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2009年4月30日 (木)

衣川の合戦~義経・主従の最期

 

文治五年(1189年)4月30日、源頼朝の要請を受けた藤原泰衡が、源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込む『衣川の合戦』がありました。

・・・・・・・・

このブログでは、すでに常連の域に達している源義経・・・

それこそ、源平の合戦を中心に多くの逸話を書かせていただいていますが(くわしくは年表を>>)、一昨年のこの日は義経×牛若・別人説(2007年4月30日参照>>)を、そして、時には生存説(12月30日参照>>)も書かせていただきましたが、そう言えば、衣川の戦いを書いてないなぁ・・・という事で、本日は、現在の私たちが思い描く義経像に最も近い『義経記』を中心に、衣川の合戦=義経の最期を書かせていただきたいと思います。

ただし、以前から時々書かせていただいていますように、『義経記』は、その日づけも、他の文献とはズレがあり、現実にはありえない神がかり的なヒーロー伝説の部分もあり、細かな描写の部分は、史実とは言えないものかも知れませんが、そこのところをご理解いただきながら・・・という事でお願いします。

・‥…━━━☆

数々の武功を挙げて壇ノ浦に平家を破ったのもつかの間(3月24日参照>>)、兄・頼朝との不和から追われる身となった義経(11月3日参照>>)、最も信頼のおける藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州・平泉へとやってきます。

しかし、到着したその年・文治三年(1187年)10月、その秀衡は亡くなってしまいます。

大黒柱を失った奥州藤原氏はもろくも崩れはじめ、秀衡の後を継いだ息子・泰衡(やすひら)は、頼朝の再三の要請に屈し、文治五年(1189年)4月30日(義経記では29日)、義経主従の衣川の館を急襲するのです。

攻める寄せ手は2万余騎、守る主従は10人・・・(←なわきゃない(。>0<。)そんな人数じゃ合戦とは言わないゾ)

義経は、寄せ手が泰衡をはじめとする秀衡の息子たちであるなら戦おうと、表に出てきていましたが、やって来たのが郎党だったので、館の奥に入り、ただひたすらの経を読む事にします。

義経を守るは、武蔵坊弁慶片岡八郎常春鈴木三郎重家と弟の亀井六郎重清鷲尾(わしのお)三郎義久増尾(ましのお)十郎伊勢三郎義盛備前平四郎、という8人の家来たち・・・

そして、義経の正室・郷御前(さとごぜん・河越重頼の娘)(2011年4月30日参照>>)の守役だった十郎権頭兼房(ごんのかみかねふさ)と下男の喜三太の二人を加えた計10名・・・。

常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)をはじめとする、その他の家来たちは、「近くの山寺に参詣に行く」と言って出て行ったまま、戻っていなかったのです。

敵の近づく気配を感じた喜三太と兼房が、素早く屋根の上に上り、早くも矢を射かけはじめます。

弁慶は、黄色い蝶を2~3匹あしらった黒革の鎧に身を包み、大薙刀(おおなぎなた)の真ん中あたりをしっかりと持ち、堂々と胸を張って立ったかと思うと、そばにいた重家・重清兄弟に向かって・・・

「おい!お前ら兄弟!なんか、歌でも歌えや!
こう見えても、若い頃は比叡山でブイブイ言わしとったんや!
東国のアホどもに、このワシの華麗なるステップ見せたろやないかい!」

♪うれしや滝の水。鳴るは滝の水。日は照るとも、東の奴原が・・・♪
二人に合わせて舞いを舞う弁慶の姿を見て、多勢に囲まれながらも堂々としたその姿に、驚く寄せ手の兵士たち・・・

すると、弁慶は、
「お前らなんか、比叡山の祭競馬の馬みたいなもんじゃ!数ばっかりおっても勝負にならん!っちゅーこっちゃ」
と、大声で叫ぶように発しながら、まっすぐに太刀を構えて、敵に突っ込んでいきました。

重家・重清兄弟も、負けじとばかりに続きます。

あまりの勢いに驚いた寄せ手が、思わず後ろへと下がると、
「コラ!戻らんかい!卑怯もん!」
と、3人は口々に言いながら敵を追いますが、ふと、重家は、1人武将に狙いを定め・・・
「そこのお前!名をなのれ!」

すると、その武将は、
「泰衡殿の郎党・照井太郎高治!」

「なんやと?高治高治っちゃぁ、泰衡の家中では勇猛果敢な者・・・逃げてどないすんねん!」
・・・との言葉に、高治は引き返して重家と刃を交えますが、腕が違い過ぎ。

すぐに、右肩を斬られて、再び逃げ腰に・・・とは言え、なんだかんだで、たった3人ですから、多勢に無勢で、ほどなく、大勢の兵に囲まれてしまいます。

それでも、重家は左に2人、右に3人斬り捨てた後、合計8人ほどに手傷を負わせますが、自らも重傷を負い、「もはやこれまで!」と、自刃して果てます。

弟の重清も6人に傷を負わせた後、兄に続いて割腹・・・。

すぐそばで奮戦する弁慶は、のどを斬られ、とてつもない出血状態・・・それでも、ひるまず向かってくる姿を見て、むしろ、怖くなって後ずさりする兵士たち・・・

しかし、その間に増尾十郎が討死し、備前平四郎も無念の自刃

片岡八郎と鷲尾三郎は、ともに身を寄せ合って、一つ所で戦いますが、三郎は討死・・・その間に八郎は敵を避けて行きます。

やがて、伊勢三郎が、6人を討ち、3人に傷を負わせたところで、自らも手傷を負い、持仏堂で経を読む義経に軽く挨拶をして自刃しました。

あまりの形相に敵が寄り付かなくなった弁慶は、ひとまず義経のもとへ・・・

「どんな様子や?」
と、義経・・・
「俺と八郎だけですわ・・・後は皆、先に逝きよりました」

「そうか・・・」
義経は、驚く事もなく、静かに答えます。

「殿が先に逝きはったら、死出の山で待っといて下さい。
弁慶が先に逝きましたら、三途の川でお待ちしてまっさかいに・・・」

「うん、そうしょう・・・けど、もう、ちょい、この経を読み終わるまで、敵を防いどってくれるか」
「まかせといとくなはれ!」

なんとしてでも、主君が読経を終えるまで、敵を踏み込ませてはならずと、館の前で奮戦する二人・・・しかし、あまりの太刀打ちの疲労のため、八郎は全身に傷を受け、立つ事もできなくなって、とうとう自刃・・・弁慶1人となります。

「1人になってサッパリしたわ!味方なんて足手まといなだけじゃい!」
弁慶は、そう言って、薙刀を構えて仁王立ち・・・側に寄る者を次から次へと斬り捨てます。

その姿に、恐ろしくなった敵は、もはや、誰も近づきません。
しかし、そのかわり、仁王立ちで動かない弁慶には、とてつもない数の矢が放たれました。

(みの)を被ったかのように全身に刺さった黒羽・白羽・染羽が風にそよぎ、まるで武蔵野の秋風に吹かれる尾花のように・・・

シ~ンっと静まり返ったかと思えば、四方八方に走りだし暴れまわる・・・やがて、また仁王立ちになって、敵をグルリと見渡して睨みつけ、またひと暴れ・・・

やがて、また静まり返って・・・

その間隔が徐々に長くなっていき、やがて、動かなくなる弁慶・・・
遠巻きに、その様子を見る兵士たち・・・

そのうち、1人の武将が・・・
「剛の者は、立ちながら死ぬというけど、誰か、ぶつかって試してみたらどうや?」

皆が、後ずさりする中、1人の武将が、馬を走らせて、弁慶にぶつかりました。

薙刀を前に突き出しながら、ド~ンと、その巨体が倒れます。
「また、暴れるぞ!」
と、一斉に散らばる・・・しかし、その後も、ピクリとも動かない弁慶を見て、兵士はやっと弁慶が死んでいる事を確認したのです。

この間に、屋根で弓を射ていた喜三太は、敵の矢に当たって討死し、1人残った兼房は、覚悟を決めて、堂にいる義経のもとに走ります。

兼房の様子を見て、外での合戦に決着がついた事を悟った義経は、兼房の目の前で、自らの守り刀にて割腹・・・守り刀の血を、袖で拭って鞘に収め、脇息(きょうそく・時代劇で殿様の横にある肘掛)に寄りかかって果てました。

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衣川で果てた義経の御魂を祀る義経堂(京都・鞍馬)

その最後を見届けた兼房は、郷御前と一人娘を(義経記では男子もいた)刺し、自らの役目を終えたといわんばかりに鎧を脱ぎ捨て、館に火を放ちました。

燃え盛る炎をかきわけ、表に出ると、そこには、この日の大将・長崎太郎とその仲間たの姿・・・

「我こそは十郎権頭兼房!」
と、素早く名乗りをあげると、その瞬間に太郎に飛びつき、すかさず斬りつけます。

膝から下と乗っていた馬のろっ骨を斬られた太郎・・・慌てて、弟の次郎が助けに飛び込みますが、兼房は、その切っ先をかわし、次郎を馬から引きずり下ろしたかと思うと、ガシッ左脇に抱え込んで、次郎もろとも、燃え上がる炎の中へと身を投じたのです。

姫のお供として、義経のもとへ来た老武将・・・最後の晴れ姿でした。

「侍たらん者は、
忠孝を専
(もっぱら)とせずんばあるべからず。
口惜しかりしものなり」

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2009年4月29日 (水)

函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い

 

明治二年(1869年)4月29日、幕末の函館戦争で、新政府軍が矢不来を制圧・・・旧幕府軍は、函館・五稜郭へと撤退しました。

・・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)4月・・・新政府から、江戸城明け渡しとともに要求された軍艦の引渡しに納得できなかった旧幕府海軍・副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、開城のその日、最新鋭の軍艦・開陽丸以下8隻の軍艦とともに、江戸を脱出しました。

途中、会津など、東北の残兵を加えながら一路、北へと向かい、破竹の勢いで上陸した蝦夷地(北海道)で、またたく間に幕府の要地を占領(10月20日参照>>)・・・その年の12月には、新政府に対抗すべく、蝦夷共和国を誕生させました(12月15日参照>>)

ただ、当然の事ながら、新政府が蝦夷共和国を認めるわけもなく、春になれば、間違いなく攻撃を仕掛けてくるはずですが、最新鋭の軍艦を保有している現時点では、海軍としては新政府軍よりもはるかに勝っている旧幕府軍ですから、海を隔てた蝦夷地なら、何とかその海軍で防げる・・・はずでした。

ところが、春を待たずに、旗艦である開陽丸が座礁・・・逆に、新政府軍は旧幕府がアメリカに注文していた最新鋭の軍艦・甲鉄(ストーンウォール号)を入手します。

「これはヤバイ!」とばかりに、榎本らは、岩手県の宮古湾に停泊中の甲鉄を奪う計画=【宮古湾海戦】を決行しますが、見事、敗退してしまいます(3月25日参照>>)

こうなったら、旧幕府軍は、五稜郭(ごりょうかく)を中心に、函館死守の防御体制を固めしかありません。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まず、函館とは反対側の日本海に面した江差(えさし)に、もう一つの拠点を置き、350人の兵を常駐させ、戦略基点としました。

その頃には、新政府軍も動きを見せはじめ、すでに、対岸の青森には、薩長を中心に7000名の兵が集結・・・総督には清水谷公考(しみずだにきんなる)が、参謀には山田顕義(あきよし)が任命され、準備万端、整いました。

かくして、かの宮古湾の海戦から、わずか半月後の明治二年(1869年)4月9日、新政府の第一軍は、江差の北にある乙部(おとべ)に上陸・・・二股口、木古内(きこない)口、松前口の3方向から、一斉に函館を目指します

さらに、12日には第二軍、15日には第三軍も上陸して、4つ目の安野呂(あのろ)口から函館へ・・・。

上陸早々、江差を制圧した第一軍が、そのまま松前に向かう中、一方の二股口では、土方歳三率いる衝鉾隊(しょうほうたい)伝習歩兵隊が待ちうけます。

土方が、台場山に本陣を置き、土塁・胸壁を構築し、さらに天狗岳に見張りを置いて、万全の準備を整えた4月13日・・・最初の決戦が勃発します。

夜・・・しかも雨の中・・・銃撃戦は、一晩中続き、とてつもない数の弾薬が、またたく間に消費されていきますが、決着はつかず・・・。

その間に、松前口では、陸を行く第一軍に加えて、海からの軍艦による砲撃で、松前城は17日に陥落・・・もう一方の木古内口では、大鳥圭介率いる旧幕府精鋭部隊が踏ん張るも、ここでは、海上での戦闘も激しさを増します。

新政府軍の軍艦・春日による回天への猛攻撃・・・「このままでは、回天も時間の問題・・・」と判断した大鳥は、21日、一旦、木古内から撤退し、矢不来(やふらい)にて、再起をはかる事にします。

矢不来は、海の上に切り立つ崖が迫る天然の要害・・・大鳥は、守りに堅いこの場所で、土塁・胸壁を築き、迎え撃つ兵も配置して、函館死守の最後の防戦を決意するのでした。

やがて、そんなこんなの23日、再び、土方の守る二股口での決戦が再開されます。

次から次へと増強される新政府の兵力に対して、圧倒的に不利な数でありながら、新政府軍を圧倒し、何とか持ちこたえる土方隊・・・

しかし・・・

明治二年(1869年)4月29日・・・夜明けとともに大鳥隊の守っていた矢不来への総攻撃が開始されます。

守る大鳥隊・500に、攻める新政府軍は1500・・・しかし、その兵の数よりも大きな差がここにはありました。

そう、海からの攻撃です。

軍艦からの砲撃と、陸での銃撃を巧みに操り、新政府軍は旧幕府軍を圧倒し、その日のうちに矢不来を突破されてしまったのです。

未だ奮戦する土方隊に、「新政府軍・矢不来突破」のニュースが舞いこんできたのは、その日の夜の事・・・

軍艦からの砲撃を受けない山側であった事で、未だ無傷の台場山の陣でしたが、このままでは、退路が絶たれ、土方らは、函館に戻れなくなってしまいます。

しかたなく、砦を捨てて、こちらも五稜郭へと退却する事になりました。

やがて、迎えた5月・・・いよいよ、函館は総攻撃を受ける事になるのですが、そのお話は、やはり、総攻撃が開始される5月11日のページでどうぞ>>
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2009年4月28日 (火)

時代別年表:神代・古墳時代

 

このページは、神代~古墳時代の記事へのリンクを年表形式にまとめた目次ページです。

今回は、先史から、仏教が伝来する552年までを古墳時代とさせていただきましたので、「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきましたが、あくまで伝承に基づく物である事をご理解ください。

 

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出来事とリンク
神代     蛭子神
【神無月の留守番役の神様は?】
    天岩戸隠れ
【古事記をSFとして読めば】
    八坂神社の祭神・スサノヲのミコト
【京都・祇園祭の由来】
    備後風土記のスサノヲのミコトの伝説
【茅の輪くぐり神事のお話】
    オオクニヌシノミコト
【オオクニヌシとネズミの関係】
    コノハナサクヤ媛
【異常気象と富士山信仰】
    海幸・山幸
【針供養の期限と針のお話】
    日本の七夕伝説
【天稚彦物語】
    播磨風土記の淡海神の切腹
【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】
      漢委奴國王
【「漢委奴國王」の金印の謎多きお話】
      邪馬台国
【「邪馬台国はどこか」を見て】
-660 2 18 神武天皇が即位
【建国記念の日と神武天皇】
-581 1 8 綏靖天皇が即位
【綏靖・即位~記紀の「弟優先の法則」】
-383 8 5 孝昭天皇・崩御
【記紀にはしょられた天皇…欠史八代】
-91 11   意富多多泥古を神主に三輪山の神を祀る
【運命の赤い糸はなぜ赤い?】
-88 9   吉備津彦命が温羅を退治
【昔話・桃太郎と製鉄の関係】
-30 12 5 崇神天皇・崩御
【日本書紀に登場する二人の初代天皇】
-23 7 7 七夕の宴と相撲が行われる
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】
70 7 14 垂仁天皇・崩御
【垂仁天皇が~佐保の中心で愛を叫ぶ】

110

7 16 景行天皇が日本武尊に東方征伐を命令
【ヤマトタケルは実在したか?】
10 7 日本武尊が草薙の剣を賜る
【歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち】
200 9 5 神功皇后に神託が下る
【神功皇后の三韓征伐】
284     渡来人・秦氏
【星月夜の織姫~七夕に寄せて】
310 2 15 応神天皇・崩御
【古代のTPP?応神の時代と渡来人】
324 10   仁徳天皇が最古の治水工事
【最古の治水工事・茨田の堤の物語】
327 10   仁徳天皇が最古の橋を造る
【日本最古の「つるのはし」】
383     建振熊命が両面宿儺を退治
【異形の怪物・両面宿儺】
399 1 16 仁徳天皇・崩御
【世界最大の陵墓の主?~仁徳天皇】
400 2 1 履中天皇・即位
【カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位】
479 8 7 雄略天皇・崩御
【万葉集1番の雄略天皇のお話】
498 8 8 仁賢天皇・崩御
【後継者を偶然発見!顕宗・仁賢天皇】
506 12 8 武烈天皇・崩御
【武烈天皇の汚名を晴らしたい】
528 11 11 磐井の乱・終結
【反乱?内戦?戦争?謎多き磐井の乱】
531 2 7 継体天皇・崩御
【謎多き継体天皇】
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来・物部VS蘇我】
古代豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【神社の鳥居の起源・種類】
【埴輪の使用目的は?】
【古代日本における鏡とは?】
【農耕のはじまり~御事始めから連想】
【三種の神器のお話】
【昔のウソ発見器…湯起請と盟神探湯】

 

 

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2009年4月27日 (月)

織田信長・人生最大の危機一髪~金ヶ崎の退き口

 

元亀元年(1570年)4月27日、前日、朝倉景恒金ヶ崎城を攻略した織田信長軍に、浅井長政・離反の一報が伝わり、全軍の撤退を開始しました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)に斉藤龍興(たつおき)を破り、美濃(岐阜県)一国を手に入れ、本拠地を、生まれ故郷の尾張(愛知県西部)から岐阜へと移した織田信長・・・。

その翌年の4月頃には、北近江(滋賀県)を支配する浅井長政に、妹のお市の方嫁がせて同盟関係を結び、9月には岐阜を発ち(9月7日参照>>)、その長政の協力のもと、近江南部を支配する六角氏を蹴散らして(9月12日参照>>)足利義昭(よしあき)を奉じて京都へと入り、翌月の10月には、その義昭を室町幕府の15代将軍に擁立しました(10月18日参照>>))。

しかし、そんな信長と義昭の良好な関係は、わずか1年ほどで崩れていきます。

元亀元年(1570年)1月、義昭に『5ヶ条の掟書』を突きつけ(1月23日参照>>)「天下の事は俺に任せろ!」と言い放った信長にとって、京都に入る時に南近江の六角氏は追放したし、北近江の浅井氏とは同盟関係・・・美濃は三年前に手に入れたし三河(愛知県西部)徳川家康とは、その息子・信康に、娘の徳姫を嫁がせて味方につけています。

・・・となると、残る国境を接する国は、越前(福井県)朝倉氏・・・

信長は、若狭(福井県南西部)の国人・武藤友益(ともます)が、「たびたび自分に反抗するのは、義景が裏で糸を引いているのではないか?」ってな事を口実に、当時の朝倉の当主・朝倉義景上洛しての弁明を要求するのです。

ところが、その要求を、無視し続ける義景・・・

・・・というのも、朝倉氏と織田氏は、もともと、このあたり一帯の由緒正しき守護大名・斯波(しば)の臣下にあった家系・・・

しかし、朝倉は、その中でも直臣で守護代をも命じられるような名門・・・それに比べて、織田氏は、家臣の家臣である陪臣(ばいしん)の家柄で、完全に格下なのです。

信長の求めに応じて、上洛するという事は、織田の風下に立つという事・・・そんな事は、義景のプライドが許しませんから、当然、その上洛要請を無視し続ける事になりますが、信長は信長で、それを許すわけにいかないのも当然・・・というより、はなから、朝倉を潰したい気満々!

