彗星のごとく関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉
慶長十二年(1607年)3月5日、徳川家康の四男・松平忠吉が亡くなりました。
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松平忠吉(ただよし)は、天正八年(1580年)9月10日、徳川家康の四男として浜松で生まれました。
お母さんは、家康の側室の西郷局(さいごうのつぼね・宝台院)と呼ばれる女性で、同じ母を持つすぐ上の兄に、後に2代将軍を継ぐ三男の秀忠がいます。
幼くして三河松平家の一つである東条松平家の家忠の養子となって、病弱だった養父の死後、その東条松平家を継ぎます・・・なので、徳川家康の息子ですが、姓は松平です。
家康が関東に入ってからの文禄元年(1592年)には、わずか13歳で下野守(しもつけのかみ)となり、10万石を要する武蔵国(埼玉県)忍城(おしじょう)の城主となります。
・・・と、書いてはみましたが、この忠吉さんは、若くして亡くなられてしまったので、歴史の表舞台に登場するのは、ほんの一時期だけ・・・そのエピソードはあまり多くはありません。
そんな忠吉さんが、最も輝いたのは、その初陣である関ヶ原の合戦です。
ご存知のように、この時、家康は、あととり息子である秀忠に、榊原康政・大久保忠隣(ただちか)・本多正信といった徳川家臣のそうそうたるメンバーに3万8千の軍勢をつけて東山道から西へ向かわせました。
もちろん、家康自身も東海道を西へと向かうわけですが、度々、このブログでも書いている通り、家康の軍は、もともと「豊臣への謀反の疑いあり」として上杉征伐のために北へ向かっていた軍ですから、その中には多くの豊臣恩顧の家臣・・・いわゆる外様が含まれているわけです(8月11日参照>>)。
なので、一説には秀忠の軍が、関ヶ原の本隊だったとも言われるくらいなのですが、ご存じのように、東山道を進んだ秀忠軍は、西軍に属する上田城を守る真田昌幸・幸村父子のゲリラ戦に手こずり、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまいます(9月7日参照>>)。
そこで、本来なら、その秀忠の位置だったかも知れない先陣のいい位置で、弟の忠吉が初陣を飾る事になったわけです。
↓は、何度も登場している関ヶ原の布陣図ですが、あったほうがわかりやすいので・・・
見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
徳川四天王のうちの二人・井伊直政と本多忠勝に守られるように、かつ先陣の中央部に配置された忠吉・・・初陣とは思えないこの位置は、やはり秀忠の一件のおかげなのでしょうね。
やがて、運命の慶長五年(1600年)9月15日、
まもなく開戦という朝・・・その日の先鋒を命じられていたのは、かの福島正則。
しかし、それが、どうも井伊直政には、納得がいきません。
直政は、以前から、「今度の戦いが豊臣恩顧の大名たちの活躍によって勝利するような事になれば、戦後の彼らの態度が大きくなる事は必至・・・」と考え、家康にも何度も進言していたんです。
もちろん家康も、その気持ちを汲んでの直政ド真ん中の配置なわけですが、それでも、福島隊先鋒の決定に納得がいかなかった彼・・・
そこで、家康の息子・忠吉が、この関ヶ原が初陣だった事を利用します。
なんせ、忠吉の奥さんは自分の娘・・・つまり、娘婿だった事で、直政は、その後見役も務めていましたから・・・
夜明けからの霧が晴れは始めた午前8時・・・忠吉を連れて、福島隊の前へと出ようとする直政に、福島隊の先頭にいた可児才蔵(かにさいぞう)が声をかけます。
「おいおい、今日の先鋒は、俺ら福島隊や、なに、前へ出ようとしとんねん」と・・・
ここで、直政・・・娘婿の威力を利用・・・
「坊ちゃんが初陣なので、合戦とはどういうものかを間近で、見物させてあげようかと・・・」
見れば、直政の横には、忠吉がいます・・・今回の総大将である家康様の御子ですから、才蔵も、ムリヤリ止めるわけにはいきません。
そのスキを狙って、忠吉&直政とともに前へ出てきたわずかの手勢が、西軍の先頭にいる宇喜多秀家隊に向けて、一斉に発砲・・・この鉄砲が合図となって、天下分け目の関ヶ原が開戦されたのです。
もちろん、福島隊にさとられないように、わずかの精鋭だけを引き連れての前進でしたので、そのまま宇喜多隊と正面でぶつかるという事はなく、あくまで、形として火蓋を切ったという雰囲気でしたが・・・。
結局、宇喜多隊と戦ったのは、福島隊・・・直政&忠吉らは、矛先を変えて島津隊を攻めに向かいますが、忠吉は初陣とは思えない大活躍!
やがて午後になって、戦況が危うくなった西軍は、次々と戦場を離脱していくのですが、その時、島津隊がとったのが、有名な敵中突破=島津の背進(9月16日参照>>)・・・
こちらに向けて鉄砲を撃ちながら背後へ進んでゆく島津隊を、負傷しながらも追撃する忠吉・・・そして彼は、島津隊の大将である島津義弘の甥・豊久を討ち取るという、華々しい武功を挙げます。
これには、秀忠の遅刻にイラついていた家康も、手放しで大喜びです。
これが、忠吉・・・忍城10万石から、一気に尾張国(愛知県)清洲城52万石へのオヤジ大奮発!へとつながるのです。
そう、この忠吉さんは、あの御三家=尾張・徳川家の祖となる人物なのです。
将軍の息子として分与されるのが、平均10万石~20万石であった事を考えると、破格の転封だった事がわかりますね。
さらに、慶長十年(1605年)には、官位も従三位近衛中将に昇進して薩摩守(さつまのかみ)となります。
しかし、その、わずか2年後の慶長十二年(1607年)3月5日、28歳の若さでこの世を去ってしまうのです。
関ヶ原で受けた傷が悪化したとも、悪性の腫瘍ができていたとも言われますが、関ヶ原での武功を思えば、大変、残念です~。
しかも、その若さゆえに子供がおらず、尾張松平家は、彼の代で断絶となってしまいます。
代わって尾張を継いだのは、家康の九男・義直・・・後に、御三家の中でもトップの62万石となる尾張徳川家・・・やがては、8代将軍となった徳川吉宗をビビらせるほどの尾張徳川家には、やはり、忠吉さんの52万石が光ってます。
若くして亡くなり、あまり脚光を浴びる事がない忠吉さんですが、尾張徳川家の形成に貢献した偉大なる存在である事は、心にとどめておきたいものです。
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コメント
徳川家康の四男として生まれた松平忠吉は、徳川家を支え続けることができる可能性を、秘めていたかもしれません。何しろ忠吉は、兄で2代将軍の徳川秀忠が、関ヶ原の戦いで遅参したことで叱責されたのに対して、尾張52万石に加増されたのですから、忠吉が、家康から期待されていたのが理解できる気がします。ただし、28歳の若さで急死した上に、子供に恵まれなかったことが、残念でなりませんね。
投稿: トト | 2016年7月 9日 (土) 08時25分
トトさん、こんにちは~
若くして亡くなるのが残念ですね。
投稿: 茶々 | 2016年7月 9日 (土) 15時38分