ルート変更で命がけ~遣唐使のお話
天平五年(733年)4月2日、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする第10回め(9回とも)の遣唐使船が、日本を出航しました~
そう言えば・・・
阿倍仲麻呂(8月20日参照>>)
吉備真備(4月25日参照>>)
最澄&空海(12月14日参照>>)
小野篁(12月15日参照>>)
と、何人かの遣唐使・・・、
また、
鑑真和上(12月20日参照>>)
が、苦労の末、日本までおいでになった事などを、このブログでもご紹介しましたが、遣唐使そのものについて書いた事ないのかな?と思って・・・
本日は、遣唐使とはどんなものだったのか?について書かせていただきます。
・・・とは言うものの、この遣唐使が、当時、先進国であった唐(中国)へ、優秀な人材を派遣して、その叡智を学んで帰って来てもらって、日本の未来を荷う人になってもらいたいという、いわゆる国をあげての留学制度であった事は、改めて言うまでもありません。
舒明二年(630年)に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を大使に派遣された時を第1回とします(8月5日参照>>)。
ちなみに、よくご存知の小野妹子(おののいもこ)は遣隋使(7月3日参照>>)・・・隋と唐は別の国という事で、何かと細かな違いもありますので、その違いや遣隋使については別の機会に書かせていただく事として・・・
以下、今回ご紹介するルートや、その他もろもろは、遣唐使の事であるという事でお願いします。
ところで、冒頭に第10回(9回とも)と書かせていただきましたが、これは、船出の準備をしていたものの船の破損で中止されたものや途中まで行って遭難したもの、また、唐からの使者を送るために派遣されたものを含めるか含めないかで、その回数の数え方が異なり、どれが正解とは言えないのが現状です。
とりあえず、すべてを数えると全部で20回の遣唐使が記録されていますが、上記のような様々な条件によって、ほかにも18回・16回・15回・14回・12回説がありますが、いちいち(または○回とも)と書くのもややこしいので以下の第○回というのは、全部で20回とした時の数字とお考えください。
上記の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と吉備真備(きびのまきび)は養老元年(717年)の第9回で渡海・・・その後、真備は天平勝宝四年(752年)の第12回で、副使として再び渡海し、この時の船が2年後に帰国する時に乗船したのが鑑真和上(がんじんわじょう)です。
また、最澄と空海は延暦二十三年(804年)の第18回で渡海しますが、以前、最澄&空海のページで書かせていただいたように、最澄は国費のエリート留学生で、空海は私費留学生の中の1人でした(12月14日参照>>)。
その次の回の承和五年(838年)の第19回に、結果的に最後となる遣唐使として渡海したのが小野篁(おのたかむら)・・・
これが最後となるのは、この小野篁の次として計画された寛平六年(894年)の第20回のぶんで大使に任命された菅原道真が、「行きたくない~」とゴネまくりの反対しまくりで中止となり、そのまま「白紙(894)に戻そう遣唐使」となって、遣唐使制度自体が終了を迎える事になるので、実質的には、この19回で最後となるのです(1月25日参照>>)。
・・・と、長々と紹介してしまいましたが・・・
「おぉ・・・やっぱ成績優秀な人材が派遣されるんやね~、有名人ばっかりやん!」
と、思ってしまいますが、実は、遣唐使は、少ない時でも200人ほど、最盛期には、一度に600人もの人数の留学生&留学僧で構成されていて、7世紀頃までは120人乗りの船2隻、8世紀頃からは150人乗りの船・4隻に分乗しての大挙の渡海なので、やはり、皆が皆、帰国後に活躍できたわけではないようです。
ところで、最後の遣唐使の大使に任命されちゃった菅原のミッチャンの、遣唐使廃止案の理由の中には、「もう唐に学ぶ事はない」「現地の治安が悪い」などの他に、渡海が命がけ・・・つまり、遣唐使船の遭難が多い事があげられていますが、本当に、そんなに危ない航海だったのでしょうか?