かくして、元亀元年(1570年)4月20日、信長は、総勢3万の軍勢を率いて、朝倉を討伐するために京都を出陣するのです。

これが、手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

23日には若狭と越前の国境を越え、25日には敦賀(つるが)へと到着し、その日のうちに朝倉配下の武将・寺田采女正(てらだうねめのしょう)が守る手筒山城を落とし、翌・26日には、義景の一族である朝倉景恒(かげつね)の籠る金ヶ崎城を開城させました。

・・・と、この信長の行動に困惑したのが、かの浅井長政です。

浅井氏と朝倉氏とは、父の代からの同盟を結んでおり、主従関係にも近い長年の友人・・・近江南部を支配していた六角氏との度々の抗争にも、常に朝倉は援助を差し向けてくれており、朝倉なしでは、浅井の家名を守れていたかどうかも危ういところでした。

・・・なので、2年前にお市の方を嫁に貰い、織田との同盟を結ぶ際にも、「朝倉は攻めない」という条件を、ちゃんと盛り込んでおいたのです。

・・・なのに、この状況です。

長年の友と、嫁の兄・・・長政が、悩みに悩む中、手筒山・金ヶ崎の両城を落とした信長は、その勢いのまま木の芽峠を越え、朝倉の本拠地・一乗谷へと迫ります。

そんなこんなの元亀元年(1570年)4月27日、信長の本陣に「長政・謀反」の知らせが届いたのです。

長政は、嫁の実家より、長年の同志を選びました。

それは、もちろん、織田との同盟がわずか2年に過ぎないという事に加え、朝倉との関係が切っても切れないものであったという事、それに何より、長政にとって朝倉に味方するほうに勝算があったという事です。

そうです、この朝倉氏への攻撃が、この先、信長を最大のピンチへと追い込む、信長包囲網=元亀争乱の幕開けとなったからです。

将軍の権力をないがしろにされた義昭が、全国各地の有力大名に、自分に力を貸してくれるよう頼み込み、当然のごとく、攻撃を受けた朝倉は、その頼みに応じますが、朝倉だけではなく、信長1人が力を持つ事をヨシとしない者が、次々と反信長の意志を明らかにしていったのが、かの信長包囲網・・・。

今回の浅井・朝倉をはじめ、全国に宗徒を持つ石山本願寺、その石山本願寺を支援する西国の雄・毛利元就、鎌倉時代の守護からの名門・武田信玄、義を重んじる上杉謙信といった面々、さらにそこに比叡山・延暦寺を加えての「反信長同盟」・・・この先、長年に渡って悩まされる包囲網が、この時、形勢されたのです。

長政は、この状況を、信長を追い落とす絶好のチャンスと思ったに違いないでしょう。

しかし、一方の信長は、はじめ、この長政離反の一報を、朝倉の放ったニセ情報と思い、なかなか信じなかったと言います。

なので、この日、次々と入る「長政謀反」の知らせに、「このままでは越前の朝倉と、北近江の浅井の挟み撃ちに合う」として、すみやかな撤退を訴える家臣の進言にも、耳を貸さなかったといいますが、そんな信長のもとに、「陣中の菓子にでも・・・」と、妹・お市の方からの進物が届いたのです。

その包みを開けた信長・・・。

そこには、小豆をギッシリと詰めた袋・・・その袋の両側をしっかりと紐で結んだ物でした。

その袋を見て、「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」・・・つまり、この進物が、現在の自分の置かれた状況・・・浅井と朝倉に挟まれ、逃げ道のない状況である事を示した謎かけである事に気づいた信長は、ただちに全軍に撤退命令を出したのだとか・・・。

これは、朝倉側の史料に残る、お市の方の聡明さを物語る逸話・・・が、やはり、あまりにもドラマチック過ぎるこのエピソードは、おそらく創作であろうというのが、専門家の見解なのですが、ドラマなどでは、よく描かれるエピソードの一つですね。

ただ、お市の方のエピソードの真偽は別として、この日、最初は長政の離反を信じなかった信長が、どこかの段階で真実である事を知り、退路を絶たれる危険を察知し、危機一髪で脱出した事は確かです。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

従えたのは、わずか10名ほどの親衛隊だけで、しかも、攻め上ったルートを避け、若狭街道街道を通っての南下・・・途中、高島郡(滋賀県)朽木谷(くつきだに)を通過した時には、地元を支配していた朽木元綱が甲冑姿で現れ、「もはやこれまで・・・」と、死を覚悟する瞬間もあったようですが、逆に、その元綱を味方に引き入れた事で、九死に一生を得て、4月30日に京都へとたどりついたとの事・・・これが、世に言う「金ヶ崎の退き口」ですが、(この時に殿を務めた秀吉については2019年4月28日のページでどうぞ>>)

実は、この後、京都から岐阜に戻る信長に更なる危機一髪が・・・っと、そのお話は、その出来事が起こる5月19日の【逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊】のページでどうぞ>>
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2009年4月25日 (土)

江戸城・無血開城後の戊辰戦争~新政府軍・北へ

 

慶応四年(1868年)閏4月25日、すでに江戸城を無血開城させた新政府・征討軍が、加賀・富山などの兵を伴い、海路で越後高田へ・・・いよいよ、新政府軍による北への進攻が開始されました。

・・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いは、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の大坂城脱出で、新政府軍の勝利となります(1月9日参照>>)が、やがて、東征した新政府軍に江戸城が無血開城され、慶喜が上野の寛永寺で謹慎生活を送りはじめてもなお、その戦火が収まる事はありませんでした。

新政府軍の中心である長州にとって、あの蛤御門(はまぐりごもん・禁門)の変(7月19日参照>>)以来、幕府勢力の中心となっていた会津藩・庄内藩は許し難い存在・・・

しかし、そんな会津藩・庄内藩も、「もはや江戸城も開城され、将軍・慶喜も恭順な態度をとっているこの状況ではどうしようもない」と、彼らも恭順の姿勢へと方向転換をしつつある中、仙台藩や米沢藩などは、新政府との間に入り、彼らを許してくれるように働きかけるのですが、新政府の考えは変わる事なく、あくまで、彼らを「朝敵」と位置づけて、徹底的に討つ覚悟で、東北・北陸の諸藩に征討軍への参加を要請するのです。

どうあがいても許してくれないのなら、一致団結して新政府と対決するしかありませんから、ここで、東北の諸藩は、奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)を結成します。

やがて、ここに、越後の諸藩も加わって奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)となるのですが、これが実際に同盟として成立していたのかどうか?は、専門家でも意見の別れるところでもあります。

・・・といいますのも、確かに、この先、彼らは協力して、ともに新政府に対する事となるわけですが、東北だけの奥羽列藩同盟と違って、越後の諸藩は、正式に同盟に加わるとの調印したわけでもなく、実際に諸藩の代表者が一堂に会して、会議を開いたり、話し合ったりした事もないのです。

よって、奥羽列藩同盟はあったが、奥羽越列藩同盟はなかったという意見と、奥羽列藩同盟が出した「会津藩を許してあげて!」の嘆願書に同調した嘆願書を新政府の総督府に提出している事はしているので、やはり同盟とみなして良いのでは?という意見に分かれるようです。

これは、専門家のかたでも意見が分かれている部分ですので、この場で、どちらかの意見に決定する事は避けさせていただきますが、正式な調印はなくとも、同調した事が確かである以上、新政府は越後の彼らも敵とみなすわけで・・・

かくして慶応四年(1868年)閏4月25日北陸道鎮撫総督(ちんぶそうとく)兼会津征討総督に任命された高倉永祜(ながさち)に、参謀として、薩摩の黒田了介(りょうすけ・清隆)、長州の山県狂介(きょうすけ・有朋)が加わり、さらに加賀富山長府の各藩の兵も合流した征討軍が、越後高田(新潟県上越市)に向かって、海路を北上したのです。

やがて、幕府脱走兵で形成されていた衝鉾隊(しょうほうたい)が越後に集まっていたため、彼らを追ってきた土佐藩の岩村精一郎の部隊も、そこに加わり、いよいよ越後は緊迫ムードに包まれます。

しかし、ここでもまだ、その姿勢を決めかねていた藩がありました。

京都所司代や老中を務めてきた牧野忠恭(ただゆき)長岡藩です。

藩主はすでに、養子の忠訓(ただくに)に譲ってはいましたが、幕府や将軍家に恩義を感じていた彼は会津藩や庄内藩に同情的・・・そんな前藩主を持つ藩士の多くも、やはり佐幕派(幕府派)

しかし、その気持ちのままに会津藩や庄内藩に同調すれば、当然、長岡藩も朝敵となり、新政府軍と一戦交える事になってしまいます。

藩内でも意見が分かれる中、鎮撫総督・高倉永祜は、長岡藩に対して、「会津攻めに出兵するか」「3万両の軍用金を献納するか」の二者択一を迫ってきます。

Kawaituginosuke600a ここで、登場するのが、幕末の長岡藩を主導していた家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)・・・。

彼は、上記の二者択一の返答をしないまま、鎮撫総督が本営を置く小千谷(おぢや・小千谷市)へと向かうのですが、その心の内は、中立の立場を取りながら、東北の諸藩を説得し、恭順へと向かわせる事・・・そして、それを新政府に理解してもらう事・・・。

これが、後に「小千谷会談」と呼ばれる話し合いなのですが・・・
そのお話については5月13日のページでどうぞ>>
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2009年4月24日 (金)

大坂夏の陣図屏風を見てきました!

 

昨日、今年3度目の大阪城へ行って参りました~

Ikusabanokoukeip 「何回、行っとんねん!」
とツッコマレつつも、今回は単なる散歩ではなく、大いなる目的が・・・

現在、天守閣にて開催されているテーマ展「いくさ場の光景」を見るためでございます。

この展示は、そのテーマでわかる通り、合戦に関する品々を集めた特別展ですが、何と言っても、戦国合戦図の屏風が11点も!

昨日書かせていただいた賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦長篠の合戦小牧長久手、そしてもちろん関ヶ原・・・

中でも、今回、初公開となる「山崎の合戦図屏風」は、人物描写がいきいきとしています。

本陣に構える羽柴(豊臣)秀吉のもとへ駆け寄り、うやうやしく何物かを差し出す加藤清正・・・。
馬のいななきが聞こえんばかりに、今、走り出そうとする福島正則・・・。
敵に囲まれ奮戦する斉藤利三・・・などなど。

また、おもしろかったのは、「武田信玄配陣図屏風」・・・。

こちらは、上記の山崎の合戦図屏風のように、合戦している場面ではなく、その名の通り、今、まさに合戦が始まろうという時に、見事に整列している姿を描いた物で、手に手に槍を持つ兵士の間には、鉞(まさかり)や鳶口、さらには、大きな荷物をもつ工兵隊員など、陣を設営するための部隊も見え、大将を守るように配置された軍勢の、精かんな姿が描かれています。

そして、やっぱり、見たい「大坂夏の陣図屏風」・・・。

Natunozinbyoubutokubetutenzi_2
大坂夏の陣図屏風(部分)

これは、昨年、NHK「その時歴史が動いた」で、「戦国のゲルニカ」として紹介され、話題となった屏風で、以前、このブログでも、他の合戦図屏風とは少し違う、その画について触れさせていただきましたが(9月12日参照>>)、市街戦となった大坂夏の陣は、兵士だけではなく、一般市民もその巻き添えとなった戦いで、兵士対兵士の合戦の図だけではなく、一般市民に対する略奪や暴行による悲惨な光景が描きだされている物です。

この屏風は、大坂の陣に徳川方として参戦した黒田長政(くろだながまさ)が、戦後間もなく、その戦勝記念として、家臣の黒田一成(くろだかずしげ)に命じて描かせた物(11月13日参照>>)と伝えられ、現在は大阪城天守閣の所蔵という事で、天守閣の5階のフロアすべてを使って、夏の陣の事や、描かれた絵の細かな説明がされている、大阪城でもイチオシの品ですが、普段はそのパネル展示のみ・・・つまり、こういった特別展示の時でないと、本物にはお目にかかれないのですよ。

昨日は、天守閣・最上階の展望フロアでは、けっこうな数のかたがごった返しており、「ゆっくり見る事ができるかな?」と心配しておりましやが、どうしてどうして・・・ちょっと奥まったところに展示してあったせいか、約30分ほど、ほぼ独り占めでじっくりと拝見させていただく事ができました。

修復の仕方が違うのか?保存状態の差なのか?左隻より右隻のほうが、少し色鮮やかに見えましたが、そういった事も、実際にこの目でみないとわからない事・・・しばし、夏の陣の「その日」へとタイムスリップさせていただきました。

そして、見終わった後は、例のごとく図録の購入・・・こういった展示会の図録というものは、パンフレットと違って、少々お高いのですが、記憶の消耗の激しいワタクシにとっては、最重要のアイテムなのですよ。

はっきり言って、予算に限りがあれば、昼ご飯を抜いてでも、図録優先なのです。

・・・で、今回の「いくさ場の光景」の図録は1300円・・・っと、これが、なかなか良かったです。

・・・というのも、展示物が、甲冑や武器、衣類などが多い場合、はっきり言って、写真で見るより実際に見たほうが、細かく、正確に見る事ができるわけですが、今回のように屏風・・・しかも、合戦図となると、その細かさはハンパじゃないんです。

確かに、色や構図などは、写真で見るより、本物を・・・って感じですが、その絵が細かいために、ガラス越しでは、人物ひとりひとりの表情などは、よほどの視力の持ち主でないと確認できません。

それが、今回の図録には、アップで掲載されているのです。

徳川家康秀忠真田幸村大野治長・・・主要な武将とともに、例の悲惨な光景の部分も、いくつかピックアップされて、ドアップで確認できるのです。

最初のほうに書いた「山崎の合戦図屏風」でのいきいきとした姿も、ここで、もう一度確認し放題!

Dscn7958
昨日の大阪城(南側・外堀)

・・・と、あまりの嬉しさに、図録のCMまがいの紹介になってしまいましたが、図録の購入はともかく、「合戦図を見てみたいな」と思われたかたは、ぜひぜひ、どうぞ!

「いくさ場の光景」展は、5月6日まで開催・・・しかも、4月25日~5月6日のGW中は、天守閣の拝観時間が2時間延長になり、朝9時~19時までとなりますから、ちょっと遅くなっても安心です。

この機会に、合戦図屏風の最高傑作と称される「大坂夏の陣図屏風」をご覧になってみて下さい。
 

・‥…━━━☆

追記:遠方にお住まいのかたで、「展覧会には行けそうにないが、図録はほしい」とおっしゃるかた、大阪城天守閣の公式ホ-ムページから通信販売で購入できます↓。
【大阪城天守閣・図録のページ】>>

ただし、展覧会に行った場合は、見本で中身を確認してから購入できますが、通信販売の場合は確認できませんので、ご自身の責任で以ってご購入をお決めください。
(人それぞれ価値観がちがいますので、実際に手にとってみて、1300円が高いと思うか、安いと思うかまでは保証できませんので・・・)
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2009年4月23日 (木)

賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱

 

天正十一年(1583年)4月23日、先日の賤ヶ岳の合戦で、戦線を離脱した前田利家が、羽柴秀吉軍の先鋒として北ノ庄に入りました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、賤ヶ岳(しずげたけ)の合戦・・・そのおおまかな流れについては2011年の4月21日>>「賤ヶ岳の七本槍」については2009年4月21日>>見ていただくとして、本日は、前田利家の賤ヶ岳合戦での行動について・・・

上記の両ページでも書かせていただいた通り、3月半ばから、こう着状態のにらみ合いが続いていたこの賤ヶ岳の合戦が、わずか最後の1~2日で・・・それも、なかなかの戦上手の柴田勝家が、羽柴(豊臣)秀吉に大敗を喫してしまうのには、いくつかのポイントがあります。

よく言われるのは、柴田配下の佐久間盛政がハリキリすぎて、勝家の撤退命令を聞かなかったため・・・というのを聞きますが、私としては、これは、負け戦という結果からくる後づけのような気もします。

確かに、果敢なアタックは、時として行き過ぎの状態となりもしますが、これが、勝っていれば、「よくやった!」と褒められるわけで、ある程度の勝算があるのであれば、100%の失策とは言い切れない部分があると思います。

・・・で、私が思う、
賤ヶ岳での戦況を左右した出来事は二つ・・・

その一つは、あの本能寺の時の中国大返しを彷彿とさせるスピードで秀吉が美濃(岐阜県)から戻ってきた(4月20日参照>>)

そして、もう一つは、前田利家の戦線離脱だと思っています。

その日、中川清秀大岩山砦を落とした盛政らは、そのイケイケムードのまま、勝家の撤退命令を聞かず、余呉湖の南岸に駐屯していましたが、日づけが4月20日から21日に変わろうとする午前0時頃・・・南側の遠くに明るく照らされた松明(たいまつ)を見て、秀吉が戻ってきた事を知ります。

そこで、さらに先頭に位置していた弟・柴田勝政(勝家の養子となっていたので柴田姓)撤退命令を出し、自らも撤退を開始したところを、徐々に到着した秀吉軍が追撃を開始しますが、これがけっこう秀吉軍の苦戦で、それほど成果をあげる事ができていなかったのです。

そこで、秀吉は、最も最前線の勝政隊だけにターゲットを絞って追撃・・・ここで、この勝政隊の追撃に大活躍にたのが、冒頭の賤ヶ岳の七本槍の9人で、この時、その勝政も討ち取られています。

ただ、このように、勝政隊こそは秀吉の追撃の犠牲となりましたが、この時点では、盛政の本隊は、未だ、ほとんど無傷の状態だったのです。

それを、くつがえしたのが、ここにきての前田利家の戦線離脱・・・利家は、この盛政隊の後方に位置していましたが、利家配下の2000ほどの軍勢がいきなり敦賀方面(北)へ向かって撤退しはじめたわけです。

つまり、南から1番=盛政、2番=利家、と並んでいる2番手の団体がサ~ッといなくなるという状況・・・これは、3番手、4番手に控えている諸将から見れば、まるで盛政隊自身が総崩れしているかのように見えてしまったんです。

・・・で、この状況を見た3番手・4番手の部隊からは脱落者が続出し、当然、ここも崩れていきますし、さらにその光景を見た勝家本隊からも、逃げ出す者が続出してしまう結果となり、最終的に、柴田軍全体が北へ向かって敗走する事になってしまったわけです。

考えようによっちゃぁ、秀吉軍の追撃よりも、前田軍の戦線離脱のほうが、影響が大きかったとも言えるわけです。

この件に関して、『川角太閤記』では、秀吉が美濃から戻る途中に・・・
「かがり火が見えたら合戦と考えといてちょ。
モロに裏切る事はできんやろけど、そのかわり参戦もしないでネ」

と、利家に連絡していて、利家も「OK!」の返事を出していたと記されていますが、中国大返しさながらの、猛スピードで駆け抜けているときに、こんな約束ができたかどうかは微妙なところではあります。

なので、この時・・・というよりは、むしろ、もっと以前から、秀吉と利家の密約ができていたと考えるのが妥当でしょう。

・・・でないと、まだまだ戦える状況・・・いや、むしろ、今から反撃に出ようという意気込みさえあった盛政を先頭に、1番手・2番手と並んでる中、いきなり撤退を開始したりしないでしょうからね。

Maedatosiie ところで、この利家の戦線離脱・・・結果から見れば、完全に「裏切り」となるわけですが、はたして本当に、裏切り行為だったのか、どうだったのか?

答えは・・・NO!
裏切り行為ではありません。

それは、周囲の武将たちも、そして勝家自身も理解しているところです。

なんせ、勝家は、賤ヶ岳から撤退して北ノ庄に帰る途中、利家の息子・前田利長府中城に立ち寄って、先に戦線離脱した利家と、普通に対面しているのですから・・・。

この時、勝家は、「戦いで疲れたわが軍の兵士たちに、湯漬けを食わしてやってくれないか」と頼み、利家も、快く、「湯漬けと言わず、お酒もどうぞ」と、酒の肴まで用意しています。

そして、ひとときの話す機会にめぐまれた二人・・・

勝家は、利家に対して、戦線離脱に関しての事は一言も口にせず、ともに織田家の者として頑張った北陸での支配にからむ苦労をねぎらいながら・・・
「お前は、秀吉と仲がいいんだから、秀吉が誘ってきたら仲間になってやれよ」

そう言って、領国の北ノ庄へと戻って行ったのだとか・・・
カッコイイぞ!勝家(≧∇≦)

翌・4月22日に府中城を囲んだ秀吉は、利家を説得・・・そのまま、戦わずして秀吉に投降した利家は、天正十一年(1583年)4月23日、その秀吉軍の先鋒として、勝家の領地・北ノ庄へと入ったのです。

・・・で、なぜ、この利家の行為が裏切り行為とはならないのか?

それは、勝家と利家は、ともに織田信長の家臣という同等の立場にあったからです。

信長が、当時、越前を支配していた朝倉義景を滅ぼし(8月6日参照>>)、その朝倉の領地であった場所を、家臣である勝家が賜った時、同時に、利家と佐々成政不破光治(ふわみつはる)3人も越前の一部に領地を与えられ、一家臣から大名へと出世しています。

ただ、独立した大名ではあるものの役職は、勝家の与力・・・つまり、織田家の北陸支部長である勝家の指揮下で、その手伝いをする役職なわけで、指揮・命令系統は受けるものの、勝家の家臣ではなく、主君は信長・・・つまり、織田家本社から北陸支部への出向みたいな事になるのです。

ですから、さきほども書いたように、勝家と利家は、同じ信長の家臣という立場で、これが、北陸での一向一揆に再び火がついて、その一揆軍を制圧しなければならないというような時なら、利家は勝家の命令を受けて、ともに織田家として戦わねばならない立場にありますが、今回の場合は、戦う相手である秀吉も、織田家の家臣なわけで、あくまで、織田家内のトップ争いなのです。

家臣同士の織田家トップ争いなら、同じ家臣である利家は、どちらに味方しようが本人の自由・・・という事になります。

それは、おそらく、利家以外の、秀吉の味方となった織田家家臣たちも、同じであった事でしょう。

なぜなら、この後、北ノ庄城が落城しようとした時、秀吉に味方した武将たちの間で勝家の助命運動なる物が巻き起こっているからです。

利家を含む、多くの信長の家臣たちは、これは、織田家家臣による主導権を握るための争いであり、勝負がついたところで、また、もとのさやに納まると思っていたのかも知れません。

ただ、秀吉だけには、すでに、天下統一へのシナリオが見えていたのかも知れませんが・・・。
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2009年4月22日 (水)

京都・大阪・奈良~近畿・他の史跡巡り集

 

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、地元・大阪をはじめ、京都・奈良・兵庫などの神社・仏閣を訪ねた【史跡めぐり】をピックアップさせていただきました~

休日のお出かけの参考にしていただければ幸いです。

・‥…━━━☆

★京都

●明智越
 【敵は足腰にあり!明智越・体験記】

●猪崎城跡
 【京都丹波の中世山城~猪崎城・登城記】

●今熊野観音寺・来迎院
 【紅葉の穴場・今熊野観音寺と来迎院】

●雲龍院(泉涌寺別格)
 【紅葉の泉涌寺別格「雲龍院」in京都】

●大豊神社
 【大豊神社の狛鼠~オオクニヌシとねずみの関係】

●鴨川の川床
 【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】

●北野天満宮「御土居・もみじ苑」
 【「御土居=もみじ苑の公開」に行ってきました】

●京都御所・一般公開
 【京都御所の一般公開に行ってきました!】

●京町屋「無名舎」「紫織庵」特別公開
 【京町屋・特別公開「無名舎」と「紫織庵」に行きました】

●建仁寺・六波羅蜜寺・珍皇寺
 【四条大橋から五条大橋を歩いてみませんか?】

●三十三間堂
 【蓮華王院=三十三間堂の建立】

●松花堂庭園
 【涼を呼ぶ松花堂の水琴窟~その音色は?】
 【松花堂弁当と寛永の三筆・松花堂昭乗】

●相国寺
 【相国寺・特別公開~鳴き龍】

●瑞泉寺
 【豊臣秀次ゆかりの京都・瑞泉寺】

●酢屋
 【坂本龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました】

●光明寺
 【紅葉のじゅうたん~京都・光明寺】

●退耕庵・勝林寺・伏見稲荷お茶屋
 【三成と恵瓊が関ヶ原の作戦を練った茶室・作夢軒】

●大覚寺にて「空薫」体験
 【京都・大覚寺にて「空薫」体験してきました】

●醍醐寺
 【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました~】
 【京都で最古の醍醐寺・五重塔】

●大徳寺・総見院
 【勝家を出し抜く秀吉…信長の葬儀を行った総見院】

●巽小路(たつみこうじ)・膏薬図子(こうやくずし)
 四条花見小路東入ル北側八番路地・あじき路地
 【ツウな京都の路地あるき】

●知恩院
 【三門の特別公開と知恩院の七不思議】

●智積院
 【智積院と長谷川等伯・障壁画】

●長州藩邸跡(京都ホテル・オークラ)
 【オークラ前の桂小五郎像が見つめる物は?】

●梨木神社・廬山寺
 【京都~萩の名所・梨木神社と源氏物語の廬山寺】

●二条城
 【二条城~その動乱の歴史】

●仁和寺
 【京都・仁和寺の御室桜が満開!】

●伏見稲荷大社
 【伏見稲荷大社に行ってきました~】

●平等院
 【藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ】

●福知山
 【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】

●宝鏡寺
 【和宮ゆかりの紅葉の名所~京都・宝鏡寺の公開】

●保津峡
 【紅葉の穴場見つけた!~保津峡駅in京都】

●妙心寺・大法院
 【真田家・佐久間象山ゆかりの妙心寺大法院・公開中!】

●八幡の背割堤と木津川・流れ橋
 【八幡・背割堤の桜と木津川流れ橋】

●養源院
 【伏見城攻防戦と養源院の血天井】

●龍安寺・石庭
 【世界一有名な日本庭園…龍安寺の石庭が完成】

●嵐電のイベント・妖怪電車
 【今年も運行!京都・嵐電の妖怪電車】

●八坂神社の豆まき&清水寺・成就院
 【祇園の豆まきと西郷さんが見た成就院の庭】

●成就院・特別公開(2013年秋)
 【西郷隆盛も愛でた成就院「月の庭」が特別公開】

●嵐山・花灯路2008
 【京都「嵐山花灯路2008に行ってきました】

●京の冬の旅2010
 【京の冬の旅~第44回・非公開文化財特別公開へ行こう】

●京の冬の旅2011
 【京の冬の旅~第45回・非公開文化財特別公開へ行こう】

●京の冬の旅2012
 【第46回・京の冬の旅~非公開文化財特別公開へ行こう】
 

★大阪

●大阪倶楽部
 【紳士の社交場・大阪倶楽部】

●大阪城
 【歴史好きのための大阪城観光】

●大阪城・多聞櫓と千貫櫓
 【大阪城~多聞櫓と千貫櫓の特別公開】

●大阪城・山里曲輪の地下道
 【祝!80周年 昭和の大阪城天守閣・復興】 

●大阪城・特別展「いくさ場の光景」
 【大坂夏の陣図屏風を見てきました!】

●大阪城天守閣『「豊臣期大坂図屏風」ふたたび』
 【「豊臣期大坂図屏風」を見てきました~】

●大阪城・桜門
 【秋色の大阪城~桜門のちょっとオモロイ話】

●大坂の陣での真田丸
 【真田丸はどこにあった?】

●大阪天満宮
 【大阪天満宮の流鏑馬神事】

●大手橋
 【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】

●天王寺・茶臼山
 【和気清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳】
 【大阪人・騒ぎすぎ?~茶臼山・立入禁止令】

