父の遺志継ぐ藤田小四郎~攘夷の魁・天狗党誕生
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派・藤田小四郎の呼びかけに応じて結成された天狗党が、筑波山で挙兵しました。
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今回、天狗党は2度目の登場ですが、最初の登場が天狗党・降伏の日だっために、その誕生の経緯や、降伏に至るまでのお話を、おおまかなあらすじのように書いてしまいました(12月17日参照>>)。
なので、誕生に関しては、以前と内容がかぶるところもあるかも知れませんが、今回は、天狗党・挙兵の中心人物である藤田小四郎信(ふじたこしろうまこと)を中心に、水戸学や尊王攘夷思想をおりまぜながら、挙兵に至るまでを書かせていただきます。
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藤田小四郎は、天保十三年(1842年)に、すでに水戸学の学者として名声を博していた学者・藤田東湖(とうこ)の四男として生まれます。
・・・で、この水戸学・・・
どんな学問かと問われても、なかなか難しいものがありますが、その基本となる物は、水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(みつくに)・・・あの水戸黄門様の時代から始まります。
以前、書かせていただいたように、黄門さまは、その半生を『大日本史』という、日本の歴史をまとめた書物の制作に捧げる(10月29日参照>>)わけですが、それもこれも、水戸家が主君と仰ぐ天皇家のためだったわけです。
鳥羽伏見の戦いの徳川慶喜(よしのぶ)の敵前逃亡のところで、少し、その黄門様の言動に触れましたが(1月6日参照>>)、その事でもわかるように、水戸家は御三家の中でも特別で、徳川家の臣下ではなく、主君は天皇家であり、あくまて、朝廷の下に幕府があるという考えで、その神代の昔から続く、天皇家の正統性を主張し、日本が、その君主のもと、独立した国家である事を確かにするがための歴史書の編集という事なのです。
もちろん、大日本史の編集の頃の水戸学と、この幕末の頃の水戸学は、厳密には、同じ学問ではありませんが、「天皇を主君と仰ぎ・・・」という姿勢は同じです。
記紀にある建国神話にて道徳を学び、君主と臣下の違いを厳格に守ってこそ、社会の秩序が保たれると考え、これが尊王(そんのう)思想という事です。
そして、天皇という立派な君主のもとにある独立した日本という国であるのだから、外国から干渉されたり、影響を受けたりしてはならない・・・これが、攘夷(じょうい)思想で、この二つが結びついて尊王攘夷となります。
・・・で、幕末のこの頃に、第9代水戸藩主となった徳川斉昭(なりあき)によって、いち早く天保の改革に取り組んだ水戸藩が、その水戸学を学ぶために設立したのが、藩校・弘道館(こうどうかん)で、小四郎の父・東湖は、戸田忠太夫(ちゅうだゆう)とともに、そこの最高顧問だったわけです。
しかし、そんな水戸藩も、一枚岩ではありませんでした。
実は、小四郎のジッチャンである藤田幽谷(ゆうこく)は、かの『大日本史』の編さんをしていた人なのですが、この時幽谷とともに編さんに関わっていた立原翠軒(すいけん)・・・いや、むしろ編さん所の総裁という事は、上司にあたる翠軒に対して、幽谷が編さん内容について反発し、しかも、最終的に彼を編さん所から追い出してしまっていて、その後は藤田派が独占していたのです。
その後、9代藩主を決めるにあたって、藤田派が推した斉昭が藩主となったために、その後の改革では東湖らが重用され、改革派が中心となりますが、立原派には、水戸藩代々の重臣である保守派が多くいて、この頃の彼らは、水面下でくすぶっていたわけです。
やがて、彼らの尊王攘夷思想が、かなりのスピードで全国的に広まっていった事、水戸藩の改革があまりにスゴかった事によって、幕府が介入し、斉昭は隠居させられ、第10代藩主に息子の徳川慶篤(よしあつ)がなり、その新しい藩主に保守派が取り入った事で、ますます、改革派と保守派は敵対する事に・・・。
そこに降って湧いたのがあのペリーの黒船来航です(6月3日参照>>)。
改革派の改革の中には、海岸線の防備も含まれていた事で、幕府はがぜん改革派の意見を必要とする事となり、斉昭は幕府参与に任ぜられ、当然、水戸藩内にも、改革派が返り咲き、保守派は、またまた水面下へ追いやられる事になるのです。
