2代将軍・徳川秀忠誕生~縁の下の基礎造り
慶長十年(1605年)4月16日、家康の三男・徳川秀忠が江戸幕府・第2代将軍となりました。
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ご存知、父・徳川家康は、長きに渡る戦国の世を平定し、江戸時代300年の平和をもたらした偉大な人物・・・。
息子・3代将軍・徳川家光は、生まれながらの将軍にして、参勤交代や鎖国制度を築き、幕府による全国支配を確立した名君・・・。
そんな二人に挟まれたうえ、初陣である関ヶ原の合戦では、3万8千という大軍を率いていながら、わずか2千で籠る上田城の真田昌幸・幸村親子に手こずり、肝心の関ヶ原の開戦に間に合わないという大失態(9月7日参照>>)を演じてしまった事で、この2代将軍の徳川秀忠さんは、あまり有能ではない、影の薄い人物としてのイメージが強いですよね。
確かに、この関ヶ原の直後には、次期将軍には、秀忠よりも、次男の結城秀康のほうがふさわしいのでは?と囁かれた事もあったようです(11月21日参照>>)。
そこには、やはり、父の目から見た確かな物があったのでしょう・・・というより、秀忠の行った政策をちゃんと見てみると、その選択は正しかったという事がわかります。
なぜなら、この先、300年続く徳川の世を確実な物にするために、家康がやり残した事を行ったのが秀忠だからなのです。
まず、一番は、外様の始末です。
このブログでも度々書かせていただいている通り、関が原の合戦は、あくまで豊臣家の内紛・・・・その時、戦いに挑んだ家康の立場は、豊臣家の一家臣です。
豊臣家が豊臣家と戦うにあたって、一番たいへんな事は、自分(東軍・家康)に味方してくれる者をいかに多く取り込む事ができるか?という事で、この時の家康は、それこそ、なりふりかまわず手紙を書き、恩賞をチラつかせ、味方に引き入れなければなりませんでした。
なんせ、向こう(西軍・石田三成)には、豊臣秀頼というホンモノの豊臣の後継者を取り込んでるわけですから・・・。
そうなると、その綱わたり的な策略で味方に引きいれた豊臣恩顧の武将の合戦後の動向は、いたって不安なわけで、それなりの・・・いや、約束以上の恩賞を与えてご機嫌をとっておかなければ、いつなんどき反発を喰らい、皆が一斉に敵に回るとも限らないわけです。
現に、慶長十六年(1611年)の3月に行われた、家康と秀頼の二条城での会見にあたっては、その場に同席した加藤清正・池田輝政らといった面々が、皆、いざという時の懐剣をしのばせての参加だったという話もあり、清正に至っては、その時、秀頼に出された毒まんじゅうを身代わりに食べて死んだという噂まであるくらいです(3月23日参照>>)。
その話し自体は、単なる噂であったとしても、そんな噂が囁かれるくらい、合戦で東軍についた武将たちも、未だ豊臣だいじの気持ちが大きかったという事なのです。
そのため、家康は、関ヶ原で味方についてくれた彼らに多大な恩賞を与えます。
福島正則:尾張清洲24万石→安芸備後49万8千石
池田輝政:三河吉田15万2千石→播磨姫路52万石
浅野幸長:甲斐府中16万石→紀伊和歌山37万7千石
黒田長政:豊前中津18万1千石→筑前福岡52万3千石
細川忠興:丹後宮津18万石→豊後2郡39万9千石
他にも、藤堂高虎・山内一豊・堀尾忠氏・田中吉政・・・とてつもない大盤振るまいです。
つまり、そのくらいの戦後処理をしないと、不安なくらいの不安定な状態だったという事でしょう。
しかし、これだけ大きい領地を取得した彼らは、今は大喜びでしょうが、後々、徳川家の脅威となる事は目に見えています。
それらの豊臣恩顧の外様大名たちの力を、徐々に徐々に・・・それでいて確実に削いでいったのが、本日の主役・2代将軍・秀忠さんなのです。
まずは、多額の普請費用・・・
神社仏閣や江戸城などの修復をやってもらって、お金を湯水のごとく使っていただくわけです。
戦国の戦乱で焼失した堂搭が、この時代に再建されているケースが多々あるのは、皆様もご存知でしょう。
