衣川の合戦~義経・主従の最期
文治五年(1189年)4月30日、源頼朝の要請を受けた藤原泰衡が、源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込む『衣川の合戦』がありました。
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このブログでは、すでに常連の域に達している源義経・・・
それこそ、源平の合戦を中心に多くの逸話を書かせていただいていますが(くわしくは年表を>>)、一昨年のこの日は義経×牛若・別人説(2007年4月30日参照>>)を、そして、時には生存説(12月30日参照>>)も書かせていただきましたが、そう言えば、衣川の戦いを書いてないなぁ・・・という事で、本日は、現在の私たちが思い描く義経像に最も近い『義経記』を中心に、衣川の合戦=義経の最期を書かせていただきたいと思います。
ただし、以前から時々書かせていただいていますように、『義経記』は、その日づけも、他の文献とはズレがあり、現実にはありえない神がかり的なヒーロー伝説の部分もあり、細かな描写の部分は、史実とは言えないものかも知れませんが、そこのところをご理解いただきながら・・・という事でお願いします。
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数々の武功を挙げて壇ノ浦に平家を破ったのもつかの間(3月24日参照>>)、兄・頼朝との不和から追われる身となった義経は(11月3日参照>>)、最も信頼のおける藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州・平泉へとやってきます。
しかし、到着したその年・文治三年(1187年)10月、その秀衡は亡くなってしまいます。
大黒柱を失った奥州藤原氏はもろくも崩れはじめ、秀衡の後を継いだ息子・泰衡(やすひら)は、頼朝の再三の要請に屈し、文治五年(1189年)4月30日(義経記では29日)、義経主従の衣川の館を急襲するのです。
攻める寄せ手は2万余騎、守る主従は10人・・・(←んなわきゃない(。>0<。)そんな人数じゃ合戦とは言わないゾ)
義経は、寄せ手が泰衡をはじめとする秀衡の息子たちであるなら戦おうと、表に出てきていましたが、やって来たのが郎党だったので、館の奥に入り、ただひたすらの経を読む事にします。
義経を守るは、武蔵坊弁慶、片岡八郎常春、鈴木三郎重家と弟の亀井六郎重清、鷲尾(わしのお)三郎義久、増尾(ましのお)十郎、伊勢三郎義盛、備前平四郎、という8人の家来たち・・・
そして、義経の正室・郷御前(さとごぜん・河越重頼の娘)(2011年4月30日参照>>)の守役だった十郎権頭兼房(ごんのかみかねふさ)と下男の喜三太の二人を加えた計10名・・・。
常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)をはじめとする、その他の家来たちは、「近くの山寺に参詣に行く」と言って出て行ったまま、戻っていなかったのです。
敵の近づく気配を感じた喜三太と兼房が、素早く屋根の上に上り、早くも矢を射かけはじめます。
弁慶は、黄色い蝶を2~3匹あしらった黒革の鎧に身を包み、大薙刀(おおなぎなた)の真ん中あたりをしっかりと持ち、堂々と胸を張って立ったかと思うと、そばにいた重家・重清兄弟に向かって・・・
「おい!お前ら兄弟!なんか、歌でも歌えや!
こう見えても、若い頃は比叡山でブイブイ言わしとったんや!
東国のアホどもに、このワシの華麗なるステップ見せたろやないかい!」
♪うれしや滝の水。鳴るは滝の水。日は照るとも、東の奴原が・・・♪
二人に合わせて舞いを舞う弁慶の姿を見て、多勢に囲まれながらも堂々としたその姿に、驚く寄せ手の兵士たち・・・
すると、弁慶は、
「お前らなんか、比叡山の祭競馬の馬みたいなもんじゃ!数ばっかりおっても勝負にならん!っちゅーこっちゃ」
と、大声で叫ぶように発しながら、まっすぐに太刀を構えて、敵に突っ込んでいきました。
重家・重清兄弟も、負けじとばかりに続きます。
あまりの勢いに驚いた寄せ手が、思わず後ろへと下がると、
「コラ!戻らんかい!卑怯もん!」
と、3人は口々に言いながら敵を追いますが、ふと、重家は、1人武将に狙いを定め・・・
「そこのお前!名をなのれ!」
すると、その武将は、
「泰衡殿の郎党・照井太郎高治!」
「なんやと?高治高治っちゃぁ、泰衡の家中では勇猛果敢な者・・・逃げてどないすんねん!」