●天王寺七名水
 【天王寺七名水と亀井の尼の物語】

●大阪駅周辺
 【大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川】

●交野・私市
 【交野・七夕伝説と京阪電車イベント】
 【京阪電車・新車両と七夕イベント】

●旧大阪砲兵工廠・化学分析場
 【大阪マイナー史跡~旧大阪砲兵工廠・化学分析場】

●暗峠越え奈良街道と枚岡神社
 【枚岡・梅林と暗峠越え奈良街道inお陰参り】

●東洋のベニス・堺
 【「春季 堺 文化財特別公開」開催中の堺へ…】

●住吉大社
 【住吉大社の燈籠巡り】

●泉布観
 【泉布観の一般公開】

●つるのはし跡
 【大阪マイナー史跡~日本最古の「つるのはし」】

●道頓堀
 【古き良き道頓堀を偲んで…】

●道明寺天満宮
 【大坂の陣の激戦地=道明寺天満宮の梅が満開】

●枚方・万年寺山=御茶屋御殿跡・枚方城
 【秀吉に引かれて?枚方から大阪城へ…】
 【枚方~意賀美神社の梅林】
 【枚方城の面影を求め枚方寺内町から万年寺山へ】

●渚の院跡の桜(京阪電車:御殿山駅)
 【ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平】

●京街道・枚方宿
 【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】

●文禄堤・守口
 【幻の首都・大阪~明治天皇のおわした守口宿】

●茨田堤
 【最古の治水工事・茨田堤の物語】

●通天閣
 【新世界ルナパークと初代通天閣の誕生】

●江戸時代の大阪の市中引き回しのコースを歩く
 【大阪市中引き回しのうえ、体験・報告!】

●旧第四師団司令部庁舎の特別公開
 【旧第四師団司令部庁舎の特別公開に…】

●大阪歴史博物館・特別展示「天璋院・篤姫展」
 【「天璋院・篤姫展」に行ってきました~】

●京阪電車・私市駅の七夕イベント
 【今年は違う!京阪電車七夕イベント2007】
 【京阪電車・新車両と七夕イベント2008】
 【京阪電車・七夕イベント2009】
 

★奈良

●いにしえの奈良の都の八重桜
 【歌に詠まれた八重桜~平成の世に咲き誇る】

●正倉院
 【正倉院・アッと驚く豆知識】

●今井町
 【戦国にタイムスリップ!環濠集落・今井町】

●奥明日香(奈良県)
 【飛鳥より奥深い~彼岸花が咲き乱れる奥明日香】

●頭塔・浮彫石仏
 【摩訶不思議な奈良のピラミッド~頭塔・浮彫石仏】

●長谷寺
 【「ぼたんまつり」で賑わう奈良・長谷寺】

●平城遷都1300年祭…平城宮会場
 【「平城遷都1300年祭」に行ってきました】

●法隆寺
 【法隆寺と聖徳太子】

●薬師寺
 【薬師寺・伽藍完成】

●なら燈花会とライトアップ・プロムナード
 【なら燈花会とライトアップ・プロムナード】

 
★兵庫

●竹田城跡
 【天空の城!日本のマチュピチュ~竹田城登城記】

●姫路城
 【姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで・・・】

★滋賀

●彦根城・長浜城・佐和山城跡・安土城跡・観音寺城跡
 【彦根城・佐和山城・長浜城・安土城・観音寺城へ・・・】

●余呉湖
 【余呉の羽衣伝説】

●近江八幡
 【豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り】

★福井

●一乗谷朝倉氏遺跡・福井城址・北ノ庄城址公園
 【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】

★岐阜

●関ヶ原古戦場
 【不肖羽柴茶々、いざ!関ヶ原古戦場へ…】

 
★番外編

●JR・駅からはじまるハイキング
 【JR・駅からはじまるハイキング】

●江戸時代の旅~名所となる条件は?
 【史跡めぐり~いま むかし】 
 
 

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2009年4月21日 (火)

9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」

 

天正十一年(1583年)4月21日、織田信長亡き後に起こった織田家内の後継者争いで、主君の仇を討った羽柴豊臣)秀吉と、織田家・筆頭家老の柴田勝家との『賤ヶ岳の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・

この『賤ヶ岳の合戦』・・・

前日に大岩山砦中川清秀が討死(4月20日参照>>)、そして、翌日のこの日に、あの賤ヶ岳の七本槍に代表されるような激戦が繰り広げられた(4月21日参照>>)事によって、何となく、いち時的な野戦のようなイメージを抱いてしまいますが、すでに書かせていただいたように、3月9日柴田勝家北ノ庄を出陣し、2日後の11日には、羽柴秀吉佐和山城に入城する(3月11日参照>>)わけですので、賤ヶ岳の合戦自体は、この頃から始まり、どちらかと言えば、持久戦に位置づけられる戦い・・・両者ともに複数の陣城や砦を築き、お互いの動きを探りながらのにらみ合いが続けられていたのです。

その陣城や砦は、柴田軍では、やはり勝家の本陣である玄蕃尾城げんばおじょう)が最も大きく、深い堀や天守台もあり、当時は、高い物見櫓まで建っていたそうですが、それ以外のものは、曲輪に土塁を巡らす程度の単純な構造だったと言われています。

・・・というのも、越前(福井県)からやって来て、琵琶湖の東岸を南へと下る勝家にとって、その理想とする戦いは、ここで秀吉の敷く戦線を突破し、北伊勢(三重県)で踏ん張る滝川一益や(2月12日参照>>)、美濃(岐阜県)にいる神戸(織田)信孝と合流する事であったはずだからです。

一方の秀吉も、東野山神明山などに陣城を構築しますが、こちらは、曲輪と土塁の構造が複雑で攻めにくい造りになっていたのだとか・・・秀吉としては、逆に、勝家に、この一線を突破させないための防衛を強化した造りになっていたわけです。

・・・で、先の3月11日のページに書かせていただいたように、約1ヶ月に渡って3kmほどの距離を置いての、小競り合い&膠着状態が続いていたわけですが、秀吉が、ここ近江(滋賀県)に釘付けになっている間に、一益や信孝が動きを見せます。

そのために、秀吉が伊勢・美濃のほうへ向うと、今度は、こちらの近江のほうで、勝家側の佐久間盛政による大岩山砦への攻撃という形で、激戦への火蓋が切られるわけです。

そして、その一報を聞いた秀吉が、あの本能寺の変の後の中国大返しを彷彿とさせる猛スピードで再び近江へ戻り最後の合戦の突入・・・となるのです(4月20日参照>>)
Sizugatakezikeiretu

ところで、冒頭でも書かせていただいた、この戦いで一躍有名となる賤ヶ岳の七本槍・・・一昨年も書かせていただいたように、
福島正則
加藤清正
加藤嘉明(よしあき)
片桐且元(かつもと)
脇坂安治(やすはる)
平野長泰(ながやす)
糟屋助右衛門尉(かすやすけえもんのじょう)
桜井佐吉
石河兵助
の9人で、なぜか9人なのに七本槍・・・てな話もさせていただきましたが・・・

そもそも七本槍が最初に登場するのは、小瀬甫庵(おぜほあん)『太閤記』で、ここでは桜井と石河を除く七人が七本槍として登場します・・・つまり、ここでの人数はちゃんと7人だったわけです。

もともと「○○の七本槍」というくくりに関しては、織田信秀今川義元が戦った小豆坂(あずきざか)の合戦で、勇猛果敢に活躍した織田方の七人を「小豆坂の七本槍」と呼んだのがはじまりだそうで、その後も、以前ご紹介した「姉川の七本槍」(6月28日参照>>)などもあったわけですが、やはり、聞いてわかる通り、なんとなく響きがよくカッコイイ!

それで、『太閤記』を書くに当たって、先の甫庵さんが、何かの史料をもとに、かの7人を選んで書き記したところ、これが評判となって、賤ヶ岳の合戦と言えば、『賤ヶ岳の七本槍』というのが定着したようです。

しかし、巷で『賤ヶ岳の七本槍』が評判になる一方で、『柴田合戦記』など、複数の史料には、この賤ヶ岳の合戦の後に秀吉から感状と恩賞を賜った者として、上記の9人の名前が書かれている事で、賤ヶ岳において特筆すべき活躍をしたのは、本当は9人なんだろうと考えられるわけですが、かの七本槍を選んだ甫庵さんが、桜井と石河を外した選択基準がわからないため、とりあえず「活躍したのは9人」でも、呼び方は「七本槍」という事で、今は落ち着いているようです。

まぁ、甫庵さんも、悪気はなく、何となく響きの良い「七本槍」と呼ばせたいために、9人いる事を承知で、7人に絞ったのかも知れませんが・・・

もちろん、その判断基準にも様々な推理がされていますが、最も言われているのは、七本槍の7人は、いわゆる秀吉の直臣・・・しかし、桜井と石河は、弟の家臣だったり養子の家臣だったりするので、この二人を外したという理由・・・。

また、石河はこの合戦で討死し、桜井も2年後に病死したので、甫庵が『太閤記』を書く頃(嘉永3年・1626年)には、すでに過去の人となっていたので・・・という事も言われますが、これに関しては桜井さんはそんなに早く死んでない説もあり、微妙です。

果ては、単に、複数の史料に載ってる名前リストの順番で、最後の二人を外しただけというのもあり、もはや、これは甫庵さん、ご本人に聞いてみないとわからない事なのでしょう。

・・・で、結局、七本槍として有名どころとなった、かの7人も、
糟屋さんは関ヶ原で西軍について、早くも没落・・・
福島正則は広島城の修復工事を咎められて改易・・・
加藤清正の加藤家は松平忠長がらみで取り潰され(12月26日参照>>)
片桐且元も徳川と豊臣の板ばさみで苦労し(8月20日参照>>)

残りの3人・・・加藤・脇坂・平野の三家だけが、徳川幕府の下で江戸時代を過ごし、明治になるまで大名として存続されました。

いつの時代も生き残るのは大変です。
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2009年4月20日 (月)

大河ドラマ「天地人」に、どうしてもツッコミたい!

 

大河ドラマ「天地人」・・・

本当は、先週の「御館落城」を見終わった後に書きたかったのですが、なんだかんだで書けなくなってしまったので、今週の「天地人」見終わった後に、先週のぶんと合わせて、書かせていただく事にしたのですが・・・

確かに、以前、3月の終わりごろに【大河ドラマ「天地人」に思うこと】(3月23日参照>>)のページで、私自身は、ドラマや小説と、実際の歴史は別の物だと思っていて、主人公をどのように描くのかは、作り手の自由だと書かせていただきましたが、あまりに自由すぎる内容に、もはや、ガマンしきれず口がモゾモゾ・・・。

ただ、原作はもちろん、脚本家のかたも、ドラマのスタッフも、誰一人ふざけているわけではなく、一所懸命に作っておられるのだろうなと・・・小説にしろ、映画にしろ、ドラマにしろ、出来上がった作品にチャチャを入れるのは簡単ですが、一から作るとなると、その苦労は並大抵ではありません。
(こんなブログでさえ苦労します(゚ー゚;)

「そんなに言うなら、書いてみろ!作ってみろ!」と言われれば、「できません(*_ _) 」と言うしかない身ではありますが、あえて・・・いや、これは、批判ではなく、愛するがゆえのツッコミとお考えください。

そう、大河ドラマ好きの歴史好きとして、テレビの前で、何度も「なんでやねん!」を連呼する今日この頃・・・

まずは、あのオープニング・・・

戦国武将が主役のドラマに、あの勇猛そうな音楽・・・
そして、CGをフル活用し、戦国シュミレーションゲームを思わせる雄大な画面・・・

草原を走る大量の兵士のCGがぶつかり合ったかと思えば、山を越えて行軍する、これまたCGの兵士たち・・・

こんな光景が、ドラマの中でも展開されるものだと思いきや、ただの一度もちゃんとした合戦シーンをやってくれません。

スタジオの中の狭~いところで、10人~20人くらいがゴチャゴチャやって、合戦なんだか、ただのモメ事なんだか・・・しかも、それすら無く、ナレーションでスルーされる事山の如し。

聞くところによれば、「昨年の『篤姫』で取り込んだ女性層が、血なまぐさい合戦シーンを放送する事で逃げてしまうのでは?」てな事だそうですが、昨年くらいからの戦国ブームの火付け役となった歴史好きの女性・・・「レキジョ」と呼ばれる彼女たちは、戦国シュミレーションゲームを突破口に戦国好きになったわけだから、ゲームで散々合戦シーンを見てるのでは?って気もしないではないです。

ちなみに、私も女ですが、一昨年の風林火山サニー千葉さんのような、カッコイイ合戦シーンを期待しつつ拝見させていただいております。

続いて、やっとこさ先週終った御館(おたて)の乱ですが・・・
「このモヤモヤを何とかしてくれ~!」って雰囲気で終ってしまいました。

そもそも、上杉憲政(のりまさ)なしに御館の乱をやる事にもムリがある気がするのですが、どうして、そこまでして憲政を出したくなかったのでしょかね。

ごくごく簡単に、現代っぽく流れを説明させていただくと・・・

株式会社・関東管領の社長・上杉憲政が、会社が潰れそうになったところを、子会社の謙信が助けた事で、憲政は社長の座を謙信に譲ります。

社長になった謙信は、会社の敷地内に御館(おたて)というお屋敷を建てて、そこに憲政が住んでいたのです。

しかし、その謙信が後継者を指名しないまま死んでしまったために、二人の養子によって争われるわけですが、いち早く景勝が社長室を占拠して、「俺が後継者だ!」と宣言してしまったために、もう一人の養子・景虎は、先代社長の憲政のいる御館に行って、そこで「自分こそ後継者だ!」と主張するわけです。

このように、御館に籠ったから、合戦の名前も「御館の乱」なわけですが、御館には、先代社長がいるからこそ、そこに籠る意味があるわけで、ここで、憲政が登場しないという事は、サザエさん一家で、波平とフネを無視するのと同じ事・・・波平とフネという存在がなければ、「サザエさんは、フグ田マスオと結婚してるのに、なんで磯野の家に住んでるの?」みたいな事になるわけですよ。

・・・で、結局、最後は、この憲政を無視した事で、とんでもない結果となってしまいました。

実際には、御館を総攻撃された景虎は、「もはや、これまで!」と、御館を脱出しますが、この時に、かの憲政も、景虎の息子・道満丸を抱きかかえて脱出し、景勝のもとに行って降伏をします。

ところが、白旗を掲げてやってきたこの二人を、景勝側は斬ってしまいます・・・つまり、主君にあたる先代社長と、妹・華姫の子供・・・それも、負けを認めて降伏してきたお年寄りと幼児を斬っちゃったわけです。

おそらく、ドラマでは、どうしても景勝と兼続をいい人に描きたいがために、そんな悪行をさせてはなるまいと、あのような描き方になってしまったのでしょうが、おかげで、道満丸は、誰に殺されたのかもわからないウヤムヤな状態で死を迎える事になってしまいました。

もちろん、憲政は、はなからいなかった事になってます。
これでは、お二人は浮かばれません。

せめて、ちゃんとした理由のもとに、極楽往生させてあげてほしい・・・なんとか「血で血を洗う戦国の世なのだから、越後の平和のためにはいたしかたなかった」てな感じに描けなかったのかと、残念でなりません。

また、そのあとに訪れた景虎の自刃のシーン・・・。

景虎が亡くなったのは、3月24日・・・確かに旧暦なら、桜も終った頃でしょうが、ドラマの放送が、ちょうど桜の季節だったのですから、うまくいけば、その散り行くさまを見事に演出できたのではないか?と思うのですが、なぜか季節はずれの彼岸花が狂い咲き。

それも、往年の夜のヒットスタジオのセットを彷彿とさせる花壇もどき&スモークで、思わず、玉鉄×相武のデュエットで「昭和枯れすすき」でも歌ってくれるのか?と期待してしまいました。
♪かげ~かつに~ 負けた~♪
♪いえ、直江に 負けた~♪
♪この~城を追われた~ いっそキレイに死のうか♪
てか(*´v゚*)ゞ

そして、今週のお題は「信玄の娘」・・・

その題名の通り、菊姫が景勝のもとにお嫁に来ていましたが、初夜にいきなり短剣を突きつけて、「これで、驚くようなうつけ者なら・・・」的な事をのたまわっておられましたが、そんなもん、誰かてビビりまっせ。

しかも、背中にグイグイ押し付けて・・・アレ、本物なら切れてまっせ。

さらに、その舌の根も乾かないうちに「武田をお救いください」って、涙まじりの懇願・・・ひょっとしてこれは、例のツンデレってヤツですか?

このツンデレ攻撃なら、さすがの景勝も「萌え~」・・・と思いきや、そうはならずに、「約束できない」とキッパリ断ってましたが、断られると今度は、引き籠りのスネまくりで、表に出て来ない。

何とか、ご機嫌を取ろうと必死の仙桃院(せんとういん・景勝の母)と兼続・・・雪の中に咲いた雪割草を、景虎とともに死んだ華姫に見立てて、「華姫が導いてくれたのかも・・・」って、まるで他人事のように懐かしがってましたが、その華姫を死に追いやった張本人は、この二人なのでは?

・・・と、のんびり雪割草に見とれている場合ではありません。

妻・お船さんと兼続のイチャイチャにヤキモチを焼いてばかりだった泣き虫先生こと信綱さんが、「お前を認める」と、やさしさ発言をした途端に、もう斬られてましたねぇ。

斬られた理由は、おそらく、来週の冒頭で、ちゃんと説明してくださるものだとは思いますが、以前も、「必ず味方になる」と高らかに宣言した武田の家臣・高坂弾正が、翌週、いきなりの死亡・・・それも、死ぬシーンなしの、武田勝頼からの口伝えのみで終ってしまった事もあり、油断はなりませんゾ!

油断ならんと言えば、予告では、景勝が「命令だ!直江を継げ!」とおっしゃっていましたが、以前、殿がお船さんを好きだって話は、どこへいっちゃったんでしょうか?

あれ以来、「まだ好きだ」とも、「もうふっ切れた」ともおっしゃらず、まったく触れられない状態でここまで来ましたが、来週は、そのお気持ちを、ちゃんと兼続にお伝えになってご命令を発せられるのか?・・・油断なりません。

ところで、あの初音という人は、いつまで安土城にいるのかしら?

それも、いっつも信長と二人っきりで一つの部屋に・・・

あれだけ長期にわたってタダ飯を食わさせていただいているという事は、やはり信長とはただならぬ関係という事なのかしら?

信長は、いつも、この先の見通しみたいな事を初音に尋ねますが、まともな答えが返ってきたためしもないのに、なんで、いつも聞くのかしら?

謎は尽きません・・・
  

以外に長かった御館の乱で足踏みしたぶん、これから急展開で進んでいくようなので、頑張ってついて行かなければ・・・。

なんだかんだ言いながら、やっぱり、これからも見ます「天地人」・・・

好きだからこそツッコミたくなるこの心情をわかっていただきながら、来週からの更なる展開に期待したいと思います。
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2009年4月19日 (日)

道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状

 

弘治二年(1556年)4月19日、長良川を挟んで、嫡男・斉藤義龍の軍と対峙する斉藤道三が、息子・日饒に手紙を出しました。

・・・・・・・

弘治二年(1556年)4月19日付けで書かれたこの手紙・・・『道三の遺言状』とも、『信長への国譲り状』とも言われる書状ですが、現存する物は計・3通あります。

・・・とは、言うものの、一つは『江濃記(こうのうき)という史料の中に、その内容とともに、「道三の遺言状」として紹介されているもので、手紙そのものというのではありません。

残る2通は、大阪城天守閣が所蔵するものと、京都・妙覚寺が所蔵するものですが・・・微妙に文章は違っているものの、どちらも内容は、ほとんど同じ。

同じ内容の、同じ人宛ての手紙を、道三が2通書くとは思えないので、どちらかが「写し」、あるいは、両方とも「写し」の可能性もありで、中には、「写し」ではなく「偽作」との見解を持っておられる専門家のかたもおられるようですが、いずれにしても、「美濃(岐阜県)を信長に・・・」という約束のようなものが、道三と信長の間にあった事は事実であろうというのが、現在のところの定説となっているようです。

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斉藤道三国譲り状(妙覚寺蔵)

その手紙の内容を要約させていただきますと・・・

「今回、わざわざ、この手紙を書いたんは・・・
美濃の国の大桑
(おおが)で、“自分が死んだ後は、美濃を好きにしてえぇから”という譲り状を信長に渡したよって、お前は京都の妙覚寺に行くようにって事を、言うておこうと思てな。

子供のうち、1人が出家したら、家族全員が極楽に行けるらしいやんか。
この手紙を書きながらも、涙が止まらへんねんけど、ここにきて、すべてのこの世の苦しみから逃れて、仏さんの恩恵を得る事ができると思たら、うれしい限りやな。

明日の合戦で、俺はきっと死ぬやろうけど、終(つい)の住みかはどこになるんやろ」

・・・と、こんな感じですが、文中に「妙覚寺に行きなさい」と書かれていて、実際に、道三の息子の1人が、妙覚寺に入って妙覚寺19世となっているので、この手紙は、その19世となった日饒(にちじょう)上人に宛てたものであろうという事になってます。

文中には「明日の合戦」というのも出てきますが、以前書かせていただいたように、翌日の4月20日は、道三が、息子・義龍と刃を交えた長良川の戦い(4月20日参照>>)・・・

18日に、道三は、鶴山という場所に陣を構え、20日になって、義龍が長良川の南岸に軍を動かした事で、道三も、その北岸へ軍を移動させたと言いますので、手紙の日づけを信じるならば、まさに、その前日にしたためられた事になります。

道三の軍は約2千・・・対する義龍の軍は約1万7千。
確かに、死を覚悟せねばならない数であった事でしょう。

合戦の勝敗はその日のうちに決し、壊滅状態となった中、道三は壮絶な最期を遂げ、討死した道三の首は、鼻を削ぎ落とされたうえ、長良川の河原にさらされたと言います。

前年の10月22日の、長男・義龍による次男・三男の殺害と稲葉山城の占拠にはじまった一連の戦いは、義龍の裏切り(10月22日参照>>)・・・というよりは、道三体制を崩壊させる一門あげてのクーデター色の強いものであったようで、長良川の戦いに挑む道三が「義龍の器量を見誤った」と言ったそうですが、「見誤った」というよりは、後世の人が、一介の油売りから、身を起す道三の出世物語のせいで、あたかも道三にスーパーヒーローのようなイメージを持ってしまった(現在は親子2代の出来事というのが定説)といった感じで、多くの家臣が義龍側についている現状から考えても、実際には、道三より義龍のほうが、武将としては長けていたという事でしょう。