また、以前、ご紹介した大阪城の石垣巡り(12月11日参照>>)・・・そのページでご紹介した各大名寄進の石垣の中に、いかに外様大名の刻印が多いのかは、ちょっと見てみただけでも、すぐにわかりますよね。
また、蛸石をはじめとする大阪城の巨石は、その1位の蛸石から10位の竜石まで、それらの巨石を寄進したのは、加藤忠広(加藤清正の次男)と池田忠雄(ただかつ・池田輝政の三男もしくは六男)で、彼らも外様の息子・・・。
江戸城(皇居)は、大昔に一回行ったっきりで記憶が定かでありませんのでお話する事は避けますが、豊臣滅亡後、江戸城と同じく幕府直轄となった大坂城は、以前、徳川時代の大坂城(1月23日参照>>)で書かせていただいた通り、豊臣時代の遺構をすべて地中に埋めて、まったく新しく構築されたもので、そこに、このような巨石を寄進する・・・もちろん、石の材料費から切り出し費用、運搬費用も全部大名持ちですから、幕府直轄の大坂城に、これらを寄進するのは、イコール・徳川に寄付をするという事ですから・・・。
そうやって、各大名たちに、自分とこの城や武器の調達にお金を使えないくらい、ふんだくってしまうわけですねぇ。
そして、次に、大名を統制する法律・武家諸法度です(7月7日参照>>)。
この法律で、がんじがらめにした大名たちの、少しでも違反するところを見つけては、改易を申し渡して、取り潰してしまうのです。
なんだかんだ言って、諸大名を取り潰した数だけで言えば、家康・家光を越えて、この秀忠さんが一番多い・・・もちろん、お取り潰しまではいかなくても、いろんな理由つけて転封させて、その力を削いでいく事も忘れません。
さらに、正式には、家光の代に武家諸法度に加えられる参勤交代の制度ですが、その基礎は、すでに秀忠の時代でできあがっていました。
それが、先の江戸城の普請・・・長期にわたる江戸城の普請には、先に書いたような材料費や運搬費だけでなく、人夫も出さなければならないわけで、それらの人々の給料やら食費やらも大名持ちなわけですし、そんな彼らをほっとらかしにしておくわけにいきませんから、当然、殿様自身が頻繁に江戸にやって来なくてはなりません。
そうこうしているうちに、一定期間、江戸に滞在する事が義務付けられ、やがては、故郷に帰る時には、妻子は江戸に置いていけってな話しになって・・・「そんなんイヤですわ!」と反発すれば、上記の転封・改易処分の嵐・・・となるわけです。
そんな秀忠さんが、晩年、最後の仕上げとばかりにやったのが、朝廷の封じ込み・・・紫衣事件です。
紫衣(しえ)とは、位の高い僧や尼僧が着る紫色の法衣や袈裟の事ですが、これは、朝廷のお許しがあって初めて着用する事ができたものなのです。
ところが寛永四年(1627年)、いきなり、十数年前にまでさかのぼって、幕府がこれを取り消した・・・これが紫衣事件(11月8日参照>>) 。
朝廷としては、天皇の名で一度出した許しを、幕府に取り消されるなんて、面目丸つぶれ・・・権威もクソもあったもんじゃありません。
実は、これ以前にすでに幕府は、『勅許紫衣法度』『禁中並公家諸法度』などの、朝廷が何かを決める時には幕府の許可が必要という法律を出していて、その当時は、まだ、家康が健在の頃であったため、あまりの威光に逆らえず、いざこざを避けるため、とりあえず朝廷は、その法律を受け入れていたわけですが、その家康が亡くなってからは、何となくうやむやに・・・そして、この頃は、ナイショで紫衣の許しを乱発していて、幕府が許可をしていない紫衣の僧の存在が多数発覚してしまったのです。
そこで、秀忠は、有名無実となっているこの法律が、現在も有効であってきっちり守られなければならない事を、改めて強調したわけです。
おかげで、時の天皇であった後水尾天皇とは、完全に決裂状態となってしまいますが・・・。
もちろん、この時は、すでに将軍は、3代の家光に譲っていた秀忠でしたが、未だ大御所として君臨しており、平安時代の院政のような体制で、牛耳っていた中の出来事です。
こうしてみると、実は、家光の将軍時代に確立されたとされる幕藩体制は、どうやら、家康が構想したものを秀忠が実現し、家光はその体制の上に乗っかった・・・という形のようですね。