確かに、現在のような船ではないのですから、それなりに危険なのはわかりますが、以前の遣隋使の頃・・・小野妹子の時代や、それ以前にも、朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人がたくさん来ていたような気がするのに、それから約300年もたってから、さらに危険だなんて?・・・ひょっとして、ミッチャンは唐に行きたくないがため、オーバーに言っているのでは?と疑ってしまいますね~。
確かに、多少オーバーに言ってるかも知れませんが、とても危険だった事も事実なのです。
それは、日本をとりまく外交事情とも関係があります。
最初の頃の遣唐使は、当時、最大の港であった難波津(大阪湾)から出航し、瀬戸内海を通って筑紫(北九州)へ向かい、その次に筑前・大津(博多)を経由して、壱岐・対馬を過ぎると、朝鮮半島の西岸に沿うかたちで黄海を北上し、渤海湾から山東半島へ上陸し、その後、陸路で長安へ向かう北路というルートがとられていました。
これだと、島から島へ、その後は、半島の海岸沿いを・・・という事で、けっこう安全なわけです。
しかし、ご存知のように、この時代に朝鮮半島の情勢が、徐々に変わってきます。
天智称制二年(663年)には、例の白村江の戦いで、百済を援助した日本は敗退(8月27日参照>>)・・・日本と最も友好関係にあった、その百済も滅亡してしまします。
さらに676年に新羅が朝鮮半島を統一する頃には、新羅と日本の関係も悪化し、もう、この北路は使えなくなったわけです。
・・・で、大宝二年(702年)の第8回以降は、先の大津から九州の西を南下して、屋久島や種子島、さらに奄美大島や沖縄を経由して東シナ海を横切って長江の南側あたりから上陸する南海路や、五島列島から東シナ海を渡る南路というルートが使われるようになり、一気に危険度がUPしたわけです。
結局、この南のルートをとるようになってから、出発した4隻が4隻とも無事に帰国したのは、たった一回だけという悲惨な結果に・・・。
こうなると、「御仏の教えを学びたい」てな希望あふれる僧や、一旗あげたい貧乏学生ならともかく、大使に任命されるようなある程度地位のある役人は、行きたくなくなるわけで、第16回の宝亀八年(777年)の遣唐使の大使に任命された佐伯今毛人(さえきのいまえみし)などは、仮病を使って逃げまくり、この時は副使だけの遣唐使といった事まで起きてしまいます。
もちろん、ルートうんぬんだけではなく、飲食も、船の上では米を干した物と生水だけという有り様ですし、衛生面も良くないために病人の発生率も高く、さらに、その病人を、治療する別スペースさえない世界ですから・・・。
一番は自分が行きたくなかったから・・・とは言え、菅原道真の提案により、第20回の遣唐使派遣を中止して、それを最後に遣唐使制度そのもを廃止した日本・・・その9年後に唐が滅ぶ事を考えたら、ベストタイミングでの撤退・・・といったところでしょうか。
「平城宮歴史館」に復元された遣唐使船
印象としては、「こんな小さな船でよく海をを渡ったなぁ」って感じです。(「平安遷都1300年祭」参照>>)
ただ、このように命がけで渡海してくれた遣唐使によって、日本には様々な文化がもたらされ、あの平城京に見る美しい天平の甍(いらか)や、平安京に見る見事な都市計画があるわけで・・・
まさに、彼らの持ち帰った知識なくしては、これらの誕生もなかったかも知れない事を思えば、先人の勇気に感謝感激です。
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コメント
遣唐使も最盛期には5〜6年間隔で派遣されたようですが、菅原道真が廃止を建白した頃には、半世紀以上途絶えてたんだから、何を今更…唐に学ぶっちゅうねん。シンドイ目ぇして危ない目に遭って海の藻屑に消えるかも知れへんのに、御上が遺族をちゃんと面倒みてくれる保証も無しに、阿呆らしいて唐になんか行けるかっちゅうねん!。て気になっても仕方ないですわな。
投稿: マー君 | 2009年4月 2日 (木) 17時08分
元:猫ネッシーで御座います~
今回もふざけた名前ですが、宜しくお願いします!
ちなみに、ブログ名も変えましたので、お手数をおかけしますが、リンク変更お願いします!
投稿: 猫 犬狼 | 2009年4月 2日 (木) 18時22分
マー君さん、こんばんは~
もともと、外国へ行く事だけで命がけの時代ですからね。
投稿: 茶々 | 2009年4月 3日 (金) 01時14分
猫 犬狼さん、こんばんは~
ラジャー<(^o^)です。
ブログ名変えときました。
投稿: 茶々 | 2009年4月 3日 (金) 01時15分