道三にとって、義龍は、実子ではなかった可能性もあるとは言え、主君から国を乗っ取って一国一城のあるじとなった道三も、最後には、息子に国を盗られたという事で、娘婿の信長に、美濃の将来を託したくなるのもわからないではありません。

ところで、その託された信長・・・道三が討ち取られたという事は、救援要請に答える事ができなかったという事になりますが、彼も、その救援要請をまったく無視したわけではなく、すでに軍を編制し、木曽川を越えて、戦場まで約15kmほどの大良(おおら)という場所に陣を構えていました。

ただ、それ以上深く美濃へ入る事は、やはり、できなかったのでしょう。

なんせ、この時の信長は、未だ尾張を統一する事すらできていませんから、同族の岩倉織田家が常にスキをうかがっている状態でしたし、何より、一家の中に、弟・信行派という反対勢力が存在する(11月2日参照>>)状況でしたから、美濃と尾張の両方を見据える事ができる位置にまでしか、軍を進められない事は、いたしかたないところであります。

結局、この長良川の合戦の時は、道三を討ち取った義龍軍が、その勢いのまま信長のところまでやって来て、陣を襲撃しはじめ、未だ、道三の死を知らなかった信長軍が、それに応戦するというかたちで合戦がはじまるのですが、やや、織田軍劣勢になったところで、すでに道三が敗死しているとの知らせが届いたうえ、岩倉織田軍が、信長の居城である清洲城に攻め込んだとの情報も入り、信長は自ら殿(しんがり)を務めて軍を退却させという事です。

後に、この譲り状を大義名分に掲げて、美濃に攻め入る信長ですが、道三に託された美濃を落すのには、この先、11年の歳月を要する事になります(8月15日参照>>)

それも、名将だと思われる義龍が当主の間には、攻め落とす事ができず、彼が35歳という若さで亡くなってくれる事で、信長は美濃を攻め落とす事ができたという気もします。

「美濃を譲る」という約束事が、道三と信長の間に交わされていたであろう、そして、今回ご紹介した手紙の内容が本物であろうという根拠としては、上記の美濃を攻める大義名分として使われた事だけでなく、後に、信長が上洛してから、ことのほか妙覚寺を重用するという事でもわかるような気がします。

ほら、あの本能寺の変の時、信長が宿泊していたのは、もちろん本能寺ですが、跡取り息子の信忠が宿泊していたのは妙覚寺(6月2日参照>>)・・・何となく、道三と信長の絆が見えるような気がします。
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2009年4月18日 (土)

たった一首で大歌人?謎が謎呼ぶ猿丸太夫

 

延喜五年(905年)4月18日、第60代・醍醐天皇の命により編さんされた『古今和歌集』が完成し、天皇に奏上されました。

・・・・・・・・・

それまでには無かった、天皇の命によって作られた歌集・・・つまり、『古今和歌集』は、日本で初めての勅撰(ちょくせん和歌集という事になります。

男性的でおおらかな歌が多く、防人(さきもり)の歌(2月25日参照>>)や、その母・妻に代表されるように、身分に関係なく、あらゆる階層の者の歌を収めている『万葉集』と比較して、ほとんどが貴族や僧侶・尼僧の歌を収めている『古今和歌集』は、繊細で女性的・・・ちょっとセレブな歌集です。

その歌風は、先の万葉集を「ますらをぶり」と呼ぶのに対して、「たをやめぶり」と称されます。

天皇の命を受けたプロジェクトチームのメンバーは、
紀友則(きのとものり)
紀貫之(きのつらゆき)
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
壬生忠岑(みぶただみね)・・・の4人。

Kinoturayuki 紀貫之が書いたという序文にもあるように、この『古今和歌集』は・・・

やまとうた(和歌)とは、
「…力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛き武士の心をも慰むるは 歌なり(原文)
「力を用いずに天地を動かし、怖い鬼を感動させ、男女の仲をくっつけ、勇猛な武士も泣かすのが、歌である」
そんな、すばらしいものであるというのがコンセプト。

当時は、公的な文書も漢文で書かれ、漢文ができなければ出世する事もできないし、漢詩が詠めなければ宴会でもモテない時代・・・

そんな舶来ブームのご時世に、わが大和魂の鉄槌をブチ込んやる!
てな勢いで編さんされたのです。

NASAが開発したと言えば飛びつき、全米1位と聞けば食いつくわが身としては、ちょっと耳が痛いですゎ・・・。

ところで、その序文でも名前を上げられているにも関わらず、その歌自体は「よみ人知らず」で収録され、しかも世に出た歌は、その一首だけという謎の人物をご存知でしょうか?

その人は、あの『百人一首』にも登場します。

♪奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
  声きくときぞ 秋は悲しき♪

「ただでさえ秋は寂しいのに、紅葉の山深いとこで、鹿の鳴く声を聞いたら、もっと悲しなるやん」

この歌を詠んだとされる猿丸太夫(さるまるだゆう)という人物です。

彼は、生まれも育ちも、生きていた時代さえもわからない人で、ゆえに実在の人物ではない可能性さえ噂され、その正体はまったく不明・・・

なのに、百人一首に選ばれ、古今和歌集の序文で大歌人として紹介され、後には「三十六歌仙」の1人にも数えられている・・・なんとも不思議です。

畿内を中心に猿丸ゆかりの神社や旧跡が数多く残るところから、猿丸太夫とは、特定の人物を指すのではなく、氏神の祭主の資格を持つ人、あるいは、そのような職種全体を指す言葉ではないか?とも言われます。

また、吟遊詩人のように、各地で歌を歌いながら神事のような事を行っていた占い師的な人々の事かも知れないという話もあります。

この猿丸太夫の謎については、もう、江戸時代の頃から、数々の学者さんが挑みつつも、未だ誰1人として解明できない、まさに迷宮入り・・・。

江戸時代の百人一首解説本では、猿丸太夫は、聖徳太子の孫・弓削王だという噂を取り上げ、さらに発展して・・・名前が似ているから弓削道鏡(ゆげのどうきょう)(10月9日参照>>)ではないか?という話を、「トンデモ説」として紹介しています。

もはや、『江戸版・日本史サスペンス劇場』ってな感じですが、聖徳太子自体が架空の人物かも知れないと取りざたされる平成の世となっては、その孫って言われても・・・、てな感じですね。

一方、名前が似てると言えば、『続日本紀』の和銅年間の記録に登場する柿本朝臣佐留(かきのもとあそんさる)という人物を、「佐留→猿」から、この猿丸太夫の正体とする意見もあるようですが、その柿本佐留なる人物は、さらにその名字から、例の柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)(3月18日参照>>)が、そうではないか?という話にまで発展しています。

柿本人麻呂も、あの天武天皇の息子・草壁(くさかべ)皇子高市(たけち)皇子の死に際して歌を詠んだり、国家的行事の際に代表で天皇の気持ちになり代わって歌を詠んだり・・・と、飛鳥時代後半に、宮廷のおかかえ歌人的な役割をしていた有名人であるにも関わらず、正史と呼ばれる書物には、一切、その名前が出てこない人物です。

彼が石見(いわみ)の事を詠んだ歌に、「死に臨んで・・・」という詞書(ことばがき・説明文)がある事から、石見で死刑にされたのではないか?という憶測が飛んでいて、そうなると、罪人という事で、その人物が生きた記録を抹消され、名前を変えられているのだろうと考えられるわけです。

以前、和気清麻呂(わけのきよまろ)大隅へ流罪となった時のページで(9月25日参照>>)、流罪という刑罰とともに、改名という刑罰が存在する旨の事を書かせていただきましたが、清麻呂の場合は、和気清麻呂なので別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)・・清い(きたな)になってるとこがミソですね。

彼の場合は、敵対していた道鏡が失脚する事によって、再び政界に復帰するので、清麻呂というホントの名前も残っているわけですが、これが、失脚したまま生涯を終えたら、穢麻呂の名前しか記録に残らない事になりますからね。

「清い→穢い」になるなら、「人→猿」になるのもワカランではないという気がしますね。

確かに、猿丸太夫=柿本佐留=柿本人麻呂なら、大歌人という事になりますわな。

ところがどっこい、その猿丸太夫の名前が登場する『古今和歌集』の序文には、柿本人麻呂の名前も登場します・・・しかも、「高位の官吏である」と、身分まで書いてある
( ̄◆ ̄;)

「あぁ、もう、手の届くところに犯人が・・・」
と、思いきや、アリバイやら証言やらで、またふりだしに戻される~

まさに、「歴史はサスペンス」
これだから、やめられないのです。
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2009年4月17日 (金)

島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い

 

天正十五年(1587年)4月17日、豊臣秀吉九州征伐の最後の戦いとなった高城・根白坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、柴田勝家を破り、徳川家康を傘下に収め、今や天下に一番近い男となった羽柴秀吉・・・さらに、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めて四国を手に入れた秀吉にとって、未だ手付かずなのは九州でした。

そこへ、かつては豊後(大分県)の王と呼ばれ、一大キリシタン王国を夢見た大友宗麟(そうりん)が、薩摩(鹿児島県西部)島津勢に来襲され、秀吉に救援を求めてきます(4月6日参照>>)

天正十四年(1586年)7月には、傘下にある岩屋城を落され(7月27日参照>>)、もはや、大友は風前のともしび・・・秀吉とて、今では九州全土を手に入れんが勢いの島津を、このままにしておくわけにはいきませんし、コレ幸いと、九州征伐に乗り出します。

しかし、平定したばかりの四国勢中心の秀吉軍は天正十四年(1586年)11月の戸次川の戦いで手痛い敗北を喫してしまいます(11月25日参照>>)

その翌月の12月に、太政大臣となって豊臣の姓を賜った秀吉は(12月19日参照>>)、明けて天正十五年(1587年)3月、自ら20万(12万とも)の大軍を率いて、九州征伐に出陣します。

まずは軍勢を2隊に分けて、一つは自らが率いて肥後(熊本県)から薩摩へと・・・、もう一隊は、弟の豊臣秀長が率いて、豊後日向(宮崎県)から大隅(鹿児島県東部)へ入る事にします。

「さすがに、この大部隊とまともに戦ってはマズイ!」とばかりに、とりあえず九州北部を放棄した島津は、日向&薩摩を徹底的に守る作戦に出ます。

その最前線で食い止める防波堤の役割を荷ったのが、日向高城(たかじょう)城主・山田有信です。

そう、ここは、かつて、耳川の戦いの舞台となった場所・・・その時、有信は、わずかの城兵で、宗麟の大軍勢から、この高城を守り抜き、駆けつけた島津勢は、秘策・釣り野伏(のぶせ)で、大友勢に多大な損害を与えて大勝したのでした。
  (耳川の戦い・初日:11月11日参照>>
  (耳川の戦い・2日目:
11月12日参照>>

逆に、この敗戦によって陰りが見えはじめた大友が、坂道を転げ落ちるように衰退の道をたどる事になった戦いでありました。

そんな運命の場所を攻める事になったのは、豊後から日向へと南下してきた弟・秀長率いる8万の軍勢・・・まずは、数にものを言わせて高城を囲み、攻撃を仕掛けます。

Takazyoufuzinzucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

その数の差の多さにしては、よく守った有信ですが、さすがにコレは差がありすぎ・・・兵糧の補給路も断たれ、間もなく陥落寸前となるのですが、もちろん、島津も黙って見ていたわけではありません。

すぐに高城の救援へと向かう島津勢・・・しかし、島津が高城の救援へと向かう時に、必ず通るであろうと予想した野白坂には、すでに豊臣配下の蜂須賀家政黒田孝高藤堂高虎らが配置され、行く手を阻みます。

しかも、豊臣勢は、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城(攻撃用の仮の城)を構築し、すでに完全な包囲網を築きあげていたのです。

数に劣る島津が、この包囲網を破るには、奇襲しかありません。

かくして天正十五年(1587年)4月17日島津義弘(義久の弟)率いる一軍が、根白坂に布陣する豊臣勢に夜討ちをかけました。

本来なら、油断していた兵士が、突然の奇襲に驚き、総崩れとなる・・・ところなのでしょうが、もはや、数々の激戦をこなしてきた豊臣勢は、数だけではなく、そのすべてにおいて島津勢を圧倒していたのです。

彼らが敷いたのは、包囲網だけではなく、情報網も・・・この義弘の奇襲は、事前に豊臣の知るところとなっていて、むしろ、彼らが待ち構えているところへ突入するかたちになってしまった奇襲軍だったのです(3月25日参照>>)

そうなったら、ひとたまりもなく、島津勢は大打撃を受けてしまいました。

この時、慌てふためく島津勢に対して、豊臣勢がいかに冷静で余裕があったかのエピソードが『菅氏世譜(かんしせいふ)という文書に語られています。

戦いも終わりを告げようとする頃、1人の逃げ遅れた島津の足軽を発見した黒田配下の一隊は、われ先にその者を討ち取ろうとしましたが、その中の菅正利(かんまさとし)なる人物が、「あれは味方だ!討ち取るな!」と言った事で、皆、追撃をやめ、その足軽も、そのまま姿を消しました。

しかし、戦いが終ってから、やはり、あの足軽は敵であった事がわかり、皆が「アイツを逃したのはお前のせいだ」と言って正利を責めたのですが、その時、正利は・・・

「あの足軽を討ち取るのが一番な事は確かやけど、足軽のような身分の低い者を討ち取ったところで戦況が変わるわけやあれへん・・・けど、あれ以上追い込んで、もし、窮鼠猫を噛むで、あの足軽が向かってきたら、あの鉄砲で何人かは撃たれてたかも知れんやろ?
敵1人のために味方数人の損害が出たらアカンと思て、皆を止めたんや」

それを聞いて、皆、彼の冷静な判断に感心したという事です。

結局、この高城・根白坂の戦いで、もはや抵抗しがたい事を悟った総大将・島津義久は、薩摩に戻り、泰平寺にて剃髪し、秀吉に降伏の申し入れをします。

一方、援軍の見込みもなくなった高城でしたが、さすがは勇将の誉れ高き有信・・・その後も、しばらく抵抗を続け、豊臣の再三の降伏勧告にも屈せずにいましたが、ついに義久がじきじきに開城命令を出すに至って、やっと有信も降伏を決意したのでした。

こうして、九州の雄・島津を配下とした秀吉・・・この後は、関東の北条と、東北が残るのみとなりました。
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2009年4月16日 (木)

2代将軍・徳川秀忠誕生~縁の下の基礎造り

 

慶長十年(1605年)4月16日、家康の三男・徳川秀忠江戸幕府・第2代将軍となりました。

・・・・・・・・・・

ご存知、父・徳川家康は、長きに渡る戦国の世を平定し、江戸時代300年の平和をもたらした偉大な人物・・・。

息子・3代将軍・徳川家光は、生まれながらの将軍にして、参勤交代鎖国制度を築き、幕府による全国支配を確立した名君・・・。

そんな二人に挟まれたうえ、初陣である関ヶ原の合戦では、3万8千という大軍を率いていながら、わずか2千で籠る上田城真田昌幸幸村親子に手こずり、肝心の関ヶ原の開戦に間に合わないという大失態(9月7日参照>>)を演じてしまった事で、この2代将軍の徳川秀忠さんは、あまり有能ではない、影の薄い人物としてのイメージが強いですよね。

確かに、この関ヶ原の直後には、次期将軍には、秀忠よりも、次男の結城秀康のほうがふさわしいのでは?と囁かれた事もあったようです(11月21日参照>>)

Tokugawahidetada600 しかし、結局、家康は、自らの後継者を、この秀忠にしました。

そこには、やはり、父の目から見た確かな物があったのでしょう・・・というより、秀忠の行った政策をちゃんと見てみると、その選択は正しかったという事がわかります。

なぜなら、この先、300年続く徳川の世を確実な物にするために、家康がやり残した事を行ったのが秀忠だからなのです。

まず、一番は、外様の始末です。

このブログでも度々書かせていただいている通り、関が原の合戦は、あくまで豊臣家の内紛・・・・その時、戦いに挑んだ家康の立場は、豊臣家の一家臣です。

豊臣家が豊臣家と戦うにあたって、一番たいへんな事は、自分(東軍・家康)に味方してくれる者をいかに多く取り込む事ができるか?という事で、この時の家康は、それこそ、なりふりかまわず手紙を書き、恩賞をチラつかせ、味方に引き入れなければなりませんでした。

なんせ、向こう(西軍・石田三成)には、豊臣秀頼というホンモノの豊臣の後継者を取り込んでるわけですから・・・。

そうなると、その綱わたり的な策略で味方に引きいれた豊臣恩顧の武将の合戦後の動向は、いたって不安なわけで、それなりの・・・いや、約束以上の恩賞を与えてご機嫌をとっておかなければ、いつなんどき反発を喰らい、皆が一斉に敵に回るとも限らないわけです。

現に、慶長十六年(1611年)の3月に行われた、家康と秀頼の二条城での会見にあたっては、その場に同席した加藤清正池田輝政らといった面々が、皆、いざという時の懐剣をしのばせての参加だったという話もあり、清正に至っては、その時、秀頼に出された毒まんじゅうを身代わりに食べて死んだという噂まであるくらいです(3月23日参照>>)

その話し自体は、単なる噂であったとしても、そんな噂が囁かれるくらい、合戦で東軍についた武将たちも、未だ豊臣だいじの気持ちが大きかったという事なのです。

そのため、家康は、関ヶ原で味方についてくれた彼らに多大な恩賞を与えます。

福島正則:尾張清洲24万石→安芸備後49万8千石
池田輝政:三河吉田15万2千石→播磨姫路52万石
浅野幸長:甲斐府中16万石→紀伊和歌山37万7千石
黒田長政:豊前中津18万1千石→筑前福岡52万3千石
細川忠興:丹後宮津18万石→豊後2郡39万9千石

他にも、藤堂高虎山内一豊堀尾忠氏田中吉政・・・とてつもない大盤振るまいです。

つまり、そのくらいの戦後処理をしないと、不安なくらいの不安定な状態だったという事でしょう。

しかし、これだけ大きい領地を取得した彼らは、今は大喜びでしょうが、後々、徳川家の脅威となる事は目に見えています。

それらの豊臣恩顧の外様大名たちの力を、徐々に徐々に・・・それでいて確実に削いでいったのが、本日の主役・2代将軍・秀忠さんなのです。

まずは、多額の普請費用・・・

神社仏閣や江戸城などの修復をやってもらって、お金を湯水のごとく使っていただくわけです。

戦国の戦乱で焼失した堂搭が、この時代に再建されているケースが多々あるのは、皆様もご存知でしょう。

また、以前、ご紹介した大阪城の石垣巡り(12月11日参照>>)・・・そのページでご紹介した各大名寄進の石垣の中に、いかに外様大名の刻印が多いのかは、ちょっと見てみただけでも、すぐにわかりますよね。

また、蛸石をはじめとする大阪城の巨石は、その1位の蛸石から10位の竜石まで、それらの巨石を寄進したのは、加藤忠広(加藤清正の次男)池田忠雄(ただかつ・池田輝政の三男もしくは六男)で、彼らも外様の息子・・・。

江戸城(皇居)は、大昔に一回行ったっきりで記憶が定かでありませんのでお話する事は避けますが、豊臣滅亡後、江戸城と同じく幕府直轄となった大坂城は、以前、徳川時代の大坂城(1月23日参照>>)で書かせていただいた通り、豊臣時代の遺構をすべて地中に埋めて、まったく新しく構築されたもので、そこに、このような巨石を寄進する・・・もちろん、石の材料費から切り出し費用、運搬費用も全部大名持ちですから、幕府直轄の大坂城に、これらを寄進するのは、イコール・徳川に寄付をするという事ですから・・・。

そうやって、各大名たちに、自分とこの城や武器の調達にお金を使えないくらい、ふんだくってしまうわけですねぇ。

そして、次に、大名を統制する法律・武家諸法度です(7月7日参照>>)

この法律で、がんじがらめにした大名たちの、少しでも違反するところを見つけては、改易を申し渡して、取り潰してしまうのです。

なんだかんだ言って、諸大名を取り潰した数だけで言えば、家康・家光を越えて、この秀忠さんが一番多い・・・もちろん、お取り潰しまではいかなくても、いろんな理由つけて転封させて、その力を削いでいく事も忘れません。

さらに、正式には、家光の代に武家諸法度に加えられる参勤交代の制度ですが、その基礎は、すでに秀忠の時代でできあがっていました。

それが、先の江戸城の普請・・・長期にわたる江戸城の普請には、先に書いたような材料費や運搬費だけでなく、人夫も出さなければならないわけで、それらの人々の給料やら食費やらも大名持ちなわけですし、そんな彼らをほっとらかしにしておくわけにいきませんから、当然、殿様自身が頻繁に江戸にやって来なくてはなりません。

そうこうしているうちに、一定期間、江戸に滞在する事が義務付けられ、やがては、故郷に帰る時には、妻子は江戸に置いていけってな話しになって・・・「そんなんイヤですわ!」と反発すれば、上記の転封・改易処分の嵐・・・となるわけです。

そんな秀忠さんが、晩年、最後の仕上げとばかりにやったのが、朝廷の封じ込み・・・紫衣事件です。

紫衣(しえ)とは、位の高い僧や尼僧が着る紫色の法衣や袈裟の事ですが、これは、朝廷のお許しがあって初めて着用する事ができたものなのです。

ところが寛永四年(1627年)、いきなり、十数年前にまでさかのぼって、幕府がこれを取り消した・・・これが紫衣事件(11月8日参照>>)

朝廷としては、天皇の名で一度出した許しを、幕府に取り消されるなんて、面目丸つぶれ・・・権威もクソもあったもんじゃありません。

実は、これ以前にすでに幕府は、『勅許紫衣法度』『禁中並公家諸法度』などの、朝廷が何かを決める時には幕府の許可が必要という法律を出していて、その当時は、まだ、家康が健在の頃であったため、あまりの威光に逆らえず、いざこざを避けるため、とりあえず朝廷は、その法律を受け入れていたわけですが、その家康が亡くなってからは、何となくうやむやに・・・そして、この頃は、ナイショで紫衣の許しを乱発していて、幕府が許可をしていない紫衣の僧の存在が多数発覚してしまったのです。

そこで、秀忠は、有名無実となっているこの法律が、現在も有効であってきっちり守られなければならない事を、改めて強調したわけです。

おかげで、時の天皇であった後水尾天皇とは、完全に決裂状態となってしまいますが・・・。

もちろん、この時は、すでに将軍は、3代の家光に譲っていた秀忠でしたが、未だ大御所として君臨しており、平安時代の院政のような体制で、牛耳っていた中の出来事です。

こうしてみると、実は、家光の将軍時代に確立されたとされる幕藩体制は、どうやら、家康が構想したものを秀忠が実現し、家光はその体制の上に乗っかった・・・という形のようですね。

日頃は、あまり目だたない秀忠さん、ちょっぴり持ち上げました。
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2009年4月15日 (水)

西南戦争~熊本城・救出作戦

 

明治十年(1877年)4月15日、西南戦争で薩摩軍に包囲されていた熊本城に政府軍が入城・・・52日間にわたる熊本城・攻防戦が終結しました。

・・・・・・・・・・・

明治十年(1877年)1月30日、鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した、ご存知、西南戦争・・・(1月30日参照>>)

正々堂々と陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣(2月15日参照>>)、2月22日には九州の守りの要である熊本城を攻撃しますが、天下の名城の守りに苦戦する中、政府の援軍が海路にて九州へ向かい、続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上する事となります(2月22日参照>>)

