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2009年4月 8日 (水)

織田信長とキリスト教~信長は神になろうとしたのか?

 

永禄十二年(1569年)4月8日、織田信長ルイス・フロイス京都でのバテレンの居住と布教活動の自由を許可しました。

・・・・・・・・・・

ご存知のように、日本で最初にキリスト教の布教活動を行ったのは、あのランシスコ・ザビエル・・・武力での植民地支配から軟化したキリスト教による支配へ政策を転換した当時のポルトガル国王・ジョアン3世が、イエズス会インドでの布教を要請し、さらにアジアへと布教活動を展開しつつある頃に、マラッカにいたザビエルがアンジロウ(またはヤジロー)という日本人青年と知り合い、日本での布教活動を決意した事は、すでに書かせていただきました(7月3日参照>>)

そのページで書かせていただいたように、天文十八年(1549年)7月に、アンジロウの故郷である鹿児島に上陸したザビエルは、領主の島津貴久に謁見し、鹿児島での布教の許可を得て活動を始めるわけですが、地元・仏教の抵抗もあり、また、やはり「本格的に布教活動をするには、日本の国王の許可を貰おう」と、九州を出て京都を目指したのです。

しかし、やってきた京都では、天皇の権力は失墜し、足利将軍も洛外へ追われて右往左往の時代・・・「こりゃ、アカン」と再び西へと戻り、周防(山口県)大内義隆、そして、ご存知、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)の保護を受けて(11月11日参照>>)、輸出入の交易がらみとは言え、九州での布教はおおむね成功した事になりますが、ここらあたりで、ザビエルは後輩にバトンタッチ!

やがて、次々と来日した宣教師たちによって、キリスト教は徐々に日本に根をおろしていく事になるわけですが、それでも京都では、強い仏教勢力に押されて布教が難しく、畿内での拠点は、もっぱら堺・・・

永禄六年(1563年)に来日して、永禄八年(1565年)には、一旦京都に入っていたルイス・フロイスも、12代室町幕府将軍・足利義輝の暗殺(5月19日参照>>)のゴタゴタで京都を離れて、当時は堺にいたのですが、そんなこんなの永禄十二年(1569年)、先の義輝の弟・足利義昭を奉じて京に上ってきた(9月7日参照>>)のが、かの織田信長です。

政治にも介入する当時の仏教勢力に対して政教分離を図りたい信長は、フロイスにとってもラッキーな存在・・・しかも、将軍・義昭よりも、こっちに近づいたほうが有利な事も明白・・・と来れば、会わないわけにはいきません。

翌年の正月には堺の町も掌握(1月9日参照>>)、3月には副将軍へのお誘いも断った信長(3月2日参照>>)・・・ちょうど、その頃、フロイスは、ヨーロッパ製の鏡・クジャクの尾・黒いビロードの帽子などを手土産に、信長のもとを訪ねたのです。

しかし、この時の信長は、帽子だけを受け取って他のお土産は返し、フロイスに会う事もありませんでした。

なぜに・・・
のちに、信長が語ったところによると・・・
「幾千里もの遠くからやってきた外人さんを、どうやって迎えたらええかわからんかったのよん」
と、あの無鉄砲の信長さんからは、想像もできないような、かわいらしい言い訳をなさっていますが、それにしても・・・

なぜに、帽子だけ・・・
どうやら、この帽子には一目ぼれ・・・。

もちろん、自分自身も身につけ、後には、あの武田信玄への進物として赤い羅紗の帽子を贈っているところからみても、ニューファッションとして、大いに気に入ったようです。
(信玄に赤い帽子が似合ったのかどうか気になるところではあります)

かくして永禄十二年(1569年)4月8日、建築中の二条城にてフロイスと会見した信長は、世界に散らばる人種の事、彼らの故郷・ヨーロッパとインドと日本の位置関係・・・そして、もちろんキリスト教の教えについてなど、2時間に渡って話続けたのだとか・・・

それも、ほどんどが信長の質問にフロイスが答えるという形式・・・つまり、自分が不思議に思ってる事を聞きまくって、フロイスを質問攻めにしたって感じの会見だったそうです。

その後も、彼ら宣教師たちを、再三に渡って招き、月の動きや世界の気候なんかの話に聞き入っていた信長さん・・・なんと、彼らが地球儀を使って、ひと言ふた言の説明しただけで、地球が丸い事を理解したと言いますから、その柔軟な頭脳は、ここぞとばかりに、その知識を吸収した事でしょう。