日頃は、あまり目だたない秀忠さん、ちょっぴり持ち上げました。
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コメント
こんにちは。
秀忠さんの娘の東福門院和子が入内する話を、昔新聞小説で読んだことがあります。
天皇の外戚の地位が必要だなんて、平安時代から権力のあり方はまるで変わっていないんだなあと不思議な気がしました。
和子入内の際のかなり強引なあれこれの中に柴衣事件も含まれていました。
寵愛されて皇子までいた四辻与津子(韻を踏んだようなお名前ですね)とその兄弟を追放したり、その皇子の早すぎる死など、怪しさ満載!「こんなんで和子はお嫁に行って幸せになれるんだろうか?」と心配になったくらい。
一方で、和子の生んだ親王も早世(小説では怪しげな亡くなり方でした)、それを待っていたかのような天皇の譲位とこちらも負けては居らず。
この本のおかげで、私の秀忠さんに対するイメージはずっと‘穏やかそうな顔して父に劣らぬ狸親父’でした。
投稿: おきよ | 2009年4月16日 (木) 14時17分
おきよさん、おぉ・・そうですか・・・
おきよさんにとっては、秀忠さんは、ずっと前から、影のうすい目だたない人ではなかったのですね。
さすが、スルドイです。
投稿: 茶々 | 2009年4月16日 (木) 17時12分
こんにちは。
私も秀忠なかりせば、徳川250年の世はなかったと大人になってから知ったものです。
律儀者の秀忠とも評されていますよね。
秀忠の遅参の時、家康は自分が切腹をさせた信康が生きていたら、こんな思いはしなかったと言ったといいますよね。
兄二人は父によって片や切腹、片や猶子とはいえ、人質。
自分の身がいつどうなるかわからない不安があったので、大御所第一で従順に従ったといわれたり、お江与の勘気も怖くて、蓄妾せず、唯一の間違いが保科正之出生につながる一度限りの戯れで、正之との対面はお江与が死んだ後とか。
男やったらもっとしっかりして、自分のしたいことをすればどうよ?とか思わないでもないですが、自分を殺して?律儀に為すべきことをできる男というのも、男でないとできないことのように思います。
おきよさん、初めまして。
おっしゃる書物ですが、宮尾登美子の東福門院の涙ではないでしょうか?
私は文庫になってから読みました。
それを読むと幕府側(秀忠)が腹立たしく思えるのですが、
後水尾天皇もその反発かもの凄く、「女御更衣あまた侍、、、」の状態っていうのはあまり感心できないというか、きままで磊落な性格だったのではないかと思います。
こういう人が天皇であることは、開府したばかりで基盤が整っていなかった徳川には、この先、有力大名を下知することでまた戦乱の世の中になる可能性も否めないので、幕府としては、その権威を剥奪することになったのだろうなぁと思います。
後水尾の徳川嫌いは、そのまま息子に伝授されたのか、はたまたただの遺伝だったのかわかりませんが和子の血をひかない息子たちは、父親同様、大名家でもそんなに側室はいなかったろうと思われるほどの女御更衣を侍らせています。
しかしながら、幕府の対皇室戦略である諸法度は十二分に効力を発揮し、幕末までの太平を生み出したのですから、やはり、秀忠は素晴らしい二代目であったことは間違いないですよね。
投稿: momoko | 2009年4月16日 (木) 22時00分
momokoさん、こんばんは~
ほほぉ・・・momokoさんは、小説も読まれるのですか。
確かに、秀忠さんとこはかなりのカカァ天下だったようですね。
そのうえ家光には、春日局もひっついてたかと思うと気の毒なくらいです。
投稿: 茶々 | 2009年4月17日 (金) 00時13分
茶々さん、私は歴史の本より、小説の方が多くて持っているくらいで。
だから、勉強足りていないんです(笑)
妻からは
「あなた、浮気は許さないわよ。
世継ぎは国松よね。」といわれ、
春日局には、家康に、
竹千代さまを~と直訴され。。
そんな中での、一夜限り(誰もみていないので一夜かどうかわかりませんが)の恋があったというのが、可愛らしいやら、ほっとするやらです。