・・・との言葉に、高治は引き返して重家と刃を交えますが、腕が違い過ぎ。
すぐに、右肩を斬られて、再び逃げ腰に・・・とは言え、なんだかんだで、たった3人ですから、多勢に無勢で、ほどなく、大勢の兵に囲まれてしまいます。
それでも、重家は左に2人、右に3人斬り捨てた後、合計8人ほどに手傷を負わせますが、自らも重傷を負い、「もはやこれまで!」と、自刃して果てます。
弟の重清も6人に傷を負わせた後、兄に続いて割腹・・・。
すぐそばで奮戦する弁慶は、のどを斬られ、とてつもない出血状態・・・それでも、ひるまず向かってくる姿を見て、むしろ、怖くなって後ずさりする兵士たち・・・
しかし、その間に増尾十郎が討死し、備前平四郎も無念の自刃。
片岡八郎と鷲尾三郎は、ともに身を寄せ合って、一つ所で戦いますが、三郎は討死・・・その間に八郎は敵を避けて行きます。
やがて、伊勢三郎が、6人を討ち、3人に傷を負わせたところで、自らも手傷を負い、持仏堂で経を読む義経に軽く挨拶をして自刃しました。
あまりの形相に敵が寄り付かなくなった弁慶は、ひとまず義経のもとへ・・・
「どんな様子や?」
と、義経・・・
「俺と八郎だけですわ・・・後は皆、先に逝きよりました」
「そうか・・・」
義経は、驚く事もなく、静かに答えます。
「殿が先に逝きはったら、死出の山で待っといて下さい。
弁慶が先に逝きましたら、三途の川でお待ちしてまっさかいに・・・」
「うん、そうしょう・・・けど、もう、ちょい、この経を読み終わるまで、敵を防いどってくれるか」
「まかせといとくなはれ!」
なんとしてでも、主君が読経を終えるまで、敵を踏み込ませてはならずと、館の前で奮戦する二人・・・しかし、あまりの太刀打ちの疲労のため、八郎は全身に傷を受け、立つ事もできなくなって、とうとう自刃・・・弁慶1人となります。
「1人になってサッパリしたわ!味方なんて足手まといなだけじゃい!」
弁慶は、そう言って、薙刀を構えて仁王立ち・・・側に寄る者を次から次へと斬り捨てます。
その姿に、恐ろしくなった敵は、もはや、誰も近づきません。
しかし、そのかわり、仁王立ちで動かない弁慶には、とてつもない数の矢が放たれました。
蓑(みの)を被ったかのように全身に刺さった黒羽・白羽・染羽が風にそよぎ、まるで武蔵野の秋風に吹かれる尾花のように・・・
シ~ンっと静まり返ったかと思えば、四方八方に走りだし暴れまわる・・・やがて、また仁王立ちになって、敵をグルリと見渡して睨みつけ、またひと暴れ・・・
やがて、また静まり返って・・・
その間隔が徐々に長くなっていき、やがて、動かなくなる弁慶・・・
遠巻きに、その様子を見る兵士たち・・・
そのうち、1人の武将が・・・
「剛の者は、立ちながら死ぬというけど、誰か、ぶつかって試してみたらどうや?」
皆が、後ずさりする中、1人の武将が、馬を走らせて、弁慶にぶつかりました。
薙刀を前に突き出しながら、ド~ンと、その巨体が倒れます。
「また、暴れるぞ!」
と、一斉に散らばる・・・しかし、その後も、ピクリとも動かない弁慶を見て、兵士はやっと弁慶が死んでいる事を確認したのです。
この間に、屋根で弓を射ていた喜三太は、敵の矢に当たって討死し、1人残った兼房は、覚悟を決めて、堂にいる義経のもとに走ります。
兼房の様子を見て、外での合戦に決着がついた事を悟った義経は、兼房の目の前で、自らの守り刀にて割腹・・・守り刀の血を、袖で拭って鞘に収め、脇息(きょうそく・時代劇で殿様の横にある肘掛)に寄りかかって果てました。
その最後を見届けた兼房は、郷御前と一人娘を(義経記では男子もいた)刺し、自らの役目を終えたといわんばかりに鎧を脱ぎ捨て、館に火を放ちました。
燃え盛る炎をかきわけ、表に出ると、そこには、この日の大将・長崎太郎とその仲間たちの姿・・・
「我こそは十郎権頭兼房!」
と、素早く名乗りをあげると、その瞬間に太郎に飛びつき、すかさず斬りつけます。
膝から下と乗っていた馬のろっ骨を斬られた太郎・・・慌てて、弟の次郎が助けに飛び込みますが、兼房は、その切っ先をかわし、次郎を馬から引きずり下ろしたかと思うと、ガシッ左脇に抱え込んで、次郎もろとも、燃え上がる炎の中へと身を投じたのです。
姫のお供として、義経のもとへ来た老武将・・・最後の晴れ姿でした。
「侍たらん者は、
忠孝を専(もっぱら)とせずんばあるべからず。
口惜しかりしものなり」
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