やがて、義昭との力の差が歴然となるにつれ、信長が好む南蛮文化は、配下の武将や、金持ち商人の間で一大ブームとなります。

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南蛮屏風

あの、徳川家康でさえ、例のヒダヒダの襟の南蛮ファッションに身を包んでいたと言いますから、相当なハヤリだったのでしょうが、信長さんは似合いそうですが、家康のヒダヒダは・・・なんか笑ってしまいそうです。

そんなフロイスから見た信長の印象は・・・
「背丈は中くらいでほっそりとしていて、ヒゲはうすく、声は高くて心地いい・・・自分の考えに自信を持っていて、貴族や武将など身分の高い者を軽蔑する反面、身分の低い者とも気軽に話す」
と、大変な好印象のようです。

その好印象を裏づけるかのように、安土の城下にセミナリヨ(神学校)をも建設して、キリスト教を手厚く保護した信長・・・「キリスト教の布教によって、アジアへの支配を広げよ」と命じられているフロイスら宣教師にとっては、「ヤッター!大成功!」と、喜びたいところであったでしょうが、一つ、彼らの計算違いがありました。

それは、信長自信が決してキリスト教に帰依する事がなかったところです。

比叡山一向一揆・・・仏教に対して、「あれだけ武力を行使する信長が、これだけキリスト教を保護してくれるならひょっとして・・・」と、彼らは淡い期待を抱いていたのかも知れませんが、先にも、書かせていただいたように、信長の目標は政教分離・・・仏教であろうが、キリスト教であろうが、政治に関与させる事を避けるがための武力行使であって、宗教そのものを弾圧しているわけではないのですから・・・。

結局、信長自信が信者に・・・という期待を裏切られたフロイスは、やはり、その著書『日本史』に・・・
「彼は、神や仏をまったく信じていない・・・デウスを否定して自らを神になぞらえ、途方もない狂気で、悪魔的な思い上がりである」
と、先ほどの好印象とは、うって変わった表現をしています。

このフロイスの記述をもとに、時代劇などでも、「信長は神になろうとしていた」といった感じで描かれる事がありますが、個人的には、それはちょっと違う気がします。

なぜ?と言えば、私自信が無神論者だから・・・信長さんほどスゴイ人間ではありませんが、その心の内をちょっとだけ理解できる・・・とでも言いましょうか・・・。

もちろん、無神論者と言いながらも、お寺や神社にもお参りしますし、手も合わせて祈りを捧げ、お守りを戴いたりもします。

全否定もしないし、全肯定もしないというだけです。

信長さんも、そんな感じであったのではないか?と思います。

現に、あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前には、熱田神宮必勝祈願なんてやっちゃってますし、その他にも、神社仏閣への寄付も行ってます。

この時代は、キリスト教だけに限らず、ほとんどの人々が神仏を固く信じていた時代ですから、その時代に、「それほど神仏を信じていない」事は、ことのほか特別であったでしょうが、現代=平成の時代に暮らす私たちにとっては、おそらく特別ではなく、たとえ無神論者でなくとも、その心境がわからなくもないのでは?と思うのです。

たとえば、日本には、もともと八百万の神様がいて、その八百万の中には、外国の神様だって入るだろうし、山や石をご神体とする神様も含まれているだろうし・・・、どの神や仏にもどっぷり浸かっていない人は、それぞれの戒律に縛られる事のない感じで、それぞれの神や仏に接しているわけで、100人いれば、100人とも顔が違うように、100通りの考え方があり、そのぶん、100の神様・・・つまり、自分なりの信念のようなものが、心の中にあような気がするのです。

すべての、当時の文献を把握しているわけではありませんので、フロイス以外の、日本人の記した当時の文献に、「信長が神になろうとしていたか否か」が、どのように記されてあるのかはわかりませんが、おそらく、神仏の存在を信じて疑わなかった当時の人々から見れば、どの神や仏に帰依する事なく、自分なりの神=信念を持っている信長の姿が、「彼は神になろうとしている」と映ったという事なのではないかと思うのです。

しかし、それぞれの宗徒のかたには失礼とは思いながらも、お正月には神社へ初詣に行き、お盆には家族で墓参りをし、クリスマスを一大イベントとはしゃぎつつ、仏教での葬式で先人を見送る現代の日本人にとっては、信長さんの行動が、必ずしも神になろうとしてるわけではない事が理解できると思うのですが、いかがでしょうか?

