甲陽鎮撫隊の勝沼戦争~近藤勇の失敗
慶応四年(1868年)3月6日、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が、板垣退助の率いる新政府軍と、甲州(山梨県)勝沼で激突した勝沼戦争がありました。
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慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍・・・(1月3日参照>>)
1月6日に幕府軍の大将である15代将軍・徳川慶喜が大坂城を脱出した事に気づいた諸藩の将兵たちは、1月7日~8日にかけて次々と大坂城を後にしますが、9日には、大坂城脱出をヨシとせず、城を枕に討死する覚悟であった居残り組によって火が放たれ、大坂城は炎に包まれました(1月9日参照>>)。
この時、大阪湾を出発し、一路江戸を目指した幕府軍艦には、あの新撰組の近藤勇や土方歳三も乗っていたのです。
近藤は、昨年の暮れに高台寺党の残党に襲われて(12月18日参照>>)大坂城内でにて静養中であったため、鳥羽伏見の戦いでは、土方が新撰組の指揮をとって、大いに活躍しましたが、やはり、戦死者・脱走者も数知れずで、江戸に戻った新撰組は、わずか117名になっていました。
やがて、恭順の姿勢をとる慶喜が、上野寛永寺にて謹慎生活を送る頃には、新撰組も将軍警固として、守りをかためていましたが、この頃に誕生したあの彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)と同様に、近藤以下新撰組も、幕府がこのまま終ってしまう事うを不満に思っていたのです。
そんな、彼らの不満をうまく利用したのが、幕府陸軍総裁だった勝海舟です。
もちろん、すでに海舟の頭の中には、江戸城無血開城(4月11日参照>>)のシナリオがあったのでしょうが、これだけは、相手もいる事ですから、そのシナリオ通りにコトが運ぶとは限りません。
あの鳥羽伏見以来、東海道と東山道の二手に分かれて江戸を目指す新政府軍とは、ここまで、まだ一度も交戦していませんから、相手の出方を見るためにも、ちょっとでも有利な条件で開城するためにも、何らかのアクションを起しておく必要があったのかも知れません。
不満ムンムンで血気盛んな彼らは、その役どころにピッタリだったのでしょう。
海舟は、近藤に新撰組の甲州進撃を提案し、東山道を進む新政府軍を迎え撃つため、その資金として金500両、大砲2門、小銃5000挺を手渡します。
新撰組の生き残り70名を中心に、新たに編成された総勢170名は、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と名付けられ、3月1日に意気揚々と江戸を出発します。
ちなみに、この時、若年寄に任命された近藤は大久保剛(たけし)、寄合席の土方は内藤隼人(はやと)と名乗っていましたが、ややこしいのでブログでは近藤勇&土方歳三で通させていただきます。
そんなこんなで、甲州街道を西に進む彼らでしたが、血気盛んな者の常として、宿場での女遊びに豪遊・・・まぁ、それでも、まだ、よかったんですが、近藤や土方の故郷・多摩を通りかがった時にエラい事になってしまいます。
傾きかけた幕府とは言え、それまでの京都での新撰組の活躍は、ここ多摩にも伝わっていますから、地元の人々は・・・
「英雄が帰って来たゾ~!」
「故郷に錦を飾るってのはこの事でぃ!」
と、大騒ぎになるのです。
当然の事ながら、彼らを迎えての宴会が開かれます。
もともと豪快で、「来る者拒まず」の性格の近藤が、せっかくの酒やご馳走を断るわけがありません。
例の襲撃で、未だ使えない右手をかばいながら、左手でグイグイとお酒を飲み干し、接待の嵐に酔いしれながら、飲めや唄えの大騒ぎ・・・
それでも、さすがに、軍の指令を忘れるわけにはいきませんから、何とか、故郷の人々を振り払い、千鳥足でやっとこさ、甲府まであと68kmの与瀬(よせ)に到着しますが、そんな彼らのもとに届いたのは・・・
「土佐の板垣退助が甲府城まで52kmのところまで来ている!」
というニュースでした。
こうなったら、一刻の猶予もあません。
とにかく、新政府軍より先に甲府城へ到着しなければ!
しかし残念ながら、頭はガンガン、目はグルグル・・・そう、二日酔いです。
「このままでは、どうしようもない」と、しかたなく、与瀬にて一泊・・・。
さらに、翌朝は大雪に見舞われ、またまた出発できず・・・。
かくして、慶応四年(1868年)3月6日、甲府・勝沼に到着した甲陽鎮撫隊が見た物は・・・
すでに板垣の手に落ちた甲府城でした。
慌てて土方が、旧幕府軍の神奈川守備隊であった菜葉隊(なっぱたい)に援軍を出してくれるように頼みに向かいますが、もはや、借りだせる兵もいませんでした。
しかし、このままで終るわけにはいきません・・・というより、終るはずがありません。
柏尾(かしお)の大善寺というお寺に陣を敷いた甲陽鎮撫隊でしたが、このお寺は、奈良時代の行基(ぎょうき)によって建立された由緒あるお寺・・・この伽藍を戦火に巻き込みたくないと思った近藤勇は、少し、離れたところで戦闘を開始します。
しかし、勝敗は明らかでした。
甲陽鎮撫隊は、再編制したとは言え、軍隊自身は新撰組のままの旧式・・・かたや、新政府軍は、にわか召集ではあったものの西様式軍隊の最新装備で、しかも1200人もの軍勢・・・鎮撫隊の9倍近くあります。
もはや、刀や槍では、とうてい立ち向かう事はできず、いつしか、その人数は100人を切ってしまっていました。
こうして、鳥羽伏見の戦いと江戸城無血開城の間にあった唯一の本格的な合戦・勝沼戦争は、新政府軍の勝利に終わりました。
そして、敗走した近藤が、逮捕されるのは、翌月の4月・・・(4月25日参照>>)
故郷に錦を飾った男の夢は、もう少しの間だけ、同郷の土方へと引き継がれる事となります。
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