしい人なんだぁ~(;ω;)」
・・・と、思ったあなた。
アーティストのギターポロンの魔力に引っかかりましたね。

こんな事、言いながら、鉄幹さん、性科学者の小倉清三郎が設立した『性の研究会』なる物に参加し、更なるエロスの追及に勤しんでいたのだとか・・・

研究会への入会時に、その清三郎から、「変わった性の体験談はないか?」と聞かれ、妻・晶子とのアブノーマルな体験(ここではとても書けませんので、知りたいかたはご自分でお調べください)を告白したところ、「そんな事くらいでは変わった体験とは言えん!」と一喝されたのだとか・・・
いったい、何を研究する会なんだ?(@Д@;

その研究会には、芥川龍之介平塚らいてうもいたというから驚きです。

そんな鉄幹さん、昭和七年(1932年)に上海事変を題材にした「爆弾三勇姿の歌」で、毎日新聞の歌詞公募に応募し、見事、1等に入選しますが、その3年後の昭和十年(1935年)3月26日、気管支の病気がもとで、この世を去りました。

歌人としては、少し心残りな死であったかも知れませんが、こと恋愛に関しては、おそらく、ゆったりしたお心もちであった事でしょうね。
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