信長は、自らを神になぞらえたのではなく、「自分なりの信念=神様像(彫刻の像ではなく、イメージ的な像です)のような存在が心の中にある」と言いたかったのではないかと思うのです。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
不謹慎にも、信長さんが竪琴を奏でながら
♪海の彼方には もう探さない
 輝くものは いつもここに
 わたしのなかに
 見つけられたから♪
(千と千尋の神隠しのテーマソング)
って歌ってる姿を想像してしまいました( ´艸`)

投稿: おきよ | 2009年4月 8日 (水) 11時43分

おきよさん、こんにちは~

>千と千尋の神隠しのテーマソング歌ってる姿を想像してしまいました( ´艸`)

ハハ・・・
私も想像してみました~

その時は、ぜひ、あの上杉謙信に送ったと言われている洋風のマントをはおっていていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2009年4月 8日 (水) 17時56分

日本人は無宗教、なんて言われるけどほとんどの人が神社、仏閣に気軽にお参りをしていて、とっても信仰心が篤いと思います。太陽信仰、山岳崇拝なんて縄文時代からあるし、目に見えない何かに感謝し畏敬の念を抱くって日本人のDNAにインプットされてるような気がします。信長さん、非常に頭がよく利用できることは利用し、自身は確固たる個をあくまでも失わない強い男、指導者だったのでは。フロイスさんもちょっとは良くしてもらったんでしょうから「悪魔的なおもいあがり」はちとひどい・・・

投稿: Hiromin | 2009年4月 8日 (水) 21時01分

Hirominさん、コメントありがとうございます。

不法投棄が後を絶たない場所に、困った地主が、小さな鳥居を建てたところ、その後は、誰もゴミを捨てなくなったという話を聞いた事があります。

やはり、日本人の信仰心は篤いと思いますね。

ただ、一神教のキリスト教などとは違って、天と地のあらゆる神様を信じ、どの神様のどの部分を重要視するかで、その人なりの神様像みたいなのがあるような気がしてならないのです。

投稿: 茶々 | 2009年4月 8日 (水) 22時26分

今日のバンクーバーオリンピック、フィギュア演技前に織田君が十字を切った気がして、織田信長とキリスト教の関係を調べてみたらこちらに来ました。
とてもわかりやすく興味深かったです。

信長さんが受け取った帽子見てみたかったです。
世界や地球のことを熱心に聞いたり、身分の低い方たちと交流していた話を聞くと、今まで知らなかった信長さんの人柄が少しわかりました。
信長といい、龍馬といい先見の明のある型にはまらない人物は志半ばで殺されているのが残念です。
出る杭は打たれるというやつでしょうか。。。

それにしても紐がきれるという織田君の不運、、、ご先祖様と関係があるのでしょうか。

楽しい記事をありがとうございます。

投稿: ぽっぽ | 2010年2月19日 (金) 23時43分

ぽっぽさん、こんばんは~

バンクーバーオリンピック、フィギュア・・・結果だけは見聞きしましたが、まだ映像は見てません。

そうですか~
織田くんが・・・
また、ニュースで確認してみます。

私自身は、信長さんは世間で言われているような狂気的なパワーハラスメントをするような人ではなく、もっと穏やかな人だったと思っています。

根拠を話し出すと長くなるのでやめときますが・・・

ご訪問とコメント、ありがとうございました。
また遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2010年2月20日 (土) 00時11分

お返事さっそくありがとうございます♪

私も茶々さんの記事を読み、
「殺してしまえホトトギス」の信長像は、違っているような気がしました。
肖像画を見ても、そんな狂人には見えないし、、
また信長の実像に迫るお話があったら読みたいです。

投稿: ぽっぽ | 2010年2月20日 (土) 13時30分

ぽっぽさん、再びのコメント、ありがとうございます。

また、よろしかったら、左サイドバーにあります「織田信長の年表」から各ページを見に行ってみてください。

信長さんの誕生日に書いた秀吉の妻・ねねさんへの手紙や、黒人の弥介さんを家来にするところなんかは、信長さんのやさしさが伝わってくるようなエピソードです。

投稿: 茶々 | 2010年2月21日 (日) 01時46分

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