投稿: momoko | 2009年4月17日 (金) 00時32分
はじめまして。いつも楽しく読まさせて頂いてます。
「風雲児たち」というマンガで秀忠を知ってから、私も同じように結構評価してましたので、何となく嬉しいです。二代目ってバカ息子が多いのに、秀忠は有能だと思います。いい政治家です。地味だが手堅い。父や兄がとても優秀でも腐らない。もう少し評価されてもいいはずですよね。信康、秀康、忠吉ではああは行かなかったと思います。彼が2代目だったからこそ、230年まったく戦がない極めて稀な時代があったんだと思います。
ただまあ、あまりに生真面目なんで人間的にはどうかと。一度きりの不倫しか面白いエピソードがありませんし。
人間的には、やはり信康や秀康、忠吉らの気性が荒く人間臭いほうが好きであります。
投稿: ゆうき | 2009年4月17日 (金) 02時51分
おはようございます。
人様のブログで私のコメントに返事をするのは気が引けますが、お許しくださいませ。
私が読んでいたのは、杉本苑子さんの「月宮の人」でした。お市、浅井三姉妹、東福門院和子の三代の女性について書かれていて、まだ中学生か高校生の頃だったので、とても印象が強く残りました。
秀忠さんのイメージが大きく変わったこと、天皇家の外戚になろうとしていたことに夢中になって毎日読みましたが、女帝をたてた事で、徳川の血筋がその後天皇家に残る望みはなくなったのに、後は後水之尾上皇が何をしようとお構いなし、というのは、なんか拍子抜けでした(上皇様はやっと開放されて良かったんでしょうけど)。
私の本に関する知識はほとんど若い頃のものなので、他の方より古くて、ともすれば今まで斬新と思っていたことが当たり前になっていたり、ほぼ否定されていたりということがあり、それをこっそりこちらの記事で確認させてもらっています。
まだまだわからないことが多いので、たびたび質問やわかりにくいコメントなど書き込ませて頂いておりますが、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: おきよ | 2009年4月17日 (金) 08時45分
momokoさん、
秀忠さん・・・これで、ちょっと色っぽい雰囲気があれば、けっこう完璧にちかい人物なんですけどね~
投稿: 茶々 | 2009年4月17日 (金) 10時40分
ゆうきさん、コメントありがとうございます。
確かに、人間的に魅力が無いと、なかなかドラマや小説やマンガの題材にはなりにくいですからね。
ドラマや小説に取り上げられないと、何となく影がうすい存在になってしまいますよね~
投稿: 茶々 | 2009年4月17日 (金) 10時43分
おきよさん、こんにちは~
>人様のブログで私のコメントに返事をするのは・・・
激しい意見交換になると、私もどうしていいのかわからなくなるので、ちょっと困りますが、楽しい会話なら、ぜんぜんOKですよ。
私は、逆に小説を読まないので、歴史の人物に対して、自分勝手なイメージがつき過ぎかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年4月17日 (金) 10時47分
この記事の終盤のくだりは「葵 徳川三代」でも触れていましたね。
あの年、「大久保彦左衛門の視点から見た徳川将軍親子3代」にしていたら、もう少し視聴率が上がったと思います。大久保翁は3人を知る人ですから。
それにしてもあの年の主要配役の平均年齢は高かった。今年とは反対です。
「姫たちの戦国」も徳川幕府の土台作りでは同じ趣旨と思いますが、視点が異なるので人間味・情熱・喜楽・執念・家族の絆(今年あまりこれらがなかったので)に富んだ展開を期待したいです。
投稿: えびすこ | 2009年11月26日 (木) 13時43分
えびすこさん、こんばんは~
えびすこさんは、大久保彦左衛門のファンのようにお見受けします。
江は、誰の目線で語られるのでしょう
楽しみです。
投稿: 茶々 | 2009年11月27日 (金) 01時57分