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2009年4月27日 (月)

織田信長・人生最大の危機一髪~金ヶ崎の退き口

 

元亀元年(1570年)4月27日、前日、朝倉景恒金ヶ崎城を攻略した織田信長軍に、浅井長政・離反の一報が伝わり、全軍の撤退を開始しました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)に斉藤龍興(たつおき)を破り、美濃(岐阜県)一国を手に入れ、本拠地を、生まれ故郷の尾張(愛知県西部)から岐阜へと移した織田信長・・・。

その翌年の4月頃には、北近江(滋賀県)を支配する浅井長政に、妹のお市の方嫁がせて同盟関係を結び、9月には岐阜を発ち(9月7日参照>>)、その長政の協力のもと、近江南部を支配する六角氏を蹴散らして(9月12日参照>>)足利義昭(よしあき)を奉じて京都へと入り、翌月の10月には、その義昭を室町幕府の15代将軍に擁立しました(10月18日参照>>))。

しかし、そんな信長と義昭の良好な関係は、わずか1年ほどで崩れていきます。

元亀元年(1570年)1月、義昭に『5ヶ条の掟書』を突きつけ(1月23日参照>>)「天下の事は俺に任せろ!」と言い放った信長にとって、京都に入る時に南近江の六角氏は追放したし、北近江の浅井氏とは同盟関係・・・美濃は三年前に手に入れたし三河(愛知県西部)徳川家康とは、その息子・信康に、娘の徳姫を嫁がせて味方につけています。

・・・となると、残る国境を接する国は、越前(福井県)朝倉氏・・・

信長は、若狭(福井県南西部)の国人・武藤友益(ともます)が、「たびたび自分に反抗するのは、義景が裏で糸を引いているのではないか?」ってな事を口実に、当時の朝倉の当主・朝倉義景上洛しての弁明を要求するのです。

ところが、その要求を、無視し続ける義景・・・

・・・というのも、朝倉氏と織田氏は、もともと、このあたり一帯の由緒正しき守護大名・斯波(しば)の臣下にあった家系・・・

しかし、朝倉は、その中でも直臣で守護代をも命じられるような名門・・・それに比べて、織田氏は、家臣の家臣である陪臣(ばいしん)の家柄で、完全に格下なのです。

信長の求めに応じて、上洛するという事は、織田の風下に立つという事・・・そんな事は、義景のプライドが許しませんから、当然、その上洛要請を無視し続ける事になりますが、信長は信長で、それを許すわけにいかないのも当然・・・というより、はなから、朝倉を潰したい気満々!

かくして、元亀元年(1570年)4月20日、信長は、総勢3万の軍勢を率いて、朝倉を討伐するために京都を出陣するのです。

これが、手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

23日には若狭と越前の国境を越え、25日には敦賀(つるが)へと到着し、その日のうちに朝倉配下の武将・寺田采女正(てらだうねめのしょう)が守る手筒山城を落とし、翌・26日には、義景の一族である朝倉景恒(かげつね)の籠る金ヶ崎城を開城させました。

・・・と、この信長の行動に困惑したのが、かの浅井長政です。

浅井氏と朝倉氏とは、父の代からの同盟を結んでおり、主従関係にも近い長年の友人・・・近江南部を支配していた六角氏との度々の抗争にも、常に朝倉は援助を差し向けてくれており、朝倉なしでは、浅井の家名を守れていたかどうかも危ういところでした。

・・・なので、2年前にお市の方を嫁に貰い、織田との同盟を結ぶ際にも、「朝倉は攻めない」という条件を、ちゃんと盛り込んでおいたのです。

・・・なのに、この状況です。

長年の友と、嫁の兄・・・長政が、悩みに悩む中、手筒山・金ヶ崎の両城を落とした信長は、その勢いのまま木の芽峠を越え、朝倉の本拠地・一乗谷へと迫ります。

そんなこんなの元亀元年(1570年)4月27日、信長の本陣に「長政・謀反」の知らせが届いたのです。

長政は、嫁の実家より、長年の同志を選びました。

それは、もちろん、織田との同盟がわずか2年に過ぎないという事に加え、朝倉との関係が切っても切れないものであったという事、それに何より、長政にとって朝倉に味方するほうに勝算があったという事です。

そうです、この朝倉氏への攻撃が、この先、信長を最大のピンチへと追い込む、信長包囲網=元亀争乱の幕開けとなったからです。

将軍の権力をないがしろにされた義昭が、全国各地の有力大名に、自分に力を貸してくれるよう頼み込み、当然のごとく、攻撃を受けた朝倉は、その頼みに応じますが、朝倉だけではなく、信長1人が力を持つ事をヨシとしない者が、次々と反信長の意志を明らかにしていったのが、かの信長包囲網・・・。