・・・と、長々と水戸藩内の対立を書いてしまいましたが、後に、天狗党が挙兵して、幕府が追討命令を出した時に、水戸藩からも追討軍が出される・・・という事があるので、ここで、水戸藩内でも対立があった事を外しては、後々、困ると思って書かせていただきました。
・・・で、ペリー来航のおかげで幕府の中心人物となった斉昭・・・この頃に、七男の慶喜を、御三卿の一つ・一橋家に養子に出して、次期将軍の候補者とする事にも成功し、ノリノリの頂点に達していました。
ところが、幕府は、日米和親条約に調印・・・尊王攘夷を掲げる水戸藩としては、真っ向から対立したいところではありますが、水戸学の根底に流れるのは、君臣の身分をわきまえて・・・つまり、天皇も主君ですが、幕府も主君・・・とりあえずは、反幕府を掲げるのではなく、幕府の方向転換を模索する形となるのですが、そうこうしている間に、次期将軍は、慶喜の対立候補だった徳川慶福(よしとみ・家茂)に決まり、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)によって、尊王攘夷派を一掃する安政の大獄が決行されます(10月7日参照>>)。
斉昭も慶喜も謹慎処分となり、水戸藩を中心に多くの尊王攘夷派が処分されました。
この混乱の中、東湖は、すでに3年前の安政の大地震の犠牲者となってこの世になく(10月2日参照>>)、さらに、攘夷を催促する天皇の勅諚(ちょくじょう・天皇の命令書)が、幕府を飛び越えて水戸藩に直接下された事で、藩内は更に混乱します。
そして、そんな水戸藩士の中でも、特に過激な尊王攘夷派が脱藩し、安政七年(1860年)3月3日、あの桜田門外の変で、井伊直弼を暗殺するのです(3月3日参照>>)。
この時、小四郎はまだ19歳・・・父亡きあと、弘道館で同志と勉学に励むも、未だ、尊王攘夷派の中心人物になるには至りませんでした。
彼が大きく成長するのは、3年後・・・文久三年(1863年)、藩主の慶篤のお供をして上洛した時でした。
この時、彼は京都にて、あの長州(山口県)の桂小五郎&久坂玄瑞(げんずい)と語り合うチャンスに恵まれ、その思想に大いに影響を受けるとともに、攘夷の信念を貫く覚悟も決めたに違いありません。
しかし、この文久三年の時点では、朝廷からの再三再四の攘夷の催促に、14代将軍となった徳川家茂(いえもち)が、「5月10日に攘夷を決行する」と約束をしていたので、小四郎は、何をするという事なく、おとなしく江戸へと戻り、その攘夷決行の日を待ちました。
しかし、ご存知のように、その約束通りに攘夷決行=外国船に砲撃したのは長州だけ(8月8日参照>>)・・・幕府は何もしません。
さらに、7月には、前年の生麦事件(8月21日参照>>)に単を発した薩英戦争(7月2日参照>>)が起こり、翌月には、八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、朝廷から尊王攘夷派が一掃されてしまいます。
藤田小四郎・23歳・・・
「何もしない幕府に、今こそ水戸藩が攘夷決行を訴えなくてはならない!」
元治元年(1864年)3月27日、府中(茨城県石岡市)に集まった64名の同志は、密かに筑波山をめざします。
山の中腹に立って尊王攘夷の旗を掲げると、彼らの決起を聞きつけて集まってきた更なる同志で、その人数は160名余りに膨れ上がります。
その集団の名は天狗党・・・
この名前は、以前から、敵対する保守派の重臣たちが、下層武士の多い改革派をさげすんでつけたニックネームだったのですが、彼らは、あえて、この名を使いました。
「天狗のごときに、大暴れしてやる!」と・・・。
声を挙げたのは小四郎ですが、なにぶん彼は、まだ歳若く、天狗党の大将には水戸町奉行で、皆の信頼も厚い田丸稲之衛門(いなのえもん)がなりました。
集まった彼らは、すでに病死していた斉昭の遺骨を掲げ・・・
「亡き斉昭公の遺志を継ぐ!」と宣言し、あくまで朝廷から直接下された攘夷の命令を遂行するため、横浜港の閉鎖を目的とした挙兵でした。
ここに、攘夷の魁(さきがけ)天狗党が誕生したのです。
ただ、小四郎には、一つだけ心残りがありました。
それは、幼い頃から悪ガキだった自分を、時には叱り、時はやさしく、正しい道へと導こうとしてくれていたであろう近所のオッチャンを、この天狗党に誘えなかった事でした。
長年、斉昭の側近を勤め、近くは京都で慶喜のもとに仕えていた頼れるオッチャンに、天狗党の大将になってもらおうと、この挙兵の前に声をかけた小四郎でしたが、逆に「血気にはやるな!」と、挙兵に反対されたため誘えなかったのです。