その後、政府軍に一線を越えさせてはならずと、山鹿田原吉次一帯の約40kmに渡って防塁を構築して備えを強化する薩摩軍に対して、3月の初め頃から攻撃を加えはじめた政府軍でしたが、3月18日に東側から熊本城の救援を試みる政府警視隊が薩摩軍の熊本城包囲隊に、二重峠にて攻撃を仕掛け(3月18日参照>>)ると同時に、翌・19日に海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が、八代(熊本県八代市)を占領した事で、政府軍は、3月20日に、田原坂(たばるざか)への総攻撃を開始・・・西南戦争の分岐点とも言える田原坂は、その日のうちに陥落しました(3月20日参照>>)

最先端の電信網にて連絡を取り合う政府軍に対して、未だ人による伝達に頼っていた薩摩軍は、少し遅れて、この八代の陥落を知り、慌てて軍を南下させます。

Seinansensouseifucc_2
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

3月26日には、この薩摩の南下軍と衝背軍が小川(熊本県浮城市)にて衝突・・・その日のうちに勝利した衝背軍は、さらに北上し、負けた薩摩軍も北へ後退・・・

次の、3月31日の松橋まつばせ・熊本県宇城市)での衝突では、水田に海水を引き込んで、あたり一帯を水没させ、何とか防衛しようとする薩摩南下軍でしたが、ひき潮を利用して迂回した衝背軍に背後を突かれ、この松橋も落としてしまいます。

4月1日には宇土(熊本県宇土市)を落とした衝背軍は、その勢いのままの4月12日・・・いよいよ熊本城へと進軍します。

翌・13日・・・この時、南下軍の指揮をまかされていた薩摩軍・3番大隊長の永山弥一郎は、意気揚々と進軍する衝背軍を目の当たりにして、「この敗戦の責任は自分にある」とばかりに、買い取ったばかりの民家に火を放ち、壮絶な自刃を遂げました。

かくして明治十年(1877年)4月15日、1万数千の薩摩の兵に囲まれながらも、農民あがりの素人兵の集団であった鎮台(政府陸軍)兵とともに52日間耐え抜いた熊本城への包囲が解かれたのです。

この間、籠城する熊本鎮台の指令長官であった谷千城(たにたてき)は、敵に狙撃され、弾丸が喉を貫通するという重傷を負いながらも、運良く弾丸が気管を外れていた事で、1週間寝込んだ後、再び指揮をとるという激務をこなしていたと言います。

歴史にもしもは禁物ですが・・・
もし、この時の弾丸が谷の喉を貫き、彼が命を落としていたら、おそらく、政府軍が到着するまで持ちこたえる事はできず、熊本城は薩摩軍に奪われていたのでは?と推測する歴史家も多いのだとか・・・

そうなれば、当然、西南戦争はさらに長引き、泥沼を化していたかも知れませんね。

一方、熊本城を放棄した薩摩軍は、一旦、さらに南の人吉(熊本県・人吉市)に拠点を置きますが、ここも6月1日に陥落・・・その後、日向(宮崎県)を転戦するも、7月24日には都城が陥落、30日には宮崎も落とされ、翌月の8月14日には、本営の延岡も占領されてしまいます。

翌・8月15日、その延岡を奪回すべく、決死の戦いを決意した薩摩軍・・・ここで、この西南戦争で初めて、総指揮官である西郷隆盛自らが戦闘の陣頭指揮をとる事となります。

憧れの西郷の姿を目の当たりにして、奮い立ち、士気あがる兵士たち・・・

その戦いは、ひょっとしたら、西郷は、ここを最後の死に場所と考えていたのでは?とも言われるくらい激しい戦いで、薩摩軍3000人は大いに奮戦するのですが、結局敗退し、翌日には、西郷は、薩摩軍の解散を布告・・・

そのため、薩摩軍の多くの者が投降し、最終的に600余りとなった軍は、夜の闇にまぎれて、どこへともなく姿を消したのです。

・・・ですが、ご存知のように、まだ西南戦争は終りません。

この後、いよいよ城山の最終決戦!!(9月24日参照>>)
となるのですが、その前に・・・
この年が火星大接近の年だった事から話題となった西郷さんの噂(9月3日参照>>)についてもどうぞ。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年4月14日 (火)

本物か?ニセ物か?直江兼続の「直江状」

 

慶長五年(1600年)4月14日、今年の大河ドラマの主役・直江兼続が、西笑承兌に宛てて一通の手紙を送っています・・・これが、あの徳川家康を激怒させたと言われる有名な手紙・『直江状』です。

・・・・・・・・

豊臣秀吉が亡くなって以来、五大老の1人であった上杉景勝は、京を離れる事もままならず、慶長四年(1599年)秋・・・やっと2年前に引っ越した(1月10日参照>>)会津に帰って、いざ、内政を行おとしたところへ、秀吉亡き後に実権を握りつつある徳川家康からの上洛要請・・・で、先日の4月1日、この上洛の要請を、景勝が断ったというお話をさせていただきました(4月1日参照>>)

Naoekanetugu600 そのページにも書かせていただいたように、その後、家康は、相国寺の搭頭(たっちゅう)豊光寺の僧・西笑承兌(せいしょうじょうたい)に頼んで、再び、景勝の上洛と釈明を要請する手紙を、家臣の直江兼続宛てに出させたのです。

その返事として、慶長五年(1600年)4月14日兼続から西笑承兌へと送られたのが、後に『直江状』と呼ばれる手紙です。

16か条からなるその内容を要約させていただきますと・・・

「ウチの景勝が上洛を延期してる事を、なんやかんや噂してはるみたいですけど、越後から会津へと引越しして間もなくに、秀吉はんが亡くならはって、とるもんもとりあえず上洛してから、去年の9月にやっと帰れたばっかりやのに、また正月に来いって言われても、ほんなら、いつ内政の事やったらよろしいねん。

しかも、ウチは雪国で、10月~3月は動きが取れん事も、東北の事知ってるヤツに聞いたらわかりますやん。

橋や道路を整備する事は、新しい領地を治めるには当たり前の事やし、田舎の武士が武器を集めるのんは、そちらさんら都会の武士が茶器を集めんのとおんなじですがな。
なんで非難されなあきませんのん?・・・だいたい、ウチの景勝とおんなじ五大老の1人である家康さんにゴチャゴチャ言われる筋合いのもんやおまへんやろ。

ウチの景勝は、秀吉さんの時代から律儀な人間で通ってて、それは今も変りません。

逆心がないねやったら、誓詞を出せ出せて言わはりますけど、今まで、何枚も書いた起請文はどないなってますのん?

逆心なんかあるわけないですやん。
ない以上は、上洛も、する必要おませんでっしゃろ?

だいいち、昨日まで逆心を抱いてたくせに、チャンスがなくなった途端に、今日は知らん顔して上洛して誰かさんにとりいったりするような恥もがいぶんもない人間とつき合う事は、ウチの景勝の性格に合わんのんですわ。

正月からこっち、へんな噂がたってんのは、勝手に誰かが言いふらしてるだけなんと違いまっか?
ちゃんと、確かめはりましたか?
それ、確かめてはれへんねやったら、家康さんがウソを信じ込まされてる事になりまっせ・・・世間は、どないな風に見ますやろな。」

長~い文章になってしまいましたが、もとの手紙も、かなり長いです。

ただし、現在複数伝わっている直江状ですが、現実にはすべて後世の写しという物で、本人直筆の原本は残っていません。

また、写しの中でも、内容が少し違っている物もあり、中には・・・
「PS:家康さんか秀忠さんが、こっちへ来はんねやったら、いつでもお相手しまっせ!」
という、メッチャ怪しい雰囲気の追伸つきのものもあり、ひょっとしてニセ物なのではないか?との疑いがかけられているシロモノでもあります。

上記の要約では、少し、挑戦的な表現にしてみましたが、実際の現存する写しの文章も、敬語の使い方が変だという事ですし、そのあまりの過激な内容から、疑いの目が向けられているわけですが、一方では、「当時の雰囲気からみれば違和感はない」と、直江状はホンモノという意見もあります。

歴史の専門家の間でも、ホンモノがニセ物かの意見が分かれているのですから、一般人の私が、その真偽を確かめる余地などないわけですが、この後、家康が会津への出陣を考えた時に、それに反対した五奉行の長束(なつか)正家増田(ました)長盛らの連判状に、「お怒りはごもっともですが・・・」とか、「田舎者の礼儀知らずやと思て・・・」といった文章が見られるところから、現存する直江状が、たとえすべてニセ物であったとしても、この時期に、兼続が、家康を怒らせるような過激な書状を送った事は確かであろうというのが、現在の定説となってします。

専門家のかたが、「過激な書状を送った事は確か」とおっしゃるのですから、おそらくは、その通りなのでしょうが、それならそれで、新たな疑問が湧いてくる事も確かです。

Tokugawaieyasu600 なぜなら、この時、家康は怒りたかった・・・つまり、この時期に家康を怒らせる事は、家康の思う壺であって、もし、本当に兼続がそんな過激な手紙を送ったのだとしたら、見事、家康の策略にハメられた事になります。

この後、「会津征伐」と称して畿内を離れる家康ですが、家康が本当に征伐したいのは、会津の上杉ではなくて、大坂の豊臣です。

しかし、実力はある家康ですが、地位としては未だ豊臣の家臣・・・いきなり豊臣に攻撃すれば、逆心の謀反人となるわけで、ここは、何が何でも豊臣家内で内紛を起してもらって、それに乗じて、自らが一方の豊臣の家臣として、もう一方の豊臣家を叩き潰して、豊臣の力を半減させてしまう事が肝心なのです。

そのために、わざわざ、加藤清正らから襲われた石田三成をかくまって、そのお命を助けてさしあげてるわけですから・・・(3月4日参照>>)

ここで、家康を怒らせて畿内から遠く離してしまう事は、そのスキに豊臣で内紛が勃発し・・・というシナリオに乗っかっちゃった事になりますね。

・・・とは、言え、やっぱり、この推理はアトヅケ・・・、この後の歴史を知っているから、それ以前の様々な家康の行動を関ヶ原へ結びつけて、家康のシナリオだったと言ってるわけで、ひょっとしたら、兼続は本気で家康と一戦かまえる気持ちで、かの書状を書いたのかも知れませんし、受け取った家康も、本気で会津を潰そうと出陣したのかも知れません。

現に、上杉の当時の領地には、この時の、家康の攻めに対抗すべく構築したであろう土塁や堀の遺構が残っている場所もあり、最大で東西3kmに及ぶ塁壁があたのではないか?とも言われています。

ただ、そうだとすると、またまた矛盾が生じてきます。

それは、畿内で三成が挙兵し、家康が小山で軍儀を行い、会津攻めを中止して、軍を西へ向けた時、上杉はなぜ追撃しなかったのでしょうか?

これだけ強気の挑発して、それだけヤル気満々であったとすれば、追撃しなかったのは完全にオカシイ・・・

ここで、家康を追撃していたなら、家康は江戸城から身動きがとれず、その後の関ヶ原での決戦は、西軍有利に進んだ事は、間違いないところでしょう。

この時、小山を撤退した家康が、自分が利根川を渡ったところで、後続部隊がいるにも関わらず、舟橋を切断してしまっている事も、家康が、それだけ、上杉の追撃を警戒していた証拠と言える行動かも知れません。

しかし、上杉は追撃しませんでした。

実は、この時、家康追撃を進言していたのがかの兼続・・・それを、「攻撃をしてこない敵を撃つ事は義に反するとして、かたくなに拒否したのが景勝だと言われます。

そうです。

かの上杉謙信に義があったかどうかは、また別の機会にお話しさせていただくとして、とりあえず、大河ドラマでは、兼続こそが亡き謙信の義を継ぐ者として描かれていますが(主役なので・・・)、どうやら、実際には、義を受け継いでいたのは景勝さんのほうだったようですね。

すでに、この頃には、景勝は、国政から外交までのすべてを兼続にまかせ、むしろ、謙信以来の家臣の水原親憲(ちかのりなどは「主君を軽んじて、自分の思いのままにしている・・・上杉も末だ」と嘆いたりなんかしてる状況であったはずなのですが、なぜか、この家康の追撃だけは、兼続の必死の進言にも首をたてに振らず、「家康が江戸に引き返した以上、コチラも引き返すのが道理というもんだ」と、景勝は、かたくなに拒否をしたと言います。

つまり、上杉も一枚岩ではなくヤル気満々だったのは、兼続だけ・・・という可能性もなきにしもあらず・・・といったところでしょうか。

さらに、ここでよく言われるのは、兼続と三成との間に、なんらかの密約があったのかどうか・・・という話し・・・。

確かに、秀吉の葬儀のために、景勝がずっと京都にいたという事は、当然兼続もいたという事で、そうなると、はなから秀吉のそばにいた三成とは、会津に帰る直前まで、密約を交わすチャンスはあった事になります。

お互い同い年で、けっこう気が合う二人だったと言われてますしね。

もちろん、その密約というのは、兼続が家康を怒らせ、怒った家康が会津へ出陣し、その留守の間に三成が伏見城を攻撃して、両方から挟み撃ち・・・というシナリオの密約という事になります。

とは言え、やはり、この時点での密約があったかどうかは、その証拠もない事で、空想の中にある出来事なわけで、おそらく、この後、長谷堂の戦い(9月16日参照>>)までには、なんらかの連絡をとったものと思われますが・・・

ただ、今年の大河ドラマでは、人気の彼が三成を演じている以上、何らかの密約があったという描かれかたをするのでは?・・・と、ちょっと期待してしまいますね。

やっと御館の乱(3月17日参照>>)が終った「天地人」・・・今年は11月で終っちゃうという事で、あと7ヶ月足らず・・・ちゃんと最後までやっていただけるのか、ちょっとばかり心配ながらも、楽しみに見させていただいている今日この頃です。
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100万アクセス達成!しました~

 

いつも、応援ありがとうございます

おかげ様で、昨夜、
100万アクセスを達成しました~!\(*T▽T*)/

・‥…━━━☆

思えば2006年の2月12日・・・

子供の頃からの歴史好きと、知ってる事を誰かにしゃべりたくてたまらない性格が災いして、深く考えずにはじめてしまったブログ・・・

「これで、嫌がっている人をムリヤリ引きとめてしゃべらんでも、ここで、思いっきりしゃべりまくる事ができる!」

・・・と、思いつつ、はや、3年と2ヶ月・・・

まさか、3年経っても、まだ、しゃべる事が尽きないとは思ってもみませんでしたが、こんな歴史好きのたわ言に、つきあってくださるやさしい方々に支えられ、何とか続けて来れた事、たいへんうれしく思っています。

おかげ様で、なんと!夢の100万アクセスを達成する事ができ、感謝!感謝!でありますm(_ _)m

3年と2ヶ月・・・
1150ページ・・・
100万アクセス・・・

それらを心に刻みつつ、これからも細々と続けて参りたいと思います。

どうか、話、尽きるまで・・・
これからも、おつきあいいただければ幸いです。

今後とも、「今日は何の日?徒然日記」を、よろしくお願いいたします。
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2009年4月13日 (月)

天知る地知る佐賀んもんは知る~江藤新平・英雄伝

 

明治七年(1874年)4月13日、この年の2月に勃発した佐賀の乱の首謀者として逮捕された江藤新平が、斬首のうえ梟首刑に処せられました。

・・・・・・・・・・・

明治七年(1874年)2月3日に、佐賀で勃発した事件をきっかけに、佐賀の不平士族への警戒を強めた明治政府・・・(2月3日参照>>)

Etousinpei700a 政府の意向により、完全武装で佐賀に乗り込んできた県令(県の長官)岩村高俊への反発が、やがて佐賀の乱となって爆発し、一時は佐賀城を占拠した反乱軍でしたが、政府による大量の鎮台(陸軍)の導入などにより退却を余儀なくされ、乱の首謀者とされた江藤新平は、3月29日、潜伏先の土佐(高知)にて逮捕されたのです(2月16日参照>>)・・・と、先日は、ここまでお話させていただきましたが・・・

その経緯でも書かせていただいたように、そもそもは、反乱など、まったく起す気もなかった新平・・・

天保四年(1834年)2月9日に、肥前国佐賀郡八戸(やえ)の貧乏極まりない下級武士の家に生まれた彼は、16歳で藩校の弘道館(こうどうかん)に入学しますが、毎日、同じボロボロの着物を着て、いつもお腹を空かせていたのだとか・・・

しかし、やはり、その頃から優秀な生徒だったのでしょう・・・21歳の時には、新設されたばかりの蘭学校へ、藩の命令で入学しています。

ところが、ペリー来航から9年経った文久二年(1862年)、尊王攘夷思想に傾いた彼は、都の公家に接触しようと、脱藩して京に上ります

・・・が、ここで、京都の尊王攘夷派の志士たちと交流を持った新平は、逆に失望して故郷に舞い戻る事になります。

そう、この頃の尊王攘夷派は、「外国を排除しなければ植民地にされるかも知れない」と、ただひたすら攘夷の決行を叫んでいた時代・・・なんせ、あの薩摩が、薩英戦争(7月2日参照>>)で外国の近代兵器のスゴさを目の当たりにするのは、この1年後ですし、長州下関戦争(8月8日参照>>)で敗北するのは、さらにその1年後ですから・・・。

しかし、新平の描いていた尊王攘夷は、同じ尊王攘夷でも、おそらく、後に明治新政府がたどった道・・・戦って外国を排除するというこの頃の攘夷ではなく、外国の干渉を受けない独立国家という意味の攘夷であった事でしょう。

なんせ、故郷に帰った新平は、本来なら脱藩は死罪にあたる罪であるにも関わらず、蟄居(ちっきょ・謹慎)の処分となり、2年後の大政奉還で罪を許されたうえ、新政府からのお声がかりで、戊辰戦争の東征軍に加わっているのですから、やはり、捨てがたい人材であった事は確かです。

ところで皆さんも、「薩長土肥(さっちょうとひ)というのを聞かれた事があるでしょう。

維新に貢献した藩の代表と言える4ツの藩・・・薩摩長州土佐・・・・そして肥前=佐賀藩という意味なのですが、薩摩はご存知、西郷隆盛大久保利通、長州は、桂小五郎伊藤博文に・・・土佐は、後藤象二郎に、志半ばとは言え、あの坂本龍馬中岡慎太郎・・・と幕末に大いに活躍した人ばかり・・・で、肥前は・・・?

確かに、今日の主役である江藤新平さんは、肥前の代表格ですが・・・幕末には、何をしてたっけ?って感じがしないでもありません。

上記の通り、新平が東征軍に加わって・・・て事は、かの鳥羽伏見の戦いのあとくらいに、新政府軍に加わった・・・つまり、ぎりぎりセーフのすべり込み・・・って事になります。

しかも、この頃に新政府軍に加わったのは、肥前だけではありません・・・というより、会津など、最後まで抵抗を続ける藩以外は、ほとんどが、このあたりまでに新政府軍に加わっています。

なのに、貢献する四藩の中に・・・
実は、肥前はアームストロング砲に代表される最新鋭の武器を持っていたんです。

この最新鋭の武器が、大いに威力を発揮した事によって、新政府軍は江戸城が開城された後の、数々の戦いで優位に立つ事ができたわけで、そのおかげで、肥前は四藩の中に入る事ができ、その武器とともに新政府軍に加わった新平も、維新後は重要な役職につく事になります。

明治三年(1870年)、朝廷の命令により東京の中央政界に参加する事になった新平は、例の征韓論がらみの明治六年の政変(10月24日参照>>)で辞職するまでのわずか三年間で、すばらしい活躍を見せるのです。

特に、明治五年(1872年)に、初代・司法卿に就任してからは、明治の初年から唱えていた司法権の独立を目指して、次々と改革を進めていきます。

法律に長けた新平らしく、ヨーロッパ各国の法律をお手本に、警察機能を整え、刑法では、さらし首を廃止して斬首のみとするなど・・・

そして、司法権の独立と言えば・・・いわゆる立法・行政・司法の「三権分立」というヤツ。

確かに、明治元年に発せられた五箇条のご誓文(3月14日参照>>)を基本方針する政体書の中に、すでに三権分立は明記されていたのですが、未だ、この頃は、裁判こそが行政の役割あると考えがまかり通っていたのです。

つまり、地方の役人が民事訴訟や刑事裁判をやっていたわけで、そこには、当然のごとく甘い汁をいただこうとする輩がはびこってくるわけです。

たとえば、長州出身の井上馨(かおる)の事件・・・

話は、江戸時代にさかのぼるのですが、当時、貧困にあえいでいた南部藩(岩手県)は、尾去沢鉱山(秋田県)を所有する豪商・村井茂兵衛から、多額の借金をします。

人のいい村井は、この時、「武士が町人風情に借金するのはみっともない」と言う南部藩のプライドを理解して、証文では、「村井が南部藩から借りた」という事にして、お互いさえ理解していれば・・・という事で、暗黙の了解の契約をします。

もちろん、これは、この時だけに限らず、金銭面で、町人が上に立つようになってからは、江戸時代を通じて、よくあった事でしたが、基本、暗黙ルールは守られていました・・・武士二言は無い!ってヤツですね(だからこそ村井さんはOKしたわけですから・・・)

ところが、明治になってから、かの井上は、この証文をたてに、村井に借金返済を要求してきたのです。

幕府=藩は倒れ、現在は明治政府となったのだから、藩にした借金は、政府に返せというワケですが、さらに村井が、悩んでいる間に、なんと、井上は、村井の所有する鉱山を没収・・・しかも、そこに「従四位井上馨所有」という看板まで立てちゃいます。

つまり、たとえ、本当に村井の借金だとしても、それは政府に返すべきものなのに、あろう事か、自分個人の物にしてしまったという事です。

しかし、こういう場合でも、それまでは、役人が罪に問われる事はなく、盗られた町人は泣き寝入り・・・だって、役人が役人を裁くわけがありませんから・・・。

ところが、ここにきて新平の改革です・・・

裁判所を設置して、「役人が人民の権利を妨げる時は、裁判所へ訴えてよい」という法令を出したのです。

当然、怒り心頭の村井は、訴えを起こします。

それからも、この事件だけではなく、市民から訴えられる役人があとをたたなかったのだとか・・・それだけ、役人や政治家の横暴がまかり通っていたとうワケですが、肝心の政治家や役人は、そんなのは棚の上で、逆に、そんな法律を出す新平に反感を持つ事になります。

現に、京都の参事である槇村正直(まきむらまさなお)も訴えられ、彼の親友だった木戸孝允(桂小五郎)などは、伊藤博文に対して「裁判所なんか廃止しろ!」と、怒りをあらわにしています。

そして、やはり、この井上VS村井の事件の時も、きっちり元長州藩のおエライさんから、圧力がかかって、なかなか事態は進展しなかったようです。

このように、腐敗政治を一掃すべく、政府の政治家・役人を相手に、孤軍奮闘する新平でしたが、ここで、この井上の事件を解決するに至らないまま、明治六年の政変で政界を去る事になってしまいます。

そして・・・わずか3~4ヵ月後に佐賀の乱・・・

騒ぎを止めにいったはずの新平は、いつの間にか、乱の首謀者として、警察に追われる事になってしまったのです。

それでも、新平は政府を信じていました。

それが、徹底抗戦を訴えた島義勇(よしたけ)との決別・・・城を枕に討死する覚悟の島らを置いて、自分の配下の兵士にだけ解散命令を出し、佐賀城をあとにしたのです。

潜伏先の甲浦(かんのうら・高知県)で囲まれた時も、逃げる・・・というよりは、寸前まで、政府首脳らに宛てた手紙を書いていたようで、逮捕された時には、三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通宛ての書簡を手にしており、その字は、慌てて書いたような乱れた文字であったと言います。

そうです。

彼は、自分自身が近代的に整備した警察機能によって逮捕されはしましたが、やはり、自分自身が整備した裁判所と法律によって、正しく裁かれるであろう事を信じていたのです。

ところが、東京での正式な裁判を望む新平の訴えは聞き入れられず、佐賀に護送され、裁判らしい裁判も行われる事なく、同行した判事によって、たった2日間で判決か下ります。

それも、地方裁判所の範ちゅうを越えた死刑・・・しかも、即日執行された刑は、新平が、すでに廃止したはずの梟首刑=さらし首であったのです。

政府にしてみれば、徹底した処罰によって、その不平分子を抑えようとのもくろみであった事でしょうが、このアテは見事に外れる事となります。

江戸時代に逆戻りしたような野蛮なさまを、文明開化を経験した者たちが許せるわけがありません。

あの福沢諭吉「これは、司法卿時代の江藤への私刑(リンチ)である!」と声高々に叫び、反政府の声は鳴り止む事はなく、2年後勃発する神風連の乱(10月24日参照>>)秋月の乱(10月27日参照>>)萩の乱(10月28日参照>>)・・・そして、最大の決戦・西南戦争(1月30日参照>>)へと、大いに影響を与える事になりますが、何より、この新平への処分が間違っていた事に気づいたのは政治家と役人にほかならなかった事でしょう。

なぜなら、この佐賀の乱以来、明治という時代が終わりを告げるまでの間、役人の汚職事件という物がほとんど姿を消した・・・との事、本当になくなったのだとしたら、それがただ一つの救いと言えるかも知れませんが・・・。

明治七年(1874年)4月13日、処刑される寸前の新平は・・・
「ただ、皇天后土(こうてんこうど)の、わが心を知るあるのみ!」
(天と地だけが、俺の心を知っている)
と、3度、高々と叫んだと言います。

佐賀に住む人は、今も、この乱の事を「佐賀の乱」とは呼ばないのだとか・・・

「あれは、反乱ではなく戦争・・・佐賀の役」だと・・・

そして、
「江藤新平は逆臣ではなく、英雄なのだ」と・・・
 .

