9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」
天正十一年(1583年)4月21日、織田信長亡き後に起こった織田家内の後継者争いで、主君の仇を討った羽柴(豊臣)秀吉と、織田家・筆頭家老の柴田勝家との『賤ヶ岳の合戦』がありました。
・・・・・・・・・・・
この『賤ヶ岳の合戦』・・・
前日に大岩山砦の中川清秀が討死し(4月20日参照>>)、そして、翌日のこの日に、あの賤ヶ岳の七本槍に代表されるような激戦が繰り広げられた(4月21日参照>>)事によって、何となく、いち時的な野戦のようなイメージを抱いてしまいますが、すでに書かせていただいたように、3月9日に柴田勝家が北ノ庄を出陣し、2日後の11日には、羽柴秀吉が佐和山城に入城する(3月11日参照>>)わけですので、賤ヶ岳の合戦自体は、この頃から始まり、どちらかと言えば、持久戦に位置づけられる戦い・・・両者ともに複数の陣城や砦を築き、お互いの動きを探りながらのにらみ合いが続けられていたのです。
その陣城や砦は、柴田軍では、やはり勝家の本陣である玄蕃尾城(げんばおじょう)が最も大きく、深い堀や天守台もあり、当時は、高い物見櫓まで建っていたそうですが、それ以外のものは、曲輪に土塁を巡らす程度の単純な構造だったと言われています。
・・・というのも、越前(福井県)からやって来て、琵琶湖の東岸を南へと下る勝家にとって、その理想とする戦いは、ここで秀吉の敷く戦線を突破し、北伊勢(三重県)で踏ん張る滝川一益や(2月12日参照>>)、美濃(岐阜県)にいる神戸(織田)信孝と合流する事であったはずだからです。
一方の秀吉も、東野山や神明山などに陣城を構築しますが、こちらは、曲輪と土塁の構造が複雑で攻めにくい造りになっていたのだとか・・・秀吉としては、逆に、勝家に、この一線を突破させないための防衛を強化した造りになっていたわけです。
・・・で、先の3月11日のページに書かせていただいたように、約1ヶ月に渡って3kmほどの距離を置いての、小競り合い&膠着状態が続いていたわけですが、秀吉が、ここ近江(滋賀県)に釘付けになっている間に、一益や信孝が動きを見せます。
そのために、秀吉が伊勢・美濃のほうへ向うと、今度は、こちらの近江のほうで、勝家側の佐久間盛政による大岩山砦への攻撃という形で、激戦への火蓋が切られるわけです。
そして、その一報を聞いた秀吉が、あの本能寺の変の後の中国大返しを彷彿とさせる猛スピードで再び近江へ戻り最後の合戦の突入・・・となるのです(4月20日参照>>)。
(【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
ところで、冒頭でも書かせていただいた、この戦いで一躍有名となる賤ヶ岳の七本槍・・・一昨年も書かせていただいたように、
福島正則
加藤清正
加藤嘉明(よしあき)
片桐且元(かつもと)
脇坂安治(やすはる)
平野長泰(ながやす)
糟屋助右衛門尉(かすやすけえもんのじょう)
桜井佐吉
石河兵助
の9人で、なぜか9人なのに七本槍・・・てな話もさせていただきましたが・・・
そもそも七本槍が最初に登場するのは、小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』で、ここでは桜井と石河を除く七人が七本槍として登場します・・・つまり、ここでの人数はちゃんと7人だったわけです。
もともと「○○の七本槍」というくくりに関しては、織田信秀と今川義元が戦った小豆坂(あずきざか)の合戦で、勇猛果敢に活躍した織田方の七人を「小豆坂の七本槍」と呼んだのがはじまりだそうで、その後も、以前ご紹介した「姉川の七本槍」(6月28日参照>>)などもあったわけですが、やはり、聞いてわかる通り、なんとなく響きがよくカッコイイ!