「融通が利かない」と他人からは笑われるくらい生真面目なそのオッチャンの名は、武田耕雲斎(たけだこううんさい)・・・この後、小四郎と運命を共にするその人でした。
次に天狗党が登場するお話は4月10日へどうぞ>>
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コメント
いやぁ…前にも言いましたが、新撰組や白虎隊ばかりじゃなく、この天狗党やら彰義隊…その他にも色々な団体が幕末にはそれぞれの信ずる道を奉じて命懸けの活動を展開してた訳ですから、テレビドラマもたまには新撰組や白虎隊ばかり取り上げず、他の団体を取り上げてほしいですね。
投稿: マー君 | 2009年3月27日 (金) 23時18分
マー君さん、こんばんは~
ホントです。
ドラマにしてほしい~
特にこの天狗党は、小四郎を主役にもってくれば、その年齢からいっても、ちょうど、名前だけで視聴率を稼げるような若手のイケメン俳優を起用できますし、そこを、親子ほど歳の離れた耕雲斎役のベテラン俳優がサポートする・・・いいドラマになると思うんですが・・・
投稿: 茶々 | 2009年3月28日 (土) 01時31分
イケメン俳優が主人公役なら、当然ヒロインも用意してほしいです。ヒロインには、主人公の妻・恋人・姉妹…の、何れかの役で僕の永遠のスター仲間由紀恵さんの起用を強く望みます。
投稿: マー君 | 2009年3月29日 (日) 03時14分
いいですね~
でも、主人公23歳だと、ちょっとお姉さんになるのかも・・・実際の小四郎さんには、腹違いの妹ならいるんですけどねぇ。
投稿: 茶々 | 2009年3月29日 (日) 08時24分
いっそ茶々さんが企画立案して、脚本を書いてテレビ局に持ち込んでみては如何でしょう?。博識で文才豊かなindoor-mama.さんなら良い作品を作ってくれそうな期待感を持ってるのですが、無理ですかね?。
投稿: マー君 | 2009年3月29日 (日) 10時00分
まさか((゚゚дд゚゚ ))!!
投稿: 茶々 | 2009年3月29日 (日) 21時52分
茶々さん書いてはもらえませんか、う〜ん残念です。天狗党を題材にした小説でドラマの原作に出来そうな作品が有れば良いのになぁって思います。
投稿: マー君 | 2009年4月 2日 (木) 02時14分
私は小説を読まないのでわかりませんが、きっと、どなたかが書いておられる事でしょう。
これだけ魅力的な人たちなのですから・・・。
投稿: 茶々 | 2009年4月 2日 (木) 03時34分
天狗党シリーズ大いに参考にさせて頂きました。
わが奥州・相馬(そうま)中村にも、小船に乗って逃れて来て、その後処刑された天狗党浪士≪八人。内一人は熊(くま)にて自刃≫の墓がいくつかあります。
志なかばで散っていった、この若者達のことを、郷土の現在の若い人たちにも伝えていきたいと考えています。
投稿: 奥州・浜の浪人 | 2011年1月12日 (水) 16時57分
奥州・浜の浪人さん、こんばんは~
>わが奥州・相馬(そうま)中村にも…
そうでしたか…
身近な場所に、そのような歴史があると、ますます天狗党ファンになってしまいますね。
志半ばで死んでいった彼らに感動です。
投稿: 茶々 | 2011年1月13日 (木) 02時01分
天狗党…昔の大河、徳川慶喜で取り上げられていました。
裸で鰯蔵に鮨詰め状態で押し込められるシーンが恐ろしく、今でも記憶に残っています。
この人達、長州や薩摩、あるいは幕府が送った遣欧使節団メンバーのように、ヨーロッパの力を直接目にしていたらどうなっていたことか…非常に気になります。
上記三勢力のように「力の差がありすぎる!!開国しないとまずい!!」と、方針を変えていたのか「よそはよそ!うちはうち!!」と、更に頑なになっていたのでしょうか。
どのみち倒幕に傾いた長州や薩摩とはぶつかりそうですけれど。
投稿: とくめい | 2017年9月 9日 (土) 02時22分
とくめいさん、こんばんは~
どうなっていたんでしょうね~
でも、実際に尊王攘夷派だった人が、外国から戻って開国派に転じた例もありますので、その目で外国を見れば、少し考え方が変わっていたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2017年9月 9日 (土) 04時02分