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2009年4月11日 (土)

池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙

 

天正十二年(1584年)4月11日・・・今日は、この日づけにまつわるエピソードを一つ・・・

・‥…━━━☆

上記の日づけで書かれた、かの豊臣秀吉の手紙が現存します。

宛先は養徳院(ようとくいん)という女性・・・。

この養徳院という女性は、その昔、織田信長の乳母をやっていた女性で、信長さん誕生の日のページ(5月12日参照>>)に、その幼い頃のエピソードを書かせていただきましたが、赤ん坊の頃はたいへんなカンシャク持ちで、乳母がおっぱいを与えると、その乳首を噛み切ってしまって、しょっちゅう乳母が交代したというお話・・・。

しかし、若くて美しい一人の乳母だけには、そのカンシャクを起さなかったと・・・その乳母が、若き日の養徳院さんだったと言われています。

そのせいか、信長はことのほか彼女への情が深く、彼女が夫を亡くしてからは、その息子を武将として取り立て、家臣の1人として重用しました。

その息子というのが、池田恒興(つねおき)です。

本能寺で信長が自刃してからの恒興は、秀吉に従い、その後、秀吉と徳川家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの最初の最初に、犬山城を奪取した人物です(3月13日参照>>)

しかし、その一連の合戦の中の長久手の戦いで、ともに参加していた娘婿の森長可(もりながよし)とともに、討死してしまいます。

その長久手の戦いがあったのは4月9日・・・(2077年4月9日参照>>)

そう、その秀吉の手紙は、その長久手の戦いの2日後にしたためられた物なのです。

「この度は勝入(しょうにゅう・恒興の事)親子の儀、なかなか、申すばかりも御座なく 候」で始まるこの手紙・・・

いつもの私的解釈で恐縮ですが・・・
「あなたの悲しんでおられる姿が目に浮かびます。
我々の軍も、もう、敵のすぐそばまで進軍していたので、彼らの不慮の出来事については、皆、たいへん悲しんでおります。

(恒興の)次男の輝政くんや、三男の長吉くんが無事だったのは、不幸中の幸い・・・悲しみの中の一筋の光です。

今後は、せめて、このお二人を取り立てて、面倒をみて差し上げたいと思います。

あなたの悲しみはたいへんなものでありましょうが、亡き恒興や長可のためにも、残されたお孫さんたちの面倒をみてあげてください。

これからは、今まで恒興の事を見ていたように、息子だと思って、僕の事を見ていただきたいと思います。

困った事があればおっしゃってください。
あなたの息子さんの代わりに、僕がなんでもしますから・・・」

以前、恒興さんとともに討死した森長可さんのページで、小牧の戦いで屈辱の敗戦をしてから、この長久手の戦いに挑む直前に書いたであろう遺言状をご紹介させていただきました(2008年4月9日参照>>)

その手紙も涙を誘うものでしたが、今日の秀吉の手紙も、かなり泣ける手紙ですね。

戦国・・・合戦・・・と言えば、華々しく活躍する武将や、美しく散っていく武将にばかりスポットが当たりがちですが、勝った者にも、負けた者にも、それぞれの親が兄弟が、そして子供たちがいる事を痛感させられます。

生き馬の目を抜く下克上の戦国・・・ひとたび合戦となれば、明日をも知れぬ命ですから、その時代に生きる女性たちは、おそらく、それなりの覚悟はいつでもできてはいた事でしょうが・・・でも、悲しいものは悲しい・・・

この長久手の戦いの後、最終戦である蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)にも敗れ、一連の小牧長久手の戦いが負け戦となったにも関わらず、その離れ業で、見事に家康を臣下にしてしまった秀吉の事を、「人たらし」(10月17日参照>>)・・・つまり、騙す=ハメるようなやり方で人を攻略すると書かせていただきましたが、悪く考えれば、この手紙も、その人たらしの一つなのかも知れません。

手紙に書いても、そのとおり思ってるかどうかなんて、心の中までは読めませんから・・・

しかし、たとえ、それが、人たらしの天才の八方美人的な発言であったとしても、この時の養徳院さんは、おそらく、この手紙に涙し、ありがたいと思い、その悲しみが多少なりとも癒えた事でしょう。

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姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。

この時、すでに70歳を越えていたという養徳院さん・・・夫にも、長男にも、娘婿にも先立たれた彼女は、その後、秀吉よりも長く生き、あの関ヶ原の合戦の後に、次男の輝政が、播磨(兵庫県)姫路52万石の大大名に出世するまでを見届けて、慶長十三年(1608年)・・・94歳で、この世を去ったという事です。
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2009年4月10日 (金)

尊王と敬幕と…攘夷の魁・天狗党の模索

 

元治元年(1864年)4月10日、天狗党のメンバーが日光東照宮に参拝し、全国に向けて声明を発表しました。

・・・・・・・・・・・

さて、元治元年(1864年)3月27日、藤田小四郎の呼びかけによって結成された天狗党(3月27日参照>>)・・・。

その目標は倒幕ではなく、尊王攘夷を決行するよう幕府に求める・・・あくまで、幕府の方針転換を願うための筑波山での挙兵でした。

しかし、筑波山では何かと不便・・・という事で、軍儀の結果、日光に立て籠もる事になります。

なんせ、日光は東照大権現=徳川家康を神とする幕府の聖地ですから、幕府側もおいそれと攻撃できるものでもなく、プラス、仲間も集まりやすいであろうとの算段でした。

4月3日に筑波山をあとにした集団は、一旦、宇都宮に入ります。

・・・というのも、この宇都宮藩の中老・県勇記(あがたゆうき)が、根っからの尊王派なので、彼に天狗党へのお誘いをかけるためだったのですが、残念ながら、あっさりと断られてしまいます。

しかたなく、予定通り東照宮に籠るため、日光に向かう一行でしたが、ここも、ピッシリと門を閉じ、強引に占拠しようと試めば、一戦交えんばかりの反発を喰らってしまいました。

やむなく、東照宮占拠を諦めた天狗党は、元治元年(1864年)4月10日、メンバー全員が順々に東照宮に参拝した後、その場で、全国の同志に決起を呼びかける挙兵声明を発表したのです。

東照宮に参拝した事、その参拝で士気があがった事、そして、その場で声明を発表した事でもわかるように、彼らは、幕府に刃向かうつもりは一切なく、その声明には、敬幕を、尊王とともに重視している事も盛り込まれていたと言います。

やがて、彼らは栃木の太平山に本拠を構え、4月半ばから1ヶ月半ほど滞陣し、この地で同志を募りました。

その呼びかけに答えて、全国から集まる同志たち・・・ここでの人数は約400名に膨れ上がります。

その中心は、やはり、大将となった田丸稲之衛門(いなのえもん)や小四郎のような武士でしたが、中には農民も多く・・・いえ、むしろ、数字的には半分以上が農民出身者で占められていたのです。

・・・というのも、水戸藩の先代の徳川斉昭が、かなり革新的な人で、いち早く天保の改革を推しすすめた際、水戸学を学ぶための弘道館を設置しただけでなく、その弘道館で勉学を学んだ者たちが教師となって、さらに下層の武士や農民・町民に学問を教える郷校(ごうこう)なる物を設置し、誰もが教育を受けられるようになっていて、農民たちにも、尊王攘夷思想なるものが、どのような物であるかが理解されていたからなのです。

しかも、優秀な者は、その身分に関わらず能力による人材登用の道も開かれていて、たとえ農民であっても、その才能次第で、武士並みの待遇で重く取り立ててもらえる場合もあり、後進の育成政策がかなり充実していたのです。

そこに、あのペリーの黒船来航騒ぎとなり、農民たちの心にも火がついた!・・・今まで、ただ年貢を納めるための単調な人生が、努力次第では上へ上へと上りつめる事だってできるかも知れないわけですから、多くの農民たちが、その革新的な尊王攘夷思想に、自らの人生を変える事を夢見たとしてもおかしくはないわけです。

あの新撰組が、もともと武士だった者より、農民出身の者のほうが、より武士らしく生きたいと模索したように、彼らも、むしろ農民出身者のほうこそが、その熱意は高く、だからこそ、この先、無謀とも思える幕府相手の戦いに挑んでいく天狗党に、最後までつき従ったのかも知れません。

しかし、尊王攘夷思想を理想に、幕府の改革を目指す天狗党ですが、徐々に、その理想から外れた道へと歩む出来事も起こってきます。

それは、軍資金です。

やはり、挙兵し、幕府を相手に戦う・・・さらに、上記のように、その同志が増えれば増えるほど軍資金は必要となりますが、理想だけでは飯が食えない事は明らか・・・。

滞陣や、移動を繰り返す中、移動先の豪商や豪農などから軍資金を調達していた彼らですが、人数が増えるにつれ、その調達が、より強引に、より強制的になっていってしまうわけです。

そして、ちょうど、この太平山での滞陣中の頃、事件は起こります。

水戸藩医の家に生まれ、小四郎たちとは同門で勉学を学び、その優秀さの誉れも高かった田中愿蔵(げんぞう)・・・彼は、筑波山の最初の決起の際からの天狗党在籍者で、その後も200余名の田中隊を率いていましたが、彼らが栃木町で軍資金の調達をした際に、断られたはらいせに住民を殺害し、さらに放火して、町の大半を灰にしてしまう大火事を引き起こしてしまったのです。

さらに、真鍋村中貫村(茨城県土浦)でも強奪や放火をくりかえし、周辺住民からは大変恐れられる存在となります。

結局、これらの事がきっかけで、天狗党を除名される愿蔵ですが、彼らの態度が、幕府や水戸藩の中の保守派の者たちへ、天狗党を弾圧する大義名分を与えてしまった事は確かのようです。

水戸藩では、保守派の市川三左衛門を中心に、天狗党に対抗する諸生(しょせい)を結成し、「天狗党討伐」の建言書を提出する事になります。

一方、太平山に未だ滞陣する天狗党の本隊に、活動中止を説得に来る者もいました。

大将の稲之衛門の兄で水戸藩・目付け山国兵部(やまくにひょうぶ)・・・もちろん、水戸藩の命によって、彼らを説得しに来たわけですが、以前から書いています通り、もともとは、尊王攘夷は、亡き先代・斉昭の遺志・・・ペリーのゴリ押しに屈して開国を約束してしまった幕府こそ方針転換をすべきだというのは、多くの藩士の思うところで、以前から敵対している保守派の連中以外の藩士の中には、天狗党を正義とする考えもたくさんあったのです。

結局、この時も、天狗党の彼らと充分に話し合い、その真意を理解した兄・兵部は・・・
「やるなら、筑波山へ戻ってやれ!水戸藩の元で天下に義を唱えろ!

そう、ここ太平山は宇都宮藩・圏内・・・やるなら、水戸藩の地で!・・・と、むしろ、応援するようなコメントを残して去っていきました。

この進言を聞き入れた彼らは、6月の初めには、再び筑波へと戻り、そこを拠点とし、いよいよ天狗党討伐をあらわにした、かの諸生党+幕府との全面衝突を迎える事になるのですが、

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「耕雲斎筑波山麓」(水戸市立博物館蔵)

そのお話は、やはり激戦が行われる7月9日【下妻夜襲】へどうぞ>>
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2009年4月 9日 (木)

逆賊・平清盛を追討せよ~「以仁王の令旨」下る

 

治承四年(1180年)4月9日、後白河法皇の第三皇子・以仁王が、平家討伐の令旨を発しました。

・・・・・・・・・・・

平治元年(1159年)の12月に勃発した平治の乱・・・藤原信頼源義朝(みなもとのよしとも)のどうにも噛みあわない歯車の狂いによって、この乱は平清盛の大勝利に終わりました(12月9日参照>>)

Minamotonoyoritomo700ast 中心人物であった信頼は捕らえられて殺され、家臣を頼って落ち延びた義朝も、その頼った家臣の騙まし討ちに遭い(1月4日参照>>)、義朝の長男・悪源太義平(あくげんたよしひら)六条河原で斬首され(1月25日参照>>)、三男・源頼朝(よりとも)も、逃走中に捕らえられて伊豆への流罪となりました(2月9日参照>>)

こうして、平家と肩を並べる武家であった源氏の勢力は一掃され、逆に、平治の乱の時、敵の手に落ちていた二条天皇後白河法皇を救い出した事で、法皇らの信頼を勝ち得た清盛以下平家一門は、わが世の春を謳歌する事になるのです。

乱から8年後の仁安二年(1167年)には、50歳にして太政大臣にまで上りつめた清盛(2月11日参照>>)・・・この頃の平家は、公卿16人、殿上人30余人、その他、日本の半分の地方の受領や衛府・諸司を務めるという前代未聞の栄華を極めます。

まさに、「平家にあらずんば人にあらず」by平時忠(清盛の嫁・時子の兄)と言いたくなるのも無理はありません。

さらに、翌年には、二条天皇の皇子で、その後を継いで天皇になっていた六条天皇を、わずか5歳で退位させて、これまた、わずか8歳の高倉天皇を即位させます

ここで、明らかに順番を抜かされたのが、後白河法皇の第三皇子(兄が早くに亡くなっているので第二皇子とする場合もあり)・・・本日の主役・以仁王(もちひとおう)です。

ちょっと、ややこしいので、その天皇家の皇位継承の説明をさせていただきますと・・・

父親の第74代鳥羽天皇に、ムリヤリ退位させられたために納得がいかなかった鳥羽天皇の第一皇子・第75代崇徳(すどく)天皇と、当時、第77代の現役の天皇だった弟で第四皇子の後白河法皇・・・この二人の権力争いが世に言う保元の乱・・・乱に敗れた崇徳天皇は、流された讃岐(香川県)で失意のままこの世を去ります(8月26日【崇徳天皇・怨霊伝説】参照>>)

そして、この後白河法皇の後を継いだのが第一皇子だった第78代二条天皇・・・この継承は普通です。

しかし、永万元年(1165年)に病に倒れた二条天皇は、慌てて、まだ生まれて間もない息子を皇太子に立て、その日のうちに第79代六条天皇として即位させます。

ここまで、二条天皇をあせらせたのは、3歳年上となる男子が、自分の父である後白河法皇と平滋子との間に生まれていたから・・・この滋子という人は、その名前でもわかるように、清盛の嫁の時子の妹です

すでに破竹の勢いで政権を握っていた平家・・・一つの武家が、あまりにちからを持ちすぎる事は、天皇家や公家たちにとって良い事ではありませんし、何より、天皇の座は自分の子孫に代々継がせたいですから、死を予感した二条天皇にとっては、自分の命あるうちに・・・という事なのでしょう。。

しかし、冒頭に書いた通り、太政大臣になった清盛は、その翌年に法皇と滋子の息子である第七皇子の高倉天皇を即位させるわけです。

一方の以仁王は、法皇の第三皇子ですから、本来の順番なら、先の二条天皇が亡くなった時にでも天皇の座は回ってきていても良いくらいなのですが、年齢は低いとは言え、一応六条天皇は先の天皇の第一皇子なので、その血筋的には納得せざるをえませんが、高倉天皇は、自分の弟なわけですから、完全に順番抜かされてます。

頭脳明晰で、政治にも大いに関心があった以仁王としては、少々不満・・・それでも、母方の身分がそれほど良くない以仁王は、まだ、ガマンの人でありました。

しかし、やがて、その高倉天皇の中宮に、清盛の娘・徳子が決まるに至って、後白河法皇やまわりの貴族たちが、そろそろガマンの限界に来ていました。

治承元年(1177年)5月・・・夜な夜な鹿ヶ谷(ししがだに)近くの館に集まって、打倒平家の話し合いが行われていた事が発覚・・・後に鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれるこの事件は、藤原成親西光法師斬られ俊覚藤原成経康頼の3名が鬼界島に流罪となりました。

当然、関与していた後白河法皇も・・・というところですが、この時、法皇を捕らえようとした清盛を、息子の重盛が止めた・・・と『平家物語』は言いますが、例のごとく平家物語はかなりの重盛びいきなので、実際のところはわかりませんが、とにかく、法皇はお咎めなしとなります。

しかし、2年後の治承三年(1179年)、8月にその重盛が亡くなってから、わずか2ヵ月後の11月・・・清盛は、突然、隠居先の福原(神戸)から、兵を率いて上洛し、後白河法皇を幽閉して院政をストップさせ、貴族や官人約40名をクビに(11月17日参照>>)・・・その翌年の治承四年(1180年)の2月には、高倉天皇をムリヤリ退位させ、天皇と娘・徳子の間に生まれたわずか3歳の自分の孫・安徳天皇を第81代天皇として即位させてしまうのです。

以仁王、またまた順番抜かされ・・・って、今度はそれどころじゃない!

もはや、この国を乗っ取られたようなもの・・・さすがガマンの以仁王も、もう動かずにはいられません。

そんな以仁王の気持ちを察して近づいて来たのが、源頼政(よりまさ)・・・彼は、あの平治の乱で、義朝に声をかけられながらも、動く事がなかったため、この平家全盛の世でも、生き残っていた数少ない源氏・・・

しかし、これだけ平家の世になってしまっては、その出世も望めず、まして彼はもうけっこうなお歳・・・こうなったら、起死回生の一発チャンスに賭けるしかありません。

かくして、同じ目標の頼政という味方を得た以仁王は、治承四年(1180年)4月9日、各地の反平家勢力へ向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発したのです。

「下す、東海・東山・北陸三道の源氏ならびに群兵等の所、まさに早く清盛法師ならびに従類の叛逆の輩を追討すべきの事・・・」ではじまる令旨は、平家は朝敵であり、以仁王こそ皇位につくべき人物で、従わない者は、即位のあかつきに死罪・流罪にすると強い口調でうたったものだったと言います。

全国各地に伝えられる事になったこの令旨・・・この伝令役として白羽の矢をたてられたのは、かの平治の乱の時、熊野神社にかくまわれていた事で、頼政同様、数少ない源氏の生き残りとなっていた義朝の弟・新宮十郎(しんぐうじゅうろう)源義盛・・・つまり、頼朝&義経の叔父さん。

大役をおおせつかった義盛は、その名を行家と改め、4月28日に京都を出発!

近江(滋賀県)美濃(岐阜県)尾張(愛知県)を回り、5月10日には、伊豆に流罪となっていた頼朝のもとに令旨を届けます。

さらに、木曽にいる義仲、奥州の義経にまで・・・

このように、秘密裏に進めていたこの令旨の配達でしたが、その動きは、すぐに平家の知るところとなります。

それは、後に訪れた紀州和歌山県)の地で、行家は、以前お世話になっていた熊野権現の僧兵を誘おうと立ち寄ったのですが、彼の新宮十郎の名乗りでもわかるように、彼をかくまってくれていたのは熊野神社の新宮・・・

ところが、熊野神社の本宮大江法眼(おおえのほうがん)は平家一門の祈祷師をやっている事もあって、どっぶり平家寄りの人物fだったのですよ。

結局、行家のこの行動で、不穏な動きがバレてしまい、身の危険を感じた以仁王は、5月15日、女装で宮廷を脱出・・・闇にまぎれて三井寺へと逃げ込んだのでした。

このため、以仁王と頼政は、各地の源氏と反平家勢力が集結するのを待つ事ができず、5月26日、あの宇治橋にて、平家に挑む事になります。

これが、日本史の中でも超有名な一連の源平の合戦の幕開けとなる戦いなのですが、そのお話は、5月26日【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】でどうぞ>>
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2009年4月 8日 (水)

織田信長とキリスト教~信長は神になろうとしたのか?

 

永禄十二年(1569年)4月8日、織田信長ルイス・フロイス京都でのバテレンの居住と布教活動の自由を許可しました。

・・・・・・・・・・

ご存知のように、日本で最初にキリスト教の布教活動を行ったのは、あのランシスコ・ザビエル・・・武力での植民地支配から軟化したキリスト教による支配へ政策を転換した当時のポルトガル国王・ジョアン3世が、イエズス会インドでの布教を要請し、さらにアジアへと布教活動を展開しつつある頃に、マラッカにいたザビエルがアンジロウ(またはヤジロー)という日本人青年と知り合い、日本での布教活動を決意した事は、すでに書かせていただきました(7月3日参照>>)

そのページで書かせていただいたように、天文十八年(1549年)7月に、アンジロウの故郷である鹿児島に上陸したザビエルは、領主の島津貴久に謁見し、鹿児島での布教の許可を得て活動を始めるわけですが、地元・仏教の抵抗もあり、また、やはり「本格的に布教活動をするには、日本の国王の許可を貰おう」と、九州を出て京都を目指したのです。

しかし、やってきた京都では、天皇の権力は失墜し、足利将軍も洛外へ追われて右往左往の時代・・・「こりゃ、アカン」と再び西へと戻り、周防(山口県)大内義隆、そして、ご存知、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)の保護を受けて(11月11日参照>>)、輸出入の交易がらみとは言え、九州での布教はおおむね成功した事になりますが、ここらあたりで、ザビエルは後輩にバトンタッチ!

