天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都
天智六年(667年)3月19日、中大兄皇子が、都を近江(滋賀県)大津に遷しました。
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♪三輪山を しかも隠すか 雲だにも
情(こころ)あらなも 隠さふべしや ♪
「なんで、雲は三輪山を隠すのしょう・・・雲にも心があるなら、こんな日に隠さないでよ」
これは、住みなれた大和(奈良県)の地を離れる峠の道で、かの額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ、♪味酒(うまざけ) 三輪山・・・♪から始まる長歌への返歌として詠まれた歌・・・。
神代の昔から、この三輪山は特別な山・・・大和朝廷自身が、強く崇める神の山でした。
しかし、大和の地では毎日眺めていた三輪山も、都が大津に遷れば、その美しい姿を見る事ができません。
奈良山を越える峠の道で振り返ると、雨模様の空からどんよりとした雲が覆いかぶさり、三輪山の姿は見えない・・・最後のこの日に、もう一度三輪山を見て、しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのに・・・
そんな切なる思いを、ヒシヒシと感じさせてくれる歌です。
この額田王だけではなく、多くの人がとまどいを隠せなかった大津京への遷都・・・
遠まわしにいさめる声も多く、ちまたでは、「童謡(わざうた)」も流行したと言います。
童謡というのは、子供のわらべ歌ではなく、風刺や異変の前兆を歌にしたもの・・・この大津京・遷都のときは、「なぜ?」という疑問とともに、「失策である」という批判を込めた歌詞だったと思われます。
この時、多くの人民は、政治の事情よりも、住みなれた土地を離れる事の寂しさや不安が先立ち、上記のような反対意見が吹き荒れてはいましたが、国家を預かる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)にとっては、一大決心の大冒険・・・現在の暗い時代を払拭し、この国の将来を賭けた遷都だったのです。
中大兄皇子は、ご存知の通り、あの蘇我入鹿・暗殺を決行した大化の改新の立役者(6月12日参照>>)・・・
『日本書紀』によれば、天皇の息子である中大兄皇子・自らが手を汚し、天皇に代わってすき放題やってた悪しき豪族の蘇我氏から実権を取り戻したにも関わらず、なぜか時の天皇である皇極天皇は退位し、しかも、そのクーデターの立役者であるはずの息子には皇位を譲らず、弟の軽皇子(かるのおうじ)が第36代・孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子のまま・・・
さらに、その孝徳天皇が亡くなってさえも、まだ中大兄皇子は即位せず、先の皇極天皇・・・つまり、中大兄皇子のお母ちゃんが、再び斉明天皇として即位します。
ここで、あの大化の改新から10年・・・すでに、中大兄皇子は30歳になってますから、「人の道を重んじる中大兄皇子が、年長者に譲った」なんていう美しきいいわけは通用しませんが・・・。
このあたりの「即位せずの謎」につきましては、異論・新説、多々あり・・・くわしくはその即位の日に書かせていただいたページ(1月3日参照>>)で見ていただく事として、とにかく、この斉明天皇の時代に、国家を揺るがす大事件が起こったわけです。
斉明七年(661年)、朝鮮半島を巡る新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)・百済(くだら)の争いが激化し、大陸からの脅威にさらされた日本は、その防御策として、斉明天皇以下、船団を組んで九州に移動しますが、かの地についた途端、天皇は崩御(7月24日参照>>)。
しかも、その2年後、救援を求めてきた百済とともに助っ人として参加した白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで、日本は、新羅と唐(中国)の連合軍に大敗を喫してしまいます(8月27日参照>>)。
「この勢いに乗って、大国・唐が攻めてくるかも知れない!」
そんなウワサがたつのも当然です。
実際には、その頃の唐は、日本とは友好関係を持ちたいと思っていたようで、戦いの翌年には、百済占領軍の司令官であった劉仁願(りゅうじんがん)を長とする使者を送り、貢物を献上しに来ているのですが・・・
それでも中大兄皇子は警戒心を緩める事なく、対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(福岡県)に防人(さきもり)を置き(2月25日参照>>)、異変が起きた時に知らせるのろし台(4月23日参照>>)も設置、筑紫から大宰府の1kmに渡っては水城(みずき)と呼ばれる堤も構築しました。
今回の大津京・遷都は、その白村江の戦いから3年、しかも、改新から始まった新たな政治も重大な転機にさしかかっていた・・・つまり、対外的にも内政的にも、最も不安定な時期だったわけです。
そんな意味合いには気づかなかった多くの人々が、不安にかられたのは、その近江という土地が、未だ見も知らぬ土地であったからなのですが、確かに、大化の改新後、一度、大和を離れて難波(なにわ・大阪)に都を遷していますが、難波は、当時は、すでに遣唐使船の発着所でもあり、聖徳太子が建てたとされる四天王寺もあり、古くは、仁徳天皇の高津宮もあった場所で、多くの渡来人が居住する都会であったのです。
でも大津は・・・。
しかし、それこそが、中大兄皇子が求めた、すべての不安を払拭する、新たな都であったのです。
考えてみれば、大津は琵琶湖を前にしての海運も望め、周囲は山に囲まれた天然の要害・・・さらに、『扶桑略記』には、この遷都の時期の事として書かれている日本最古の銅鐸(どうたく)発掘のニュースなどを考えれば、まったくの未開の地ではなかったわけですから、心機一転、新天地での新たな政治には、うってつけの場所だったのかも知れません。
民衆の批判にもめげずに決行した大津京・遷都・・・やがて、外敵の不安も徐々になくなり、滅亡した百済から大量に移住してきた渡来人たちによって発展した新たな文化も根づきはじめ、翌年の天智七年(668年)1月、中大兄皇子は、その大津宮で正式に即位し、第38代・天智天皇となります。
あの大化の改新から20年以上・・・夢に描いていた花の都が現実のものとなった瞬間でした。
しかし、天智天皇が理想とした花の都は、所詮、天智天皇だけの理想の都だったようで、その都としての命は、わずか数年で、天智天皇の死とともに終ってしまう事になります。
ご存知、壬申の乱の勃発です・・・(10月19日【希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発】へどうぞ>>)
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コメント
初めまして、668年に天智天皇として即位した、という処を読み、つい コメントを入れさせて頂きたく思いました。
先日、NHKスペシャルを見ました。
法隆寺再建論、というもがある中で、今の東院伽藍の創建の年代を推定する確かな資料になる、ということで、金堂に使われている木材の年輪測定が行われたことを、その番組で伝えていましたが、それで得られた伐採の年代が668年、ということでした。
こちらの記事を読ませて頂いて、その年が、一体どの様な年であったのか、踏み込んで理解することが出来た様な気が致します。
貴重な記事に出会うことが出来ました。有難う御座いました。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年3月19日 (木) 10時28分
重用の節句を祝うさん、はじめまして、コメントありがとうごまいます。
法隆寺のスペシャル・・・私も見てましたが、この記事を書く時は、その事はすっかり忘れてました・・・
そうっか・・・同じ年だったんですね。
こちらこそ、教えていただいてありがとうございました~
また遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2009年3月19日 (木) 16時45分