それで、『太閤記』を書くに当たって、先の甫庵さんが、何かの史料をもとに、かの7人を選んで書き記したところ、これが評判となって、賤ヶ岳の合戦と言えば、『賤ヶ岳の七本槍』というのが定着したようです。
しかし、巷で『賤ヶ岳の七本槍』が評判になる一方で、『柴田合戦記』など、複数の史料には、この賤ヶ岳の合戦の後に秀吉から感状と恩賞を賜った者として、上記の9人の名前が書かれている事で、賤ヶ岳において特筆すべき活躍をしたのは、本当は9人なんだろうと考えられるわけですが、かの七本槍を選んだ甫庵さんが、桜井と石河を外した選択基準がわからないため、とりあえず「活躍したのは9人」でも、呼び方は「七本槍」という事で、今は落ち着いているようです。
まぁ、甫庵さんも、悪気はなく、何となく響きの良い「七本槍」と呼ばせたいために、9人いる事を承知で、7人に絞ったのかも知れませんが・・・
もちろん、その判断基準にも様々な推理がされていますが、最も言われているのは、七本槍の7人は、いわゆる秀吉の直臣・・・しかし、桜井と石河は、弟の家臣だったり養子の家臣だったりするので、この二人を外したという理由・・・。
また、石河はこの合戦で討死し、桜井も2年後に病死したので、甫庵が『太閤記』を書く頃(嘉永3年・1626年)には、すでに過去の人となっていたので・・・という事も言われますが、これに関しては桜井さんはそんなに早く死んでない説もあり、微妙です。
果ては、単に、複数の史料に載ってる名前リストの順番で、最後の二人を外しただけというのもあり、もはや、これは甫庵さん、ご本人に聞いてみないとわからない事なのでしょう。
・・・で、結局、七本槍として有名どころとなった、かの7人も、
糟屋さんは関ヶ原で西軍について、早くも没落・・・
福島正則は広島城の修復工事を咎められて改易・・・
加藤清正の加藤家は松平忠長がらみで取り潰され(12月26日参照>>)、
片桐且元も徳川と豊臣の板ばさみで苦労し(8月20日参照>>)、
残りの3人・・・加藤・脇坂・平野の三家だけが、徳川幕府の下で江戸時代を過ごし、明治になるまで大名として存続されました。
いつの時代も生き残るのは大変です。
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コメント
加藤嘉明さん宅も明成坊ちゃんがボンクラやったから取り潰されてますやん。まぁ、嘉明さんの功績がデカかったから、明成の庶長子に家名存続は許されとりますけんど、会津四十万石から僅か水口二万八千石への大減封やから、賤ヶ岳の七本槍の家系は皆、藩祖の活躍とは裏腹に存外少禄でしか生き残れなかったんですね。
投稿: マー君 | 2009年4月21日 (火) 13時58分
マー君さん、こんにちは~
一応、廃藩置県のその時まで、大名として生き残ってるので、存続としましたが、確かに大大名ではなく、細々・・・といった感じです。
投稿: 茶々 | 2009年4月21日 (火) 14時16分
脇坂って脇坂淡路守の家系ですよね。
ドラマにすれば決して主役じゃないけれど、けっこう主役級のスターが特別出演という名目でこの役をすることが多い。
七本槍の面々は武張ったイメージが強いのですが、脇坂家は文武両道だったんでしょうね。
ついには譜代にまであがり、脇坂安董なんかは寺社奉行になって谷中延命院の裁きをしているし。
けど、平野氏が幕末まで続いていたことは知りませんでした。
可もなく不可もない凡庸たる藩主、重役で構成されていたのでしょうね。
まあ、それが命脈を守る正しい幕藩体制でのあり方であったのかもですね。
投稿: momoko | 2009年4月21日 (火) 15時10分
momokoさん、こんにちは~
平野さんとこは、2代将軍・徳川秀忠の配下にもぐりこめたのが幸いだったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年4月21日 (火) 15時44分
この「七本槍」の家は藤堂高虎が健在(高虎は加藤清正の遺児の面倒も見たと言われる)のうちは安泰だったと(歴史学者に)言われてます。でも、脇坂家を除いては子供や孫の代で家が取り潰しになっています。
藤堂自身はこの戦いには無関係ですが、このメンバーの半分が行動を共にしてます。
藤堂はやはり存在感(つまり「いい意味で顔が利く」)のある人物だったんでしょうか?
投稿: えびすこ | 2009年11月20日 (金) 20時49分
えびすこさん、こんばんは~
七本槍で名声を得ても、代々お家を維持していくのは難しかったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年11月20日 (金) 23時25分