やがて、次々と来日した宣教師たちによって、キリスト教は徐々に日本に根をおろしていく事になるわけですが、それでも京都では、強い仏教勢力に押されて布教が難しく、畿内での拠点は、もっぱら堺・・・

永禄六年(1563年)に来日して、永禄八年(1565年)には、一旦京都に入っていたルイス・フロイスも、12代室町幕府将軍・足利義輝の暗殺(5月19日参照>>)のゴタゴタで京都を離れて、当時は堺にいたのですが、そんなこんなの永禄十二年(1569年)、先の義輝の弟・足利義昭を奉じて京に上ってきた(9月7日参照>>)のが、かの織田信長です。

政治にも介入する当時の仏教勢力に対して政教分離を図りたい信長は、フロイスにとってもラッキーな存在・・・しかも、将軍・義昭よりも、こっちに近づいたほうが有利な事も明白・・・と来れば、会わないわけにはいきません。

翌年の正月には堺の町も掌握(1月9日参照>>)、3月には副将軍へのお誘いも断った信長(3月2日参照>>)・・・ちょうど、その頃、フロイスは、ヨーロッパ製の鏡・クジャクの尾・黒いビロードの帽子などを手土産に、信長のもとを訪ねたのです。

しかし、この時の信長は、帽子だけを受け取って他のお土産は返し、フロイスに会う事もありませんでした。

なぜに・・・
のちに、信長が語ったところによると・・・
「幾千里もの遠くからやってきた外人さんを、どうやって迎えたらええかわからんかったのよん」
と、あの無鉄砲の信長さんからは、想像もできないような、かわいらしい言い訳をなさっていますが、それにしても・・・

なぜに、帽子だけ・・・
どうやら、この帽子には一目ぼれ・・・。

もちろん、自分自身も身につけ、後には、あの武田信玄への進物として赤い羅紗の帽子を贈っているところからみても、ニューファッションとして、大いに気に入ったようです。
(信玄に赤い帽子が似合ったのかどうか気になるところではあります)

かくして永禄十二年(1569年)4月8日、建築中の二条城にてフロイスと会見した信長は、世界に散らばる人種の事、彼らの故郷・ヨーロッパとインドと日本の位置関係・・・そして、もちろんキリスト教の教えについてなど、2時間に渡って話続けたのだとか・・・

それも、ほどんどが信長の質問にフロイスが答えるという形式・・・つまり、自分が不思議に思ってる事を聞きまくって、フロイスを質問攻めにしたって感じの会見だったそうです。

その後も、彼ら宣教師たちを、再三に渡って招き、月の動きや世界の気候なんかの話に聞き入っていた信長さん・・・なんと、彼らが地球儀を使って、ひと言ふた言の説明しただけで、地球が丸い事を理解したと言いますから、その柔軟な頭脳は、ここぞとばかりに、その知識を吸収した事でしょう。

やがて、義昭との力の差が歴然となるにつれ、信長が好む南蛮文化は、配下の武将や、金持ち商人の間で一大ブームとなります。

Nannbannzubyoubucc
南蛮屏風

あの、徳川家康でさえ、例のヒダヒダの襟の南蛮ファッションに身を包んでいたと言いますから、相当なハヤリだったのでしょうが、信長さんは似合いそうですが、家康のヒダヒダは・・・なんか笑ってしまいそうです。

そんなフロイスから見た信長の印象は・・・
「背丈は中くらいでほっそりとしていて、ヒゲはうすく、声は高くて心地いい・・・自分の考えに自信を持っていて、貴族や武将など身分の高い者を軽蔑する反面、身分の低い者とも気軽に話す」
と、大変な好印象のようです。

その好印象を裏づけるかのように、安土の城下にセミナリヨ(神学校)をも建設して、キリスト教を手厚く保護した信長・・・「キリスト教の布教によって、アジアへの支配を広げよ」と命じられているフロイスら宣教師にとっては、「ヤッター!大成功!」と、喜びたいところであったでしょうが、一つ、彼らの計算違いがありました。

それは、信長自信が決してキリスト教に帰依する事がなかったところです。

比叡山一向一揆・・・仏教に対して、「あれだけ武力を行使する信長が、これだけキリスト教を保護してくれるならひょっとして・・・」と、彼らは淡い期待を抱いていたのかも知れませんが、先にも、書かせていただいたように、信長の目標は政教分離・・・仏教であろうが、キリスト教であろうが、政治に関与させる事を避けるがための武力行使であって、宗教そのものを弾圧しているわけではないのですから・・・。

結局、信長自信が信者に・・・という期待を裏切られたフロイスは、やはり、その著書『日本史』に・・・
「彼は、神や仏をまったく信じていない・・・デウスを否定して自らを神になぞらえ、途方もない狂気で、悪魔的な思い上がりである」
と、先ほどの好印象とは、うって変わった表現をしています。

このフロイスの記述をもとに、時代劇などでも、「信長は神になろうとしていた」といった感じで描かれる事がありますが、個人的には、それはちょっと違う気がします。

なぜ?と言えば、私自信が無神論者だから・・・信長さんほどスゴイ人間ではありませんが、その心の内をちょっとだけ理解できる・・・とでも言いましょうか・・・。

もちろん、無神論者と言いながらも、お寺や神社にもお参りしますし、手も合わせて祈りを捧げ、お守りを戴いたりもします。

全否定もしないし、全肯定もしないというだけです。

信長さんも、そんな感じであったのではないか?と思います。

現に、あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前には、熱田神宮必勝祈願なんてやっちゃってますし、その他にも、神社仏閣への寄付も行ってます。

この時代は、キリスト教だけに限らず、ほとんどの人々が神仏を固く信じていた時代ですから、その時代に、「それほど神仏を信じていない」事は、ことのほか特別であったでしょうが、現代=平成の時代に暮らす私たちにとっては、おそらく特別ではなく、たとえ無神論者でなくとも、その心境がわからなくもないのでは?と思うのです。

たとえば、日本には、もともと八百万の神様がいて、その八百万の中には、外国の神様だって入るだろうし、山や石をご神体とする神様も含まれているだろうし・・・、どの神や仏にもどっぷり浸かっていない人は、それぞれの戒律に縛られる事のない感じで、それぞれの神や仏に接しているわけで、100人いれば、100人とも顔が違うように、100通りの考え方があり、そのぶん、100の神様・・・つまり、自分なりの信念のようなものが、心の中にあような気がするのです。

すべての、当時の文献を把握しているわけではありませんので、フロイス以外の、日本人の記した当時の文献に、「信長が神になろうとしていたか否か」が、どのように記されてあるのかはわかりませんが、おそらく、神仏の存在を信じて疑わなかった当時の人々から見れば、どの神や仏に帰依する事なく、自分なりの神=信念を持っている信長の姿が、「彼は神になろうとしている」と映ったという事なのではないかと思うのです。

しかし、それぞれの宗徒のかたには失礼とは思いながらも、お正月には神社へ初詣に行き、お盆には家族で墓参りをし、クリスマスを一大イベントとはしゃぎつつ、仏教での葬式で先人を見送る現代の日本人にとっては、信長さんの行動が、必ずしも神になろうとしてるわけではない事が理解できると思うのですが、いかがでしょうか?

信長は、自らを神になぞらえたのではなく、「自分なりの信念=神様像(彫刻の像ではなく、イメージ的な像です)のような存在が心の中にある」と言いたかったのではないかと思うのです。
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2009年4月 7日 (火)

桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました~

 

豊臣秀吉に思いを馳せながら醍醐の花見に行って参りました~

・‥…━━━☆

京都伏見近くにある醍醐寺(だいごじ)は、真言宗醍醐派の総本山

弘法大師の孫弟子にあたる理源(りげん)大師・聖宝(しょうほう)が、山岳信仰の霊山であった笠取山一帯に貞観十六年(874年)に創建しました。

しかし、何と言っても、この醍醐寺の有名どころと言えば、あの天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見ですよね。

Daigonohanami800
醍醐の花見

その醍醐の花見が催されたのは、慶長三年(1598年)3月15日の事・・・。

その頃の秀吉は、この国のすべてを手中に治め、まさに、夢のまた夢の生活を送っていた事でしょうが、一方では、前年からおこなっていた2度目の朝鮮出兵(11月20日参照>>)も思うように進まず、イライラもしていたでしょうし、何より、自らの老いをひしひしと感じていたのかも知れません。
この年の8月に亡くなります8月18日参照>>

Daigosidaret600以前、秀吉の吉野の花見でも書かせていただいたように、お花見は見るタマフリ(2月27日参照>>)・・・活き活きと花を咲かせ、今盛りの樹木の発する色の波長を全身に浴び、あるいは、目から体内に取り込む事で、その生命力を分けていただこうというもの・・・。

お祝いというよりは、落ち込んだ時、停滞の時期に、運気を好転させるために行うのがお花見・・・まさに、この時の秀吉は、そういった思いがあったのでしょう。

「こんな時だからこそ盛大にやろう!」

その準備は、かなり前から行われたようです。

当時、ちょうど親交を深めていた義演(ぎえん)が、第80代座主を務める醍醐寺で花見を行う事を決定した秀吉は、自ら下見に赴いたと言います。

しかし、この醍醐寺・・・歴史はあるものの、応仁の乱の戦火に遭い、当時はかなり荒れ果てた状態だったのです。

秀吉は、建物を再建し、庭を整備し、自分のため・・・というよりは、周囲の皆をいかに楽しませるかに重点を置いて、自ら指揮をとりながら、この醍醐寺の修復にあたったと言います。

特に、三宝院の庭園は、基本設計をしたのも秀吉・・・桃山文化の華やかさを今に伝える見事なお庭です。
*お庭は撮影禁止ですので、その目でお確かめください。

かくして3月15日・・・

「そこに桜があったから花見をした」
のではなく、
「花見をしたいから、そこに桜を植えた」・・・

まさに奇想天外な発想で植えられた約700本の桜の下で、各大名を含む、従者1300人を従えて、盛大に行われた醍醐の花見・・・

Dscn7810at686 北政所・ねねを先頭に、淀殿・・・以下、側室の輿のあとには、あの前田利家の妻・まつの姿もあったとか・・・。

★醍醐寺では、毎年4月の第二日曜に、この時の花見を再現した『豊太閤花見行列』行われています。

当日の秀吉は、多くの女性たちと、多くの家臣に囲まれて、まさに、最後の一花を咲かせたといった感じであった事でしょうが、昨日の醍醐寺も、今盛りの桜が、人々を魅了していましたよ。

最も美しいポイントと言われる仁王門ですが・・・
やっぱり、最も、人の多いところでもあるわけで、平日とは言え春休み・・・人を、写さないように撮影するのは、ほぼ不可能の状態なので、仕方なく、こんなアングルで・・・

Dscn7830a800
醍醐寺・仁王門

秀吉ゆかりの三宝院は、建物内の見物も数珠つなぎで、波に乗って、何がなんやら、ワカラン間に出口のところまで来てしまいました~

三宝院の門内には、CMで有名(関西だけのCMだったらゴメンナサイ)な、クローンの桜と、DNA提供者の桜さんが・・・

Dscn7803a800
手前の左がクローンです

わたしも、従者を従えて盛大に・・・とは、いかないですが、豪華絢爛ならぬ桜花絢爛のタマフリをいただいて英気を養ってまいりました~といっても、昨日は、醍醐寺だけでなく、平重衡輔子さん(3月10日参照>>)を偲んでの日野一帯から奈良街道を通って、小野小町ゆかりの小野まで、全15kmほどを歩いてきましたので、ちょいバテ気味ではありますが・・・
 

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2009年4月 6日 (月)

板垣死すとも自由は死せず~カッコよすぎの板垣退助

 

明治十五年(1882年)4月6日、自由党板垣退助が、遊説先の岐阜県にて、暴漢に襲われ負傷しました。

・・・・・・・・・

土佐(高知県)出身の板垣退助・・・幕末の戊辰戦争では、鳥羽伏見の勝利の後、二手に分かれて江戸を目指した官軍・・・西郷隆盛率いる東海道・東征軍の別働隊として、板垣は、東山道東征軍を率いて東へ向かい新撰組を再編制した甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)勝沼戦争(3月6日参照>>)で破っています。

Itagakitaisuke700a ・・・とは、言え、やはり板垣退助と言えば、あの自由民権運動の中心人物として超有名なおかた・・・今は亡き(あるかも)百円札の顔でもあった人です。

上記のように官軍の参謀として戦い、明治新政府でも重要なポストにいた板垣でしたが、やがて明治六年(1873年)10月、例の明治六年の政変(10月24日参照>>)=征韓論のゴタゴタで、西郷や後藤象二郎江藤新平らとともに政界を去る事になります。

故郷・土佐に帰った板垣は、旧友らとともに、庶民の自由や参政権を求める自由民権運動のための結社・立志社を立ち上げますが、最初の頃の立志社は、自由民権運動とはほど遠い不平士族の集まりでした。

ともに政界を去った西郷や江藤の周辺がそうであったように、当時は、四民平等の名の下、明治維新によって、その特権や職場を奪われた元武士たちの不満が爆発寸前にあった頃で、板垣も、旧土佐藩の士族たちに声をかけた以上、そこには、自由民権うんぬんよりも、「とにかく、新政府を倒せ!」という士族たちばかりが集まってくるのはしかたのないところです。

そんな士族の不満は、早くも、翌・明治七年(1874年)2月に、江藤をリーダーとする佐賀の乱(2月16日参照>>)として爆発し、明治九年(1876年)には、九州神風連の乱(10月24日参照>>)秋月の乱(10月27日参照>>)山口県萩の乱(10月28日参照>>)と立て続けに勃発・・・やがて、明治十年(1877年)1月の士族最大の反乱・西南戦争(1月30日参照>>)へと突入しますが、いずれも鎮圧され、江藤も西郷も死に行く中、もはや武士の時代ではない事を、誰しもが悟る事となります。

この間、立志社でも、「ともに戦うべき」との声が出るも、結局は挙兵する事はありませんでしたが、上記の通り、これらの反乱の鎮圧で士族が押さえ込まれた反動で、自由民権運動の中心は、農民たちへと移っていったのです。

そうです。
新政府に不満があるのは、士族だけではありません。

平等の名の下に士族は武士としての特権を奪われましたが、これで平等になるはずの農民たちの生活は、以前、江戸時代と変わらないものでした。

農民の中には、豪農と呼ばれる裕福な農民もいましたが、現時点では、いくらお金があっても、いくら勉強しても、農民が政治に関わる事はできませんが、自由民権運動の旗印は、自由と参政権・・・国会を開いて民主的な政治を行う事ですから、彼らが飛びつかないはずがありません。

各地で集会が行われるにつれ、それは一般農民にまで広まり、全国的な運動へと発展します。

しだいに自由民権運動が高まる中、明治十四年(1881年)10月に北海道開拓事業の汚職事件が発覚し、政府への不満が頂点となった時、民衆の声に推されて、政府は、しかたなく10年後に国会を開く事を公約として掲げ、その場を収めます(明治十四年の政変)(10月11日参照>>)

政府にとっては、その場を納めるための苦肉の策で、とりあえず約束だけしておいて、10年間の間に、どうにかウヤムヤにしてしまうつもりであったようですが、そうは板垣が卸しません。

わずか、1週間後の10月18日、10年後の国会開催に向けて、板垣は自由党を結党・・・その翌年・明治十五年(1882年)3月14日には、先の明治十四年の政変で失脚していた大隈重信も、立憲改新党を結党する事を明らかにします(10月18日参照>>)

もちろん、こうなったら政府も負けてはいられません・・・東京日日新聞・社長の福地源一郎(桜痴)らが、現政府を支持する立憲帝政党を結党し、4月4日には初めての機関紙・大東日報を創刊します。

そんなこんなの明治十五年(1882年)4月6日、当然のごとく、自由党の支持基盤を強固にすべく、3月下旬から東海道を下りながらの全国各地への遊説旅行を続けていた板垣は、この日、岐阜金華山のふもとにある神道中教院(ちゅうきょういん)で開かれた自由党の懇親会に参加・・・運動の中心人物を目の当たりに、狂喜乱舞する出席者相手に、約2時間の演説を終えたばかりでした。

2~3日前から体調を崩し、ちょっと熱っぽかった板垣は、演説を終えると、まだしばらくは続く懇親会の会場を後に、旅館へ向かおうと会場の玄関を出た・・・その瞬間!

彼を一目見ようと、玄関わきに群がる群集の中から、1人の男が飛び出し「国賊!」と叫びながら、短刀にて板垣の胸を一突き!

しかし、彼は元武士ですから、もともと武道の心得があり、しかも、竹内流・小具足組打術という素手の戦いもマスターしていましたから、とっさに相手の手首を取りますが、タイミングが悪く、逆に押されて刃先はさらに奥へ・・・

身をひねって急所を避けた板垣でしたが、男はなおも刃物を振りかざし・・・それを手でかわす板垣の両手は、みるみるうちに真っ赤に染まり、「もはやこれまで!」という時、騒ぎに気づいた同志の内藤魯一(ろいち)が、男の後ろから近づき、相手の首を持って仰向けに倒しました。

続いてやって来た大勢の者が、次々と男に飛びかかり、全員で覆いかぶさって、なんとか取り押さえました。

血まみれになりながらも、おもむろに取り押さえられた男に近づいた板垣は、男に向かいあの名セリフを一言・・・「板垣死すとも自由は死せず」

・・・と『自由党史』は、あくまでカッコよく・・・

まぁ、当然と言えば当然です。
自分とこの代表をカッコよく書かないはずまありませんから・・・。

でも、皆さんお察しの通り・・・こんなヤバイ状況で、こんな名セリフを吐けるワケがない・・・(と思う)。

彼自身の回顧録には、実は、「驚きで声も出なかった」と記されているそうなので、これは、板垣自身が「カッコよく書き残してくれ」と言ったわけではなく、やはり、『自由党史』での党の宣伝効果を狙っての記述という事になりそうです。

この事件を報道する『東京日日新聞』では、あまりの出血のひどさに、周囲の者が、「もう助からない」と思い込んで泣き叫んでいた時、「諸君嘆ずるなかれ、板垣退助死するとも日本の自由は滅せざるなり」と言った・・・と、「板垣死すとも・・・」と、同じような意味の事を、板垣自身が、犯人にではなく仲間に言ったという事になっているそうです。

また、別の新聞記者の話として、あのセリフは板垣を助けにきた内藤が言った言葉であったものの、「板垣が言った事にしたほうが、カッコイイので、そのようにしといてね」内藤自身が頼んだなんて話も残っているそうです。

ただ、いずれにしても、板垣を含む、そこにた誰かが、「板垣死すとも・・・」と同じような意味の言葉を言った事は確かで、そこにいた板垣の姿も、もう死ぬ寸前に見えた事も確か・・・

このニュースがマスコミによって報道され、全国の自由民権派の仲間たちに伝わるうちに、その士気はあがり、より板垣がカッコよく伝えられてしまったようで、最初のニュースに尾ひれをつけた人々も、決して悪気はなかったようです。

なんせ、この事件は、その直後から、「板垣死すとも・・・」の名ゼリフのとこで、最高潮の拍手喝さいを浴びるお芝居としても上演されたそうですから・・・。

ところで、最初のうちは、「自由党を敵視する政府によって雇われた者ではないか?」と噂されたこの犯人ですが・・・実は、愛知県の士族出身の小学校教師で、相原直という28歳の青年でありました。

彼は、政府や組織とは一切関係ない青年で、ただ、東京日日新聞の熱狂的な愛読者であったというだけでした。

先に書いた通り、東京日日新聞の社長・福地は、政府指示の立憲帝政党を立ち上げた人・・・つまり、メチャメチャ保守的な新聞を読んでいるうちに、革新的な板垣の事を憎いと思って強攻におよんだ単独犯だったのです。

結局、無期懲役の判決を言渡され、北海道集治監に送られ、北海道開拓の強制労働に従事させられた犯人・相原でしたが、実は、彼と板垣には、まだ後日談が残っています。

明治のこの時期に小学校教師をしていたというだけあって、彼は、獄中ではたいへん真面目な模範囚であったようで、無期とはされながらも、明治二十二年(1899年)、大日本帝国憲法発布の恩赦によって罪を許され、出獄とあいなったのです。

そんな彼が、出所後、真っ先に向かったのは、かの板垣のところ・・・。

「すわ!もう一度!」
と、思いきや、なんと、謝罪に訪れたのだとか・・・

それを知った板垣は、快く彼に会い・・・
「君も国の未来を思っての事やから、もう、怒ってないって。
ただ、襲う前に、もうちょっと、僕の事、知ってて欲しかったなぁ。
そしたら、国賊やない事もわかったやろに・・・。
これからは、僕の事、よう見てな、ほんで、この先、もし、やっぱおかしいわって思たら、もっかい襲いに来たらええがな

と言ったのだそうな。

板垣退助・・・カッコイイ~ヽ(*≧ε≦*)φ惚れてまうやろ~・・・て、まさか、これも別人が言うたんやないやろなww

ところで、この青年・・・板垣との面会の後、「今後は、北海道の開拓に一生を捧げます」と言って、北海道行きの汽船に乗ったそうですが、なぜか、遠州灘のあたりで、姿を消したのだとか・・・

単に、船から落ちたとか・・・
板垣に会って、その人物の偉大さに感銘するとともに、逆に襲った事への後悔の念にさらされ、飛び込み自殺したとか・・・
金品を奪われた末、海に投げ込まれたとか・・・
実は、本当に政府の関係者であったため消されたとか・・・

・・・と、様々な噂が流れ、結局、この事件は、板垣のさわやかな名ゼリフとはうらはらに、後味の悪い不可解な結末となってしまいました。
 

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2009年4月 4日 (土)

上野戦争へのカウントダウン~大村益次郎・着陣

 

慶応四年(1868年)閏4月4日、新政府の要請により、大村益次郎が江戸に着陣しました。

・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)という年が始まってまもなく勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れた(1月9日参照>>)江戸幕府・第15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、自ら江戸城を出て謹慎生活に入りました。

戦争回避と徳川の存続を願って、ただひたすら朝廷に恭順な態度を示す慶喜・・・そんな慶喜の警固と徳川家の名誉回復を目的に、一橋家の家臣を中心に結成された彰義隊(しょうぎたい)・・・

その後、江戸の町の治安維持という役目を与えられて、上野寛永寺を拠点に江戸市中を取り締まりながらも、幕府勢力の回復を模索します。

しかし、そんな時、あの西郷隆盛と勝海舟の会談(3月14日参照>>)が行われ、江戸無血開城が決定しました。

やがて、4月11日(この年は閏月で4月が2回あります)江戸城が開け渡され、江戸の町は新政府の管理下に置かれますが、兵力にも、資金にも乏しい新政府軍は、町の治安を守る事すらできず、江戸は無政府状態のようになってしまいます。

以前の彰義隊結成のページ(2月23日参照>>)で、だいたいここらへんあたりまでお話させていただきました。

・‥…━━━☆

そんな頼りない兵力の新政府軍には任せられないと、未だ、江戸の治安を守る彰義隊は、江戸の町の人々の人気を博し、大いにもてはやされますが、一方では、新政府軍の兵士とひともんちゃくを繰り返している状況・・・。

しかも、もともと江戸城開け渡しに反対していた幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、あの江戸城開城の日に、陸軍歩兵奉行の大鳥圭介らを連れて、最新鋭の軍艦・開陽丸で品川沖へ脱走し、大量の武器を持ち去ったうえ、その戦力で新政府軍と小競り合いを続けます。

そんなゴタゴタを利用しようとするのは、スミに置けない男・勝海舟・・・「ほら、やっぱり、幕府の権力なかったら治まれへんやろ?僕らの慶喜はんを、江戸に連れ戻そか?」てな話を、新政府軍に持ちかけます。

ちょうどその頃、未だ、本拠地を京都としていたため、江戸の状況がよくわからない新政府首脳らの要請を受けて、江戸にやってきた佐賀藩士・江藤新平が見たのは・・・

困り果てた末、今まさに、勝の案を受け入れて、旧幕府との融和を図ろうとしていた新政府軍・大総督府参謀の海江田信義(かいえだのぶよし)の姿でした。

「こら、アカン!」と思った江藤は、彰義隊を討伐せねば!と考えますが、いかんせん上記の通り、兵力も軍資金もありはしない新政府・・・だからこそ、江戸の治安が守れないわけですから・・・。

Oomuramasuzirou600a ・・・で、この状況を何とかするために、新政府の首脳陣に出動要請をかけられたのが、天才軍略家大村益次郎(11月5日参照>>)だったのです。

軍防事務局判事として、慶応四年(1868年)閏4月4日江戸城に着陣した益次郎・・・しかし、江戸城内にいる新政府・大総督府の皆々は、あまり、彼を歓迎してはいなかったのです

江戸の町を焦土と化す事なく、城を無血開城させた事は、彼らの誇りでもありましたし、今になって「戦火にさらされる事なるのか」という不安も大いにありました。

特に、先ほどの海江田は、あの西郷が京都の滞在中の今は、事実上、江戸城内のトップなわけで、そこにやってきた新参者の益次郎が、「あーだ」「こーだ」と指図する事を快く思うわけがありません。

しかし、益次郎は益次郎で朝廷からの要請で派遣されてきたわけで、そうなれば、この場所で采配するのが自分の役・・・しかし、海江田はなかなか指揮権を益次郎に渡そうとはしません。

そんな嫌な空気を一新したのが、閏4月24日の三条実美(さねとみ)江戸入りでした。

実美によって、徳川家を70万石の一大名として駿河へ転封する事、および彰義隊を討伐する事が、岩倉具視(ともみ)をはじめとする京都首脳陣の方針である事が伝えられ、ここでやっと、益次郎が江戸城内での主導権を握る事ができるようになったのです。

早速、5月1日、江戸の治安維持の役目を幕府から剥奪し、今後は、新政府大総督府が行う事を決定します。

このニュースを聞いた勝は、すぐさま、山岡鉄舟を上野寛永寺に向かわせ、それまで治安維持の役目をしていた彰義隊に解散命令を出しますが、もはや手遅れ・・・彰義隊が、そのままあっさりと解散するわけもなく、むしろヤル気満々です。

もちろん、こうなったら益次郎もヤル気満々!