今回の浅井・朝倉をはじめ、全国に宗徒を持つ石山本願寺、その石山本願寺を支援する西国の雄・毛利元就、鎌倉時代の守護からの名門・武田信玄、義を重んじる上杉謙信といった面々、さらにそこに比叡山・延暦寺を加えての「反信長同盟」・・・この先、長年に渡って悩まされる包囲網が、この時、形勢されたのです。

長政は、この状況を、信長を追い落とす絶好のチャンスと思ったに違いないでしょう。

しかし、一方の信長は、はじめ、この長政離反の一報を、朝倉の放ったニセ情報と思い、なかなか信じなかったと言います。

なので、この日、次々と入る「長政謀反」の知らせに、「このままでは越前の朝倉と、北近江の浅井の挟み撃ちに合う」として、すみやかな撤退を訴える家臣の進言にも、耳を貸さなかったといいますが、そんな信長のもとに、「陣中の菓子にでも・・・」と、妹・お市の方からの進物が届いたのです。

その包みを開けた信長・・・。

そこには、小豆をギッシリと詰めた袋・・・その袋の両側をしっかりと紐で結んだ物でした。

その袋を見て、「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」・・・つまり、この進物が、現在の自分の置かれた状況・・・浅井と朝倉に挟まれ、逃げ道のない状況である事を示した謎かけである事に気づいた信長は、ただちに全軍に撤退命令を出したのだとか・・・。

これは、朝倉側の史料に残る、お市の方の聡明さを物語る逸話・・・が、やはり、あまりにもドラマチック過ぎるこのエピソードは、おそらく創作であろうというのが、専門家の見解なのですが、ドラマなどでは、よく描かれるエピソードの一つですね。

ただ、お市の方のエピソードの真偽は別として、この日、最初は長政の離反を信じなかった信長が、どこかの段階で真実である事を知り、退路を絶たれる危険を察知し、危機一髪で脱出した事は確かです。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

従えたのは、わずか10名ほどの親衛隊だけで、しかも、攻め上ったルートを避け、若狭街道街道を通っての南下・・・途中、高島郡(滋賀県)朽木谷(くつきだに)を通過した時には、地元を支配していた朽木元綱が甲冑姿で現れ、「もはやこれまで・・・」と、死を覚悟する瞬間もあったようですが、逆に、その元綱を味方に引き入れた事で、九死に一生を得て、4月30日に京都へとたどりついたとの事・・・これが、世に言う「金ヶ崎の退き口」ですが、(この時に殿を務めた秀吉については2019年4月28日のページでどうぞ>>)

実は、この後、京都から岐阜に戻る信長に更なる危機一髪が・・・っと、そのお話は、その出来事が起こる5月19日の【逃げる織田信長を狙撃した杉谷善住坊】のページでどうぞ>>
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コメント

危機一髪、~ ~ 死んだら負け、ということですよね、徳川家康も健康と長生きを心掛けていた のですよね ? 、自分が天下を獲れた理由は、信長よりも、秀吉よりも長く生きることが出来たからだと、云ったと、聞いたことがあります。
その点、本能寺にも、信長は少人数で居たようですし、少し、無謀なところがありますね。性格的なこともあるのだと思いますが、どこか、天下統一に対してあまり執着心がなかったように感じます。ただ、人を虐げたいだけ、みたいな、

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年4月27日 (月) 18時19分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

確かに、信長さんは少々無謀なところがありますね。
ただ、無謀というのは、大胆不敵という事でもあって、乱世の場合は、その大胆さが魅力的に映る場合もあります。
慎重派の家康さんより、信長さんのほうが人気が高いのも、そんなところに魅力を感じるのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2009年4月27日 (月) 22時47分

来年の「浅井三姉妹」の配役が決まりました。淀役に宮沢りえさん。初役に水川あさみさんです。スポーツニッポンより。
そうなると、お市の方を演じる人は誰でしょうか?三姉妹の少女時代が別の配役(子役)であれば、宮沢さんより若い人でもいいのですが(考)。
来年の「姫たちの戦国」で、この「袋のねずみ」の逸話が出て来てくれますかな?回想の場面で取り上げてくれれば。

投稿: えびすこ | 2010年4月12日 (月) 08時59分

えびすこさん、こんにちは~

「篤姫」を見る限りでは、逸話好きの作家さんと思われますので、登場するんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2010年4月12日 (月) 13時26分

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