佐川官兵衛~会津魂・未だ衰えず
明治十年(1877)3月18日、警察官として、西南戦争に出動した元会津藩・佐川官兵衛が戦死を遂げました。
・・・・・・・・・・・
佐川官兵衛(さがわかんべえ)は、天保二年(1831年)に会津藩士・佐川右衛門の嫡子として生まれました。
父は、300石取りの物頭(ものがしら)・・・物頭とは、足軽20人+小頭1人を束ねる長の事で、つまりは、その隊のリーダーという事。
官兵衛は、直情的で後先考えずに走り出すところのある性格でしたが、会津藩には、「300石以上の嫡子は、人の上に立つ者として学問を修めなければならず、武芸においても、弓・馬・槍・刀・銃のうち、一つ以上は免許を取る」という決まりがあった事から、おそらく彼も、幼い頃から学問に励み、未来のリーダーになるべき教育を受けて育った事でしょう。
そんな官兵衛は、藩主・松平容保(かたもり)に仕えていましたが、おりからの幕末動乱期となった文久二年(1862年)、京都の治安維持のために京都守護職に任命された容保とともに、上洛・・・するはずでしたが、その時、彼は、ケンカがもとで謹慎中。
なんか、ここにも性格が出てるような気がしないでもありませんが、とにかく、藩主よりはちょっと遅れての上洛とあいなりました。
しかし、上京するやいなや、京都日新館の学校奉行に任じられ、さらに、会津藩の精鋭で組織された別選組(べつせんぐみ)の隊長にも就任・・・若い後進の育成と京都の治安維持に力を注ぐ毎日となりました。
やがて勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、その別選隊を率いて、薩摩の放つ銃弾の中をかいくぐって敵陣の中に突っ込むという大活躍ぶりで、「鬼の官兵衛」との異名をとりました。
確かに・・・先の直情的な性格は、決戦の場合は、かなりの武器になりますからね。
しかしながら、ご存知のように、鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の敗戦となってしまいます。
大坂城が炎に包まれたあの日(1月9日参照>>)、彼ら会津藩は、陸路で和歌山へ抜け、その後、船で江戸へ・・・さらに、会津に到着した時には、すでに3月も半ばになっていました。
4月には江戸城が無血開城され、さらに北上する官軍と戦う事になった、あの会津戦争・・・以前、白虎隊のところで書かせていただきましたが(8月23日参照>>)、この時の会津藩には、官軍との決戦に備えて、年齢別に編制された白虎隊(16~17歳)・朱雀隊(18~35歳)・青龍隊(36~49歳)・玄武隊(50歳以上)があり、さらに、本人の身分により3つの種類に分かれていました。
官兵衛が率いたのは、朱雀隊・四番士中隊・・・この隊は会津の中でも最強と言われ、各地を転戦して、時には勝利も収めたりしますが、やはり、時が経つにつれ、死者・負傷者の数が山のように増えていきます。
会津戦争も末期になって、容保の要請により、鶴ヶ城の防戦に徹する官兵衛は、千石取りの家老にまで出世しますが、戒名を書いた紙を懐に入れて、いつも決死の覚悟で奮戦したと言います。
しかし、徐々に濃くなる敗戦の色・・・開城の意思を匂わす容保に対して、当然のごとく彼は反対し、8月29日の長命寺の戦い(8月29日参照>>)に出陣した後は、「勝利の日まで藩主・容保には拝謁しない」と誓って、一度も城に戻る事なく、生き残りを集めては奮戦する・・・という事を続けていましたが、悲しいかな、城内では、すでに開城の話し合いがなされ、9月22日、鶴ヶ城は開城、会津藩は降伏となります(9月22日参照>>)。
官兵衛が、この知らせを聞いたのは、2日後の24日・・・彼にとっては無念ではありますが、藩主がそうと決めたのであれば、それに従うのが武士の道というもの・・・。
家老という任務についていた彼は、会津戦争の首謀者として極刑も覚悟していましたが、処分を受けたのは、前任の家老で、官兵衛自身は、禁固刑となり、しばらくの間投獄される事になります。
やがて、明治三年(1870年)、許された官兵衛・・・すでに一度取り潰された後、斗南(となみ)藩と名を改め、陸奥(むつ・青森県)に3万石の領地を与えられていた旧・会津藩を頼って、彼も、斗南に移住しました。
しかし、かの「鬼の官兵衛」の異名をとった武勇の人を、新政府がほっておくわけがありません。