ところが、ここまできても、まだ軍儀の席でことごとく対立する海江田と益次郎・・・しかし、京都から戻った西郷の「大村に委任する」のツルの一声で、海江田も、もう何も言えなくなり、その後は、益次郎を中心に、具体的な作戦会議が進められ、綿密な計画が立てられていきました。

さらに、ラッキーな事に、幕府がアメリカに発注していた軍艦・ストーンウォール号の受け渡しを、局外中立を守るアメリカが拒否したため、購入準備として用意していたお金が宙に浮く事となり、それを軍資金に流用できるというサプライズもありました。

そして、いよいよ・・・来る5月15日に、上野の山を取り囲み、総攻撃を開始する事が決定されたのです。

世に言う上野戦争です。

まるで、江戸城が無血で開城された事の代理の流血であるかのような、この上野戦争・・・その詳細は、やはり、総攻撃の日である5月15日のページでどうぞ>>
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2009年4月 3日 (金)

知ってるつもりの十七条憲法~その言いたい事は?

 

推古十二年(604年)4月3日、聖徳太子が憲法十七条を制定しました。

・・・・・・・・

「聖徳太子の憲法十七条」・・・これは、誰しもが通る道・・・

どんなに歴史好きでない人でも、さすがに小学校の授業で習った記憶が残っているシロモノです。

Syoutokutaisinennpyoucc 現在では、その存在自体が疑問視されている聖徳太子・・・最近は教科書でも聖徳太子の名前は消え、より実在した可能性の高い厩戸(うまやど)皇子として登場するようになっているようですし、以前から、このブログでも、その怪しさについて書いたりしています(4月10日【聖徳太子のどこが怪しいのか】参照>>)

そうなると当然、本日の憲法十七条についても疑いが持たれる事になりますが、それを論じ出すとキリがなく、その真偽だけでいっぱいいっぱいになってしまいますので、それは、また、そのようなテーマで書く時に論じさせていただく事として、今日は、とりあえず、聖徳太子が実在して、憲法十七条を制定したというテイで、その憲法そのもについて書かせていただきたいと思います。

・・・で、冒頭に、誰もが通る道・・・と、歴史好きでなくても誰もが知ってる事を強調させていただきましたが、この誰でも知ってるというのが、意外にクセモノです。

「604年の4月3日に作ったかどうかは知らんが、聖徳太子が十七条の憲法を作った事は知ってる」

そうなんです。
憲法を作った事を知ってるだけで、どんな物かはほとんどわからない・・・

「いやいや、『和をもって貴(とうと)しと成し、忤(さから)う事なきを宗(むね)とせよ』、と皆で仲良くしようって事が書いてある事も知ってるよ」
と、おっしゃる方もおられるでしょうが、問題は、そのあとです。

そう、教科書を探しても、聖徳太子に関する本を読んでも、そこから後ろの事はほとんど書いていません。

つまり、そこからあとの内容については、学校でも教えられていないのが現状なのです。

例として、私の持ってる歴史副読本を転載させていただきますと・・・

  • 一に曰く、和をもって貴しと成し、忤う事なきを宗とせよ(以下現代語訳あらまし)
  • あつく仏教を信仰せよ
  • 天皇の命令をうけたら、必ずそれに従え
  • 役人は礼儀を基本とせよ
  • 私利私欲を捨てて公平な裁判を行え
  • 善をすすめ、悪をこらせ
  • 人は各自の任務と役目を行え
  • 役人は朝早く出勤し、遅く退庁せよ
  • すべての事に信をもって当たれ
  • 人の過失を怒ってはならない
  • 役人の功績と罪科にかなった賞罰をせよ
  • 地方官は人民から税をむさぼり取らぬようにせよ。
    国に二人の君はなく、人民に二人の主はない
  • 役人は職務の内容を心得よ
  • 役人は他人を恨んだり妬んではいけない
  • 私欲を捨てて公共の立場に立つのが臣民の務め
  • 人民を使役する時は、時節をわきまえよ
  • 物事は自分一人で決めず、よく論議せよ
           (浜島書店:資料カラー歴史より)

と、あります。

もちろん、原文は漢文で書かれていますので、それを現代語訳していただいてるのはありがたいですし、少なくともここは、十七条のすべてを書いてくださっているので結構なのですが、中には、途中の五条くらいから十条くらいまでがカットされていたり、四条までで以下略・・・いや、以下略なら、「まだ、この先があるんだな」という事が想像できますが、何も書いていないものもあって、そこで終わりだと思ってしまっている人も、多くいらっしゃるのではないか?と思います。

現に、私も、学校で習った時は、そう思ってました。

しかし、上記の引用の中での「以下現代語訳あらまし」・・・ここです。

つまり、ここから先は、あらましを書いてあるだけ・・・それは、この一条だけでなく、二条~十七条すべてが、あらましなので、本当は、このそれぞれの条の先に、まだ文章が続いている事になるわけです。

もちろん、先に書かせていただいたように、原文は難しく、すべてを、ここでご披露しても「何だかな~」って感じですし、上記の、内容を要約したもので充分だと思いますので、それはやめておきますが、せめて、第一条の、あの有名なところだけは・・・

・・・というのも、この一条・・・けっこう、個人的に好きな内容なのでござんすよ。

原文:
一曰 以和為貴 無忤為宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

一般的な読み下し:
一に曰く、
和をもって貴(とうと)しと成し、
(さから)う事なきを宗(むね)とせよ。
人みな党(たむら)あり。
また、達(さと)れる者少なし。
ここをもって、
あるいは君父(くんぷ)に従わず。
また隣里に違(たが)う。
しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
事理おのずから通ず。
何事か成らざん。

私的解釈:
お互いに協力する事がええ事であって、やたら反目せんようにするのが基本やと思うんやけど、人にはそれぞれの思惑とか派閥とかあるし、なかなか情勢を見通す事のできるモンもおらへんから、上司やオヤジに反発したり、近所とモメ事を起すような事になるんや。
けどな、上司も部下も無く、お互いに腹割って話し合う事ができたら、問題は必ず解決できるし、成し遂げられへん事なんかないと思うねん。

私は、この後半部分がすごく重要だと思うのです。

最初の「和をもって貴しと成す」だけなら、単に、「みんな仲良く」という意味合いで、なんだか皆が同じ意見でないといけないような雰囲気なのですが、後半部分まで読んでみると、「それぞれ違う意見があるのは認めるけど、話し合って解決しようや」という事になる・・・つまり、自分と違う考えの人物がいる事を認めている事になるわけです。

これは、ちょっとした事のようで、とても大切な事なのではないでしょうか?

現在の世の中って、両極端なような気がするのです。

学校では、皆が同じように勉強して同じような成績をとる事を望み、運動会でも同じような速さの子供を集めて競走をさせ、みんなと違う人がいれば、逆にイジメの対象になったりする・・・。

そうかと思えば、♪世界に一つだけの花♪のような個性を大事に・・・をはき違えて、順番に並ばないのも個性の一つ、公共の場でワイワイ騒ぐのも個性の一つ、果ては、大人になっても働かないのも個性の一つ・・・と、おっしゃって、まったく子供を叱らない親御さんもいらっしゃると言います。

なんだか、個人と社会の区別がつかない感じとでも言いましょうか・・・

個人は個人、その個性は大いに伸ばしていくべきだと思いますが、一歩社会に出れば、自分とは、環境も、考えも、何もかも違う人もいて、その人たちをちゃんと認めたうえで、うまくやっていかなきゃならない・・・

この第一条は、そういった事を言いたいのではないか?と思うのです。

残念ながら、「和をもって貴しと成す」の最初の一行だけでは、それを知る事はできませんが・・・。
 

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2009年4月 2日 (木)

ルート変更で命がけ~遣唐使のお話

 

天平五年(733年)4月2日、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする第10回め(9回とも)の遣唐使船が、日本を出航しました~

そう言えば・・・

阿倍仲麻呂(8月20日参照>>)
吉備真備(4月25日参照>>)
最澄空海(12月14日参照>>)
小野篁(12月15日参照>>)
と、何人かの遣唐使・・・、

また、
鑑真和上(12月20日参照>>)
が、苦労の末、日本までおいでになった事などを、このブログでもご紹介しましたが、遣唐使そのものについて書いた事ないのかな?と思って・・・

本日は、遣唐使とはどんなものだったのか?について書かせていただきます。

Touseidenemaki800
鑑真渡航の苦難を描いた東征伝絵巻(唐招提寺蔵)

・・・とは言うものの、この遣唐使が、当時、先進国であった(中国)へ、優秀な人材を派遣して、その叡智を学んで帰って来てもらって、日本の未来を荷う人になってもらいたいという、いわゆる国をあげての留学制度であった事は、改めて言うまでもありません。

舒明二年(630年)に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を大使に派遣された時を第1回とします(8月5日参照>>)

ちなみに、よくご存知の小野妹子(おののいもこ)遣隋使(7月3日参照>>)・・・隋と唐は別の国という事で、何かと細かな違いもありますので、その違いや遣隋使については別の機会に書かせていただく事として・・・

以下、今回ご紹介するルートや、その他もろもろは、遣唐使の事であるという事でお願いします。

ところで、冒頭に第10回(9回とも)と書かせていただきましたが、これは、船出の準備をしていたものの船の破損で中止されたものや途中まで行って遭難したもの、また、唐からの使者を送るために派遣されたものを含めるか含めないかで、その回数の数え方が異なり、どれが正解とは言えないのが現状です。

とりあえず、すべてを数えると全部で20回の遣唐使が記録されていますが、上記のような様々な条件によって、ほかにも18回16回15回14回12回説がありますが、いちいち(または○回とも)と書くのもややこしいので以下の第○回というのは、全部で20回とした時の数字とお考えください。

上記の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)吉備真備(きびのまきび)は養老元年(717年)の第9回で渡海・・・その後、真備は天平勝宝四年(752年)の第12回で、副使として再び渡海し、この時の船が2年後に帰国する時に乗船したのが鑑真和上(がんじんわじょう)です。

また、最澄空海は延暦二十三年(804年)の第18回で渡海しますが、以前、最澄&空海のページで書かせていただいたように、最澄は国費のエリート留学生で、空海は私費留学生の中の1人でした(12月14日参照>>)

その次の回の承和五年(838年)の第19回に、結果的に最後となる遣唐使として渡海したのが小野篁(おのたかむら)・・・

これが最後となるのは、この小野篁の次として計画された寛平六年(894年)の第20回のぶんで大使に任命された菅原道真が、「行きたくない~」とゴネまくりの反対しまくりで中止となり、そのまま「白紙(894)に戻そう遣唐使」となって、遣唐使制度自体が終了を迎える事になるので、実質的には、この19回で最後となるのです(1月25日参照>>)

・・・と、長々と紹介してしまいましたが・・・

「おぉ・・・やっぱ成績優秀な人材が派遣されるんやね~、有名人ばっかりやん!」
と、思ってしまいますが、実は、遣唐使は、少ない時でも200人ほど、最盛期には、一度に600人もの人数の留学生&留学僧で構成されていて、7世紀頃までは120人乗りの船2隻、8世紀頃からは150人乗りの船・4隻に分乗しての大挙の渡海なので、やはり、皆が皆、帰国後に活躍できたわけではないようです。

ところで、最後の遣唐使の大使に任命されちゃった菅原のミッチャンの、遣唐使廃止案の理由の中には、「もう唐に学ぶ事はない」「現地の治安が悪い」などの他に、渡海が命がけ・・・つまり、遣唐使船の遭難が多い事があげられていますが、本当に、そんなに危ない航海だったのでしょうか?

確かに、現在のような船ではないのですから、それなりに危険なのはわかりますが、以前の遣隋使の頃・・・小野妹子の時代や、それ以前にも、朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人がたくさん来ていたような気がするのに、それから約300年もたってから、さらに危険だなんて?・・・ひょっとして、ミッチャンは唐に行きたくないがため、オーバーに言っているのでは?と疑ってしまいますね~。

確かに、多少オーバーに言ってるかも知れませんが、とても危険だった事も事実なのです。

それは、日本をとりまく外交事情とも関係があります。

最初の頃の遣唐使は、当時、最大の港であった難波津(大阪湾)から出航し、瀬戸内海を通って筑紫(北九州)へ向かい、その次に筑前大津(博多)を経由して、壱岐対馬を過ぎると、朝鮮半島の西岸に沿うかたちで黄海を北上し、渤海湾から山東半島へ上陸し、その後、陸路で長安へ向かう北路というルートがとられていました。

これだと、島から島へ、その後は、半島の海岸沿いを・・・という事で、けっこう安全なわけです。

しかし、ご存知のように、この時代に朝鮮半島の情勢が、徐々に変わってきます。

天智称制二年(663年)には、例の白村江の戦いで、百済を援助した日本は敗退(8月27日参照>>)・・・日本と最も友好関係にあった、その百済も滅亡してしまします。

さらに676年に新羅が朝鮮半島を統一する頃には、新羅と日本の関係も悪化し、もう、この北路は使えなくなったわけです。

・・・で、大宝二年(702年)の第8回以降は、先の大津から九州の西を南下して、屋久島種子島、さらに奄美大島沖縄を経由して東シナ海を横切って長江の南側あたりから上陸する南海路や、五島列島から東シナ海を渡る南路というルートが使われるようになり、一気に危険度がUPしたわけです。

結局、この南のルートをとるようになってから、出発した4隻が4隻とも無事に帰国したのは、たった一回だけという悲惨な結果に・・・。

こうなると、「御仏の教えを学びたい」てな希望あふれる僧や、一旗あげたい貧乏学生ならともかく、大使に任命されるようなある程度地位のある役人は、行きたくなくなるわけで、第16回の宝亀八年(777年)の遣唐使の大使に任命された佐伯今毛人(さえきのいまえみし)などは、仮病を使って逃げまくり、この時は副使だけの遣唐使といった事まで起きてしまいます。

もちろん、ルートうんぬんだけではなく、飲食も、船の上では米を干した物と生水だけという有り様ですし、衛生面も良くないために病人の発生率も高く、さらに、その病人を、治療する別スペースさえない世界ですから・・・。

一番は自分が行きたくなかったから・・・とは言え、菅原道真の提案により、第20回の遣唐使派遣を中止して、それを最後に遣唐使制度そのもを廃止した日本・・・その9年後に唐が滅ぶ事を考えたら、ベストタイミングでの撤退・・・といったところでしょうか。

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「平城宮歴史館」に復元された遣唐使船
印象としては、「こんな小さな船でよく海をを渡ったなぁ」って感じです。
(「平安遷都1300年祭」参照>>)

ただ、このように命がけで渡海してくれた遣唐使によって、日本には様々な文化がもたらされ、あの平城京に見る美しい天平の甍(いらか)や、平安京に見る見事な都市計画があるわけで・・・

まさに、彼らの持ち帰った知識なくしては、これらの誕生もなかったかも知れない事を思えば、先人の勇気に感謝感激です。
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2009年4月 1日 (水)

関ヶ原の幕開け~上杉景勝の上洛・拒否

 

慶長五年(1600年)4月1日、徳川家康の出した上洛要請を上杉景勝が拒否しました。

・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)8月18日の豊臣秀吉の死・・・(8月18日参照>>)

その後、しばらくの間は、秀吉の遺言通り、徳川家康をはじめとする五大老と、石田三成を中心とする五奉行による合議制によって、その政権は運営されていました。

Tokugawaieyasu600 しかし、やがて、家康は、秀吉の遺言を破って、諸大名と私的に婚姻関係を結んだり、独断でお気に入り大名に加増して自らの派閥に入れようとしたりするようになり、五大老と五奉行の均衡が揺るぎ始めてきた事で、大老や奉行らは、度々連署して家康の行動を非難しますが、家康はおかまいなし・・・。

この間に、秀吉恩顧の三成が何度も、家康の暗殺計画をくわだてたとも言われていますが、その三成をターゲットにすべく、家康が画策したのが、もともとあった豊臣家内の派閥の抗争を、さらに広げる作戦・・・。

この豊臣家内の派閥というのは、あの秀吉の晩年の朝鮮出兵に見るように、最前線で命がけで戦った武闘派の家臣と、その監督役、あるいは、日本に滞在したまま内政の事務処理などをやっていた文治派の家臣との間に生まれた派閥で、簡単に言えば、「命がけの仕事と、事務の仕事の功績が同等に扱われるなら、やってられない!それなりの危険手当をよこせ!」と命がけのほうは思うのは当然で、そこに生まれた派閥です。

上記の派閥の文治派のリーダー的存在が三成だったわけです。

それでも、秀吉の友人でもあったあの前田利家が生きていた間は、何とか平静が保たれていましたが、その利家が慶長四年(1599年)の閏3月3日に亡くなると、その夜、早くも、武闘派による三成襲撃事件が発生してしまいます(3月4日参照>>)

この一件で、三成は謹慎処分に・・・

長老とも言える利家が亡くなり、秀吉一筋だった三成が失脚すれば、もう、家康を止める者は誰もいません。

そんな雰囲気に嫌気がさしたのか、故郷の加賀(石川県)へと帰ったのは、亡き利家の後を継いで五大老となっていた息子・前田利長・・・そこを、すかさず家康は、「利長に謀反の疑いあり」として、加賀征伐を公言します。

利長の必死の弁明と、彼の母・まつ徳川への人質として差し出す事で、11月には出兵を取りやめた家康でしたが、その次にターゲットとして目をつけたのが、同じく五大老の1人・会津(福島県)上杉景勝だったわけです。

Uesugikagekatu600a 実は、その利長が畿内を後にしたと同時期の9月頃に景勝も領地の会津に帰国していました。

それも、ちゃんと家康の許可を得て・・・。

なんせ、その時の上杉家は、亡き上杉謙信から受け継いだ領地であった越後(新潟県)から会津へ転封されたばかり・・・。

なのに、五大老の1人として、このところ畿内に滞在していたため、領国の整備が未だ手付かずの状態だったのです。

もちろん、その理由をちゃんと「建物や道路などの整備をしたいから・・・」と告げて、家康も、「あい、わかった」と了承しての帰国・・・。

なのに、景勝が領民を動員して、新しく基点となるべき神指城(こうざしじょう)の築城をはじめ、道路や橋の整備を開始し出すと、難くせをつけてきたわけです。

確かに、上記のような工事には人手がいりますから、浪人を新たに雇いもしましたし、人数が増えれば、それなりの武具や武器を購入した事も確かですが、領国の整備に、それらの条件が含まれている事は、戦国武将として暗黙の了解といったところだったはず・・・しかし、家康は、それを「謀反の準備をしている」として、「上洛して、釈明しろ」と言ってきたわけです。

景勝にしてみれば、上記の通り、秀吉が亡くなって以来、ずっと、中央の政治に翻弄されっぱなしで、ようやく、領国の整備に手をつけはじめたばかり・・・しかも、東北の冬は、動きがとれない事も充分承知したうえの家康のイチャモンに「ほな、すぐ行きますわ」なんて事を言うわけもなく、慶長五年(1600年)4月1日、この上洛命令を拒否したわけです。

この日の拒否の返事を聞いた家康は、次に、西笑承兌(せいしょうじょうたい)なる僧に頼んで、景勝の上洛と同時に人質も差し出すよう要求する手紙を書かせます。

その手紙への返答として、「行くわけないやろが!アホか!」と、キョーレツな手紙を送り返したのが、今年の大河の主役として一躍有名になった景勝の家臣の直江兼続(かねつぐ)・・・。

『直江状』として今に残る、この有名な書状がホンモノか否かに関しては、その直江状が書かれた日づけ4月14日に書かせていただく事として、ともかく、この時に、景勝が上洛をキッパリと断った事によって、家康は会津征伐を決行する事になるわけで、その会津征伐のために留守となった伏見城を三成が攻撃する事で、関が原の合戦へと突入するわけです。

その事を考えれば、まさに、今日、この日が、関ヶ原の戦いのへの幕開けとなるわけで、この後、会津出兵を決定した家康は、伏見城の大広間で大いに笑ったという事ですが、当然の事ながら、この時、景勝が上洛に応じていれば家康の出兵はなく、家康の出兵がなければ、三成の伏見城攻撃もなかったイコール関ヶ原も無かった・・・。

また、たとえ、景勝が上洛を拒んで、家康が出兵したとしても、三成が動かなければ、やはり、関ヶ原は無かった・・・という事になります。

その点から見て、この時の三成と景勝との間に、何かしらの密約があったのではないか?とも囁かれます。

ただ、私の個人的には、この時点では、まだ密約は無かったのでは?と考えています。

のちのち、関ヶ原に至る途中で、約束が交わされたものと思われますが、少なくともこの時点では・・・、いえ、厳密には、三成と景勝の間には無かった??

問題は、三成と親交のあった兼続ですが・・・今年の大河でも、三成役をあの人気の彼がやっているところを見れば、やはりドラマでは、そこに密接な関係があったという設定となるのでしょうが、その「直江状」については、手紙の日づけである4月14日のページでどうぞ>>
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