明治七年(1874年)、新政府は東京に警視局(警視庁)を設けますが、この時、長官として就任した川路利良(かわじよしとし)が彼を呼んだのです。
しかし、官兵衛にしてみれば、明治新政府は、故郷・会津を焦土に変えた敵・・・そんな敵に仕えるなど、武士のプライドが許しません。
・・・と、強がってはみるものの、領地を与えられたとは言え、わずか3万石・・・そこに、寄り添うように暮らす旧・会津藩士たちは、貧困を極めていました。
新政府は、自分とともに、300人の旧会津藩士を警察官として雇ってくれると言う・・・背に腹は変えられません。
彼は、その300人の旧藩士とともに、東京へと向かいます。
そんなこんなの明治十年(1877年)、鹿児島で西南戦争が勃発します(1月30日参照>>)。
確かに、かの戊辰戦争では、薩摩は会津の敵でした。
これは、新政府のプロパガンダに、きっちりハメられてしまったのかも知れませんが、昔、幕府側だった者の多くが、「戊辰戦争の恨みが晴らせる」と思った事も事実・・・。
官兵衛は、多くの旧家臣を含む警察官の1人として、ちょうどこの時、薩摩軍に包囲されていた熊本城(2月22日参照>>)の救援のため、九州へと向かう事になったのです。
豊後口第二号警視隊・副指揮長兼一番小隊長として、熊本城の東側・・・豊後街道から救援に向かう事になった官兵衛でしたが、その途中、阿蘇・外輪山の二重峠のところに、「薩摩軍が砦を構築している」との情報が入ります。
二重峠は天然の要害・・・「そこに砦を築かれては、落すのも容易ではない」と、進軍そのままの勢いで急襲作戦を提案する官兵衛でしたが、なかなかその案は採用されないまま、少しの時間をロスしてしまいます。
かくして、明治十年(1877)3月18日、やっとの事で、出撃命令が出て、二重峠へ進出する官兵衛以下警視隊・・・しかし、その時には、もう、砦は完成していて、それを崩そうとする警視隊と死守しようとする薩摩軍とで、またたく間に激戦となります。
7時間にわたる死闘の最中、官兵衛は、薩摩軍の小隊長・鎌田雄一郎を視野に捕らえます。
付近の兵士たちも、皆、それぞれの戦いに没頭しており、二人は自然のうちに一騎打ちの体制となります。
官兵衛はもちろん、相手の雄一郎も、剣の腕では知られた人物・・・戊辰戦争の恨みを晴らすには絶好のシチュエーションが出来上がりました。
刃を交え、一進一退の戦いを繰り広げる中、とうとう官兵衛は、雄一郎を追い詰めます。
「さぁ、積年の恨み!」
と、大きく太刀を振り上げた時・・・
藪の中に潜んでいた薩摩の狙撃兵から狙い撃ちされ・・・
3発の銃弾を受け、官兵衛の身体は前のめりに崩れていきます。
佐川官兵衛・・・享年47歳。
あの鳥羽伏見で、雨のように降り注ぐ銃弾をかわした鬼は、故郷から遠く離れた阿蘇の山麓で、壮絶な最期を遂げました。
幼い頃にあこがれた最も武士らしい姿で・・・
・‥…━━━☆
搦め手の豊後街道から熊本城救援に向かった官兵衛たちと、同時進行で南下していた政府軍は、この2日後、あの運命の田原坂で、北上する薩摩軍とぶつかる事になります(3月20日参照>>)。
*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
●西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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コメント
こんにちは 今日も見ました!
こんな人もいたんですね~
小学校の教科書ではなにかと、物足りない気がこのブログを最近見ていて感じました。でも今日で小学校も終了!今日は卒業式でした。
さびしい気もしますが、その分、歴史などいろいろと深くなっていくので楽しみです。
そういえば、新撰組の生き残りなども、明治政府に警察官としてとられた人も少なくありませんよね。幕末もカッコイイ志士たちの生きていた時代なので好きです。
投稿: 力道山 | 2009年3月18日 (水) 17時05分
力道山さん、ご卒業おめでとうございます。
卒業と聞いて、小学生の時は行動範囲がある程度決まっていたために、行きたくても行けなかった奈良に、中学になった春、お小遣いを貯めて早速行った事を思い出しました。
夢殿の救世観音のご開扉に合わせて法隆寺に行きました。
力道山さん、これからもたくさんの歴史に触れてみて下さいね。
投稿: 茶々 | 2009年3月18日 (水) 21時11分